ひねくれ者の物言い

ボヤキまたは日記


御嶽山の噴火に思うこと (2014/10/5)
御嶽山の突然の噴火でお亡くなりになった方々には、こころよりお悔やみ申し上げます。

少女や少年も含まれていて、輝かしい未来が断絶されたことは残念に思います。世の中は一寸先は分かりません。闇とは言いませんが、できるだけ自分の身は自分で守るようにこころがけていかないと、ちょっとした油断で取り返しがつかないことになります。

御嶽山は活火山だったのかな?

そういう山に登るにはそれなりの覚悟と、子供だったら親が思いとどまらせるとか、配慮も必要だったような気もしますが、そこまでは考えも及ばないだろうから、これは天災に遭遇した不運ってことなのでしょうか?

ハイキング程度で、標高の低い休火山や死火山を登ったら安全だったと思うのは素人言葉ですが、返す返すも将来ある若年層が大勢お亡くなりになったことにはこころが痛みます。

駅のホームを歩くときには端を歩かないとか、並ぶときは先頭に並ばないとか、スマホを見ながら歩かない階段を昇降しないとか、変な野郎が近づいてきたら避けて逃げるとか、交差点では車の動向に注意するとか、いつ何時何が起こるか分からないのが現代社会だから、可能な限り注意したほうがいい。

そんなことを言いながらも、僕自身は酔っ払ってどこかの家の垣根に頭から突っ込んだり、行儀の悪い奴がいたら喧嘩を売ったりすることもあるから、人のことは言えないのだけどね。

ただ僕自身はアジアの田舎を訪ねたり、何十時間も危ない山道をバスに乗ったり、川遊びで無鉄砲なことをしてみたり、結構無茶をしているが、まあそれらは覚悟の上だからね。

今回の御嶽山も、大人の登山家は万が一の噴火を想定していた人もいるのかも知れないが、噴火の予知を出していなかった国に文句を言っても仕方がないから、ネットで結構書かれているとおり、自己責任である気がしないでもない。

僕だって、飛行機に乗るときはいつ落ちても仕方がないと覚悟しているのだからね。


アグレッシブの実情(2014/10/4)
以前、ある人から悩みを打ち明けられたことがある。

何のために生きているのか分からない、将来も不安だし、気力が急降下だと。

そして、藤井はいつも楽しそうだ、羨ましいと。

僕はいつも思考が前向きで、アグレッシブで、目的を持って生きているから羨ましいと、友人知人からよく言われる。

でもそれは全然違う。

これまで破滅的な生き方をしたツケはあるし、先々のことなんて不透明だし、不安がないわけではない。

大阪の妻はずっと癌と闘い中だし、妹は身障者で施設にいて、二人ともいつどうなるか分からない状態だよ。

むしろ僕を取り巻くものは不安と不幸だらけだよ。(涙)

でも、考えたってどうにもならんよね。

確かに僕は若い頃からいつも前かがみになって、頭を突き入れるように生きてきたかもしれない。

でもそれは、自分が弱い性格ってことを、僕自身が一番よく知っているからなんだな。

二十代からずっと、毎日浴びるように酒を飲み続けてきたが、それは脆弱なこころをいったん麻痺させないと、翌日の仕事への闘争心が保てなかったからなんだよ。

まあ、やってきた仕事がヤクザなものばかりだったからなぁ。(((( ;°Д°))))

今の子供騙しみたいな(笑)仕事に変わってからは、アルコールの量が以前の仕事のころより減ってきたが、酒は僕にとって生きていくこころを保つための燃料みたいなものなんだ。

だからね、何を言おうとしてるかって?^_^;

つまり、僕だってダメな自分を叱咤しながら、必死で(それ程でもないかな)崖っぷちのところで生きてるってことなんだよ。

このままじゃ、あまりにダメな生き方に終わってしまうからね。

必要に駆られて小説を書いているし、アルコールの力を借りながら、前をみて暮らしてるわけなんだよ。

来年にはそろそろステータスを得られることを信じてね。(ここ二年くらい同じことを言っているが)

分かるかなぁ。


過去の行き着く場所は? (2014/6/8)
 ブログに書けない恥ずかしい思いは自分のWebに書こう。

 今日は切なさにずっと襲われた一日だった。

 昨夜、予測しなかった展開で、美人様おふたりと赤坂で飲食し、土砂降りの雨の中四谷までタクシーで行き、E・A嬢は中央線、僕は神田まで出て最終の山手線で西日暮里までたどり着き、そこから二十数分かけて、降りやまぬ雨の中靴の中までグチャグチャになりながら帰宅した。
 
