チェンマイ・マイラブ

 古都・チェンマイ その四

 一時間あまり寝たようだ。日本では決してすることのない昼寝は至福の心地よさだ。どうして日本ではこのような気持ちの良い昼寝ができないのだろう。休日に昼寝をすること自体がめったにないが、仮に昼寝をしていても心のどこかで仕事のことや人間関係のことが気になっているからかもしれない。

 でも日本を離れてしまうと、短い間でも仕事やあらゆる自分を取り巻くものから解放されるから、最高の昼寝ができるのだろう。なぜって、旅先まで来ていろいろ考えてももはやどうしようもないからね。

 旅先で人生を考えるとか自分を見つめなおすなんてことを言う人もいるが、それはどうかなぁ。そんなに真剣に人生を考えている人は、日本で有意義な仕事か何等かのことをやっている。

 短期の旅ではそんなことは考えない。単にリフレッシュだよ。そしてリフレッシュしながらも訪れる国の国の文化や風習などに興味を持つと楽しいものだ。長期の旅で世界のあちこちを回ると、そりゃあかなりものの見方考え方は違ってくるかもしれないが、基本的な性格は変わらないはずだ。

 さて、昼寝から目が覚めるともう夕方だった。部屋の窓の外は隣の民家の裏側の様子が見えた。二階の小さなベランダに洗濯物がたくさん干されていた。今日のような天候なら一時間もあればカラカラに乾いてしまうだろう。一階を覗くと植木鉢に花が咲いていた。日本と同じ風景に今チェンマイにいることを忘れてしまいそうになる。

 シャワーを浴びてネットカフェで株価をチェックした。インターネットの普及で世界のどこからでも株の売買が可能になった。先ほど、「日本を離れてしまうと、短期の旅でも仕事や自分を取り巻くあらゆるものから開放される」と述べたばかりだが、お金の問題はまた別だということだね。()

 ネットカフェを出てから宇宙堂へ食事に立ち寄った。やっぱり日本食を作ってくれる店があればつい行ってしまう。この宇宙堂は僕が泊まっているFangゲストハウスから徒歩三十歩。店内は思ったより広く、四人がけのウッドカウンターが十卓ほどあり、壁側には大きな書棚が設置され、古本が一杯並んでいた。

 メニューを見ると日本で普段食べる殆どの料理が書かれている。豚の生姜焼き定食なんていうのもある。この夜はビールを注文して、冷奴と玉子焼きと野菜炒めを食べた。お勘定はそれほど安くはなかったが、もちろん日本で食べる五分の一くらいの値段設定だ。

 時間が早かったせいもあってか、客は僕を含んで三つのテーブルにいただけだったが、一つのテーブルでは中高年日本人三人がビールを飲んでいた。しばらくして店のオーナーがその三人に加わり、話が盛り上がってきた。

 会話にちょっと耳を傾けてみると、どうやら三人は定年か、或いは退職金をたくさんもらってスパッと会社を辞めてこのチェンマイで自由気ままに暮らしているようだった。チェンマイにはこのような日本人がドンドン増えているらしい。(昔はもっとほかの理由で日本人がたくさんいたようですが)

 さて、宇宙堂を出て大通りに出た。この通りを東へ行けばナイトバザールが開かれるあたり行き当たる。僕はその通りに面した一軒のプールバーに飛び込んだ。

 下記のURLの下の方に僕が訪れた宇宙堂が載っています。リンクさせていただきました。

 http://www.sawadeechao.net/bookstore/bookstore.htm 

 


 古都・チェンマイ その五

 プールバーといってもビリヤード台は店の奥に二台あるだけで、手前は四人がけテーブル席が四卓とカウンター席が十席ほどのこじんまりとした店だ。
 建物から張り出した部分は屋根があるがオープンスペースで、店の造りはウッド基調なので、西部劇なんかに出てくるバーという雰囲気がした。古都・チェンマイとはいってもやはり欧米人旅行者が多いため、こういうスタイルの店が数々営業されているようだ。

 店は小柄な愛嬌のある女性と、ちょっとエキゾチックな顔立ちのスタイルのよい女性との二人で切り盛りされていた。あとで失礼ながら年令を聞いてみると、二人とも二十代後半とのこと。

