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サバイディー・ラオス感動旅行記
 
創刊準備号
 
 旅は1人で出かけるものである。 さらに旅行代理店のパックツアーなどでは行かないことである。
 この意見には異論がある方もいらっしゃると思うが、思いがけない旅の展開や現地の人との接触を求めるなら一人で出かけるべきだと思う。
 それが所謂バックパッカ-と呼ばれる貧乏旅行であろうが、快適な宿に泊まり、飛行機を利用したやや贅沢な旅行であろうが、旅は1人で出かけるものだと僕は思う。
 一人旅には精神的及び物理的リスクがつきまとう。 これは仕方がないことである。
 訪問国の治安の問題や、どんな国にも善人と悪人がいる訳だから、旅行中は自分の身の安全や所有物の保全は当然自分自身で気をつけないといけない。
 そのような緊張した状態で見知らぬ国を旅している途中に、思いがけず日本人旅行者と遭遇すると、日本にいる時はおそらくできないであろう積極的な行動に自然と体が動いてしまう。
 僕はこのように、あたかもベテラン旅行者のごとく記述したが、実はバックパッカ-初心者で、背中には車の初心者マークが貼り付けてある。
 去年の夏に初めてベトナム北部に旅をしたが、それはサ・パという街である日本人女性と会う約束をしていたからこそ、首都ハノイの喧騒やベトナム人民に途惑いながらも何とかたどり着けたのだった。
 あれから8ヶ月あまりが経過し、旅の魅力に取り付かれて、忙しい日常生活の中でチャンスを窺っていたが、ようやく周りの非難・中傷などを振り切って11日間の旅に出ることができた。
 目的地はラオス人民民主共和国。
 アジアの置き去りという印象のある内陸の山岳国。 何故ラオスという国を訪問することにしたのか。
 それは2つの単純な理由からであった。 一つはタイとラオスの国境で自力でラオス入国ビザを取得したいということ。 もう一つは僕のような初心者バックパッカ-にとっては、比較的人民がおとなしく親切だと聞いたからである。
 そして今回は本当にずっと一人旅になるのじゃないか、という心配は旅の2日目に吹っ飛んでしまい、多くの旅行者と出会い、思いがけない展開が待ち受けていたのであった。
 
 この旅行記は下記の目次に従って紹介してゆきますが、予定から若干の変更があるかもしれません。 ご了解をお願いいたします。
 
目次(予定)
 
第一章、バンコクから国境の街・ノーン・カーイへ
                     1.マイ・ペンライな列車  2.ゴートゥー・ボーダー!
第二章、メコンを渡ってヴィエンチャンへ
                     1.何だコリャ?簡単オンアライバル・ビザ  2.これが首都?ヴィエンチャン
第三章、ヴィエンチャンの夜は熱かった
                     1.ビアラオ・ウイズ・N君  2.ビアラオ・ウイズ・日本人バックパッカ-
第四章、ヴィエンチャン〜ワンヴィエン
                     1.63才バックパッカ-  2.ワンヴィエンリゾート  3.タビソックGHのタビソック?
                     4.旅行作家・岡崎大五氏との遭遇  5.タイヤチューブボート遊び
                     6.父娘バックパッカ-を交えての夕食
第五章、ワンヴィエン〜世界遺産の街・ルアンパバーン
                     1.さよならタビソック  2.ファッキン・クレイジーロード  3.意地っ張り
                     4.F嬢ごめんなさい  5.体調悪化  6.セクシーK
                     7.最悪の体調  8. O君お元気で!
第六章、さよならルアンパバーン
                     1.ラオス航空プロペラ機  2.情熱青年ニコン君  3.8日ぶりのヴィエンチャン
第七章、帰路
                     1.彼女との2人旅  2.時間よとまれ  3.1等寝台車
                     4.さよなら彼女  5.バンコクは鬼門だった? 6.けだるいカオサンロード



1.マイ・ペンライな列車  その1

  これまでラオスを訪れた回数は二十回を超え、数々の出会い、アクシデント、そしてある時は地元の子供たちに命を救われたこともあり、さらに2015年には髪と眉をある寺院の僧侶に剃ってもらい、ますますこの国の虜(とりこ)となっていく僕です。