 でも久しぶりに楽しい夜だった。思いがけない流れるままの夜が僕は好きだな。

 今日は朝十時ごろに目が覚めたが、ときどき襲ってくる「いったい僕は何をしているんだ?」病がやってきた。

 自分が今、東京というところに住んでいる不思議さ。


利子を払うための経済はどうなのか? (2014/2/17)
 
 今夜は真面目な経済の話。

 中国のいわゆる「影の銀行」がデフォルトの懸念があるらしい。

 その額は半端ではない。850億円ともいわれている。

 チャイナリスクはその国の大きさと経済成長の急激過ぎたことなどから、デフォルトの連鎖などが続くと、いわゆるハイリスクハイリターンの逆バージョンとなり、ひいては国際金融市場で投資家心理が一気に悪化し、世界同時株安や新興国通貨安などを招く恐れは多分にある。

 多分にあるどころか、かならずそうなってしまうだろう。

 不動産がらみの不良債権は300兆円といわれており、その数字だけで国が滅びてしまう気がする。

 日本でバブル経済が崩壊したときの銀行が開示した不良債権は40兆円あまり、これが大部分不動産がらみだとして(日本のバブルは不動産の高騰が銀行の無理やり貸付とともに諸悪の根源だったわけだから)、チャイナの不動産がらみ不良債権は文字通り桁が違っている。

 「影の銀行」は出資者に10%近い利子を払っているらしいから、影銀はそれ以上の利益を捻出するために、街金真っ青の高利息の貸付を維持しなければならない。

 ある意味、利子のために経済を成長させることはひとつの手段でもあるが、どう考えても本来の経済成長の姿とは異質で歪なのだから、利子を追う仕事へのやる気をなくす人々が増え続けると破綻するのは目に見えているわけだ。

 全世界とまでは言わないが、人々は利子のために仕事をし、生きているといっても過言ではない。
 クレジットカードは誰もが持っているだろうし(僕は持っていません)、カードを所有すること自体すでに利子経済に関与していることになる。

 住宅ローン、オートローン、クレジットで幸せの先行買い、ポイントカードを何十枚も所有し、ポイントがつくからと不要かもしれないものを買い続ける人々・・・これらの人々が利子経済を支えているともいえるが、完全に歪だよ。

 おそらく数年以内に全世界がチャイナを発端とした大恐慌に陥るとPeroは予測しておきます。

 予測なので、まあ経済を動かしている人たちは馬鹿じゃないので何らかの打開策を生み出すに違いないが、それもまた利子が利子を追う策なのではないかな?


このサイトも13年、「テロリストのパラソル」への思い出 (2014/2/13)
 
 このPero’s Kingdomを立ち上げたのが2001年の2月、そのころはまだ探偵として全国を飛び回っていた。

 ベランダから大阪の天満駅のホームが眼下に見える社宅で、そのころまだ高校生だったふたりの息子と癌と闘っていた妻とは離れて、今は亡きシロという猫とふたりで暮らしていた。

 そのころ少し前に僕にバックパッカーという旅の形態を教えてくれた女性がいて、その女性が前年の夏にインドシナを旅していたとき、彼女が滞在していたベトナムのサパへ強引に会いに行ったことが僕の個人旅行の実質的な始まりだった。

 わずか十日間ほどのエキサイティングな旅行の記録を残しておきたいと思って立ち上げたのが、このWebサイト「Pero’s Kindom」だった。

 ◆ベトナム旅行記⇒http://perorin.sakura.ne.jp/icetoroku.htm

 今思い追い起こせば、このベトナム旅行は他の旅行記よりも丁寧に記述していて、それはもう不安が一杯で、でもあの人の配慮でなんとか目的地にたどり着いて、そして切ない別れがあって、いつまでも僕のこころの格納庫にしっかりと留まっている旅だった。

 一度上記のURLから読んでみてくださいね!(^_^.)

