第一章、バンコクから国境の街・ノーン・カーイへ
 2.ゴートゥー・ボーダー!
 
 ウドンタニー駅を出るとあと1時間程で終点のノーン・カーイ駅に到着するが、しばらくすると乗務員がベッドを元の座席に戻しにやってきた。
 あっという間に下段ベッドは座席に変わり、僕はタイ人男性と向かい合わせに座ったが、この男性は僕と視線を合わせることはなく、さすがに僕もこちらから話しかけることをためらってしまった。
 僕は人と視線が合うと、それをきっかけに話しかけるようにしており、ウドンタニーで降りて行った母子の息子とも何度か目が合い、僕が【お母さんと帰省するのかい?】という感じで少し口元を緩めて目を細めると、彼も言葉こそ交わさなかったが【ちょっと恥ずかしいけど、そうなんですよ】といった感じで微笑を返してきたものだ。【ホントかな?】
 しかしこのタイ人男性は日本人が嫌いなのか、それとも僕と同様にシャイな性格なのか、全く僕の方を見ようともしないのだった。 だから向かい合わせの席に座っても、挨拶一つ交わさないというおかしなことになってしまった訳である。
 まあそれでも僕の方から積極的に話せばよかったのだが、無理に話しかけることもないから、これはこれでよかったんだ。 今回の旅でこんなに近くにいる人と一言も話さなかったのは、このタイ人男性だけだったから、少し印象に残っているんだね。
 さてそんなことはともかくとして、列車は出発時刻を1時間以上も遅れたにもかかわらず、午前10時過ぎには終着駅のノーン・カーイに到着した。
 列車がホームに滑り込むとプラットホームには何だこれは? 我先にといった感じで大勢の男性が乗客を待っていた。
 僕の斜め前の上段ベッドだったメガネをかけた日本人風若者に続いて列車から降りると、すぐに45人の男性が、『トゥクトゥク! ボーダー!』と叫びながら取り囲んだ。 メガネ若者は知らん振りをして出口に向かうので、僕もそれらの呼び込みを振り切って駅を出た。
 しかし結局はここから国境まではトゥクトゥクを利用しないと仕方がないのだ。 別に歩いても行けないことはないが、おそらく40分程も灼熱地獄を味わう破目になり、国境ゲートに着いた頃には瀕死の状態であることは97%程の可能性で間違いない。
 駅の前や、道路を挟んだ向かい側に何十台ものトゥクトゥクが待機しており、値段交渉がまとまると次々と国境に向かって走り出す。 勿論、複数人数が乗ればその分安くなるのだが、僕はこのトゥクトゥクには今まで一度だけしか乗ったことがなく、どのトゥクトゥクでも同じだとは思うのだが、ちょっと周辺の様子を眺めていた。
 僕のたった一度のトゥクトゥク経験は、昨年ベトナムで何日かを一緒に過ごした女性とバンコクに戻ってきて、彼女がワットポーでマッサージを受けたいというので、贅沢にもタクシーで向かい、それからカオサンに行って買い物をしたいというので、ワットポーの近くからカオサンまでをトゥクトゥクに乗った時だけである。
 その時はその女性が交渉して40Bで行ってもらったのだが、安かったのか高かったのかは分からない。
 列車から降り立った客は次々とトゥクトゥクに乗って消えて行く。 旅行者は国境に向かい、現地の人は市街地に向かうのである。
 僕はいつまでもぼんやり見ているわけにも行かないし、さっきから僕の前で何やらしきりに喋っている年配のおじさんのトゥクトゥクに乗ることにした。
 『いくら?』 『フィフィティ』 『フォーティー!』 『Ok』 という具合に商談成立し(オーバーだけど)、国境に向かって、“バリバリバリ〜”と激しい音を立てながら走り出した。
 走り出してすぐにカーブをしたあとはほぼ一直線で、綺麗に舗装された道路の周辺は、所々に建物も窺えるが殆ど雑種地であった。 ところが僕がトゥクトゥクおじさんにはっきりと、『ボーダー!』と言っていたのにもかかわらず、国境のゲート付近まで来るとおじさんはクルリと右に曲がり、ある旅行社のような建物の前に連れて行くのであった。
 おじさんは何食わぬ顔でその事務所を指差して、『ビザはここで取りなされ』と言うのだが、僕は、『ビザは国境で自分で取るからいいよ。 早く国境ゲートに連れて行ってくれよ!』と少し語気を意識的に荒げて言った。 貴方達の商売はよ〜く理解しているんだが、僕は自分で取れるものは自分で取るんだ。
 こんな感じは去年ハノイでも経験しているぞ。 そうだ、ハノイのノイ・バイ空港から正規の空港バスで、ベトナム航空オフィス前行きに乗ったのに、目的地には行かないで知らないGHの前まで連れて行かれたのだった。 あの時は何度ベトナム航空オフィス前に行ってくれと言っても、僕の英語が通じなかったのか、運ちゃんは無視して、『このゲストハウスはどうだ?』と題目を唱えるように何度も繰り返して言っていた。
 しかし今回僕がトゥクトゥクから一向に降りようとしなかったので、おじさんは仕方がないなという顔つきで再びトゥクトゥクに跨り、バタバタと走り始めたと思ったら、あっという間に国境ゲートに到着した。
 ゲートの前まで鉄道線路が敷かれており、いずれこれが友好橋(フレンドリーシップブリッジ)を渡ってラオスの首都・ヴィエンチャンまで鉄道が開通するらしいのだが、ラオス側の経済的事由により工事が進まないとのことである。
 ゲートをくぐるとバスが待機しており、10Bを支払って乗り、メコン川のこちら側にあるタイ出国窓口にて一旦降りる。 ここでは出国手続きをするのだが、人によっては早く済ませる人と、書き方を躊躇して時間がかかる人とがいるから、バスは一定時間待ってある程度乗車したら、メコン川を渡ってラオス入国窓口へ出発する。 しかしバスは次々来るから、最初支払った10Bのチケットさえ持っていれば、次のバスに乗って渡っても何等差し支えがないのである。
 僕は勿論出国手続きをする用紙記入に手間取り、乗ってきたバスは行っちゃったのだが、そんなことは気にせず、記入カウンターでグルリンと辺りを見渡したら、いたいた多くの欧米人の中に、僕と同じようにボンヤリとした感じの日本人が・・・。
 僕は彼の方に近づいていった。