 この物語は中国に侵食される前のラオスを振り返りながら、この国の素晴らしさを感じてもらえたらという気持ちで、過去にメールマガジンなどで配信した内容を加筆・修正しながら進めてまいります。

 よろしくお願いします。


    第一章 2001年 春
    
        一

 2001年4月27日金曜日の午前10時、関西国際空港の出発ロビーに僕はいた。 

 昨日まで溜まっていた仕事を何とか必死でこなし、予定通りに旅に出ることが出来た。

 僕の仕事は探偵である。

 探偵といってもその担当は何種類かあるが、中年と呼ばれる年齢になって以来、年々体力的な衰えを感じる僕は、尾行調査にはめったに出動しない。

 基本は結婚調査や企業調査、家出人捜索や所在不明になった人物調査など、いわゆる内偵部門を担当しているわけである。

 相変わらず世の中にはおかしな事件が多いが、世相は直接我々の調査業界にも反映されてくる。 
 このところ目立って多いのが、ネットで知り合った男女関係のトラブルなどに関する調査依頼である。

 バーチャルな出会いから騙し騙される男女の人間模様。
 相手の素性や自宅も知らず、携帯電話番号とメールアドレスだけを知るだけで肉体を重ねる男女。
 そこからトラブルになるのは当然といえば当然で、時には金銭問題も絡んでくる。

 【本当にうんざりな世の中だなぁ】

 仕事から解放された満足感で自然と口元がほころんでくるのを感じながら、ゴールデンウイーク前の大勢の海外旅行者達に混ざって出発を待っていた。

 目的地はタイのバンコクからラオス人民民主共和国。
 去年僕をベトナムに導いてくれたあの人が、ベトナム入国の前に約1ヶ月間旅した山岳国である。

 この国のことはあまり知らない人が多く、書店でも“地球の歩き方”で紹介されている程度だが、僕はこの数ヶ月間、ネットで多くの旅行記や情報を手に入れていた。

 しかし旅は何が起こるか分からないから、こんな情報は参考程度だ。

 10:30分発のシンガポール航空バンコク行きはほぼ満席だった。

 僕は各席に設けられているTVにも興味を示さずに、機内食時間以外はずっと綺麗なスチュワーデスさんを眺めていた。

 シンガポール航空のスチュワーデスの制服はどうしてこんなにセクシーなんだろう。
 それとも制服のせいじゃなくスチュワーデスさんが皆スタイルの良い女性ばかりなのか?

 などと考えていると、あっという間にバンコク・ドムアン空港に着いた。 
 バンコクとは時差が2時間なので、到着現地時刻は午後2時過ぎだった。

 ドムアン空港は関空と比べても見劣らないほど巨大で、空港内施設の所在も分かりやすく、ここからアジア各国にルートがあり、玄関口という表現がピッタリである。(当時はまだスワンナプーム空港はありません)

 入国手続きを終えて外に出ると、急いで鉄道駅に向かって歩いた。
 気温は既に35度を超えており、重いバックパックを背負った背中からみるみる汗が流れ始めた。

 ドムアン駅はこれが空港駅とは思えないくらい殺風景な駅で、道端にドカーンと駅が設置されたという感じだ。
 
 階段を下ってホームに下りるとちょうど列車が到着するところだった。

 僕は急いでチケット売り場に走り、ホアランポーン駅までの切符を購入し(10B(バーツ)、当時1Bは2.7円程度)、3等車両に飛び乗った。 

 扇風機だけがカラコロと気だるく回っている列車内はほぼ満員で、汗でビッショリになった怪しげな中年日本人の突然の登場に、乗客は驚いた顔でこちらを見ていたが、その顔は次第に微笑みに変わったように思えた。

