ひねくれ者の物言い



謝辞で一瞬だけ絶句(2015/11/29)

先々の記録のためにブログと僕のメインWebに残しておこう。

長男の結婚式はすごくよかった。

これは先方のご両親の尽力のおかげであると、このブログを通じて心よりお礼を申し上げたいと思います。(まあ、ご覧になっているはずはないのですが)

長男と嫁さんとは、先方のご両親の了解を得て、今年の六月に籍を入れて同時に京都で同居を始めている。

結婚式はキチンと挙げておかないといけないだろうから、彼はあまり経済的には良い状態ではないにしても、先方のお父様よりかなりのご支援をいただいたそうだ。

僕自身も今回、自分としては精一杯のことをしたつもりだが、先方のご支援にははるかに及ばない。

でもまあ、お祝い金などでご支援をいただいた分は返せると長男が言っていたから、一応安心です。

長男は大学院で特殊な法律をずっと勉強してきたのだけど、現在は畑が異なる分野の会社に勤務している。

上場企業なのだが、結婚式にはそこの取締役の方や所属部署の課長さんとか同僚さんとかが六名ほどお越しになっていた。

嬉しいことです。

それと高校時代の友人が六人、僕が知っている友人もいて、和気藹々な感じであった。

初めてお会いする息子の嫁さんは可愛くて賢そう、京都の有名大学を卒業されていて、彼女のお姉さんは某国立の外国語大学を卒業され、目下は海外で活躍中でこの日の結婚式のために急遽駆けつけてくれたとか、お二人共優秀です。

ご両親は人柄の良さが表にも窺え、僕はこの日初対面でしたが、終始僕を立ててくれるような姿勢で、本当に恐縮をしてしまった。

ありがたくて何度も泣きそうになりました。

結婚式、披露宴は大阪梅田から徒歩五分程度のところで、数年前にオープンしたのかな?僕が大阪在住時は知らなかったけど、すごくいい感じのホテルです。

ホテルグリーンプラザ大阪 ⇒ http://www.hgpo.co.jp/

このブログの読者様の中で、独身で関西在住の方がいらっしゃいましたら、このホテルはお勧めです。

挙式も披露宴も言うこと無しで、友人の皆さんの余興も素晴らしく、来賓の方々や先方のご親族の方々も滋賀の在所の人たちらしく、心温かい感じでした。

披露宴の最後に花束贈呈のあと、僕が代表で謝辞を述べたのですが、何も考えずにいつものように思いついたままお礼を述べ、ちょっとだけ言葉が出ない瞬間があって、それもまたよかった、いい思い出になります。

「息子をよろしくお願いします」と、彼女とそのお姉さん、そしてご両親にしっかりとお願いしてきました。

長男はこれで安心です、ありがとうございます。

さて、次男は車椅子で出席した妻(彼の母)をずっと世話をしてくれて助かりました。

次男とは一年ぶりに会ったのですが、長男が家を出たあと妻と二人暮らしでいろいろと大変で、僕が不甲斐なくてあまり彼を助けてやれなかったこともあって、一年前に比べてグンとしっかりしていました。

知らないうちに某IT関連の上場企業に勤めていて、もともとそっち方面に精通していた人間なので、ともすればこれからかなり活躍していくのではないかとも思っています。

嬉しいことです。

最後に、良い話ばかりではなく、思い出しても悔しく、できればもう会いたくない気持ちにもなるのですが、新郎側(つまり僕の方)の親族で妻の兄姉夫婦のこと。

挙式の前から控え室でずっと僕を無視。

妻や次男などと和やかに会話しながら、ひたすら僕を無視、妻さえ僕を無視。

僕は一応新郎側の代表なのですが、本来はそんな資格などないと思っているのでしょう、まあないかも知れませんが、そこは大人の集まりじゃないですか、この日だけはおおらかになるべきではないのかと思ったりもしましたが、まあ諦めた。

最後の方はどうしたのでしょう?少しだけ義兄が話しかけてくれましたが、僕の妻の病気は僕の責任ではありませんからね、病魔の責任です、僕は精一杯のことをやってきた。

このブログに感情的になっても仕方がないが。(笑

僕の弟夫婦や実妹たちは和歌山から車で駆けつけてくれて、終始ニコニコ、さすがに実弟妹。


でもまあこれで一区切り、終わってから長男と彼の高校時代の仲間がいる中に入って、「息子をこれからも頼むでぇ〜」と言って、ホテルをあとにしました。

さて、明日からまた仕事、いろいろと片付けなければならない私事が多いが、こういう場面になると闘志が湧き出てくるのは街金時代からの癖かな。

そうそう、結婚式の前日に、街金経営していた時の僕の事務所を訪ねてみました。

隣の関西テレビは移転して跡形もなく、広大な駐車場に変わってしまっていましたが、梅田●?△○1マンションは今も健在、ここの6階で四年近く金融業を営んでいたことがつい昨日のような感覚になりました。