第二章、メコンを渡ってヴィエンチャンへ

              1.何だコリャ?簡単オンアライバル・ビザ

 今回の旅は、ラオスビザをメコン川を挟んだタイとの国境で取得するということが、駆け出しバックパッカーの僕にとっては一つの目的でもあった。

 何度も僕の話に出てくる例のベトナムで過ごした彼女が、去年この友好橋でラオスビザを簡単に取得したと話していたが、今年の初旬に何等かの理由で、オンアライバルビザの取得が一時不可能になっていたらしい。

 ラオスは1999年から2000年をラオス観光年としていたので、それが終わったことによりビザは友好橋では簡単に取れなくなったのかもしれない。

 国情の変化でビザの状況が変わるのは仕方がなく、もし取得できなかった場合はその時に考えればいいことだが、少し前のネットでの情報では再開したとあったので、おそらく大丈夫だと思っていた。

 ラオスビザは日本で旅行代理店などに依頼すると1万数千円もかかり、タイ側の国境近くの代行者に頼むと、それなりに便利な面はあっても2,000B(5400)以上もの金額が請求されると聞いていたから、できれば自分で取りたいものだ。

 タイの出国手続きをするため用紙が置いてある窓口に行くと、殆どが欧米人のバックパッカーの中に、ちょっとボンヤリとした日本人男性がいた。

 僕は彼に近づき、『こんちわ、日本の方ですよね』 『そうですけど』 『僕はこういった書類を書くのに慣れていないのですよ。 ちょっと教えてくれませんか』と微笑みながら言った。

 彼は、『いやぁ、僕もあまり知りませんネン。 適当に書いたらええんとちゃいますか』とバリバリの大阪弁で、目を細めながら人のよさそうな顔で答えた。

 僕は彼のちょっと太りぎみの体躯に、細い目とポカンと開いたような口から親しみを感じ、さらに関西人らしいということもあって何かホッとした気持ちになり、『ラオスは初めてですか?』と聞いてみたら、勿論初めてで、いつもバンコクでクターとだらしなく過ごすのだが、今回の休暇はちょっくらラオスまで足を延ばしてみようと英断をしてやってきたとのことであった。