 何しろ「微笑みの国タイ」だから、そんなふうに感じてしまうのかも知れない。

 僕は流れる汗を拭うこともせず、バックパックを降ろして突っ立ったまま窓の外の景色を眺めた。



1.マイ・ペンライな列車  その2

 バンコク中央駅であるホアランポーン駅が近づいてくると、窓からの線路沿いの風景は、概して粗末な木造住居が並んで見えた。

 線路のすぐ近くに細い水路が流れていて、その向こうの家々の様子が手に取るように見えた。

 大人も子供も上半身裸のまま過ごしており、それはまるでスローモーションのような動きに見え、これが人口600万もの大都市なのかと不思議に思うのであった。

 勿論、都会でも表通りの賑やかな街並みや、高層ビルなどが建ち並んだビジネス街から少し裏通りに入ると、そこには崩れかけた住居に精神までもが堕落してしまいそうな貧民窟があるということは、どこの国でも決して珍しくはないかも知れないが、この時は不思議な光景に感じた。

 前年、ベトナム帰りにバンコクに一日だけ立ち寄った時は、空港からタクシーでワット・ポーまで移動し、そこからカオサンロードまではトゥクトゥクで行き、さらに空港に戻るのにもタクシーを利用したので、このようないわゆる貧しい光景を見ることもなかったのだ。


 列車はいくつかの駅に停まりながら、ドムアン空港駅から一時間近くもかけて終点のホアランポーン駅に到着した。

 はじめて見るホアランポーン駅は正面から見ると蒲鉾の断面みたいで、おかしな建築物だと思ったが、駅構内はかなり広く、コンコースはちょうど東京の上野駅の中央改札口を出たあたりに似ていると思った。

 駅舎は2階建で改札口は正面一ヶ所だけだが、構内には中央のコンコースを囲んで一階にも二階にも飲食店やコンビニ、旅行社やネットカフェなどがあり、大勢の人で溢れていた。

 僕は改札から出てすぐに鉄道案内所に駆け込み、「今夜の列車のチケット売り場はどこですか?」と問いかけた。

 案内所の窓口職員は改札口の並びを指さした。
 さっき改札口を出てから振り返っていれば気づいていた場所に、この駅から各方面へのチケット発売窓口が並んでいたのだ。

 タイはここからチェンマイへの北部線と、ナコンラチャシーマーから分岐してラオスとの国境の町・ノンカイへの東北部線とウポンラチャターニーへの路線、さらにカンボジア国境の町・アランヤプラテートへの東部線、そしてハジャイへの南部線と、ホアランポーン駅が起点となっている。

 早速、今夜発のノンカイ行き列車のチケットを購入するために窓口に並んだ。

 今日の夜行列車に乗るのと、明日の早朝発の列車に乗るのとでは、ほぼ1日先に進むのが遅くなる。
 目的はラオスなので、バンコクに泊まることは考えていなかった。

 窓口で訊くと、ホアランポーンからラオスとの国境の町・ノンカイへの夜行列車は19:00発の快速と20:30発の急行があり、翌日の早朝便は6:15発の快速がある。
 所要時間はいずれも約12時間である。

 「今夜の19時発、ノンカイまで一枚お願いします」と、僕は堰を切ったような勢いで窓口の駅員に頼りない英語で叫んだ。

 慌てなくとも十分買えるのに、自然と焦ってしまう自分をおかしく思った。

 駅員はパソコンのキーボードをカチャカチャっと叩いて、「19時の列車はfullでっせ!残念でしたな。けど、20時半のならありまっせ」と無機質な話し方で言った。

「じゃあ、2等エアコン寝台をお願いします」と丁寧な英語で懇願するとその駅員は、「エヘへ、エアコン寝台は売切れだがや」と憎たらしい口調で言うのだ。

 僕はもう全身がシャワーを浴びたようになっていたので、この際1等寝台(2人個室、勿論エアコン付、1017バーツ、この時のレートで約3000円)でもいいやと思って、「それじゃあ1等は?」と恐る恐る訊いてみると「full!」とまたもやそっけない返事だった。

 どこが微笑みと安らぎの国なんだ?(笑)

 まあいいや、今回の旅は前回と違って思いっきり節約旅行にするのだからと、結局2等寝台車(ファンが天井近くで回っている)のチケットを購入し(428B)、ヤレヤレな気持ちで窓口を離れ、バックパックを預けるため手荷物預かり所を探した。