 入店した時には店内に二グループがいて、一つの欧米人グループがビリヤードを楽しんでいた。カウンター席にも地元の人らしき二人の男性が飲んでいた。

 四人がけの空いているテーブルに座ると小柄な女性が注文を聞きにきた。メニューブックを見るとタイ料理はなくて、メキシコ料理や簡単なスナック料理だけだ。バーだから当然といえば当然だ。しかしリキュール類は豊富にそろっている。僕はハイネケンビールとタコスを頼み、手持ち無沙汰なのでビリヤードを見物した。

 注文を頼むと小柄な女性の方が店の奥に引っ込んでずっと出てこない。ハイネケンを飲んでいると十分ほど経ってから料理が運ばれてきた。彼女は調理担当でもあったわけだ。見ると大きな皿に大きなタコスが三つ、それにポテトチップスがドサッと横についていた。こりゃこんなに食べられないぞ。

 二本目のハイネケンを飲み干した頃になると、一時的に客が少なくなり、奥でビリヤードを楽しんでいる四人のグループだけになった。すると小柄な女性スタッフがカウンターの席に移らないかと言ってきた。もう一人の女性スタッフもカウンターの中からど「こちらに座りなよ」といった感じで手で合図を送ってきた。

 カウンター席に移ると「ジャパニーズ?」と聞いてきた。スタイルのよい女性はよく見ると、何とかいうアメリカのファッションモデルに似ていた。(思い出せないなぁ)

 ハイネケンのあとはウイスキーにした。「どのウイスキーにする?」とモデルが聞いてきたが、棚に並んだ銘柄のうち知っているのはカナディアンクラブだけだった。

 「君のお奨めのウイスキーを頼むよ」

 「オーケー、分かったわ」

 グリーンのラベルを貼ったウイスキーをグラスに注ぎ、チェイサーとともに僕の前に置いた。一口喉に流してみると、クセのないウイスキーだった。

 「何か飲まないか?」

 客が途切れたので手持ち無沙汰にしている二人に僕は言った。

 すると彼女たちは「チャンビールをいただくわ」と言うのだ。

 東南アジアでこれまで僕が飲んだビールの好みを言わせてもらうと、いまひとつ好みでないビールがこのチャンビールだ。因みに好きなビールの順位は、ビアラオ、333(バーバーバー)、アンコールビール、シンハビールという順位だろうか。(要するにクセのない飲みやすいビールということなのだが)

 「シンハビールよりチャンがいいの?」

 「シンハは翌日頭が痛くなるのよ。その点チャンはすっきりして好きだわ」

 小柄なペコちゃんに似た女性が言った。

 僕としてはシンハよりチャンのほうが値段が安いからいいのだが、ビールの好みは人それぞれだ。

 三人で穏やかな夜に乾杯をした。チェンマイ初日の夜はまだまだ続く。

 


 古都・チェンマイ その六

 プールバーのカウンター席で店の女性二人を相手に二時間あまりもウイスキーを飲んだ。
 その間の会話は、「仕事は何をしているのか」「家族はいるのか、いるなら何人だ」「チェンマイのあとはどこへ旅するのか」「ここには何日滞在するのか」「チェンマイの町をどう感じるか」というごく普通の質問に、僕が答えるという質疑応答形式だった。

 「仕事はしていない」(この頃本当に無職だった)と答えると、「大金持ちか?」と言う。

 「宿はそこのファングGHだよ。一泊二百バーツ。それに僕が金持ちに見える?」

 ヨレヨレの短パンにTシャツ、怪しげなバンダナを巻いたこの僕が金持ちに見えるはずはない。

 「日本人は皆お金持ちだよ」

 ペコちゃんが言った。
 まあ、金がないと海外への旅などしないだろうが、金がないから物価の安い国しか行けないし、ツアーで行けないというのが日本の旅行事情だろう。

 欧米人は経済的に余裕があってもバックパッカーとして旅する人が多いらしい。日本人は金に余裕があるとツアー旅行だ。日本人は安全な国を安全に旅することが「旅行」だ。民族性の違いだとはいえ、旅行会社と旅行雑誌にいいようにされているのが実態ではないかな。

 ビリヤードを楽しんでいた欧米人たちはグループで勝手に遊んでおり、時々彼女たちにビールの追加を注文する程度で、彼女たちはほぼ僕が貸し切り状態だった。

 「こんなに暇じゃ商売が上がったりだね」(これを英語でどう伝えたのかはっきり憶えていないが、酔った勢いで結構立て板に水のごとくしゃべっていたようだ)

