Music:Miko
僕の旅行記は詳細なので、なかなか終わりませんよ!(´∀`)
2003年のチェンマイ旅行はメールマガジンで連載したものです。下記からどうぞ!
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チェンマイ・マイラブ タイは何度か訪れているが、それがラオスやベトナムやカンボジアを訪問する途中に立ち寄ることも多く、実際に滞在した都市といえば、首都バンコクとアユタヤ、カンチャナブリ、ノンカイといった程度だった。 チェンマイはタイの北部に位置しており、北にメコン川を挟んでラオスに近く、西は山岳部の少数民族の村の向こうはミャンマーだ。リゾートで水着になって浜辺でのんびりと綺麗な女性を眺めるという旅もオツなものだが、体形が崩れてきた中年の僕にとっては肩身の狭い思いをする可能性もある。 従って、周囲を千メートル級の山々に囲まれた古都チェンマイへは前から行ってみたいと思っていた。 この年は二月に会社を「エイ!ヤッ!」と思い切って退職し、これから先の生活や自分自身の将来などに様々な苦悩を抱えていたが、あれこれくよくよしても仕方がない。無職の特権を生かして、チョックラ一ヶ月か二ヶ月の旅をしてやろうと思っていたが、何のことはない、四月に出版された「探偵手帳」という怪しげな本の校正などで全く旅立つことができなかった。 そしてようやく一段落ついたと思ったら、ゴールデンウイークの期間で航空券が高い。ともかく連休明けに一週間だけカンボジアのアンコールワットへ再突撃してきたが、それも結局消化不良となり、もやもやとした精神状態だったのだ。 そして、ちょうど一昨年のラオス旅行以来の旅仲間であるN君が、何を血迷ったか、インドからネパールを旅していて、そろそろタイへ戻るような気配だったので、彼にも会いたいということもあって六月の終わりにこの年二度目のバンコクへと飛んだ。 そして今回は念願のチェンマイへ。 |
このところタイのバンコクへ到着したら、先ずバックパッカーのメッカとされるカオサンロードを目指している。そして昨年の夏以降は、カオサンのメインストリートをチャオプラヤー川の方向に歩き、交番を曲がってネットカフェとガソリンスタンドとの間の路地を入ったところにある「トラベラーズロッジ」に差し当たりザックをおろすことにしている。今回も多分一泊だけだが、そうするつもりでいた。 カオサントラベラーズロッジ → http://plaza24.mbn.or.jp/~asiabeer/Yado.htm 関空発シンガポール航空午前便でバンコクに向かい、午後二時過ぎにドムアン空港に着いた。六月の末なので、あまり日本人旅行者は多くなかった。 空港を出るとあいにく雨だった。この時期バンコクは毎日雨が降るらしい。それは一日中振り続けるというものではないが、僕が到着した時には雷が響くほどの激しい雨だった。 いつものように出発ロビーの外に出て、客を乗せたタクシーを待ち、客が降りたあと入れ替わりに乗ることにした。こうすることで、空港のタクシー乗り場からだと五十バーツほど取られる手数料が助かるわけである。 しかし良い天気ならバスでのんびり行こうと思っていたのに、激しい雨は僕を贅沢にさせてしまった。 そしてこの時点ではまだ、チェンマイへ行くぞという断固とした意思はなかったのだった。 |
ハイウエイを走って三十分あまりでカオサンロードにタクシーは到着した。車から降りるとかなり激しい雨が降っていた。 バックパックを背負って急ぎ足でカオサントラベラーズロッジに飛び込むと、入口のテーブルでは日本人の男女五人がビールを飲んで喋っていた。その中の一人の男性に僕は見覚えがあった。ちょうど二ヶ月前のカンボジア再突撃でこのゲストハウスに一泊した時も彼はいた。 「アメリカ大陸を縦断してこのバンコクにきたのです。もう何年も日本に戻っていません」との彼の言葉に、「それは暇で羨ましいですね」などと、彼のプライドを砕くようなことを僕は言ってしまったのだった。ところが彼は僕の姿を見て「こんにちは」と気さくに言った。憶えていないのかも知れない。 中に入り、フロントでベッドが空いているかどうかを聞くと、丸顔メガネの人懐っこいオーナーが、四階でも五階でもどちらでもよいと言う。