1.マイ・ペンライな列車  その3

 バックパックの中にある「地球の歩き方」にはホアランポーン駅のガイドが掲載されているのだが、面倒なのでパン屋の前にある駅案内所(簡単なカウンターが置かれており、担当者が2、3人いた)に行き、「バゲージを預かってくれるところはどこでっか?」と訊いた。

 するとナイナイの岡村にそっくりな担当者がこっちについて来いという感じで、親切に手荷物預かり所が見える辺りまで僕を導いてくれて、「あそこに見えるでしょ」と微笑んで教えてくれた。

 人並みを掻き分けて、バス乗り場の向こうにある手荷物預かり所にバックパックを預け(10B)、さて時刻はまだ午後4時半頃だが、あと4時間近くをどうしようかと考えた。

 バンコクに何度も来ている人なら、近くのチャイナタウンにでも出て市場を覗いたり、屋台で食事をしたるするのだろうが、このときの僕は何しろ2度目だし、意外に慎重な性格なので今回は構内で時間を潰すことにした。

 先ほどの鉄道案内所の隣にはクーポン食堂というのがあり、30Bを支払って色違いのチケットを2枚購入、中に入って行った。
 店内は4人がけのテーブルが30脚以上はあると思われ、大食堂という感じであった。

 奥に進むと、10数種類の四角い大きなトレーにカレーのようなものやシチューのようなものが並べられていて、デップリ太った女性が、「どれにするんね?」といった感じで訊いてきた。

 適当に2種類の鍋を指差すと、ちょっと大き目の皿にご飯を入れ、その上に僕がリクエストした2種類の料理をのせてくれるのであった。
 これが話によく聞く「ぶっかけメシ」なんだと思った。

 クーポン券はこの料理だけで無くなってしまったので、近くの適当なテーブルに料理を置いてから、入り口近くにある飲み物売り場でシンハビールの大ビンを1本買った。(50Bくらいだったかな)

 ようやく僕は椅子にドッカリと腰をおろし、旅の最初のビールを飲み始めた。

 クーポン食堂でタイのシンハビールの大瓶をラッパ飲みしながらぶっかけメシを食べていると、ようやく少し落ち着いてきた。

 夕飯にはまだ少し時間が早いので食堂内は空席が多かったが、それでも僕がいた1時間程の間に、周辺のテーブルには何組かの客が食事をして出て行った。

 御飯にぶっかけてもらったのは、一つは野菜カレーのようなもので、もう一つは何だか分からないが、ともかくチキンが入っている猛烈辛いものだった。

 これにビールを飲むとますます口の中がヒリヒリ状態になってしまい、これがタイの基本的な味なのかなぁと妙に納得しながら食べ続けた。

 シンハビールでちょっと気分がよくなり、フラッとした足取りでニヤニヤしながら食堂を出て、鉄道案内所の裏側にある有料トイレに入った。

 ここは入り口に中年女性が2人座っていて、トイレなら3バーツ8円ほど(だったように思う)、となりのシャワー室を利用するには10Bを支払うのである。

 やはりアジアでは公共施設でトイレを使用する場合は有料なのだ。

 そういえば、前年のベトナム旅行では、ハノイ駅のトイレ使用料が確か500ドン程(約4円)支払った記憶があった。
(このあとノンカイ駅やラオスでは寺院のトイレを使用した際も僅かではあるがお金を支払った)


 トイレから出て、2階にあるインターネットカフェに入った。

 店内にはパソコンが十台ほど設置されていて、僕が入るとすぐに若い女性が顔に笑みを浮かべ、なにやら話しながら近づいてきた。  
 しかしタイ語なのでさっぱり分からなかった。

「ジャパニーズ、OK?」と訊くと、彼女は一台のパソコンを指差し、椅子を引いて親切に僕を座らせてくれた。

 ネットカフェは前年ベトナムを訪問した際もハノイ市内にはたくさん見かけたし、ゲストハウスには大抵パソコンが設置されていて、ベトナム北部のサ・パのような田舎街でもゲストハウスにはパソコンが置かれていた。

 海外でhotmailなどを使ってメールをチェックできることは知っていたが、前年のベトナム旅行中はすべてが驚嘆・戸惑いの連続と言っても過言でなかったため、心の余裕がなくて実際使ったことがなかったのだった。