しかし、われながら滅茶苦茶な人生だなと改めて思うけど、息子たちの反面教師的な役割もしているだろうし、それもまた良いでしょう。


阪神淡路大震災直後の尾行調査の思い出 (2015/1/17)

 今年もあの阪神淡路大震災の日が訪れた。もうあの日から二十年になるんだね。

別のブログでも毎年書いているんだけど、この「ひねくれ者の物言い」でも度々回顧している。

昨年も書いているので今年はもう書きませんが、僕の記憶の中にまだまだ鮮明に残っています。

昨年の記事⇒ http://perorin.sakura.ne.jp/hiyorimi38.html#awaji


毎年書いている記事以外の当時の思い出を書いてみると、この震災は阪神間の様々な交通手段を断絶させてしまったわけですが、道路や電車は一部だけ動いていた。

道路は下道を走って行けば震災地へは時間がかかってもたどり着けたのだけど、あの悲惨な震災の日から数日しか経っていないのに、何といきなり神戸のポートアイランドに尾行調査が入り、僕と若い衆とのふたりで数日張り込みを実施したことを思い出す。

大阪の本部から調査先の神戸市中央区港島南町(ポートアイランドの南端のあたり)まで一台の車で出発したのだが、張り込み開始時刻は17時、いつもなら大阪から一時間ほどで着いてしまうが、震災によって阪神高速道路は壊滅的被害になっており不通、国道43号線の下道を走らないと行けないため、念のため昼過ぎには出た。

僕たちの車が淀川をわたって尼崎市に入ったあたりから、警察や警備会社などだろうか、大勢の交通整理の人たちが車やバイクなどのスムーズな往来を助けていた。道路の両側は悲惨な光景が続いていた。

でも驚くことに、倒壊した高速道路は早速土木建築会社の緊急部隊が高架桁を巨大ドリルで壊しにかかっていて、復興に向けての作業が始まっていたよ。

このあたりが東日本大震災への復興スピードとは大違い、迅速な対応が取られていたようだ。(当時の村山首相が現地に到着するのは遅かったが)

たくさんの救援物資を積んだトラックやボランティアに向かう人々を乗せた車がドンドン被災地目指して走っていた。そしてそれを交通整備をしてサポートする多くの人達、ボクと若い衆は道路の両側に倒壊した家屋やビルを見ながら泣きながら現地へ向かった。

調査開始場所のポートアイランドへは何とか開始時刻には間に合ったが、ここは人工埋立島なので、震災によって液状化現象が凄く、道路は雨が降ったあとのぬかるみ状態になっていた。

地震の恐怖がまだ冷めやらぬ中、なぜこんな尾行調査の依頼があったのか不思議だったが、内容はポートアイランド内の企業に勤める夫が震災後の会社の設備や店舗の元通りへの復興作業で何日も帰ってこないので、本当に会社に泊まっているのか、或いは女性のもとへ行っているのではないかという、何ともまあおめでたい依頼内容だった。

夫車が見える位置で車の中で張り込み、ときどき夫が店舗内にいるかどうかを確認に窺う事の繰り返し、結果的には数日張り込みをして動きを追ったが女性の影はゼロでしたな。

そりゃそうだね、どさくさに紛れて愛人宅へってな悠長なことを言っている状態ではなかったからね、当時の様子は。

まあそんなことを今日は思い起こしてみました。



雨上がり (2015/1/6)
 

 今日もよく働いた。残業して外に出ると雨も上がっていた。(´∀`)

よく働いたご褒美に雨が上がったのだろうと解釈すると、すごく気分も良く、築地から湯島あたりまで八キロ程度ウォーキングして帰ろうとも思ったが、残念ながら先月半ばに今の仕事に就いてからいわゆるオフィスカジュアル姿なので、ジャケットにパンツ、そして革靴だよ、歩くのに適していない。


