小説のページ


まだまだメンテナンス中のページです。(^^ゞ

文学賞に投稿して選考落ちした作品、
或いは長編過ぎてどこにも投稿できない作品を、
公開してもいいかなって思うものだけ載せています。
お読みくださって、ご感想をいただければ狂喜乱舞します。


天国からのコーディネート 非公開 新・暴風雨ガール(非公開)
DJウコンちゃん 公開中
希望浜 公開中
遥かなる約束(非公開)
グッパイマリーン&ハーレム(非公開)
ブッ飛ぶLINE(近々公開)
自由の免罪符(いずれ公開予定)
卒 業 公開中
  

この小説はいずれアップ
エンドレストレイン






この物語は原稿用紙でおそらく五千枚以上、
目下は九百枚程度のところまで進んでいますが、
完結にはまだまだ至りません。
エンドレスではありませんが、長編過ぎてどこの文学賞にも出せない物語です。
感動超大作です!(自画自賛)





七代祟る?

現在工事中


この物語は生きていることのありがたさ、命の大切さを描いています。
ラストはちょっと震えるかもしれません!




由美子への道

現在工事中

某文学賞を予測どおり選考落ちした小説です。
短編(といっても130枚くらい)だから仕方がないか、
或いはつまらなかったのか?(涙)
縦書きを横書きにして貼り付けたので読みにくいかもしれませんが、
ご感想をいただければ嬉しいです。
特に、全国の由美子さん。^_^;




パソコンでご覧いただく方には申し訳ありませんが、
スマホの方のために文字を大きくしています。


DJウコンちゃん

 

 もう何年前のことになるだろう、つい数年前のことだったような気もするが、はるか三十年以上も昔の出来事だったようにも思える。でも、僕にとっては何年前であっても何十年前であっても、今ではない過去のある限られた期間の記憶である限り、古さは意味を持たない。

「今度の日曜日、阪神百貨店のレストランで食事しない?」

 所長と書類の受け渡しが終わったあと、ウコンちゃんは僕の席にツカツカと近寄って来て、まわりの社員や田中係長の視線など気にもせずにいきなり誘ってきた。

 女性からこんなふうに堂々と誘われたことがない僕は、絶句に近い戸惑いを表情に出していたに違いなかったが、そんな反応など目に入らないかのように、「じゃ、十一時に地下一階の阪神電車の改札口近くでね」と言い、たくさんのファイルが入った大きなバッグを肩にかけた。事務所のドアを閉めるときに思い出したように振り向き、「電車に乗るんじゃないから、改札を入ってしまったらだめだよ、近くで待ってねっていう意味だから」と、僕にダメ押しを残した。

「分かってるよ、改札口近くで待つから」

 返事をしたときには、すでに彼女の姿はドアの向こうに消えていた。

「デート、誘われたんか?モテモテやんけ、福地」

 同僚の太田がニヤニヤして言った。田中係長は噴き出すのを我慢しているような表情で帳簿を睨みつけていた。

「付き合うてんのか?」

 放っておいて欲しいのに太田がしつこく訊いてきた。付き合っているわけがなく、彼女と言葉を交わしはじめたのは二ヶ月ほど前からのことだ。共通のJ−Popグループの話題で少しは盛り上がったこともあるが、それだけだ。ただ、彼女は熊本の玉名が故郷で僕は佐賀だから、同じ九州人の誼みたいな親しみを感じていたのは間違いなかった。

 右今ちゃんは神戸の短大を出て、東京に本社があるこの会社の新大阪のデータセンターに勤め、中途採用の僕よりは半年以上も先輩だった。グループの営業会社の契約関係の重要書類を、毎週月曜日と水曜日の午後に集めに来るのだ。

「営業所をまわるだけで一日が終わるの。それだけでクタクタになっちゃう」

 大阪府下に五ヶ所ある営業所を週に二日は書類集めにまわる。重要書類なのでバイク便や速配便を使わないにしても、失うことを許されない精神的プレッシャーが彼女に圧しかかってはいないかを僕は心配した。

「上の人が集めにまわればいいのにね。ウコンちゃんにそんな重要な仕事を与えるなんて、おかしいな」

「いいのよ、皆忙しいから。それに私も外に出たほうが気分転換になるしね。毎週二日間だけだけど、本当はもう一日くらいこんな日があってもいいのよ」

 ほぼ円形の顔を完全な円形になるくらいに表情を緩めて、ウコンちゃんは屈託のない笑顔を見せた。表情も声も、TVアニメの「ちびまる子ちゃん」ソックリのウコンちゃん。美人とはかけ離れているとしても、可憐さという形容においてはそんじょそこいらのOLなんぞ、絶対に歯が立たないほどだ。それほど彼女は可愛い顔と個性的な声を持ち合わせていた。