 しかし今回は何でも自分でしなくてはいけないし、何でもやってみようという意思があったので、些細なことだがネットカフェで自分のホームページやメールをチェックしてみたのである。

 嬉しいことに、僕のホームページのURLを入れてみるとトップページが出てきて、「お元気ですか〜?」と僕に問いかけるのであった。(当たり前のことだけど、このころは妙な感覚でした)

 僕はますます嬉しくなってしまい、せっかくだから自分の掲示板に日本語でカキコしたあと、ニヤニヤしながらさっきの店の女性に、「これ、僕のホームページなんだよ」とパソコン画面を指差して言った。

 でも、彼女は相変わらず素敵な微笑をこちらに向けているだけで、何のことか分かっていない様子であった。

 15分程使っただけで40B程(当時のレートで120円弱)支払った記憶があり、ちょっと高いかなと思ったが、やはり大都市だし日本語変換が可能だったからかも知れない。

 この先、ノンカイやラオスのヴィエンチャン、バンヴィエン、ルアンパバーンと訪れた先でネットカフェに入ったが、日本語変換は無理だった。 

 ネットカフェを出てから同じ二階にあるオープンカフェで一リットル入りのミネラルウオーターを購入し(12B)、長椅子に座ってリラックスしながら階下に見えるコンコースの様子を眺めた。

 ペットボトルの口をギュッと回して冷たい水を喉に流し込んでいると、突然 「ボワアーーン」とラッパのような金属音が鳴り響いた。

 続いて「ピッピッピ・・・」と秒を刻む音が聞こえたと思うと、コンコースの大勢の人々がスックと立ち上がり、改札口の真上に飾られているタイの国王の肖像画に向かって直立不動状態をとっていた。

 周りにいた欧米人や現地の人達もいつのまにか起立しており、これが噂に聞く午後6時の儀式なのかと思って、僕も遅れずに立ち上がり、肖像画の方を向いた。

 ここでのろのろしていると警察官が飛んできてその場で銃殺されると聞いていたから、必死に立ち上がったのだった。(かなりオーバーだけど、立たないと、時には棍棒で叩かれることもあるらしい)

 午後6時を告げる音とともに今度は勇壮なメロディーが駅構内に響き渡った。
 タイの国歌である。

 二分間ほど国歌は流れ、その間人々は駅の大きな改札口の上部に掲げられた国王の肖像を直視したまま、ジッと神妙な顔をしていた。 

 ようやく国歌が終わり、人々が着席して元のざわめきに戻ったが、僕はシンハビールの酔いがすっかり覚めてしまった。

 まだ列車の時刻まで2時間以上もあるので、仕方なく「地球の歩き方」と村上春樹の「国境の南、太陽の西」という小説を読んで時間をつぶしたのであった。

1.マイ・ペンライな列車  その4

 しばらくホアランポーン駅構内の二階のカフェで時間潰しに本を読んでいたが、暑くて読書どころではなく、又、何も列車の待ち時間だからといって本を読むこともないではないかと思って駅の外に出た。

 外から見るホアランポーン駅は本当に面白い形をしている。

 僕はカマボコ型をした駅の正面写真を何枚か撮って、さて近くをぶらぶらしようとラーマ4世通りを少し西に歩き始めた。

 ここを真直ぐに行くとチャイナタウンで、市場や屋台などの飲食店が狭い通りに軒を並べているらしい。

 あまり遠くには行けないが、様々な商店を眺めながら歩いていると後ろから、「ホテルをお探しですか?」と明らかに女性のたどたどしい日本語で声をかけられ、振り向くとやはり女性だった。

 その女性はイエローのTシャツに薄茶の短パン姿で、女優の賀来千香子に似た美人だった。

「いえ、ホテルを探しているのではないんです。今夜の列車でノンカイに行くのです」と言うと、「それではラオスに行くのですか?」と、今度はブロークンな英語で訊いてきた。