風通しのよい四階を選び、指定されたベッドに荷物を降ろした。四階のドミトリーの宿泊客はこの雨なのに一人しか室内にいなかった。ベッドの上に広げた荷物の整理に夢中になっているようだった。 「こんにちは、ひどい雨ですねぇ」 「あっ、どうもこんにちは。このところ毎日こんな雨ですよ。でもずっとじゃないですけどね」 顔を上げた彼はお坊さんでもないだろうに、坊主頭にした色白の青年だった。名前はT君、年令も聞いたはずだが憶えていない。おそらく二十代前半でフリーターだったと思う。 「旅はこれからですか?それともどこかから戻ってきたのですか?」 あまり肌が焼けていないので、おそらくこれからどこかに向かうのだろうと思って僕は言った。 「いえ、二日前にインドネシアから戻ってきたところです。これからどうしようか考え中なのですよ」 聞けば彼はもう三ヶ月ほど旅を続けているらしい。ベトナムやカンボジアなどを回ってバンコクに入り、このゲストハウスで知り合った男性と一ヶ月ほどインドネシアに行って、再びここに戻ってきたという。 「インドネシアは大変でしたよ。現地人と大喧嘩して殺されそうになりました」 非常に興味深い話である。じっくり内容を聞きたいから今夜の食事を一緒にしましょうと約束し、外に買い物とネットカフェに出かけた。セブンイレブンで髭剃りとシャンプーを買い、ネットカフェで株式相場のチェックをした。 今は便利になったものだ。株式投資もネット証券に口座を設けておくと、海外からでも取引が可能である。現在持っている重工業会社の株価を確認し、翌日の売却値を指値しておいた。 宿に戻るとT君がまだ荷物の整理を続けていた。そして小さなバルコニーにあるテーブルには、T君より少し年上に見える男性が本を読んでいた。 挨拶を交わして旅の経過を聞くと、彼も日本を出て三ヶ月ほどになるらしい。名前はO君といい、あちこち回って最後にネパールを訪れ、念願のヒマラヤ山脈を見たので、もう満足して日本に戻る予定らしい。 ネパールの話を聞きたいので彼とT君と三人で食事に出ることにした。これは初日から有意義で楽しい夕食になると思った。 ところが・・・思いがけない展開になってしまったのだった。 |
なぜか坊主頭のT君と、ちょっとニヒルな旅人という感じのO君(このO君はラオス旅行記に登場したO君とは別の人です)とで雨の中食事に出た。カオサン通りの一本北通りにはたくさんの屋台がある。僕は屋台でなくて普通のレストランに入って彼らの話を聞きたかったが、どうもこの二人は食事にあまりお金を使いたくなさそうだった。 O君は長旅の最後をこのバンコクで過ごしているから所持金も多くないようで、T君も限られた予算で旅に出ているとのことで(当たり前だけど)、贅沢はできないと言っていた。 「今夜は僕がご馳走するからレストランでゆっくりしましょう。年上だしね」 僕としては何気なく自然に出たこの言葉に対し、O君は「「年令とかは関係ありませんよ、同じ旅人だから。割り勘で行きましょう」とさらりと言った。 決して傲慢な気持ちはなく、社会というものは長く生きてきた人間が若い人に食事を奢るのは当然と思うのだが、O君の言葉に少しハッとした。僕は年長者だが、同じ経済旅行をする旅人だ。僕の言葉は彼には単なる驕りに聞こえたのかもしれない。 こういう僕も今年の春に、新橋で親子ほども年の離れた綺麗な女性(旅関係で知り合った人)とタイ料理を食べに行って、何を勘違いしたか割り勘にしてしまって、あとで自分を恥じたことがあるのだが、よくその場を考えないとダメだとつくづく思ったものだ。 さて、雨の中少しうろうろしたあと、結局僕が何度も食べたことのある屋台に腰を下ろすことにした。ここの屋台はカオサンにいる時は朝食によく利用する。ご飯の上に適当にその日のおいしそうなものをぶっかけてもらって、目玉焼きを乗っけてもらうのだ。それで三十バーツである。 この夜は適当に肉料理や野菜料理を注文し、ビールを二本もらってとりあえず乾杯した。通りはますます激しい雨が降っていた。カオサンでこのような長時間の雨降りは初めてである。 「O君のインドネシアの話から聞かせてよ。