 彼女たち二人は日本語がほとんど話せなかったが、英語は達者で、特にスタイルのよい美女の方はペラペラだった。(そのわけは翌日判明するのだが)

 ウイスキーのロックをチェイサーで胃の中で薄めながら五杯も飲んだだろうか、相当に酔っ払ってきて店がグルグル動き始めた。彼女たちはチャンビール二本を二人で飲んだだけの謙虚さだった。

 逆に小柄なペコちゃんの方が、野菜を炒めた辛いものをパッパッと手際よく作ってきて食べろというのだった。ビールのあてにはちょうどよい料理だったが、目玉が飛び出そうなほど激辛だった。これが日本だったら店の女の子がよってたかって飲みまくるだろうに。

 さて明日はタイ北部少数民族訪問と、メコン川を渡ってラオス入国のワンデーツアーを予約している。日が変わらないうちに宿に戻ることにした。

 お勘定を頼むとなんと五百バーツと少しだった。(1500円くらいかな)

 ハイネケン二本、ウイスキーロックをおそらく五杯、タコス料理、チャンビール大瓶二本、でこの値段だ。五百バーツといえばタイではかなり使い道のある金額だが、日本でぐうたら暮らしている僕の感覚では得をした気分になってしまう。

 「明日はどうするの?」と二人の女性が聞いてきたので、「ワンデーツアーから帰ってきたら遅くなっても寄るから」と言って店を出た。

 通りを渡って寺の裏の真っ暗闇の道をフラフラしながら帰った。こんな状態だと暴漢に襲われたら一巻の終わりだなと、頭の片隅で思いながら無事に宿にたどり着いた。

 目覚まし時計をキチンとセットして、朦朧とした意識のまま寝た。チェンマイの初日はこのようにして終わった。


 ワンデイ・トレッキング その一

 朝七時にゲストハウスの前にワンデイツアーのスタッフが迎えにくると聞いていたので、早々と起きて朝食も食べずに待っていた。しかし七時半を過ぎても一向に迎えが来ない。

 ゲストハウスの入り口の椅子にボケッと座っていたら、宿のご主人が起きてきた。「まだ来ないけど、どうなっているんだろう?」と言うと、まあ慌てるな、間もなく来るだろうからと言う。

 途端に小さな女の子が走り込んで来た。どうやらツアーのガイドさんのようだ。NHKの朝の連続ドラマの「天花」のような可愛い顔をしていた。

 近くに止まっていたワゴン車に乗り込んだ。先客はすべて欧米人で、日本人は僕一人。一番後部席の窓際に座った。すぐに出発した。

 バスはしばらくチェンマイの市街地を走ったあと郊外に出た。すぐに田園風景と変わるのは、タイが農業国という証明である。とにかく列車でもバスでも、市街地を抜けると次第に建物が少なくなってきて田園風景となる。その広大な田畑を貫くように道路や線路がどこまでものびている。

 風景が落ち着いた頃に助手席の天花ちゃんが後ろを振り向いた。流暢な英語で「皆さんおはようございます。私は今日一日のツアーをご案内させていただきます天花です」と言った。

 ツアー参加者は前列より女性二人、黒人男性一人、カップル二組、そして僕の合計八人だった。天花ちゃんは挨拶のあと自己紹介をしましょうと言った。そして女性二人客から順番に後ろを向いて「ハーイ、私はベッツイよ。イスラエルから来たの。今日一日よろしくね!」てな感じで紹介し始めた。

 もちろんみんな僕よりはるかかなたの年下だ。こりゃ困った、恥ずかしいぞ。

 それぞれが簡単に自分の名前と国を言うだけだったので、最後に僕の順番が来て「拙者の名前はフジイでござる。以後お見知りおきを」と言った。

 すると前の座席の五人がなぜか一斉に振り向いた。日本人がめずらしいわけじゃないだろうから、僕の英語の発音がおかしかったのかもしれない。そんな風に和気あいあいといった雰囲気でミニバスはドンドン北へ向かって走った。

 最初に着いたところは温泉だった。温泉といっても日本のように旅館があって湯の町の情緒があるわけではない。単に温泉が湧き出るというだけであった。

 車から降りると民芸品などのみやげ物店やレストランなどがずらっと並んでいた。そしてそれらの裏側に天花さんに案内されると、温泉が湧き出ている小さなプールのようなものが二ヶ所あった。