どんな格好でも良かった前の職場は、そういう意味では気楽だったのかな。

そんなわけで、メトロに乗って帰って来て、シェアハウスで暖かい焼酎を飲んでいます。

今の職場は僕としてはまだ様子見で、もう少し整っていくのであれば一年ほどいてもいいかとは思っているのだが、別のところからもチョイとお声がかかっている。

でもいい歳こいて、そんなにあちこちウロチョロできないよ。

いい歳こいて未だにシェアハウスなんてところに住んでいるんだしね、クルクルパーですね。(笑)

ところで、安倍おぼっちゃま政治に弱者や貧乏人は参っていますが、あの麻生センセーがまた訳のわからんことを抜かしはりましたんやなぁ〜(# ゚Д゚)

金に困ったことのない人が政治に関わり続けるとロクなことがないね。

そういう人たちや、代々の富裕層たちが、社会に不要なスポーツや文化もどきを支えている事実が有り、その不要なものに関わって飯を食っているハイエナのような層をも支えているって寸法だから、本当に日本って国はオメデタイ。

でもオメデタイ国だが何か知らんけどモノ創りには長けているし、礼節や気配りなど人間の尊厳を大切にするし、世界では好意的に見られているようだね。

黄色人種やアジア人などのいわゆる土人を見下している欧米人だが、日本人には違った見方をしているようだ。ノーベル賞もほぼ毎年受賞しているしね。

でもまあ、有色人種の男性が欧米人の女性を妾にして連れ歩く姿を、世界のあちこちで見かけるようになるほどになって欲しいね。

そんな時代は絶対に来ないとは思うけど、WASPがいつまでも世界を支配しているのは良くないと思うよ。

そんな難しいこと、どうでもええか。

明日は仕事のあとちょいと飲むかなぁ。

さて、今夜も小説を書こう。眠くなるまで書いて、眠くなったら机に伏しても構わない。



一件の事故もなく開通してやるぞ〜!(2015/1/5) 


 今日から仕事だったが、初日から一時間半残業した。(´∀`)

大量案件を割り付けられて、手配前の調査段階から大変、全国組織の某企業の回線導入案件で、手配まで約二ヶ月の納期なのでゆっくりとできそうにも思うが、そうは問屋が卸さない。

ネットワーク絡みだから開通事故は許されないので、微に入り細に入り様々なことを確認して手配しないといけないから、集中しないとミスを招く羽目になる。

前の仕事みたいに理不尽な部分は皆無で、代理店〜営業とセミプロが顧客折衝から商品説明などを触って、最後は僕のようなプロが手配をするという(笑)、言わば「これが仕事」ってな感じの大量案件、やり甲斐あるわ〜。

よーし、一件の事故もなく開通してやるぞ〜!

明日も残業、しばらく残業しないと仕事が追いつかない。さらにあとからあとからどんどん大量案件があるようだ。

理にかなった仕事ならなんぼでも何時間でもやってやるぞ〜!(^O^)

さて、今夜は気分も体調も良いので、今から小説の世界に入り、新作をガンガン書きまくってやる。



明日から仕事 (2015/1/4) 


 土日は完全に引きこもって小説を書いていたかというと、そうでもなかった。(笑)

喉が痛くて咳も少々出ているし、何か胸にモヤモヤしたものがあって、なかなかひとつの作業に集中できない。でもまあ、新作を原稿用紙で二十枚程度は書けたかな。この作品は三月末締め切りの河出書房新社の「文藝賞」へのものです。

物語のエンディングははっきりと決まっているのだが、そこへ到達するまでの紆余曲折というか、ある中年夫婦が若かった頃を追憶するとともに、目下のふたりの愛情と置かれている状況にどうにもできない運命的なものを歯がゆく思うという、うまく説明できないが、まあそんな重い物語。

もっとエンタメを書きたいんだけど、今年はまずはこれを書く。

二百五十枚程度になるかな、明日から仕事だけどしばらく酒は減らして(飲みますけど)、執筆に注力したいと考えています。

あとはやっぱり大阪と京都の家族のことだな。

妻とは二日に一度は話をしています。体調を窺うことが目的だけど。目下は緊急性は認められない様子です。

そうそう、長男から久しぶりにメールが届いた。

「12月に店長が急に辞めて、先月後半からずっと休みなしや〜。でも新たな店長が優秀らしいので、来月は楽できる」

長男は昨年公務員を辞めて接客業に就きたいと今の仕事に転職したのだが、通信関係のショップに目下は所属していて年中無休らしい。

好きな仕事なら休みなしでもある程度は続くでしょうが(僕も昔二ヶ月休みなしってのがありましたけどね)、無理して体調を壊さないように願いたいものです。

よーし、今年は適当に働くぞ〜!(笑)

