Music:MIKO


 22.ハットリさんとの再会

 ワンヴィエンを午後一時の定刻に出発したバスは、一度もトイレ休憩をしないまま、午後五時前には田園風景から民家や商店・事業所などに変わり、次第にヴィエンチャン市内に近づいてきた。

 バスの車内はもうそれは大変な状況だった。

 美人ラオス女性が僕の太ももの上に素敵なお尻を乗っけているのは変わらず、それはそれで大変心地よい状態であったが、既に三時間程立ちっ放しの乗客も多く、最初の頃のように笑いも殆ど聞こえなくなり、皆この満員灼熱ガタピシノンエアコンバスに参ってしまっているようだった。

 カーブなどでは支えていた腕に限界が近い人の叫び声が聞こえ、市内が近づくと降りる人もポツポツ出てきたため、不特定な場所で停車するが、車内の奥のほうに乗っている乗客が降りるたびに、出口付近で立っている乗客が一旦降りてまた乗るということを繰り返さなければならず、ひっくり返したおもちゃを何度も何度も元通りにしているように感じた。

 ヴィエンチャン市内に入ってしばらく走ったところで、一人の乗客が降りるためにバスが停車した。僕は何気なく窓の外を見ていたら、何と停車した場所は、友好橋の国境で知り合ってボーダーからヴィエンチャン市内までトゥクトゥクで送ってくれたハットリさん夫婦の家の前だった。偶然というのはまたしてもあるものだ。

 ハットリさん達はちょうど出かけるところの様子で、トヨタのピックアップトラックに乗り込むところだった。

 「ハットリさん!」と僕は大声を出して呼びかけた。

 すると奥さんの方が僕に気がついて「あれぇー」といった感じで手を振り、ハットリさんに、「ほら、国境で一緒だったあの変なバンダナ日本人よ!」と教えているようだった。

 ハットリさんはすぐに僕に気がつき、驚いた表情で運転席から降りてきて、「バスから降りてうちに寄りまへんか!」と言うのだった。僕は残念ながらバックパックをバスの屋根に載っけているため、どうにもできないもどかしさを感じながら、「すみません、荷物が屋根にあるので降りられないのです」と指を上向けながら叫んだ。

 ハットリさんは聞こえたのか聞こえなかったのか、しきりに僕を手招きするのだが、その時バスが動き出してしまった。

 「お宅の場所が分かりましたので、今度伺います!」と叫びながら次第に遠ざかって行くハットリさん夫婦に手を振り続けた。仕方がないなという顔つきで、ハットリさん達も僕に手を振ってくれた。

 ほんの一分余りの偶然の出来事だったが、僕は胸が熱くなり、しばらくヴィエンチャン市内の街並みも目に入らない状態になってしまった。しかし大体の場所は分かった。ハットリさんの家の隣には大きな製材所があった。それにハットリさんの家の造りも脳裏に焼き付けたから、難なく今度訪問できるだろう。

 さてバスはそれから十五分ほど市内を走ったのち、タラートサオ近くのバスターミナルに到着した。

 バックパックを下ろして宿の方向に歩き始めた。バスの中ではこのまま今日のうちに国境を越えて、ノーン・カーイまで行こうかとも思ったが、もう午後五時過ぎだし、ヴィエンチャンで泊まることにした。

 一昨日泊まったサースイリーGHの方向に向かって歩き始めたら、最初の交差点でワンヴィエンのバス乗り場で挨拶だけ交わした女性が立っていた。

 「宿は決まっているのですか?」と僕は問いかけた。


 23.韓国人青年

 信号で宿は決まっているのかと声をかけると、その女性は、「あの人が綺麗なドミトリーがあると言うので、そこに泊まろうかと思っています」と言うのだが、どの人かと思ってキョロキョロしてみたら、五メートル程先に一人の青年が立っていた。

 彼女に聞くと韓国人の青年で、年令は二十二才、ワンヴィエンで同じゲストハウスだったので、同じバスで今日ワンヴィエンに来たと言う。見たところなかなか真面目そうな青年だ。それに彼女はY子さんというのだが、R子さんとはまたタイプが違った美女だ。

 僕は何の躊躇もなく、「じゃあ僕もそのドミトリーに泊まります!」と宣言をした。

 そのドミトリーは一昨日泊まったサースイリーGHの一本西側の南北の通りに所在しており、宿の名前はR・Dゲストハウスといって、経営者が韓国人なので、その青年も前から旅仲間や知人から情報を得ていたと言う。

 鉄筋コンクリート造三階建で、一階がロビー、二階と三階が十六ベッドずつのドミトリーとなっており、屋上が屋根つきのミーティングルームで、屋上からはかろうじてメコン川が眺められる。

 オープンしてまだ二年程度らしく、部屋は比較的綺麗で、共同シャワー室はお湯も出る。これで一泊二ドルであるから、僕は実はドミトリーは初めてなのだが、思ったより快適なのに安心をした。

 フロントで二ドルを支払い、シーツと枕を受け取って三階の部屋に上ると、二段ベッドが八台設置されていた。部屋は男女混合だが、僕達はチェックインした時には女性は一人もおらず、Y子さんが紅一点だった。部屋には黒人や韓国人、それに欧米人のバックパッカー数名が泊まっていた。

 指定されたベッドの脇にバックパックを置いて、早速バスの移動で汗と埃まみれになった体をシャワーで綺麗にした。シャワー室は各階と屋上にあり、なかなか綺麗で清潔だが、三階のシャワーはお湯が出たものの、屋上のシャワー室は水シャワーだった。しかし熱いから水でもなんてことはない。

