突撃!アンコールワット・やっぱり年末年始は日本で過ごすべきかも編


 2007年1月のヴィエンチャン


 この時は三度目の訪問になるヴィエンチャン、前回は2002年5月だったから約五年ぶりとなる。

 市街地に入ると道路が以前より綺麗に整備されていて、タラートサオ(モーニングマーケット)の近くの信号機以外にも数ヶ所信号が増えていた。

 トゥクトゥクを降りた埼玉青年と僕はナンプ広場の方へ歩き始めた。タラートサオからは徒歩十分あまり、重いバックパックを背負って歩く。

 2002年の1月に改修されたこのナンプ広場は、市民の憩いの場というだけでなく、周辺にゲストハウスやレストラン、ネットカフェなどが多くあり、旅行者にとっては目印となる。(しかし、2002年に訪れた時は、まだ改修工
 事中だったように記憶するのだが)

 アメリカ大使館の前を通り、タートダムという周辺に不似合いな仏塔に突き当たる。実は数日前にあるゲストハウスへ予約メールを送っていたのだ。ただ、了解の返信メールは届いていなかった。

 「僕はチャンターゲストハウスというところに一応予約メールを送っているのでそこを訪ねますが、君はどこか決めた宿はありますか?」

 埼玉青年に聞くと、彼は「RDゲストハウスに泊まろうと思います」と言う。RDゲストハウスは2002年に二泊したドミトリー形式の宿である。

 当時の旅行記の部分は⇒ http://perorin.sakura.ne.jp/syakunetu8.htm#kankoku 

 韓国人が経営するこの宿は当時2ドルだったが、この年は3ドルになっていたことをあとで知ることになる。(お楽しみに)

 「それじゃあ、気をつけて」と埼玉青年と別れて、予定通りチャンターゲストハウスを訪ねた。ここはJVC(日本国際ボランティアセンター)の関係者が運営しているとのことだ。

 チャンターゲストハウス ⇒ http://www7a.biglobe.ne.jp/~tnrs/index.htm
 
 日本でいう「しもた屋風建物」のようなチャンターゲストハウスは、木造三階建てのかなり年季の入った建物だった。1階にフロントとレストランがあり、現在ゲストハウスを仕切っているのがレストランの調理師さんでもある日本人のSさんだ。

 「すみません、一昨日予約メールを送った藤井といいますが、部屋は空いていますか?」

 正月に普通なら部屋が簡単に空いているはずはない。メールが届いていたら良いのだが。

 「はい、メールはいただいています。ただ、文字化けしていたので、予約依頼は分かったのですが、お名前などが不明でしたので返信をしなかったのです。でも部屋は空けていますよ」

 Sさんはニコニコして言った。もし空いていなかったら埼玉青年が向かったRDゲストハウスを訪ねてみようと思っていたが、ひと安心だ。

 部屋は二階のダブル、エアコンとTV付きで、トイレとシャワーは共同だが、これで8ドル。少し高いかもしれないが、日本人の経営する宿として何かと便利だ。

 スタッフはラオス人の若者が3人ほどと、女性が二人(年齢不詳、若くも見えるしオバちゃんにも見えました)で、隣のレストランも同じスタッフで営業されている。バックパックを降ろして熱いシャワーを浴びてから、おなかが空いたので早速レストランを覗いた。

 時刻はまだ11時前だが、朝から何も食べていない。メニューを見ると、カツカレーやお好み焼きなんていうのもあるから驚いた。カツカレーと、この時刻に不謹慎だがビアラオの大瓶を注文した。

 この時期ラオスは暑くはないが、気温は昼間だと20度をかなり超えるのでビールが美味しい。ビアラオの喉越しは変わっておらず(当たり前だが)、自然と顔もゆるむ。(笑)


 2007年の1月のヴィエンチャン その二


 元旦のヴィエンチャンは学校や官公庁はもちろん休みだが、明日から平常どおり動くらしい。日本のように正月三が日なんて風習はなく、二日から銀行もお役所も業務を行うとのことだ。