僕もいつかはインドネシアへ行きたいと思っているから」 「いやあ、インドネシアはちょっとヤバイっすよ」 彼の話では、最初の目的地としていたボドゥブドゥールへの途中で一泊したジャカルタで早くもトラブルとなったらしい。ジャカルタはよく日本人が騙されて被害にあうと聞いたことがあるが、彼のケースは詐欺などという巧妙なものではなかったらしい。 ジャカルタ市内で知人と二人で食事をして市内をブラブラしたあと、宿に戻るためにバス停にいたらしいのだが、いきなりナイフ強盗に遭ったという。夜中で辺りに人もまばらだったので、確かに危ないといえたが、大都市のバス停でいきなりナイフを出されるとは思わなかったという。 すんなり少しだけお金を渡して切り抜けるか、人の多いところへ全速力で逃げるか、どちらかにすればよかったのに、彼等は逆に切れてそのナイフ強盗に殴りかかったというのである。彼は坊主頭だし(関係ないかもしれないが)、結局止める役に回ったらしいが、知人が血気盛んな腕に自信がある男で、そのナイフ強盗を一撃したらしい。 するとその強盗の仲間がどこからともなく数人出てきて、かなりやばい様相を帯びてきたので、彼がその知人を必死に引き止めて命からがらその場を離れたということだ。周りに現地の人もいたらしいが、だれも彼らをかばおうとはしなかったと、T君は憤慨して話していた。 ジャカルタはヤバイっすよ!ということらしい。 |
土砂降りの雨の中、屋台でそれなりに飲み食いをし、彼らの旅話をそれなりに面白くおかしく聞いていたら、話しはバンコクの歓楽街の話題へと変わった。 新宿歌舞伎町界隈を何度か徘徊したことがある僕も、パッポンの夜の光景には目玉が飛び出しそうになったものだ。歓楽街の範囲としては俄然歌舞伎町に軍配が上がるが、コンテンツの過激さにおいてはパッポンではないかと思うのである。 店の入口辺りにズラリと並ぶ派手でセクシーな美女軍団(女性ではない店もあるが)。ごった返している通りを歩けば、突然目の前に女性の全裸写真が差し出される。 まあそんな話しはどうでもよいが、今はカオサンの屋台でT君とO君と飲んでいて、そのバンコク歓楽街に突入しようではないかという意見が彼らから出た。僕は明日カオサンを離れて、どこかに向かう予定である。破目を外すとしたら、旅の終わりにバンコクへ戻ってきてN君と合流してからにしたいと思っていた。 「フジイさん、ナナ行ったことありますか?」 「いや、ないよ」 「行きませんか?話のネタに一度だけ」 「・・・・・」 黙ってビールを飲んでいる僕にさらに彼等は執拗に言う。ヤッパリ若者は好きなんだな、年令に関係ないかもしれないけど。 「六十バーツでずっと女性の裸踊りが見れるのですよ。それ以外なにも要りませんよ。連れ出すにはそれなりにお金が要りますけど、見ているだけなら安いものですから」 たった百八十円で女性のヌードダンシング。僕の心はググッと彼らの誘いに傾いたのはいうまでもなかった。 「そうだなぁ、雨だしなぁ。宿に帰っても何もすることがないし、行こうか!」 行くと決まってからの彼らの動きは早かった。三人だからタクシーで行っても片道が一人二十バーツほどである。テーブルにはまだ少しだけ料理が残っていたし、ビールも飲み残しがあったが、彼等が席を立ったので僕もあとに続いた。 時刻は午後九時過ぎ。雨のバンコク市内を僕達三人はナナへ向かったのだった。 |
ナナ・プラザ(Nana Plaza)は正式名称をナナエンターテイメントプラザといい、スクンビット通りをドンドン走り、Soi4に入ったところに存在している。タクシーから降りると目の前には三階建てのビルが賑々しくそびえており、一階のオープンスペースには欧米人とタイ人女性とが和やかに、そして妖しげに談笑している光景が写った。(なぜか日本人は見かけなかった) T君とO君は何度も来慣れているのか、大勢の男女でごった返している中をスルリスルリと抜けて、先ずは一階の一軒のゴーゴーバーに躊躇せず入って行った。(各階ともたくさんのゴーゴーバーが営業していますが、僕は初めてで驚きばかりが先立ち何軒所在していたのか全く記憶にありません) 店中は激しいリズムの音楽が耳を叩き、真ん中のお立ち台には十人あまりの若い女性が体をくねらせて踊っていた。この光景はどこかで見たことがあるぞ。