 僕は別に1人で国境を越えて、ヴィエンチャンで誰に気を遣うでもなくのんびりと過ごしてもいいのだが、せっかく知り合った訳だし(こっちから勝手に声をかけたのだけどね)、『じゃぁ、もしよければヴィエンチャンまで一緒に行きましょうか』とあつかましく言ったら、彼は『そ、そ、そうしましょうか』と断る理由もなく同意をしてくれたのであった。

 まあ旅は道連れってことで、彼も僕のようなしっかりした年上の男と少しだけでも一緒だと得るところが多い筈だからね。 髭面にバンダナ姿の怪しげな中年の僕を見て、ちょっと躊躇した感じもしたけど。

 ともかく僕達は出国手続きを済ませて再びバスに乗り込み、メコン川はアレレッという間に渡ってしまい、ラオス側出入国管理事務所前に到着した。 国境を今越えてきたのだが、バスの窓から見えるメコン川は、僕が生まれ育った和歌山の紀ノ川の方が大きく感じた程で、大河を渡って来たという実感が全くなかった。

 それはおそらくラオスは今気候的には乾季を経て暑季で、メコンの水量が少ないからそう感じたかもしれない。

 バスを降りるとどこかの宗教団体の本部に似た大きな建物があり、ここで入国審査を受けるのだが、ビザを持っていない者はVisa on Arrival窓口で申請をするのである。

 申請書類は窓口に置かれており、それを1枚取って近くのカウンターで記入して、パスポートに写真1枚を添えて申請窓口の女性に手渡した。 申請用紙はラオ語だけでなく、勿論英語でも書かれていたので何とか書けたのだが、曖昧な部分は適当に記入した。

 窓口の女性はそれらを受け取ると、『ワンダラー』と事務的に言うので、何か分からないままもう1ドルを渡したのだが、きっと土曜日だったから割増料金となっているのだろう。

 窓口で待つこと3分程、2週間の赤いラオスビザのスタンプが押されて返されたパスポートを受け取り、今度は入国手続きをするための書類を受け取り、すらすらと再び適当に記入し、小さな小屋のような建物が2列に並んでいる入国窓口に提出した。 するとここでも簡単に手続きが済んだのだが、もう10B(入国税)が必要だというのである。 再び言われるままに10B紙幣を渡し、小屋の横を通って簡単な税関でザックを検査してもらったらこの時点でラオス入国完了である。 アリャリャ? 本当に簡単だったね。

 この間にかかった時間は大体15分ほどであっただろうか、建物の中の両替所で1000Bをラオス貨幣のキープにチェンジして(189,750kip・・・紙幣の束が手渡されるので何故か儲かったような気分になってしまう)やれやれといった感じで歩いていると、ベンチに日本人と思われる青年が1人と青い衣服を纏った綺麗な女性と、色の黒いちょっとエキゾチックな顔立ちの女性との3人が座っていた。 あれ? 彼は列車で僕の斜め前の上段ベッドにいた青年じゃないか。

 僕がトボトボと歩いて来るのを見てエキゾチック女性が、『お疲れさまぁ、日本の方ですよね。 もしよければヴィエンチャン市内までトゥクトゥクをシェアしませんか?』と明るい声で少しタドタドしい日本語で聞いてきた。

 イミグレーション前の広場からヴィエンチャン市内中心部までは約25kmあり、トゥクトゥクで30分ほどかかるとガイドには載っていた。

 この先からはバスも走っている筈だが、シェアをするのならトゥクトゥクでもタクシーでも割安になるから、『そうしましょうか。 もう一人日本の男の人が来ますから、ちょっと待ってください』と言って僕もベンチに腰を下ろした。

 3人の内青年は25才で、ヴィエンチャンだけに用事があって来たのだと言い、青色衣服美人は一人旅ですとのことで、エキゾチック女性は日本人と結婚したタイ女性ということだった。 簡単に自己紹介をしていたら、先程の関西人男性がようやく手続きを終えてきたので、5人でトゥクトゥク乗り場に歩き始めた。