 チャンターゲストハウスのレストランでカツカレーを食べてビアラオを飲んだあと、調理師兼GHの責任者のSさんに店の書棚にある本を1冊借りて部屋で休んだ。

 ベッドにゴロンと横になり借りた本を何気なく読み始めた。タイトルは「カフェビエンチャン大作戦」、著者は黒田信一さん。

 黒田信一さんは著者経歴を読むと、北海道で映画館を営業したり、その顛末を本にまとめて出版したことを始めに、これまで十作品近くの著書があるようだ。

 この「カフェビエンチャン大作戦」は、黒田さんが日本を離れて、ここビエンチャンでカフェ、つまり居酒屋を自力で開業するぞ!っという、これまたいわ
 ば「顛末記」である。

 本を読みながらウトウトしてそのまま昼寝をしてしまおうと思っていたのだが、「カフェビエンチャン大作戦」の内容が面白くてドンドン引き込まれる。気がつけば窓の外は陽が落ちそうになっていた。

 慌てていったん本を読むのをやめて外に出た。どこへ行くかというと、もちろんメコン川の夕陽を見に行くのだ。初日の出が落ちるその光景を見に。

 乾季のこの時期、雨はあまり降らずよい天気だが、メコン川へ行くと既に陽は沈んでしまっていた。「カフェビエンチャン大作戦」に随分没頭してしまったようだ。

 仕方なく「カオピャック」(讃岐うどん風フォー)でも食べようとナンプ広場の少し北側にある店に入った。ここの「カオピャック」は2002年に来た時に、ノンカイで知り合って数日ご一緒していただいたR子さんが、あまりの美味しさにスープまですべて飲み干したくらいだ。

 当時の旅行記⇒ http://perorin.sakura.ne.jp/syakunetu4.htm#kaopya 


 期待を裏切らず、この時のカオピャックも麺がしっかりとしていて美味しかった。ビアラオの小瓶もついでに飲んだ。

 さて、ヴィエンチャンでは夜遊びは期待できない。もちろんそういう類の店はないことはないだろうが、表向き見当たらないし、いわゆる「歓楽街」のようなものがないのだ。

 読みかけの「カフェビエンチャン大作戦」の続きを早く読みたいこともあって、ネットカフェに立ち寄ったあと、ヨーグルトだけ買って宿に戻った。

 結局、元旦は「カフェビエンチャン大作戦」に没頭して終わった。深夜の二時過ぎに読み終えた。

 翌朝はメインストリートの並びにあるフランスパンサンドイッチ屋に入った。ハーフサイズにハムやチーズや香草やその他イロイロ挟んでもらって7000Kip(90円くらい?)、ラオコーヒーが5000Kipの朝食だ。

 これまで二度のラオス旅行記でうるさいくらいに書いているが、ラオスの「フランスパンサンドイッチ」は最高です。これを食べるためにラオスに来てもよいくらい。

 程よくあぶられたフランスパンに新鮮な野菜やチーズにハム、トマトなどなど、チリをかけてもらって暖かいうちにかぶりつく。パリ!っという食感がまたいい。

 宿に戻るとご主人のSさんがいたので、「カフェビエンチャン大作戦を読み終えました。本当に開業したのですね」と言うと、「昨夜はお休みでしたが、今夜は店を開けると思いますよ。私も店が終われば行く予定です」と言うのだ。

 黒田さんはヴィエンチャンにいたのだった。


 2007年の1月のヴィエンチャン その三


 2007年一月二日、僕はラオスの首都・ビエンチャンに滞在、午後少し昼寝をした後、ラオスのかくれ名物である薬草サウナに出かけた。

 過去二回訪れた薬草サウナはトゥクトゥクに乗って十数分かかるお寺の中のサウナだったが、なんのことはない、チャンターGHから歩いて五分もかからない所にあった。

 ここは今年2008年の一月にも訪れたのだが、確か7000Kipだったように記憶する。いちいち憶えていないところが僕らしいが、つまり日本円で100円もしない。そして時間制限もない。

 当然、日本のサウナのように近代的な設備があるわけではない。どう説明すればよいのだろう。

 受付というか風呂屋の番台風のところで料金を支払い、ロッカーキーを受け取る。ロッカーは木製で比較的大きなスペースがある。更衣室はもちろん男女別、あっさり着替えて衣類と貴重品をロッカーへ入れて、高床式の小屋に入る。

 ボイラーなどなく、小屋の下に釜があり、どういう仕掛けになっているのか、大きな木材をどんどんくべている。おそらく薬草を入れた蒸気釜で、小屋の中にその蒸気を吹き上げているのだろう。