 その後、僕がノンフィクションを出版することになったり、探偵を辞めることになったりしている間に、地球の歩き方のWebコンテストというものが行われ、この粗末なサイトを登録してみたら、どういうわけか準グランプリをいただくという珍現象まで起こってしまった。

 まあそのころは一日のアクセスが1500とか2000とかあって、巷では個人ホームページ真っ盛りの時代だったことも、僕のサイトが準グランプリを得た要因だったに違いない。

 ベトナムのサパまで追いかけていったS嬢、今どこで何をしているのかな〜。

 僕のそれまでの人生を根底から覆してくれた恩人なんだ。

 東京に出てきてから彼女が住んでいた埼玉県の蕨まで二度行ってみたことがある。でもそこは彼女のお兄様が所有するマンションで、敷地内にあった彼女のお店は廃業してテナントとして貸しているようだった。

 お兄さんに「決して怪しいものではありません。昔S様には海外で大変世話になったものです」と言って、メールアドレスと携帯番号のメモを手渡して帰ったのだが、連絡がないね。(涙)

 お兄さんに怪しい男と思われたのかな〜。(ーー;)

 お兄さんの話だと日本にいらっしゃるとのことなんだが、是非久しぶりに会って、僕のそれからの旅話や近況を話したい。(冴えない近況だが)

 どこにいるのかな〜。探偵仲間に頼んで捜してもらうかな。^_^;

 でも彼女に僕の近況を知らせるもうひとつの方法がある。

 僕が二年前から書き始めた小説で、何らかの文学賞をいただいて遅咲きのメジャーとなればいいんだ。

 2000年の夏、ベトナムのサパから彼女と、現地で合流した彼女の友達・オレンジさん(本当はビタミンさんなんだけどね)と、三人で夜行列車でハノイに着き、いったんゲストハウスに落ち着いてからバンコクへ向かう僕に、「ペロ吉、この本すごくいいから読んでみて!」と言って手渡されたのが、藤原伊織さんの江戸川乱歩賞と直木賞の同時受賞作「テロリストのパラソル」だった。

 僕が何かメジャーになれれば、きっと彼女から連絡があるはずなんだけどな〜。

 現実は厳しい。(ーー;) 

 ところで藤原伊織さん、59歳で他界されていたんだね。知らなかった。いい作家だったよね。


今年も書いておこう、阪神淡路大震災の日のこと (2014/1/18)

 毎年一月十七日がくると思い出すので、今年も個人的に忘れないために書いておこう。

19年前、1月17日の午前5時46分に阪神淡路大震災が起こった。

僕はその頃、大阪の南森町というところで、当時勤めていた探偵調査会社の社宅に住んでいた。

前夜、調査仲間の若い衆が数人来て僕の部屋で鍋パーティーを行った。

お開きになったのは、日が変わった1月17日の一時過ぎ、みんな帰って行き、僕は当時同居していた女性と後片付けをして就寝した。

そしてようやく寝入ったころ、ものすごい縦揺れに襲われた。それは背中からドッドッドッドときて、ガタガタガタガタと部屋全体が揺れ、テレビが飛んだ。ヽ((◎д◎ ))ゝひえ〜

僕は飛び起きて、真っ先にガスストーブを切った。冷静だったのだな。(;^_^A

彼女は右往左往していたし、飼っていた猫はコタツで丸くなるどころの騒ぎではなく、ミャーミャー叫びながら逃げ惑っていた。

19年前の出来事だから、当時3歳だった猫ちゃんは、その後大阪の家族のもとに幸せに暮らし、三年前の五月に 19歳で大往生した。(人間なら80歳前くらいでしょうか?)

同居していた彼女とは、今ではときどきのメールのやりとりだけになってしまったけど、変わらずお元気そうでしたね。(;^_^A

阪神淡路大震災というと、淡路島と神戸だけだと思われがちだが、それは違います。

神戸市に隣接する西宮市や、さらに尼崎市に伊丹市、宝塚市なども甚大な被害が出た。

阪急伊丹駅の駅上の高架が落ちて、駅員が即死した。

大阪でもすごかった。ただ、大きな被害はなかった。

揺れがおさまってからTVをつけると何故か写った。そして阪神高速道路がぶっ倒れている光景を見て、この地震は大阪が震源地ではなく、神戸方面だったことが分かった。

その日は早朝から神戸方面に尾行が入っていたかをめまぐるしく思い出したが、おそらくなかったと安堵、しかしあとから和歌山方面の仕事が入っていた調査員から聞くと、阪和道が一時波打っていたとのことだった。(((゜д゜;)))