 広場にはトゥクトゥクやタクシーが何十台も待機していて、客引きを行っていた。

 料金はタラート・サオ(市場)まで150Bとのことであるが、25才青年は5人で100Bで行ってくれなきゃ乗らないと言い張り、トゥクトゥクのアニイは150Bだと繰り返すばかりでラチがあかない。

 僕は内心【10B位いいじゃないか。 早く乗ってヴィエンチャンに行こうよ。 シャワーも浴びたいしハラペコなのに】と思っていたが、ここは面白いからしばらく様子を眺めていた。

 関西人男性も、【もうエエヤンケ】といった面持ちで暑さにげんなりとした感じであったが、女性2人は逞しく120Bを青年と一緒になって交渉していた。 周りでは交渉がまとまったトゥクトゥクやタクシーが次々に出発して行く。 後で分かったことだが、イミグレーションからヴィエンチャン市内までは、トゥクトゥクでは150Bと基本的に決まっているらしいのである。

 僕は最年長と言う権威を使用して、『いいじゃないですか、彼が150Bを譲らないのだから相場なのでしょう。 130Bで行きましょう』と言って、アニイのトゥクトゥクに荷物を乗っけた。

 青年はいつまでも、『ちょっと高いんだけどなぁ・・・』と呟いていたが、それぞれのザックをトゥクトゥクの屋根に乗せて、さあようやく出発だ。 と思ったら、そのアニイは現地の中年女性と若い男の子も乗せて、その人達の荷物も屋根には乗らないから、僕達の座っているところの間に詰め込むという形になり、ギュウギュウ詰状態で出発することになった。

 【ちょっとアニイ、130B支払うんだからそれはないんじゃないか?】

 バリバリバリ〜とけたたましい音を立ててトゥクトゥクは出発し、ラオス人民民主共和国の首都・ヴィエンチャンに僕達は突撃していった。


 2.これが首都?ヴィエンチャン その1

 ラオスのイミグレーションからヴィエンチャン市内まではバスも走っており、ガイドには700キープ(10円程)で行けると記載があるが、僕達のようにトゥクトゥクを何人かでシェアすれば、バスよりはかなり高いが30Bだと80円余りだから、その分20分程早く市内に到着するらしいので、短期旅行ではトゥクトゥクを利用した方がスムーズだ。

 市内までの道路は特に穴ぼこもなく思ったより綺麗に舗装されており、トゥクトゥクのエンジン音は喧しいが、なかなか快適だった。 見える景色は田園風景で、ベトナムのように綺麗なライスフィールドではないが、田んぼや畑で牛がのんびりと休憩していたり、雲一つない好天の下で、とてものどかな感じだ。

 トゥクトゥクは時速40キロから50キロは出ていると思われるが、時々乗用車やバイクが追い越す程度で、道路は殆どガラガラに近く、この状態は市内が近づくまで続いた。

 トゥクトゥクには25才インテリ風青年と30才過ぎの関西人男性、青いアジアンドレスを纏ったエレガント日本人美女に、日本人男性と結婚してタイに里帰りをしてきた30才のタイ人女性、それに現地人2人と僕との合計7人が乗っているが、このトゥクトゥクはジャンボといって一応定員は5,6人ということになっているが、屋根の上に載せた5人のザックや現地人の荷物などもものともせず、逞しいエンジン音を鳴らしながら突っ走って行く。

 喧しい音の中、僕達は再び自己紹介のようなものを行い、5人全員が一人旅で、タイ人女性以外は初めてのラオス訪問であることが分かった。
 青年はヴィエンチャンで知り合いの日本人と会う目的で来たらしく、それ以外の町には今回訪問予定はないとのことで、エレガント女性はこれからの予定を決めていないと話していた。
 又、タイ人女性は、ヴィエンチャンのタラート・サオ
(朝市という意味だが一日中営業している)に着いてから食事を済ませて、すぐに午後1時のバスで、妹がラオス人と結婚して住んでいるワンヴィエンという町に向かうとのことである。

 トゥクトゥクの中で、『意外と簡単にビザが取れちゃったねぇ』 『ヤッパリラオスってのんびりした感じだね』 『ほら、スズキ自動車の建物があるけど、撤退したあとだよ。 ヤッパリ自動車業界は不景気なんだね 』 『ワー、ビアラオの大きな工場だ。 早くビールが飲みたいねぇ』などと、とりとめのない話をしながら建物の少ない周辺景色を眺めていたら、次第に商店や民家などが見えてきて、市内の中心街が近づいてきた。