 ここのサウナ小屋は男女別で、ちょっと残念だが、中は蒸気で隣の人の顔も見えないくらい。小さな窓からの光だけが頼りだ。(前回はR子さんと肌が触れ合いそうになり、興奮の薬草サウナだったが)

 2002年の興奮薬草サウナ ↓

 http://perorin.sakura.ne.jp/syakunetu5.htm 


 モウモウと濃厚な薬草蒸気につつまれていると、汗が出ているのか蒸気で肌が濡れているだけなのか、さっぱり見当がつかないが、ともかく気持ちが良いことに変わりはない。七、八分入っては外に出て、階下にある冷たい水槽の水を頭からかぶる。

 長椅子に腰をかけて用意されているお茶をグビリと飲んで少し休憩し、さらに入るということを5回程度繰り返すと、心身ともにすっかりリフレッシュされた気分になる。

 地元のラオスの若者や欧米人旅行者が多いが、見たことのある日本人がいると思ったら、なんと国境で知り合った埼玉青年だった。

 「こんにちは、やはりここに来ましたね」

 「大体、旅行者の行くところは同じですからね」

 彼とはこのあともネットカフェで顔を合わすことになり、今夜「カフェビエンチャン」という店に行くから一緒にどうかと誘ったら、行ってみますというので大体の場所を教えた。(結局、場所が分からなかったようだが)

 埼玉青年と「じゃあ」と別れてさらに薬草サウナに入る。次に、僕より少し年配の日本人男性と知り合った。京都から来られた、専門学校で物理を教えているという男性。

 「いやぁ、ラオスへ一度来てみたかったのですよ。のんびりしていて良いですなぁ」

 長髪の野性的なこの男性は、結局名前を聞くのも忘れたのだが、年に一度か二度だけ、毎回5日間程度の超短期であちこち旅行しているという。

 57歳とのことだが、とても若く見え、これまで独身。京都では母上と二人暮しだとか。

 「メコンを見ながらビアラオを飲みましょう!」と彼の提案で、薬草サウナを出てから、ちょうど夕刻ということもあって、そのままメコン川の川べりの桟敷へ繰り出した。

 名前も知らないお互い一人旅同士が、はるかラオスでメコン川を眺めながらビアラオを飲む。至福のひと時であった。

 彼は明日の飛行機でビエンチャン空港からバンコク経由で一気に関空まで帰るのだとか。それじゃ、縁があればまたどこかでお会いするでしょう、と別れた。

 さて、暗くなっていよいよ「カフェビエンチャン」を訪れた。


 2007年の1月のヴィエンチャン その四


 「カフェビエンチャン」は長屋風建物の並びにあった。隣がネットカフェ、反対側の隣は何屋さんか忘れた。

 入り口にともすれば見逃しそうな小さな文字で「Cafe ビエンチャン」と書かれているだけで、大きな看板があるわけではない。玉すだれが一枚タラリと垂れていて、外から店の中が殆ど見えた。

 1月2日ということもあってか、客は一人もいない。四人掛けのテーブルが三つ四つ、六人程度が座れる長いテーブルが中央に一つ、といったレイアウトで、壁には小さなカウンターがあって、本が数冊置かれていた。無造作なつくりだが、洒落た印象。

 結構余裕のあるスペースで、さらに奥に厨房があると見受けられたが、中に入っていくわけにいかず、僕は窓際のテーブル席に腰をおろして「こんばんわぁ〜」と大声で言った。数秒後、よく日焼けした顔の黒田さんが現れた。

 本に書かれていたプロフィールでは、僕より一歳年下だが、フサフサとした長髪で随分と若く見えた。ギタリストの伊藤銀次さんに似た顔つき。そんな風貌の黒田さんだった。

 「いらっしゃい、今年は今日から一応開けました。牛筋の煮込みはお奨めです」

 それほどお腹が空いていなかった僕は、黒田さんが奨めた牛筋煮込みとビアラオを注文した。しばらくしてキンキン冷えたビアラオをグラスに注いでくれる黒田さん。

 「カフェビエンチャン大作戦、読みました。すごいですね!」

 「あっ、Sさんのレストランにあった本ですね。読まれましたか」(前号までチャンターGHの支配人兼レストランのマスターはHさんと書いたと思いますが、S野さんが正しいです)