「そうです」と僕は返事した。

「それではビザは持っていますか?持っていないのなら二千バーツでダイジョブです。私に任せてください」

 すごく美人だし、千五百バーツ以下なら彼女に任せてみてもいいかなと一瞬思ったが、今回はラオスのイミグレーションでアライバルビザを自分で取得するということが旅の目的の一つでもあったので断った。
(このころはまだラオスへの陸路旅行者は少なかったから、ビザ情報も不明確だった)

 賀来千香子に少し後ろ髪をひかれながらも、「親切にありがとう。大丈夫です」と彼女にさよならを言ってその場を離れた。

 このようにバンコクでは旅行者に対して気さくに声をかけてくれるが、その殆どが商売がらみであり、中には嘘つきも結構多いので、相手がアッと驚くような美女であっても決して油断してはいけない。

 そのあと僕は数十分だけ駅の周りをブラブラしてから戻り、一階のコンコースのベンチに腰をかけ、周りの人々の様子を眺めた。

 オレンジ色の袈裟を纏った僧侶のグループがいる。大きな紙袋を持った老婆がベンチに寝転んでいる。
 アイスクリームを食べながら楽しそうにお喋りをしている若いタイ人女性達。

 背中のバックパックにトレッキングシューズをぶら下げて闊歩して行く逞しい欧米人女性バックパッカー。
 ゴミをむやみに捨てたら飛んできてこん棒で叩かれそうな、厳しい顔をした警官。

 日本人らしき人はいないが、見かけたと思ったら若いカップルで、身なりもバックパッカーではなさそうなので、おそらく新婚旅行か何かに違いない。 

 改札口周辺は到着した客や出発の客で少しも落ち着く様子はなく、いつまでも騒音に似た響きが駅構内にこだましていた。

 一時間近くもベンチに佇んで周りの人を眺めていたが、それはなかなか興味深く感じ取ることができて、バンコクに到着してからまだ五時間ほどしか経っていないのに、少しばかり気持ちに余裕が生まれたような気がした。


 午後七時半を過ぎたので、手荷物預かり所に行ってバックパックを受け取り、少し時間が早いが改札を通ってノンカイ方面のプラットホームに向かった。

 二十時三十分発だから二十時ごろには列車が到着しているだろうと思ったからである。

 ノンカイ方面は東北線のプラットホームなので、ホームの中ほどにある売店でペプシを買ってバックパックを降ろしてベンチに座った。

 ホームには紺色の薄汚れた列車が止まっていたが、車両にはアランヤプラテート行と書かれていたので、この列車ではないというのは分かった。

 午後八時を過ぎるとホームには次第に客が溢れてきて、いよいよ出発が近づいてきたことに少しワクワクしてきた。

 去年の夏に、僕を初めてバックパッカーとしての旅に導いてくれたあの人は、やはりバンコクからノンカイまでをこの時刻の列車に乗ったとメールが届いていた。

 彼女はエアコン寝台車に乗ったのかな、それともファンの寝台車だったのかな。
 そのことについては訊かなかったし、彼女も言わなかった。

 世界を旅するあの人だけに、絶対に一等寝台なんかに乗るはずはないだろうけど、三等の硬座席にはいくら彼女が徹底した経済旅行者といっても、おそらく乗らないと思うから、きっとファンの寝台車に違いないと思った。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、いつのまにか時刻は午後八時時半を過ぎてしまった。
 列車の出発時刻は過ぎている。

 いったいどうしたっていうのだ?

1.マイ・ペンライな列車  その5

 午後9時半近くになってようやくノーン・カーイ行きの列車がホームにゆっくりと滑り込んできた。

 しばらくリネンサービスの人達が慌しく寝台車のシーツなどを運び込み、いよいよ乗車許可が下りたようでゾロゾロと乗り始めた。

 僕は2等ファン寝台車の上段だったが、まだベッドは作られておらず、重いザックを席の前に設置されている荷物置場に降ろして、下段の人と向かい合わせになった席に腰をおろした。

 窓から見えるホームは、これから約10時間の旅のためにキヨスクで飲み物を買う人や、見送りの人など大勢の人が行き交っており、ザワザワと人の声が絶えない。

 結局定刻より1時間余り遅れて列車は出発した。

 なかなか僕の下段の人が来ないので、若い女性だったらいいのにという願いも空しく、列車が動き出して数分後に僕の前の席にドッカと座ったのは、かなりの年令のタイ人男性だった。