 僕が、『ヴィエンチャンには今日と明日滞在して、明後日はワンヴィエンに行く予定です』と言うと、タイ人女性が、『ワンヴィエンは小さな町だから歩いていればきっと会いますよ。 バス停から町に入る辺りのカフェでいますから是非来てください』と僕がどんな人間かも分からないのに、簡単に約束めいたことを言うのでちょっと驚いた。

 結局、この話はすっかり忘れてしまって、あとになってこのタイ人女性と思しき人が町の入口近くのカフェで、『午後から夕方までずっと、国境からトゥクトゥクをシェアした日本人男性を待っていたが来なかった』と話していたとある旅行者から聞き、申し訳ないことをしたと反省しているのである。
(僕は忘れっぽいし、ワンヴィエンに着いたら呼込みのトゥクトゥクに乗って宿まで一直線だったから気が付かなかったんだ)

 徐々に賑やかな街並に入ってきたと思ったら、まもなく大きな市場前のトゥクトゥクやタクシーが集まっているところに到着した。 ここまでの所要時間は約30分であるが、あれこれ言葉を交わしたり、景色を興味深く眺めていたらあっという間だった。
 約束通り30Bずつを支払い、タイ人女性とエレガント女性はタラート・サオの中で食事をすると言ってここで別れ、青年と関西人と僕とが宿を探すために、ゲストハウスやホテルなどが集まっているという町の中心地であるナンプ広場の方向に歩き出した。

 郵便局を左に見ながら南に歩き、2つ目を曲がるとその通りはサムセンタイ通り(Samesenthai Rd.)といってゲストハウスやレストランなどが並んでいるところである。

 僕は青年に、『宿は決まっているの?』と聞くと、彼は神経質そうな眼鏡をかけた目で、『ええ、友人とのミーティングポイントの近くということで、この通りのラオパリホテルにしようと思っているのです』と答えた。

 僕は旅行情報誌やネットなどでこのホテルのことは知っており、確か最も安い部屋でシングルが10ドルの筈である。 勿論 部屋にトイレもシャワーも付いていて、しかもエアコン完備であるから、特に高いという訳ではない。 
 しかし僕はできるだけ経済旅行を目指しているし、もう少しだけ安いところを探したいと思ったので、通りの左側(南側)にあるラオパリホテルの前まで来た時に、『じゃあここでね。 良い旅を・・・』という感じで別れた。

 結局ボーダーで最初に知り合った関西人の男性と一緒にホテルを捜すことになったのだが、彼はN君といって、大阪在住の33才の独身で、仕事は機械の設計に携わり、年に何度か休みを取ってバンコクに遊びに来るらしい。

 彼は前にも述べたようにいつもバンコクで、日本でなら1万円以上はするようなホテルに泊まり(バンコクなら二千円程度らしい)、日本でならいくらかかるか分からないようなキャバレーなどで遊んで帰る、といったことを繰り返していたらしいのだが、今回はラオスという未知の国にまで足を延ばしてみたということなのである。

 僕達はナンプ広場を通って1本南のセタティラート通り(Setthathilat Rd.)に出て、さらに西に歩いて最初の交差点を左に(要するに南方向。 メコン川の方向)曲がったところにあるサーイスリー(Saysouly)ゲストハウスに入って行った。 玄関には石テーブルが置かれて、見た感じがなかなか清潔そうな建物だったからである。

 入口でサンダルを脱いでフローリングのロビーに入ると左側に小さなフロントがあり(フロントといっても1.5m程のカウンターが設置されているだけだけど)、まだ10代の半ば位の男の子と母親と思われる女性が、『サバイディー』と歓迎してくれた。

 僕とN君は、『エアコン付きでシングルは2部屋空いてますか?』と聞いたのだが、僕達の英語がお粗末なのと、宿の人もあまり英語が堪能ではないとみえて意思がしっかり伝わらない。