 いや、これは小さなプールと言うよりも、大きな浅い井戸と言った方が当てはまるかもしれない。そのブクブクと温泉が湧き出ている中に、いくつかの卵を入れた小さなかごを吊るして十分ほど浸す。するとなんとゆで卵の出来あがりというわけだね。当たり前だけど。

 欧米人たちはワイワイ言いながら、卵を入れたかごを温泉に入れていた。もちろんタダではなくて、五個くらい卵が入ったカゴが五十バーツくらいだったような気がする。(僕は買わなかったので値段は知りません)

 僕としては別段興味のないものだったが、「ソーファンタスティック!」とか何とか言ってやった。


 ワンデイ・トレッキング・その二

 温泉で卵をゆでた欧米人たちはキャッキャキャッキャと驚喜し、それを僕は遠くから見守っていた。すると天花ちゃんが「日本には温泉がたくさんあるのですよね」と話しかけてきた。

 「イエース、メニーメニープレイス、イン、ジャパン。オールモスト、ニアザマウンテン、オア、サラウンデッドマウンテン」とか何とか答えたが、果たして分かったのだろうか。

 さて、三十分ほどの休憩ののちミニバスは再び走り出した。野を越え山を越え、谷を横切り丘を越えると比較的賑やかな町へと入って行った。

 「チェンラーイでーす!」と天花ちゃんが叫んだ。整備された綺麗な町並みにビルも点在し、落ち着いた雰囲気の町という印象だった。

 町域はあまり広くなく、あっという間に通り過ぎ、再び野を越え山を越えの道路と変わった。好天の青空のもと、ワンデイツアーミニバスは快適に走る。

 次に一つの町に到着した。緑の木々が生い茂った道路を進んで、ある寺院の敷地に入って行き、そしてミニバスは止まった。我々は下車し、寺院の塔を仰ぎ見た。

 「ワット・パサックです!」と天花ちゃんは述べ、それからこの寺院の説明を開始した。とても流暢な英語で笑顔を絶やさない説明に、欧米人たちはじっと聞き入っていた。しかし、残念ながら僕にはその説明の所々しか理解できなかった。

 まあ要するに、古い歴史の仏教寺院だということを説明しているのだろう。なるほど寺院は赤レンガ造りのかなり年季の入ったもので、一部崩れかけている部分もあった。あとで分かったのだが、この寺院はチェンセーンのパサック歴史公園内にある由緒ある寺院らしい。われわれはゴールデントライアングルに近い国境の町・チェンセーンに着いていたのだった。

 天花ちゃんの説明が終わり、「さあ、中に入ってお祈りしましょう!」という寸法となった。われわれは森の中に静かに佇む寺院にゾロゾロと歩き出し、サンダルを脱いで本堂に上がった。

 本堂の正面には数体の大きな仏像が鎮座されており、周りをきらびやかに装飾されていた。その前にオレンジ色の袈裟をまとった僧侶が数人、お参りに訪れていた七、八人の現地人に対して説法を行っている様子だった。

 欧米人たちの数人は正座して拝むという行為には至らず、しばらく仏像や本堂の中を見物していたが、次々と外に出て行ってしまった。僕は仏教国(と言っていいのか?)・日本からの訪問者なので、一応少しの賽銭を置き、神妙に手を合わせて本堂をあとにした。

 しばらく歴史公園内をそれぞれが思い思いにブラブラしたあとミニバスに乗り込み、発車して何分もかからないうちにメコン川沿いの道路に停車した。

 「向こうに見えるのがラオスです。これからボートで渡ります」と天花ちゃんが言った。

 

 チェンセーンについては下記のサイトで分かりやすく書かれています。

 http://lannaexplorer.com/tour_chiangsaan.htm#top 


 ワンデイ・トレッキング その三

 ミニバスから降りたわれわれは道路を渡ってボート乗り場へ歩いた。既に二艘のエンジン付ボートが待機していた。小さなイミグレーションのような受付があり、男性がチケットを売っていた。もちろん旅行者用である。

 「受付で百バーツ(だったと思う)をお支払いください。そのあとそこに吊るされているライフジャケットをつけてくださいね」

 という意味の言葉を天花ちゃんが英語でペラペーラと喋る。オッケーと欧米人たち。僕はライフジャケットという代物を生まれて初めて身につけた。そして川べりに降りて行き、二組に分かれてボートに乗り込んだ。