 僕は黒田さんにもビアラオを勧めて、グラスに注いだ。

 「しかしすごいですね。建物の修理から内装、厨房まですべてご自身でやられたのですよね」

 黒田さんはニヤニヤして、確かにいろいろ大変だったようだが、「ビエンチャンに居酒屋を」という達成感があったのは間違いないようだった。ビエンチャンは旅行者が年々増えているが、僕の印象では日本人旅行者は年々減っている。(日本の若者が旅に出なくなったんだね)

 従って、日本人向けではなく、欧米人の好みを考えた店にすれば繁盛すると思うが、黒田さんには黒田さんのポリシーがお持ちだろうから、それは分からない。

 黒田さんお奨めの牛筋煮込みは絶品、さすが「アジアバカうまレシピ(情報センター出版局)」などを書かれただけはあると思った。

 一時間近く黒田さんとあれこれ話をしたが、やはり正月二日、お客さんは来ない。すると日本人の若い女性が二人訪ねて来た。どうやらビエンチャンで何か仕事をしていらっしゃるようだ。

 「藤井さん、よければ奥でみんなと一緒にやりませんか。S野さんもあとで来ますから」

 黒田さんの勧めに厚かましく簡単に応じてしまう僕なのだった。

 奥は厨房だけではなく、長いテーブルが置かれていて、どうやら現地滞在の日本人の方たちとワイワイやるスペースとして作ったようだ。ここで黒田さんの新作メニューなどを日本の人に試食してもらったりするのだとか。

 二人の女性は日本のNGO関係の人だったように記憶する。(あまり詳しく憶えていないが)・・・ジャイカ(Jica)のボランティアの人たちでした

 どちらも日本で見る若い日本女性とは異なり、お化粧や着飾りもほとんどしていないが、自信たっぷりの話しっぷりで、僕などは気後れしてしまう。

 さて、ビアラオを飲んでいろいろ話をしていたら、チャンターGHのS野さんや「ブルースカイ」というレストランを経営していらっしゃる日本男性、そしてさらに若い女性が二人現れた。

 S野さんが、年越し蕎麦を作るらしい。(すでに年は越しているが)
 賑やかで楽しい夜となった。


 2007年の1月のビエンチャン その五


 ラオスに来て蕎麦を食べられるとはまったくの想定外だった。(笑)

 チャンターGHのレストランを終えたS野さんがやってきた。年越し蕎麦を作るというのだが、熱い蕎麦ではなく、ざるソバにするという。みんなワクワクしながらビアラオを飲む。

 整理整頓された厨房である。黒田さんの几帳面な性格が窺えた。そばつゆも日本からのものを確保しているらしく、小さなコップが配られてつゆを入れてミネラルウオーターで薄める。さすがにネギはないが、大根おろしが用意されていた。

 茹で上がった蕎麦をS野さんが氷の入った大きなボールの中でゴシゴシと締める。笊でこしてお皿に入れて持ってきてくれた。たちまち皆の箸が狙う。

 「いやぁ、美味しいです。1月にざるソバを食べたのは生まれて初めてですね」

 僕が大げさに言う。

 「今回が初めてですよ。日本に帰っていた人から蕎麦をいただいたものですから」

 「来年から年末年始に蕎麦をメニューに入れたらいかがですか?」

 皆の話がはずむ。

 黒田さんは寡黙な印象を受けた。多くを語らず、語るときも少し低めのトーンでゆっくり話す。反して、日本語学校の先生をしているという女性たちは饒舌で、第三者的な存在の僕は気後れしてしまうのだった。

 さて、1月2日の夜も更けてお開きとなった。バイクで夜道を帰るというたくましい日本の女性たち。僕は黒田さんにお礼を述べてS野さんとGHまでゆっくり歩いて帰った。楽しい夜だった。

 翌1月3日は昼にチェックアウトする予定。

 朝起きて朝食を食べに出ようと一階に降りると、黒人男性が二人フロント前にいて、S野さんと言い争っていた。実は、前日からこの黒人は見かけたのだが、S野さんが言うには、宿代を一週間程度も払ってくれないのだとか。

 「催促すると一日分や二日分支払ってくれるのですが、もうここにかれこれ二週間もいて、半分ほどしか払ってくれないのです。払ってくれないのなら清算して出て行ってくれと言っても、商売の送金が入るので待ってくれというばかりで、ほとほと困っています」