 僕らはときどき言葉を交わした。

 ウコンちゃんが事務所に立ち寄って、所長から書類を受け取って出されたお茶を啜り、それから十人足らずの事務所の連中と少し雑談を交わしてドアの向こうに消えるまでのわずか三十分にも満たない間に、彼女と言葉を交わすのはたったひと言だけの日もあれば、彼女が僕の横に来て数分間、他愛ない話をして帰る日もあったが、僕が取引先などと電話が長引いているバッドタイミングの日もまれにあった。バッドタイミングでウコンちゃんが帰ってしまったある日、僕は用事もないのに夕方の終業時刻間際に彼女のいる部署へ電話をしてみた。
「ごめん、用事はないんだけど」
「どうしたの?」
「いや、今日君が来たとき、面倒な客に捕まっていてね、電話が切れなかったんだ。だから・・・」
「だから?」
「だから、ウコンちゃんとちょっとでも話がしたかったから、それでね」
「嬉しい」
「え?」
「嬉しいって言ったの。ちょっと訊いていい?」
「何?」
「福地君って、彼女いるの?」
「ああっと、いないよ」
「いるな、その言い方は」
「いや、いないよ」
「まあいいわ。じゃあまたね、電話してくれてありがとう」

 その日から、僕はウコンちゃんへの興味が膨らみはじめた。事務所にウコンちゃんが来たときには、僕のほうから「いらっしゃい!」と魚河岸の大将みたいな声をかけることもあれば、彼女のほうから「ご機嫌いかが?」なんて、ラジオのDJみたいな声かけをしてくることもあり、僕はちびまる子ちゃんみたいな彼女の声が聴けた日は一日中ニヤニヤしていて、同僚や田中係長から「お前、変やで」と言われる始末だった。

 でも僕には明子という彼女がいた。明子と四畳半一間のアパートに同棲をはじめて、もう三ヶ月ほどが経っていた。そんな事情の僕がウコンちゃんから日曜日のランチに誘われ、迂闊にも約束を交わしてしまったのだ。

 約束の日曜日、前日から僕の弟が大学の下見に佐賀から出てきてアパートに泊まっていた。狭いアパートに明子と弟と僕の三人が、ひとつの布団で文字どおり川の字になって寝た。梅雨明け宣言がされた暑い七月だったからよかったが、冬だとしたら風邪を引くだろう無茶な三人寝だった。それくらい僕と明子は親密だったし、弟も明子とはすでに義姉弟みたいな感覚だったろう。

 約束の日曜日、僕は明子と弟に「ちょっと床屋に行ってくる」と言ってアパートを出た。休日に明子と弟を残して出かけることに、もっと真っ当な理由があった気がするが、僕はグズグズと当日の朝まで悩み続けた結果、「床屋!」なんていうあと先考えないことを不意に言ってしまったのだ。

 仕事中はウコンちゃんのことばかり気になっていたとしても、アパートに帰れば小さな卓袱台にちょこんと並べられた明子の可愛らしい手料理を見ると、ウコンちゃんとの約束なんて絶対に破るべきだと思いつつ、仕事に出ればウコンちゃん、帰れば明子といったこころの移り変わりに、優柔不断にも断るべき機会を逸してしまった。男の風上にもおけないと自分を嫌悪したりもするが、約束の日はやってきた、しかも朝からバカ陽気。

 午前十一時の約束の時刻よりも少し早く、阪神百貨店の地下にある阪神電車の梅田駅改札口に僕は立った。デートの待ち合わせなんて久しぶりで、こころが妙にときめいたが、それよりもこれがデートと呼べるのだろうかと、やや理性的な思考に入っているうちに視界にウコンちゃんが飛び込んできた。

「来たんだ〜」

 いきなりウコンちゃんは言う。

「来たんだ〜はないんじゃないか?約束してたんだし」

 地下の売り場に入って、奥にあるエレベータ乗り場の方へ肩を並べて歩く。彼女と並んで歩くのも、もちろん初めてのことだ。小柄な僕の首のあたりにウコンちゃんの目が位置していて、普段は僕が座った状態で彼女が立った位置で言葉を交わすものだから、意外な背の低さにこれまで気づかなかったのだ。

「ウコンちゃん、今日は背が縮んだみたいだね」

「どういうこと?」

「いつも僕を見下ろしている感じだけど、並んで歩くと僕より低い」

 僕は少し笑って言った。

「そりゃそうよ、仕事中はハイヒール履いてるんだから」

 ウコンちゃんは「フンッ」といった顔をして、ちょうど開いたエレベータに乗り込んだ。背丈のことでムキになった感じがして、僕はますます可笑しくなりニヤニヤしてしまうのであった。