そうだ昨年のラオス旅行の帰りにN君とパッポンへ遊びに行った時、彼に導かれてゴーゴーバーに入ったことがあったのだ。すっかり忘れていた記憶がよみがえった。 お立ち台でダンシングをしている女性全員がおっぱい丸出しのトップレスではない。水着姿で踊っている女性も半数近くである。しかしみんな笑顔を振りまき明るい雰囲気が漂っている。それを眺める客の多くは欧米人で、鼻の下を伸ばしている日本人の年配者もチラホラ見かける。 僕たちは遠目でダンスを眺めるといった感じの、フロアから一段上がった席に着いた。お立ち台のすぐ前のいわゆる「かぶりつき」という席もあるが、あまりにもスケベ丸出しではないか。 すかさず店の女性従業員が注文をとりに来た。注文といっても「あそこの右から二番目のナイスバディの女の子はどうだ?」などというわけではない。飲み物の注文である。三人はハイネケンビールを注文し、運ばれてきたビールを口に運ぶのも忘れてダンシングを注視したのだった。 ところが、三十分もしないうちにT君が「きれいな娘があまりいませんねぇ」と言って席を立ち、他の店に行きませんかと言う。半分も飲んでいなかったビールをグビリと一気に飲んで、お勘定を済ませて店を出た。話では六十バーツでハイネケンということだったが、確か八十バーツ程度支払ったような気がする。それでもビールを飲む環境(セクシーダンスを見ながらということね)から考えると極安である。 さて次に二階へ僕たちは上がっていった。階段を上がったところにはタイ人の若い女性がたくさんたむろしていて、「うちの店にきて遊んで行ってよ」とか何とか声をかけてくる。(多分そんなことを言っているのだろう) それらの女性を振り切り、僕たちは二階のある店に入って行った。ここも先ほどの店と同じくガンガンと音楽が鳴り響き、お立ち台では若いタイ人女性が明るく激しく踊っている。そしてそれをビールを飲みながら眺める大勢の旅行者たち。このナナ・プラザではこのような夜の歓楽が深夜から未明まで続くのだ。 しかし、ここは旅行者をはじめとする客に対し、単にセクシーダンシングを見せることが目的ではないのだ。それは本来の目的のための、店や彼女等のデモンストレーションともいうべきものだった。 |
ナナ・プラザの中のゴーゴーバーを結局我々は三軒はしごした。どの店も大差はなかった。 T君とO君は何度もここで遊んでいるらしく、顔なじみのダンサーもいた。 スタイルは抜群で胸の隆起も爆発的だ。一見すると南米のリオのカーニバルで踊っているグラマラスな女性のようだ。 ダンサーのチェンジタイムになるとその女性がお立ち台から降りてきて、O君の横に座った。どうやら踊っている間に何か合図を送ったようだ。しばらくしてO君が僕の席の横に来ていくらか金を貸してくれないかと言うのだ。 「宿に帰ったらお返しします。ロッカーに貴重品を入れているのです」 「それでいくら要るの?」 「じゃあ二千バーツお願いできませんか」 彼はグラマラスレディと嬉々として店を出て行った。 あとに残った僕とT君は相変わらずハイネケンを飲み、痴呆症のようにダンサーを眺めていた。 「フジイさんはどうしますか?」 「どうするって?」 「いや、誰か気に入った子をと連れ出しますか?」 「いや僕はいいよ。気に入っているといえばほぼ全員気に入っているけどね。見ているだけで十分だよ」 「じゃあ僕もやめます」 このあと午前一時前まで僕とT君がダンサーの踊りをずっと見ていた。ラスト近くにはイサーンの音楽が店内にこだまし、ダンサーにその地方の出身が多いのか、独特のリズムとメロディーに合わせて激しく踊りだした。 それは金のために、そしてイサーンに住む親兄弟のために大都市バンコクで体を張って働く女性の暗さはなく、明るくダイナミックな表情と踊りだった。 「フジイさん、彼女たち、全然暗くないでしょ?むしろ明るいでしょ。この音楽は彼女たちの田舎の民謡なのですよ。僕はこれ大好きですよ」 確かに耳に残るメロディーだ。日本の民謡のようにゆったりしたリズムではなく、テンポが速い。 しかしその激しいリズムの中に、貧しい東北部の田舎から出稼ぎに出てきている彼女らの悲哀が隠されているのを、僕は確かに感じるのだった。 僕は複雑な思いでじっと見ていた。 |