 温厚なS野さんが黒人の一人にかなり激しい口調の英語で話していた。

 どうやら二人の黒人のうち一人が未払いのようで、もう一人は別のGHに泊まっているようだ。身振り手振りでさかんに言い訳をしている黒人男性。

 S野さんは隣のレストランの仕事があるので、いったん「今日中に何とかしろ」と言って立ち去った後、黒人男性は僕にあれこれ話しかけてきた。

 彼らはナイジェリアからの旅行者らしく、東南アジアと本国とで繊維関係の輸出入を行っているとか。まもなく売り上げの入金があるから、もう少し待ってくれと言っているのに、あの宿の主人は早く払え、出ていけと言う、クレージーだと僕に訴えてきた。

 しばらく彼らの主張を聞いていると、そんなに悪い奴等ではなさそうに思った。宿代は友人から借りてでもいったん支払うことができないのか、と言うと、「それは最終手段だ」と答えが返ってきた。
 
 すでに最終手段を実施する段階ではないのかと思いながら、「朝食に出るから、またあとで」と宿を出た。外は今日もカンカン照りの日和だった。

 この時点では昼にチェックアウトして、バスで国境を越えてタイに入り、夜行列車でバンコクへ帰ろうと思っていた。しかし、今回の旅行で最後のフランス
 パンサンドイッチの朝食を終えて宿に戻ると、ビエンチャンからバンコクまでの夜行バスが走っている情報が耳に入った。

 バックパックは夜まで預かってもらえるので、かなり格安の夜行バス移動に変更した。(料金はメモしていませんが夕食つきで500Bまでだったと記憶します)

 さて、宿代未払い黒人男性だが、僕が戻るといよいよラオス警察官が一人登場していて、大変な様相を呈してきたのだった。


 再びバンコクへ

 ラオス警察官はまだ三十歳前後の男性で、ベテランとは言えない感じ。

 僕が朝食を終えて宿に戻ってきた時、ナイジェリアから来たという黒人が彼に向かって身振り手振りの早口でまくし立てていたところだった。S野さんはその横で腰に両手を当ててやり取りを見守っている。

 警官さんは「ともかくすぐにいくらかを支払って、残りの宿代も早くなんとかしろ」と言っているようだった。

 対してナイジェリアは「支払わないとは一度も言っていない、もうすぐ用意できるからしばらく待ってほしいと言っているのだ。なのにここの主人は金を即刻支払って出て行けと言う。クレージーではないのか!」と吠え立てているようだ。

 どこで習得したのか知らないが、警官さんの英語はかなり達者で、ナイジェリアとのやり取りを見ていて「なかなかやるものだ」と僕などは感心してしまうのだった。

 結局、警官さんも同じ言葉の繰り返しに苛立ち「逮捕するぞ!」的な言葉を吐いたようで、ナイジェリアがますます大げさなジェスチャーを交えて抗議するといった状況になってしまい、S野さんが「じゃあ、ともかく明日まで待つ。明日支払わなければ出て行ってくれ」と助け舟を出し、事態は収束したのであった。

 さて、少し昼寝をした後、再び薬草サウナへ行った。

 ビエンチャンで一ヶ月くらい滞在して、毎日この薬草サウナでさっぱりして、フランスパンとカオピャックと新鮮なフルーツを食べて、夕陽を眺めながらビアラオを飲む日々を過ごせば、きっと心身ともにかなりのダイエットとなるのではないか。娯楽というものは何もないのだが、それほどビエンチャンという町は快適である。

 宿に戻り、ロビーでバスの迎えを待った。しばらくして大型のトゥクトゥクが現れた。S野さんにお礼を言って手を振って別れた。また来ます。(この後、この年の夏と翌年の二月に再訪を果たしました)

 バンコクまでのバスだが、ラオスのイミグレーションまではトゥクトゥクで行き、そこでバスに乗り換える。通路の両サイドに二列の座席が並ぶ大型バスである。

 座席は指定になっていて、僕はちょうど真ん中あたりの通路側の席、隣はのちに話しをしてみたらフィンランドから来たという寡黙な中年男性。一人旅をしているというのだ。いろんな旅行者がいるものだ。

 バスは超満員で、ほとんどが欧米人旅行者、日本人は僕だけだった。これだけの大人数だとラオスの出国とタイへの入国にずいぶんと手間取って、結局ノンカイの町へ入ったのが既に20時近くなっていた。