 休日のお昼前ということもあって、エレベータに載っていた人のほとんどが8階のレストランフロアで降りた。

「福地君は何を食べたい?」

 ウコンちゃんはプライベートな日でも君呼ばわりだった。

「食べたいとリクエストしたものをご馳走してくれるの?」

「もちろんじゃない、私が誘ったんだから」

 僕はウコンちゃんの目を覗き込むように見た。

「何よ?」

「その先輩風をビューって吹かすウコンちゃん、いいな。いや、ウコン先輩!割り勘にしましょう」

 僕の言葉に気を悪くしたのか、知らぬ顔をして前を見て歩くウコンちゃん。そのあとを追うように続く僕、結局、いくつかの店のメニューを見て回ったあと、ハンバーグが食べたいという僕のリクエストから、ステーキレストランへ落ち着いた。

「ステーキでもいいのよ、たいして値段は変わらないんだから」

「ハンバーグが食べたいんだ、本当に」

 実のところデパートのレストランなんて初めてなので、あまり居心地が良いとは言えなかったが、前には憧れのウコンちゃんが座っており、彼女を見ているだけでこころに爽やかな風が漂ってきた感覚になった。明子のことが少し気になったが、このときは深く考えなかった。ゆっくりと食事をしながら、お互いの故郷のことや大阪に出てきてからのことを交互に喋った。

「田舎がダムに沈んでしまうんだ。小学校も中学校も、みんな湖の底に消えるって残酷だ」

「うちは菊池川の近くで農業よ。もう有明に注ぎよるところ。両親が食べる分だけしか作ってないけんね」

「注ぎよるところって、菊池川の河口近くってこと?」

「そうそう、もう有明海たい」

「田舎、たまに帰るんか?」

「あんたは?」

「帰らんな、帰るといろいろと変わってしもうとるやろから、それ見るんが嫌やけんな」

「なんでんかんでん変わっていくっち」

 自然と故郷の言葉が混じってくるのは、佐賀と熊本といっても、ウコンちゃんの玉名は福岡県の県境にあるし、僕の田舎も福岡に近いから似たような言葉だからだ。

「ウチに来る?」

 レストランを出て、大阪駅方向にかかる大きな歩道橋の上で、急にウコンちゃんは言った。

「尼崎に住んでるのよ。園田の駅からバスに乗るんだけど。福地くん、誰か待っている人がいるの?」

 ウコンちゃんの誘いを断れなかった。僕はすでにウコンちゃんの世界へ飛び込んでしまったような気がした。何時間床屋で髪を刈ってもらっているんだろうって、明子は思っているかなと一瞬だけ後頭部を掠めたが、僕はウコンちゃんと肩を並べて阪急電車に乗った。

 

 

 ウコンちゃんの家は阪急電鉄の園田駅からバスで十五分ほどの少し不便なところに位置していた。バスは駅前を出るとすぐに住宅街に入り、そこを抜けると地方競馬場の裏通りに出て、競馬場に沿って西へ二百メートル程走ると小さな川に架かる橋があり、そこを越えるとウコンちゃんの住む街のバス停に着いた。バス停には「園田支所前」と書かれていたが、何の支所なのかは分からなかった。

「今はもう商売を続けているお店はないけど、この先に昔は小さな市場だったところがあるのよ。そこにお父さんの方の叔父さん家族が住んでいたんだけど、近くに家を建てて引っ越したから、私がそのあとに住んだの。もともとは市場の人の住居兼店舗だったみたい。家の造りがそんな感じなのよ」

 確かにウコンちゃんの家の一角はアーケードに覆われていて、その下に二階建の店舗兼住宅風の建物が二列に十数軒並んでいた。

「ここよ、入って」

 ウコンちゃんの家は、玄関脇に幅の狭い屋根つきの二畳程度のスペースがあり、ここはおそらく店舗として利用したようで、中に入ると一階が六畳程度の和室、その向こうに四畳半程度の台所とバスとトイレがあり、奥に二階への階段があって上階にも二部屋の和室という造りだった。二階への階段の位置が奇妙だと思ったが、住居の造りは家族向けのものだった。

「三部屋もあるんだ。ひとりで住むのには広すぎるね」

 一階の六畳の間には小さな和テーブルが置かれていて、その前に僕は腰をおろした。

「じゃあ、福地くんが引っ越してきたら。ひと部屋貸してあげるわ」

 キッチンの方からウコンちゃんの声が届いた。冗談なのか本気なのか、もちろん冗談に違いないのだが、軽く飛ぶ言葉が逆に照れ隠しの本気であるような気もして、僕は妙な戸惑いを覚えるのだった。ウコンちゃんとは今日一日で急速に親しさを増したようだが、よくよく考えてみれば、会社での度重なるとりとめのない会話が、言わばウオーミングアップのような役割を果たしていたのではないかとも思うのであった。