 僕は天花ちゃんの乗り込むボートに、彼女が乗り込むのを待ってからちゃっかりと乗り込んだ。少しだけ日本語も分かるし、英語もゆっくり話してくれるから。

 オレンジ色のライフジャケットを身につけた欧米人たちと中年日本人、ガイドの天花ちゃんはメコンの流れに滑り込んで行った。メコン川は遠くから見ると赤茶色をしているが、実際に水面を滑走してみるととても綺麗だった。川面には日本の川のようにゴミや変てこな浮遊物はほとんどない。ボートからその水を手ですくってみると透明だった。

 バリバリバリっとエンジン音をたててボートはメコンを上って行った。ラオスに渡る前にタイ、ラオス、ミャンマーの三国が接するゴールデントライアングルの方向へ向かったのだ。時間の関係かそれともボートの料金の関係か分からないが、中州のあるあたりでスピードを緩めて天花ちゃんが説明を始めた。

 「皆さんご存知だと思いますが、このあたりはゴールデントライアングルと称されて、昔は麻薬の生産地として有名でした。今は作られていませんがオピウム博物館というのが建てられて、当時の生産方法が説明され、吸引具なども展示されてオピウムの怖さを訴えています。最近はあそこに見えるようにカジノも建設されて観光化が加速されています。あちら側がミャンマーです。そしてこちら側がラオス、ずっと向こうをさかのぼれば中国ですね」

 このような解説だったと思う。

 フムフム、なるほど、ゴールデントライアングルといっても特別何があるわけではない。三国がメコン川から同時に眺められるということであった。

 十五分ほどの説明の後、ボートはメコン川の流れの方向へ引き返した。水しぶきを上げて水面を疾走し、やがてラオス川の船着場に到着した。われわれは上陸してライフジャケットを脱ぎ、柵にひっかけた。

 「ここで五十バーツ(だったと思う)を支払ってください。入国手続きの必要はありません。一時間後にこのあたりに戻ってきてくださいね」

 ラオスに入国といっても、川沿いのみやげ物売り場が並んでいるあたりをウロウロできるだけだった。周りには同じような旅行者がいて、ラオスの民芸品などを値踏みしていた。旅行者の中には中国人の団体がいて、敷物や置物を買っていた。

 僕はウイスキーのミニボトルに入ったハブ酒を買った。グロテスクな小さなハブが歯をむき出しにして酒の中にとぐろを巻いていた。精力剤のために買ったのではない。からだの弱い人が知り合いにいるので、これを飲んだら元気になるかなと、咄嗟に思いついたからであった。

 店の女性たちは、客が商品を選ぶのを黙って見ているだけである。さすが奥ゆかしいラオス人女性である。このままタイに戻らずにラオスに入国してしまおうかと思った。ワンヴィエンには懐かしいタビソックもいる。きっとあれから大きくなっただろうなぁと、少し感慨に耽ったりした。(ワンヴィエンには一年半ほど行っていないのだった)

 



 ワンデイ・トレッキング その四

 ラオスに渡ったといっても、それは渡ったと言う事実だけを作るためのようなものだった。メコンのミニクルーズに変化を添えるためのプログラムという解釈もできるが、ラオス側の村にわずかでも利益を与えることになるのでそれはそれで良いだろう。

 まあ、ここまで来るのだったらバックパッカーならラオスへ入国して旅を続けるべきである。ただ、タイ北部だけを旅する予定の人は、このワンデイ・トレッキングに組み入れられているちょっとだけのラオスは嬉しいかもしれない。

 さて、一時間ほどブラブラしてミニボトルハブ酒とTシャツを数枚買ったあと再びボートに乗り、メコンを横切って対岸のスタート地点に戻った。下船して土手を少し歩き、川沿いのレストランで昼食となった。かなり広いレストランである。

 最も川に近い場所の屋根付のオープンスペースの長テーブルに思い思いに着席、すぐに用意されていた料理が運ばれてきた。もちろんタイ料理である。それがまた量の多いこと。

 何皿にも違った料理が盛られていて、それを八人と天花ちゃんとで食べる。味は最高である。いつも思うがタイ料理は外れがない。僕の好みに合っているのかもしれないが、辛くて濃厚な味のタイ料理は美味しい。

 僕はメコンの流れを見ながらシンハビールを飲んだ。他の人たちは英語でおしゃべりも盛んだ。聞こえてきたのは英語だけではないかもしれないが、僕にはよく分からなかった。しばらくして僕が黙って食事をしていることに気を遣ってくれたのか、隣の黒人青年が話しかけてきた。