 ノンカイのメコン川べりのレストランで夕食となった。これはバス料金に含まれている。

 メニューはチキンライスのようなチャーハン(どんなものや?と突っ込まないように)とフルーツを適当に取る。ドリンクは自分で購入する。小一時間ほどここで休憩後、バスに乗り込み出発した。

 バスの中では、後部座席あたりに固まったグループがずっとやかましい。特に欧米人の女達がずっとしゃべり続けている。欧米人は男性のほうがおとなしいのではないか。僕の隣のフィンランド人は、まったくしゃべらず身動きもせず、まるで大仏のような男性だった。

 いつの間にか眠ってしまい、このあと何度か大きな町でトイレ休憩を取った後、翌朝まだ辺りが暗い午前四時半ごろにカオサンに到着した。

 1月4日の早朝である。旅はあと3日になってしまった。


 年末年始は日本で過ごすべきかも


 2007年1月4日のまだ暗い時刻にビエンチャンからのバスはカオサンに到着し、旅行者たちは瞬く間に三々五々それぞれのゲストハウスへ散っていった。

 僕はオンヌットGHを予約していた。こんな早朝にバスはもちろん動いておらず、やむなくタクシーで移動。早朝のガラガラ道路を、メータータクシーの運転手が疾風のごとく走ったので、オンヌットまでわずか120Bだった。

 こんなに朝早く着いても、オンヌットGHは二十四時間受付てくれる。フロントの懐かしいタイ人の男性従業員が迎えてくれた。

 旅行も実質、今日と明日の二日間となった。明後日の夜中便で帰国する。20日足らずの旅程などあっという間である。

 昼ごろまでドミのベッドで寝た。前日のバス移動の疲れが取れて、すっきりと目覚める。

 ドミトリーのほかのベッドはほぼ一杯だった。さすがに昨年の12月21日到着時にいた怪しげな中国かぶれ日本人男性はいなかった。

 フト見ると、向かいのベッドに若い日本人女性がいたので少し言葉を交わした。彼女は昨夜バンコクINしたらしく、今日今からカンボジアに向かって発つとか。日本人女性の一人旅は本当に多い。たくましさに脱帽する。

 そういえば僕たちが昨年到着した時に、カンボジア帰りの日本人女性がいて、アランヤプラテートでは「アランガーデンというホテルが格安で快適でしたよ」と情報をくれた。実際は、トゥクトゥク野郎がアランガーデン2へ連れて行きやがったのだが。

 今度は僕が、これからアランヤプラテートへ列車で向かうという女性に「アランガーデンというホテルがまあまあ安くて快適でしたよ。駅からトゥクトゥクですぐです。ほかの旅行者がいたらトゥクトゥクをシェアすれば良いでしょう」と伝えた。

 彼女が無事にアランガーデン2ではなく、アランガーデンホテルへ着きますように。

 さてI君は今日の夜中便で帰国予定だ。彼が泊まっているはずのサヤームのクリッタイマンションを訪れた。ところがI君は既にここには泊まっていないと言うのだ。

 いずれにしても夜には一等食堂で待ち合わせをしている。マーブンクロンなどで買い物をしたあと、一等食堂へ顔を出した。

 店は相変わらずの繁盛ぶりだった。カンチャナブリの先にあるという温泉でのんびりしたいと言っていたマスターは、結局バンコクで正月を過ごしたらしい。

 僕がI君を残してラオスへ行ってしまったことが、マスターをバンコクに拘束してしまった原因かもしれないと謝ったが、そうではなかったようだ。

 「藤井さんが大晦日に夜行列車で行ってしまったあと、われわれはテメへ繰り出したのですよ。Iさんは若いタイ女性をホテルへお持ち帰りしたようです。その後のことは分かりませんが」(テメとは何かとお思いの読者様、それは最後に書きますね)

 間もなくI君が現れ、さらにN君も仕事が終わって駆けつけた。

 「いやぁ、藤井さん、タイの女はダメですよ。嘘つきです」

 I君は顔をしかめながら言った。バンコクに来てからはずっと「タイは良いところです。日本に帰らずにここで仕事を探しますよ」と言っていたのにいったい何があったのか?