3月まで3作品を仕上げるぞ〜。


一応の今年の抱負 (2015/1/3) 


年も明けたことだし、先々振り返るために本年の抱負を一応書いておくことにします。(認知症になった時も、親しい方が「ホラ、Peroさん、こんなWebを運営していたんだよ!って言ってくれれば、症状も軽減されるかもって意味もあります)(^O^)

このWebはかれこれ14年近くも続けているのですが、ブログというものが一般的になって以来、ときどきこの「ひねくれ者の物言い」や旅行記を更新する程度で、日々の出来事や思うことはこのHPからアメーバブログにリンクしているだけになっています。

なんというテイタラクでしょうか。(´∀`)

僕自身はこちらをなんとかしたいと思っていて、ここ数年の旅行記も手つかずだし、不具合のあるページの修正も行っていません。
でも今年は少しずつメンテナンスしていきたいと考えています。

僕が今抱えている問題は、一つには大阪の妻のことです。

僕のプライベートを知っている人はある程度ご存知なのですが、知らない人は全く知らないと思いますから(当たり前ですが)記録しておきたいと思います。

妻は2000年の八月に乳がんを発症して、すぐに片方を切除手術して以来、十四年半も癌と闘っているのですが、2008年の秋にリンパの切除をしてからは体力も落ちてしまい、2011年の春には肺と肝臓、骨転移も認められ、一旦主治医から末期宣言がされたのです。

そのときは年末までかなと覚悟をしたのですが、それから何と三年半あまり、よく頑張っていると思います。

でもとうとう先月の初旬に主治医から呼ばれて大阪に戻ったとき、長くてあと半年と言われてしまいました。本人と次男とが同席したのですが、本人は「早く楽になりたい」なんてことを言っていました。

もう抗がん治療剤がないらしいです。それくらいたくさんの抗がん剤を使ったってことですね。(´・ω・`)

本年は来月あたりにホスピスの病院へ入り、あとは痛みのない緩和ケアをすることになります。つまり、次の世界へ旅立つのに苦しまないようにするわけですね。

ついにこのときがやってきたってことでしょうかね?

僕は1990年に離婚したのですが、妻の癌発症と同時に復縁して、一緒には住んでいないのですが扶養家族に入れています。

この僕の処置を友人たちは「すごいことだ、僕なら復縁しない」なとど言いますが、当時子供たちが中学生や高校生だったわけですから、そんな彼らを路頭に迷わすなんてことができますか?できるわけがないですよね。

すごくもなんともない、ごく普通のことなんです。そして、そのごく普通の復縁からずっと様々な形で支援してきた妻もいよいよとなったということなんですね。

これが今年の大きな避けられないことのひとつ。

そして二つ目ですが、僕自身の老後のことです。

僕は昨年の十一月から年金の一部金を受けられる年齢になりましたが(一部金はわずか月額9万円で、満額受給はまだ四年も先ですからね))、この一部金はしばらく貰わないようにしようと思います。なぜって、まだしばらく働かないといけないからですね。

大阪の妻の動向にも大きく影響されることは事実なんですが、ずっと延び延びになっている東南アジアへの移住(正確には長期の旅と帰国を繰り返す形)も、現実的にはまだ少し先になりそうです。

経済的なこともありますが、やはり日本でたくさんやり残していることがあるからですね。

先に旅立ってしまった友人や世話になった人たちへの墓参りと仁義を果たすことがひとつ、故郷和歌山を訪れて自分のこころの蟠りをきちんと整理して、改めて故郷と決別したいこと(本当にできるかどうか分かりませんが)、さらに東南アジアで老後を送れない場合を考えて、月額16万円程度の年金で暮らすことが可能な日本の田舎の町めぐりをすること(老後は田舎でひっそりと暮らすことも選択肢としてはありますからね)。

いずれにしても息子たちは自分の人生を突き進んでいくだろうし、ひとりの僕は彼らのお荷物になることは絶対に避けなければいけないことだから、健康と気力を保ちながら、今年もリラックスした気持ちでタフに生きていこうと思います。

とりとめのない内容でしたが、今年の抱負でした〜。(´∀`)

あっ、そうそうもう一つはずっと書き続けている小説のことです。今年はなにか形になりますからお待ちくださいませ!(´∀`)


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