 「あなたは一人旅ですか?」

 「そうです」

 「寂しくありませんか?」

 「ノー、だってたった十日ほどの短期の旅だからね。君はずっと旅しているの?」

 「はい私も一人旅ですが、半年ほどの予定です。東京にも行きたいと思っていますが、物価が高いようなのでどうなるか分かりません」

 僕の下手糞な英語でも簡単な会話は可能だ。聞けば彼はアメリカ人でまだ学生とのことだった。
 半年も旅ができる学生なのだから、国ではまあ裕福な部類に属しているのだろう。でも黒人の年令はサッパリ推測が不可能だ。ちょっと古いがベン・ジョンソンみたいな顔つきだった。

 昼食タイムは一時間もなかったが、結局お腹一杯になっても料理は少し残ってしまった。
 「そろそろ出発ですよ皆さん。ここからが本番です」と天花ちゃんが言うので、我々は再びミニバスに乗り込んだ。チェンセーンを離れて、次にミャンマー国境の町・メーサーイに行くらしい。

 そのあとはいよいよ首長族
(この呼び方は失礼に当たり、パダウン族というのが正式名称である。次号か次々号で書きます)などの少数民族の村を訪ねるというプログラムだ。



 ワンデイ・トレッキング その五

 メーサーイはミャンマーとの国境の町。チェンセーンから一時間あまりで到着した。われわれを乗せたバスが止まったのはイミグレーションのすぐ手前だった。

 「一時間後にここに戻ってきてください。それまで自由行動としますね」と天花ちゃんが言った。
 皆それぞれバスを離れていった。天花ちゃんは全く化粧をしていないのに、本当に可愛いガイドさんだった。どうして使い捨てカメラでも買って一枚だけでも写真を撮らなかったのだろうと、返す返す残念に思う。

 イミグレーションの手前にはホテルや商店が並んでいて賑やかだ。僕はそれらを眺めながらゲートに近づいた。ここではミャンマーに一日だけ入国ができる。両国の仲が悪いので喧嘩になったときは入国できないが、この日は大勢の人々が両国を往来していた。

 ラオス旅行以来の友人で、僕の他のメルマガに度々登場するN君は、少し前にここから一日だけミャンマーに入国した経験を持つ。
 彼の話によれば、タイ側のイミグレーションで出国スタンプを押してもらい、サーイ川に架かる橋を渡ってミャンマーのイミグレーションへ行く。そしてそこで入国税
(5ドルだったらしいが今は分かりません)を支払ってパスポートを預け、預り証をもらって無事に入国という段取りらしい。

 再度タイに戻るには午後五時までにミャンマーから出国しなければならないのであまり時間がないが、彼の話では外国人が行動できる範囲が決まっているし、またこれといって見るべきところもないらしく、とっとと回ってタイ側に戻ってきたとのことだった。

 ミャンマーのイミグレーションを出るとリクシャーが待機しており、「乗れ乗れ」としつこく言ってくるらしい。
 田舎町だし地理も分からないので、一生懸命アピールする老人のリクシャーを選んだとのことだ。細くてガリガリの老人はそれでも自転車のペダルを漕ぐ力は衰えておらず、かなり太り気味の
N君を乗せてタチレイの町を三時間近くも漕ぎ続けたらしい。

 その時は寺院や市場などに案内してもらったとのことだが、町の風景は彼が小さい頃に育った田舎よりずっと寂しい印象を受けたらしく、「お寺と市場以外は何もありませんでしたわ」と語っていた。ミャンマーの国でもこのタチレイは、東の端の小さな町だ。N君が感じたことは仕方がないだろう。

 

 タイ側の国境付近 ↓ リンクフリーサイトからお借りしました。

 http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hibi00/gt_2.html 

 さて、他のツアー同行者たちは散り散りバラバラとなったが、一時間ほどの滞在ではもちろんミャンマー側に入る余裕はない。僕はイミグレーション近くのホテルの一階でコーヒーを飲みながら、通りを忙しく行き交う人々を眺めていた。

 するとどうだろう、目の前を「サバイディーラオス感動旅行記」に登場するH嬢が歩いていた、なんてことはあるはずもなく、「そろそろ時間ですよ!」と天花ちゃんが僕を見つけて言った。

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