彼はハンドルが取られないようにスピードを緩めたと言っていたが、仮に早朝から神戸や岡山方面に仕事が入っていたら、わが社の調査員も被災した可能性が高かっただろうなぁ。

翌日僕は神戸市東灘区の知り合いの家を訪ねた。

阪神電鉄の甲子園駅までしか電車が動いてなくて、そこから数駅歩いてたどり着いた。

マンションは半壊状態だったが無事を確認した。でもそのマンションの前にあった公設市場が被災し、火災で全焼していた。多くの人が亡くなった。

ライフラインは破壊されており、水も不足、青木の海上自衛隊が来ているところまで、ポリタンクを両手に持って、何往復もして水をもらいに行った。

その途中の家々は殆ど潰れていて、まだ救助されていない人々が、その倒壊した家屋の中で閉じ込められていたが、どうしようもない状態だった。涙が自然にとめどなくあふれたことを今でも思い出す。・°・(ノД`)・°・

目に焼きついている記憶が、いつまで保存されるか分からないけど、忘れることのできない光景だった。

今年もNHKは東日本大震災とともに特集を組むことでしょう。

戦争と同じように、いつまでもメディアが伝え続ける必要があるね。


今度大阪に来たときは倍返しって言ってやがったな (2014/1/13)

 この三連休、いろんなことがあった。 

初日は大阪から東京の尾行案件できていた昔の探偵仲間と久しぶりに飲んだ。 

ふたりとも僕の後輩で、そのうちのひとりが調査会社を立ち上げたのが六年ほど前、これまで順調に大きくなっているようだ。

調査が終わったあと大井町の焼き鳥屋で三時間半、昔の面白かった案件や懐かしい仲間や上司たちの話、さらにそれぞれの私生活の報告などで話が弾んだ。

僕が探偵を辞めてからもう十年ほど経つのだが、その間に勤めていた調査会社の同僚や上司が三人亡くなっている。本当はもっと亡くなっている人がいるかもしれないが、情報として三人、今回もひとりが昨年の春に他界したようだ。

一緒に仕事をしていたときは決してウマが合うような人ではなかったが、僕より六歳ほど年上で、私生活ではいろいろと世話になったこともある。

享年は65歳だったらしいが、死因などは分からないとのことだった。今年大阪に帰ることもあるだろうから、そのとき奥さんを訪ねてみようと思う。

そういえば彼の奥さんが理髪店をやっていて、三回ほど髪を切ってもらったことがあった。まだ頭髪がたくさんあったころだったなぁ。(ーー;)

連休二日目は、夜に新橋で今の職場に昨年夏までいた同僚と、現同僚との三人で飲んだ。

町屋から新橋まで二時間ちょっとウォーキングしてから飲んだのだが、疲れがあったのかそれとも飲みすぎたのか、深夜帰ってすぐにベッドに突っ伏すように寝て、今朝は十一時まで爆睡してしまった。

だから本当なら今日、大阪からディズニーランドに二泊三日で遊びに来ていた女友達たちとスカイツリーへ行く予定だったのだが、結局行けなかった。

せっかく遠くから来たのだから会わないわけにはいかないので、彼女たちがスカイツリーから降りたころに合流して、羽田空港まで送って行った。

空港レストランでチョイと食事をしただけに終わったが、今回は探偵仲間もこの女友達たちも、本来なら僕が接待しないといけないのに、どちらもゴチになってしまったよ。(~_~)

今年は大阪に帰ることもあるだろうから、そのときは僕が奢らないといけないな。

そういえば女友達の一人が「今日はわざわざ見送ってくれたからご馳走しておくけど、今度大阪に来たときは倍返ししてや」とか言ってやがったな。(笑)


あっという間の年末年始 (2014/1/5)

 僕のこのWebは将来自分が振り返るためのものでもある。

ブログは運営会社がつぶれたり事業転換してしまうと消えてしまう可能性がある。

でもこのWebはサーバー会社が双日の関連企業が管理運営していて、僕の頭がおかしくなる兆候が現れたら、息子にこのサイト管理を依頼して、先々十数年のレンタル費用を前払いすれば維持される。

だから例えば、僕が認知症を患ったとして、このサイトを見たらいろいろと思い起こして、症状が緩和される可能性もあるんじゃなかって思うわけなんだ。(笑)