 しかし、『ツーベッドルーム。 エアコンアンドホットシャワー。 ツエルブダラー・・・』と言うので、『
N君、シェアしようよ。 16ドルでエアコンとホットシャワーだし、僕は男性には興味のない男だから、あっちの方は心配しなくて良いから』と、自分でも訳の分からないことを言って、彼がやや躊躇しているのを半ば無視して、宿の人に『Ok,Ok』と決めてしまったのであった。

 でもとりあえず部屋を見せてもらわないとね。
 僕達は男の子の後に続いて2階に上って行った。


 2.これが首都?ヴィエンチャン その2

 サーイスリー(Saysouly)GH2階建で、本館と新館とが2階で繋がっている造りの、比較的新しいゲストハウスである。

 僕達は宿の男の子に案内されて、2階の階段を上がって最初の部屋を見せてもらった。

 部屋にはベッドが2つ置かれていて(当たり前だけど)TVも設置され、しかもエアコン完備でトイレ兼シャワールームもなかなか清潔そうであったので、2人でここにしようよとすぐに決めた。

 早速ザックを降ろして、交代にシャワーを浴びた。

 僕はちょっぴり延びた無精ひげを剃り、シャツを着替えてショートパンツに履き替え、汗でベトベトになったシャツとジーンズを、シャワーを浴びながら洗濯し、2階のオープンベランダのもの干し場に干した。

 洗濯物を干していたら、ベランダのチェアーから隣の部屋に泊まっている欧米人の若い男女が、『こんちわ』と挨拶をしてきたので、僕も、『ちわ!』とにっこりして応えた。【カップルで旅とは羨ましい】

 天気も良く、きっと洗濯物はあっという間に乾くだろうと思いながら部屋に戻り、N君と一緒に朝食兼昼食を食べに出た。

 部屋のキーは持ったままでいいらしく、僕達は1階のフロントにいる女将さんに、『チョックラ食事に出てきます』と言って、灼熱のヴィエンチャン市街に歩き出した。 僕は髪の毛が寂しいからバンダナは欠かせない。 バンダナを巻いていないと、きっと髪の毛が焦げるだけでなく、頭皮も日焼けをして皮がめくれて悲惨な状態になることだろう。

 来た道をトボトボと歩きながら、『N君、来る時に通ったラオパリホテルの隣に、美味しそうなフランスパンを焼いている店があったよ』と言って、彼は覚えていないと言うのだがその方向に向かった。

 ラオパリホテルまではのんびり歩いても7分程で着き、その東隣にあるレストランの店頭にフランスパンを焼いている小さな屋台があり、ガラスで囲まれた中には、トマトやレタス、ピーマン、ソーセージ、なんだか分からない野菜類などがそれぞれの器に入れられていた。

 僕達はとりあえずレストランに入って行き、テーブルに座って、『ビアラオ2本チョンマゲ』と暑さに参った参ったという感じで注文し(ビアラオは大瓶1本が6000キープ・約84)、そしてフランスパンサンドを注文すると、中に挟む具をトッピングしろと言っているようなので、先ほどのガラス屋台に行き、ソーセージと野菜数種を適当に指差した。

 N君とビールをグラスに注いで乾杯し、グビグビッと一気に飲み、『ようやく落ち着いたねぇ』とホッとして斜め後ろの席を何気なく振り向くと、トゥクトゥクで一緒だったインテリ青年が僕達と同じようにフランスパンのサンドイッチを食べていた。

 『やあ、君もここで食事なの? 一杯飲まない?』とビールを勧めたのだが、『僕はアルコールは駄目なのですよ』と申し訳なさそうに断り、ドリンクは何かシェイクのようなものを飲んでいた。

 彼はあれからラオパリホテルにチェックインしたのだが、シングルが17ドルの部屋しか空いていなかったので、どうしようか迷ったがウロウロ探すのも面倒なのでその部屋に決めたらしい。 部屋はさすがに17ドルもするので快適で、シャワーだけでなくバスタブも付いているとのことであった。

 そんな話を聞いていると、間もなく軽くあぶってナイフで切り裂いたフランスパンに、ソーセージやレタスやタマネギ、シーチキンなどの具を挟んだサンドイッチが運ばれてきた。 パリパリっと頬張ると、香ばしいフランスパンに新鮮な野菜やソーセージが絡んで、今までこんな美味しいサンドイッチを食べたことがないとはっきり言える程美味しかった。