 しばらく列車はあまりスピードを出さずに走り、僕は開け放された窓からすっかり暗くなったバンコクの街並みを眺めていた。 通路を挟んで向かい側の席には、タイ人と思われるお母さんと息子との親子が座っていた。 息子は中学生くらいだろうか、僕と視線が合うと恥ずかしそうに微笑み、好感が持てた。 この列車でお母さんの故郷に帰るのだろうか、仲の良い母子を見ていると離れて暮らしている自分の息子と投影してしまう。

 デップリ太った女性が飲み物を売りに回ってきたので、ミネラルウオーターとジュースを買って飲んでいたら、ガッチリした体躯の乗務員がベッドメイクに来た。

 僕とタイ人のおじさんは立ち上がってベッドメイクの様子を眺めていると、ガシャーン、ガチャガチャ、パッパッと、あっという間に出来上がり、綺麗なシーツが敷かれていた。

 僕はザックを荷物置場の上段に上げて、サンダルを脱いで横になった。 天井までは60cm程だろうかやっと座れるくらいの距離で、目の前には天井に取り付けられた扇風機が忙しく回っていた。

 それにしても暑い。 横は壁だし反対側を向くと扇風機が回っているが、列車内の熱気を掻き回しているだけで、風は熱風に近く、みるみるうちに汗が滴り落ちてくる。 下段ならまだ窓から風が入ってくるので多少は凌ぎやすいだろうが、上段では汗でベトベトになりながら寝なければいけないので、痩せたい人にとっては打ってつけだ。

 汗でベトベトになって寝台列車に寝る? どこかで経験したことがあるぞ。 そうだ、去年のベトナム旅行でハノイ〜ラオ・カイ間の情熱・激烈・灼熱コンパートメントだったのだ。

 あの時は板にゴザを敷いただけのベッドで、汗で背中とゴザがヌルヌルになりながら寝たものだ。 それでも不快感は全くなかった。 長年体に染み付いて取り除けなかった灰汁(アク)が、汗とともに一気に対外に排出されたような感覚があったからだった。

 僕はそんなことを考えながらやはり疲れていたのか、知らない間に眠ってしまい、途中一度も目が覚めることがなかった。

 朝食を運ぶ乗務員の足音で目が覚めて下に降りると、窓の外には田園風景が広がっていた。 連結部分まで行き、外を眺めると雲一つない青空がどこまでも続いており、広大な原野は、今は農閑期なのかライスフィールドではなく、赤茶けた雑草が映え茂っていた。

 この青空は僕の旅を祝福してくれているような気になった。

 僕はとても気分がよく、口笛でも吹きたい気持ちになった。

 所々に溜池があり、水牛が早朝から水浴びをしている。 のどかな風景だ。 列車はしばらくこのような原野を貫いて走り、人の姿は全く見かけない。

 僕は連結部分の向こうにあるリネン置場に座って、ぼんやりと景色を見続けていたら、少し風景が変わってきて、自転車やバイクに乗る人が見え始め、田園の向こうには高床式の住居が点在しているのが窺えた。

 時刻は何時ごろだろうか? 僕は旅に出ているというのに時計を持っていないのだった。 時計を持つと何故か縛られているような気分になり、落ち着かないのである。 おそらく午前9時頃ではないかと思うのだが、やがて小さな街並みが見え、さらに商店やビルなども所々に見え始めたと思ったら列車はウドンタニー駅に到着した。

 駅は比較的大きく、窓から見える風景はどこかゴチャゴチャしているが、大勢の出迎えの人や乗降客でごった返していた。 ここで降りる乗客もたくさんいて、前の母子もこの駅で降りて行った。

 次の駅が終点のノーン・カーイだ。

 いよいよ今日はメコン川の国境を渡って、ラオス人民民主共和国の首都・ヴィエンチャンに突撃するのだ。

 (ワクワクした気分と少しの不安な気持ちとが入り混じったおかしな精神状態だ)

 

つづく・・・

Writer:Hiroshi Fujii 
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