 年末年始は日本で過ごすべきかも その二(最終号)


 僕がラオスの首都ビエンチャンへ僅か三日間行っている間、I君は大晦日に「テーメー」でお持ち帰りした女性と年を越したというのだ。(前号ではカムフラージュのため「テーバー」と書きましたが、本当は「テーメー」または「テメ」、援助交際カフェです)

 「テメ」には僕もN君や一等食堂のマスターと一緒に、二度行ったことがある。
 アソークからナナの方向へ少し戻ったあたりのビルの地下にあり、ダンスホールのような広いスペースの中央に円形カウンター、その周りをソファーやテーブルが無造作に設置されている。

 客は入ったところのカウンターで100バーツ支払って飲み物を買う。通常はハイネケンかシンハビールを注文する。女性客は入場無料である。

 男女が今夜の話し相手を選びにここに来ているのだ。というのは表向きで、女性は手っ取り早く金を稼げる即席売春、相場は700B〜もちろん相手次第だが2000Bと言ってくる強気の女性もいるのだとか。男性は一応素人の女性と即興的なセックスができるという目的のために来ている。

 僕たちはいつも店内の様子を眺めながらビールを飲み、時には話しかけてくる女性と適当に時間をつぶしながら、決してお持ち帰りや買春をせずあっさりと帰る。

 さてI君だが、僕がラオス国境に向かう夜行列車で孤独な越年を迎えているころ、彼は「テメ」へN君や一等食堂と繰り出して、お気に入りの女性を自分が泊まっ
 ているホテルへ持ち帰ったらしいのだ。

 「元旦からバンコク市内のお寺を案内してもらったのですが、携帯電話を買って欲しい、小遣いが欲しいと言うし、うるさいから買ってやったのですけど、次の日にマーブンクロンで「トイレへ行く」と言ったきり戻ってこないのですよ。物は買わされる、金はせびられるで散々です」

 若いきれいな女性が、日本から短期間訪れた男と、本気で付き合うわけがないではないかと僕は思うのだが、I君は被害者のようなものの言い方となっていた。

 一等食堂は「結構きれいな娘だったから、まあ良いじゃありませんか。タイはこんなことで腹を立てていたら持ちませんよ。僕などはタイ人の悪口を言えといったら、三日三晩では足りません」と言う。

 N君はいつものようにビールをグビグビ飲みながら、われわれの会話をニヤニヤと聞いているだけだ。

 しかしI君は余程その女性にひどい目にあったらしく、トイレに行くと言って僕を巻いたのだから許せない、と憤慨する。やっぱりタイは僕には合わないと、到着したころとは逆の意見となった。

 さて、I君の初タイ訪問はいろいろあったが、翌日の早朝便で日本に帰ってしまった。翌日僕はマーブンクロン界隈でお土産を購入したり、ゲストハウスの近くの民家が多いところを散歩したりしてのんびりした。

 帰国当日(前日の夜)、最後のタイマッサージを受けたあと、お別れに一等食堂を訪れた。N君は既に仕事が始まって、出張先のパタヤへ戻った。

 一等食堂はいつもの賑わいを戻していた。日本人客よりも、周辺の若いタイ人カップルや欧米人の長期滞在者などが客層で増えているという。マスターはかなり儲かっているようだ。

 「年末年始の旅行は慌しく、それに寂しいですね。今回はカンボジアではアイルランドのご婦人たちと知り合って、意外にも楽しく過ごせましたが、I君もいなくて僕一人の旅行だったら、日本ではクリスマスだ新年だと言っているころなので、きっと切なかったかもしれないです。大晦日の列車の中でフト寂しさを感じましたよ」

 僕がこういうと、一等食堂は「僕は年中切ないですよ」と言うのだった。

 彼はこのレストランを7年も営業を続けている。タイのイサーン地方・ローイエットから出てきた母子とその親戚を4人、従業員として雇っている。ほとんど遊びというものをしない真面目な元バックパッカー。バンコクで成功した日本人と言ってよいだろう。金もしこたま貯めているようだ。(笑)

 先々はレストランだけでは不安なので、ゲストハウスを始めたいと言っていた。

 「僕もその話には乗りたいものです。是非やりましょうよ」

 一等食堂に別れを言って、BTSのアヌサワリー・チャイ駅の高架に立った。日本の渋谷駅前以上の賑わいと人々の往来を見て、バンコクはすごい街だと改めて感じるのだった。

 ‐ 完 -

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