 瞬く間にビールを空けてサンドイッチを平らげ、僕はもう1本ビールを飲みたい気もしたが、昼間から酔っ払ってフラフラしているとサマにならないので諦め、『さあこれからどうしようか?』と思案したのち、『夕方まで時間があるからやはりタートルアン寺院とバトゥーサイくらいは見ておこうよ』とN君に提案した。

 彼はニコニコと笑いながら、『どっちでもエエですよ。 行きましょか』と同意し、僕はさらにインテリ青年にも一緒にどうかと声をかけたのだが、彼は、『僕はこれから知人と会うので駄目なんですよ』と再度断るのであった。【愛想のない奴だ】

 レストランを出て、道路の向かい側に停まっているトゥクトゥクの男性に声をかけた。 これがベトナムやタイなら、旅行者がウロウロ歩いていると絶対に向こうから声がかかるのであるが、やはり引っ込み思案なラオス人民だ。

 僕達は英語でタートルアンとバトゥーサイだけ回りたいのだがいくらかと聞くと、『2人で20,000キープ』と言うのだが、これが高いのか安いのか分からない。 まあ一人140円程だからいいじゃないかと、言い値でOkして出発だ。

 トゥクトゥクはタラート・サオの前を通り、大通りを気分よくドンドン走って行く。 しかし途中郵便局の横に信号があったきり、その後交差点でも信号がないのだ。 それだけ交通量が少ないのであるが、タラート・サオの横を過ぎれば、交通量が一気に減り、バトゥーサイに向かう大通りは、これが一国の首都のメインストリートかと思ってしまう。 感じとしては休日の東京駅丸の内側出口から、皇居前に至るまでの大通りの雰囲気に似ている。

 トゥクトゥクは十数分でバトゥーサイに到着した。

 アニイは近くの店先で待ってくれているので、僕達は入口で1000キープの入場料を支払い、セメントのかなり急な階段を上って行った。

 このバトゥーサイは、別名をアーヌサワリーといい、フランスの凱旋門をモデルにして40年程前より造られており、内戦で犠牲になった兵士などの霊を祀るという目的らしいのだが、経済的な事由からか内部は中途半端なまま工事が中断している状態である。

 こんなに高い建物なのにエレベータなどは勿論設置されていない。 しかしそれほど息が切れることもなく屋上まで上ると、そこは素晴らしい眺めで首都ヴィエンチャン市内を一望でき、思いのほか緑が多い市街地は、高層建物が一つもなくなかなか綺麗であった

 僕達は写真を取り合ったあと、土産物屋でシルバーリングを一つ購入したのをきっかけに(10,000キープ)、可愛いラオスレディーと少し言葉を交わし、約20分程で降りて行った。 一度上れば特に何度も行く気持ちにならない所だと思ったが、夜はライトアップされてビューティフルだという話である。

 さて次に訪問したのはタートルアン寺院である。

 ここでは毎年11月頃にタートルアン祭といって、3日間仏教国ならではの儀式が賑やかに行われ、ラオス各地から大勢の僧侶が集まり、大勢の市民が参拝に訪れ、立ち並ぶ夜店を楽しんだり読経会などに参加するのである。

 僕達は思い思いに寺院の中を見物して回ったのだが、なにしろミネラルウオーターを片手に歩くのも億劫になるくらい猛烈に暑くて、早々とそこを出て宿に戻った。

 トゥクトゥクのアニイは、明日はどこに行くのだと聞いてきたので(彼はなかなか英語が達者だった)、『ブッダパークとフレンドリーシップブリッジに行きたい』というと、2人で40000キープだという。

 またしても高いのか安いのか分からないので、『30,000キープで行ってくれまへんか?』と聞いてみたら、簡単にOkというのであった。(肩透かしを食っちゃうねぇ)

 明日午前10時にトゥクトゥクのアニイが迎えに来てくれる約束をして、時刻はまだ午後3時前なので少し昼寝をしようということになり、部屋に戻ってシャワーのあと綺麗なベッドに倒れこみ、エアコンの涼しい風の中く、心地よいラオスの午後のまどろみに入って行ったのであった。

つづく・・・

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