さて、年末の二十九日から大晦日まで来ていた長男を品川で見送ったあと、ゆく年くる年は目下の住処である町屋のシェアハウスでひっそりと迎えた。

◆長男と僕(皇居前)


 たったひとりで、他人から見たら寂しいだ ろうなぁって思われるような越年の仕方  だったが、そのとおり寂しかったよ。^_^;

 今年の年末は日本にいたくないと強く思  ったね。(なんなんか前にもこんなことを  書いていたような気がするが)

 2009年から2010年のカウントダウンを ラオスの古都・ルアンパバーンで迎えたこ とが、ずいぶんと昔のような気がするが、 懐かしいなぁ。

正月元旦と二日はダラダラと過ごし(何していたのか思い出せないくらい)、二日はチョイと二時間あまりウォーキングをしてみたけど、三日になってようやく横浜の鶴見にある総持寺へ職場仲間とZ嬢と四人で初詣に出かけた。

◆総持寺での初詣





おみくじは末吉、恋愛は「ためらわず告白せよ」とあったが、ホンマかね。(笑)

鶴見駅ビルのならびにある居酒屋「ぶっちぎり」でチョイ飲みして、それから沖縄ソバを食べようと沖縄ストリートへ行ってみたがあいにく休業、ここから川崎駅まで一時間あまり四人でウオーキング、みんなかなり疲れていたね。

川崎駅前の商店街にある居酒屋で二軒目の飲み(この店はイマイチでしたな)、その後チネチッタのビルの中にあるイタリアンレストランでピザを食べた。(みんな無性にピザが食べたかったみたいだったが、それというのも二軒目の居酒屋で頼んだピザが美味しくなかったからなんだな)

◆ウォーキング途中の自由の女神   ◆皆様、お疲れ様でした!

 
(ラブホテルですけどね ^_^;)
 ※完璧に普通の日記になってしまったね 


年の初めから不埒なことを言います (2014/01/01)

 一年は早いね。

昨年の元旦にはこの「ひねくれ者の物言い」でこんなことをほざいています。

http://perorin.sakura.ne.jp/hiyorimi35.html#sinnen

いやぁ、ひどいことをほざいていますね。僕が言ってるんですけどね。(笑)

 さて、新たな年を迎えたからって何も変わらない。

若いころだと、今年は勉強をしっかり頑張って志望校へ、仕事を頑張って上に上がりたいとか、彼女を見つけるために自分を磨きたいとか、新たな決意をすることもあるだろうが、僕なんかは取り立てて気持ちの上では何も変化はない。

今年やりたいことといえば、できる限り早く仕事をリタイアして日本を出ることと、二年前から書き続けている小説を継続して、昨年や一昨年と同様に、年間に九つほどの様々な出版社の文学賞へ投稿すること、これが柱になる。

僕のことをある程度知ってくれている人はお分かりなのだが、僕はもうそろそろ足かせを外したい。

僕の左半身は、厳密に言うと二年半前あたりから異変が起きている。そのときは整形外科に少し通ったのだが、次第に随所に何かおかしな症状が出ている。

酒の飲み過ぎもあるかも知れないので、今年は少し酒量を控えようと思っているが、四十代のころに丸太棒のようだった腕や足の筋肉が溶けるように落ちてしまったことも要因のひとつかも知れない。

運動不足は否めないが、それなりに階段を駆け上がったりウオーキングをしたり、ある程度はしているはずなんだがなぁ、十五年ぶりに山登りでも始めるかな。

ともかく、もしかすれば数年後には左半身が動かなくなる可能性も否定できないだろうから、今のうちに行きたい国には行っておきたい。

僕の理想の姿は、「アジアの暑い国の片隅で小説を書き、ペンが詰まれば(キーボードが進まなくなれば)街歩きや村歩きをし、毎日沈みゆく夕陽を眺めながらビールを飲み、ときには南国美女や猫ちゃんと戯れる」ってな、ほんの小さな質素でささやかな希望なんだな。

「好き勝手生きてきて、何を言うてんねん!」って、周りからすれば思うかな?^_^;

決して好き勝手ではないよ。

僕のような脆弱なこころを持った人間が、こうしてそれなりに生きていくのは至極大変だったんだよ。壮絶至極!ってね。

年の初めから、こんな不埒なことを思っています。(笑)


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