 サッパリしたところで夕食の話となり、韓国人青年がベトナム料理を一ドルで食べられるというので、僕もY子さんも一緒に行くことにした。

 GHを出て西の方向に十分程歩くと、賑やかなところにベトナム料理店があった。料理店は広く、隣はベトナム料理の食材を売る店になっていた。一ドルで食べられる料理は、要するにベトナム風春巻きという奴で、ライスペーパーと野菜とミンチ肉のソーセージとエビなどが皿に盛られ、適当にライスペーパーの上に乗っけて赤い調味料(酸っぱいもの)をかけてから巻いて食べる。これはベトナム料理名を確かゴイクォンと言ったと思うが、なかなか美味しい。

 青年もY子さんもアルコールを余り嗜まないとのことで、二人ともペプシコーラを注文、僕だけがビアラオの大瓶をグビグビと飲んだ。

 青年の身の上話を聞きたいと思うが、韓国語が僕もY子さんも駄目で、青年は日本語が駄目という最悪の言語態勢ではあったが、青年は何と英語がペラペラに近く、Y子さんも僕よりは随分と英語が達者なので、英語を通じて日韓親善カンバセイションを楽しむことに成功したのであった。

 話によれば青年は、大学生の立場であるが、在学中に徴兵命令が届いたので二年間(いや三年間だったかな)兵役義務に就き、任期満了後学校に戻ったが、いまのうちに旅を経験しておこうと三ヶ月の期間で旅の途中という経緯である。

 タイからラオスに渡り、ラオス北部まで行ってから引き返してきて、これからタイの東北部や南部を旅する予定とのことである。大学では経済学を学んでいるが、卒業後はそんな大げさなものではなくて、飲食店を経営したいと話していた。

 夕食を簡単に済ませて宿に戻り、途中で宿の数軒隣に洋風のバーを発見したので、二人にウイスキーでも飲みに行かないかと誘ったが、韓国人青年は屋上で読書をするというので、Y子さんと二人でその店を訪ねた。

 ヴィエンチャンに戻って来ての初日、R子さんに代わって今度はY子さんという美女と洋酒を飲む。なんて僕は幸運なんだろう。普段の行いの良さとはいえ、神仏、ご先祖、我が家の猫などに感謝だ。

 旅の四日目はこのように贅沢に過ぎて行くのだった。


 24.落書き

 このカフェバーは、名前は忘れたが場所はすぐに分かる。

 前号でも述べたように、R・Dゲストハウスから北に二十メートルの西側に位置しており、店の入口には電飾看板がかかり、夜になると暗い町に一際目立って見える。

 カフェバーの店内は二部屋に分かれており、いずれも四人〜六人掛けのテーブル席が六卓程度設置され、その奥にカウンターがあり、陽気なバーテンダーがたくさんの洋酒を背に客を待っている。客層は殆ど欧米人で、僕達が入った時は七分程度の入りだったが、店内にはロマンティックなクラッシックが静かに流れ、落ち着いた雰囲気を感じた。

 この夜はベトナム料理を食べていたので、フードはサラダとサンドイッチだけを取り、Y子さんはホットコーヒーでおとなしくしていたが、僕はメニューの中で最も安いスコッチであるブラックアンドホワイトのダブルを注文した。

 バーテンダーがウイスキーグラスをわざわざ席まで持ってきて、「ごゆっくり」といった感じで一言笑みを浮かべて語り掛け、そして戻って行った。このような何気ない動作が、僕のような旅人には何とも気分が良いものだ。

 一泊2ドルの格安ドミトリーに泊まり、陸路中心の経済旅行を続けていても、時にはこのようなしゃれたカフェバーでウイスキーを傾けながら、旅の感慨に浸るのも格別な気持ちになる。ましてや今夜のように美女と過ごしている時などは、このままメコンに飛び込んで世界平和を叫びたい衝動に駆られてしまう。そんな単純な僕だった。

 結局、ウイスキーダブルを二杯飲み、Y子さんはコーヒーの他アイスクリームを食べ、サラダとサンドイッチとの会計は七万Kip(七百円程度)だったと記憶する。日本でこれだけ飲食すれば、少なくとも五千円程にはなるだろう。

 部屋に戻ると、旅人はそれぞれのベッドで思い思いに過ごしている。入ってすぐのベッドに寝ている黒人は、僕達が夕方到着した時からずっとそのままのような気がする。自分のベッドに戻ると、近くの韓国人青年のベッドに彼はいなかった。きっと屋上のミーティングルームだと思うとY子さんが言うので、僕達も階段を上がって行った。

 案の定、韓国人青年は屋上の板の間で仰向けになって、CDウオークマンを聞きながら本を読んでいた。器用な奴だと思いながら声をかけたら、びっくりするような声で彼は「おかえりなさい!」と言うのだった。

 しばらく三人で遠くに見えるメコン川を眺めたり、ヴィエンチャンの綺麗な夜空を見上げながら雑談を交わした。ミーティングルームの白壁には、過去に宿泊した旅人の落書きが、もはや書くスペースがないくらいたくさん書かれていた。

 ふと一つの落書きに目が留まった。

 「帰る場所があるから、旅に出るんだ 長渕 剛」

 フォーク歌手の長渕 剛がこのGHに立寄ったとは思えないから、長渕ファンが彼の何かの歌詞を引用して書いたものだろう。

 この言葉に特別感動したわけではないが、逆に言えば「帰る場所がなければ、旅にはならないのだ」と思った。帰る場所がなければ、それは生活味を帯び、人間の生きる術そのものに繋がることとなる。

 旅とはそのように生活の土台が確実性のあるものの上に存在するということなのか。

BACK TOP NEXT