「インスタントしかないけんね、よかでしょ」

「よかばい」

 奥から運んできたコーヒーカップを小さなお盆からテーブルの上に置き、「どっこいしょ」とオバさんのようなかけ声を発しながら僕の前に座ったウコンちゃん、今このシチュエイションがどうも信じられない。

 部屋には大きな本棚が置かれていて、僕が知らない著者の本や演劇関係の本がビッシリと並んでいた。

「演劇の本がたくさんあるんだね」

「そうね、もうやめたけど」

「ふーん」

 コーヒーカップを持ち、ひと口啜って彼女の次の言葉を待ったが、待っても待ってもウコンちゃんは黙ったままひと言も発しなくなってしまった。五分以上がそのまま流れ、コーヒーを啜る音と「フー」とコーヒーを冷ます息の音だけが六畳の静かな部屋にときどき響いた。

「あのね、私のこの髪、どう見える?」

「どう見えるって?すごく綺麗だけど」

 ウコンちゃんの髪は首までのまっすぐな髪型だが、まるで一本一本が繊細な櫛で整えられたように美しい。

「ホラ、これカツラなの」

 突然、ウコンちゃんは美しい髪を両手で頭上に持ち上げ、現れたのは尼さんのような坊主頭だった。目の前のウコンちゃんが「ホラッ!」と陽気な顔をして、まるでクマのぬいぐるみを脱ぐように、頭を両手に頭上にかかげて言われても(妙な言い回しだが)、僕は驚きこそすれ笑う気持ちにはならなかった。何しろ現れた彼女の頭は尼さんよろしくスキンヘッドであったのだから。

「どうしたの、その頭・・・」

「剃ったんよ、いろいろあったけん」

「いろいろあったって、どげんこつね?」

 ウコンちゃんは「うん」と言ったきり黙った。僕は少し冷めたコーヒーを啜り、「無理せんでよか」と付け加えた。

「岡本課長、おるやろ、本社に」

「ああ、知っとるよ」

「あの人、新劇出なんよ」

「新劇?」

 岡本課長は本社の総務課長で、年齢はまだ三十歳前後のようだが凄いやり手で、各営業所の所長なんかも一目置いているようだと聞いたことがある。僕はこれまで何度か挨拶程度の言葉を交わしただけだが、いつも背筋がシャンとして声が良く通り、精悍さが表面に出ている人だ。

「ウチは高校と短大で演劇をやってただけで、社会人になってからはキッパリ辞めたんやけど、岡本課長と仕事以外の話をする機会があって、あの人が昔、Tさんと一緒にやってたって聞いたから、そのあとときどき演劇の話をしてたんよ」

Tさんって、あの有名な?」

「うん」

 僕は、それがいったいどうしたって言うんだろうと思いながら、ウコンちゃんの言葉を再び待った。でも今度も彼女は一向に続きを話そうとしなかった。そしてまた五分以上が経った。

「ウチ、岡本課長のことが好きになってしもうたんよ、福地君にこげな話してもどうにもならんのやけど」

「それと、その坊主頭とどういう関係があるん?」

「今はもう好きやないけん、安心して。でも今度好きになった人には言っておきたかったっち」

 僕の質問に答えていないと思いながら、もうひとつの「今度好きになった人」という言葉を考えた。それはまさしくこの僕のことなんだろう。でも、坊主頭と岡本課長の話の結論をウコンちゃんは僕に話す義務があると思った。

「それで、何で髪の毛をそんなふうにしたん?」

「ケジメやけん」

「ケジメ?」

「忘れるためのケジメよ。完全に忘れるまでカツラしておくのよ。誰にも言わんで、お願いやから」

 納得のいかないウコンちゃんの返事だったが、「そげんこつ、言うはずなかよ」と彼女の目を見て言った。

「福地君、ウチのこと好き?」

 ウコンちゃんは眉と目尻を少し下げて、困ったような複雑な顔をして言った。僕は明子との恋愛の初段階やこれまで付き合った女の子から、この種の質問を投げつけられた経験がなく、あまりの直球にすぐに答えられなかった。

「ねえ、岡本課長のこと言ったから気を悪くしたとね?」

「そげんこつはなかよ」

 僕はそう言ってウコンちゃんの横に身体を移して、座ったまま彼女を抱き、そして唇を重ねた。明子以外の女性とキスをするのは久しぶりだった。

「何か作ろうか」

 唇を離すとウコンちゃんは照れ隠しのような感じで言った。時刻はもう午後三時を過ぎ、夕刻に突入していた。明子は一向に帰ってこない僕を部屋で待っているだろうか?弟はどうしているのだろう。床屋にしてはあまりに長過ぎる、それに実際髪も刈っていない。「今日は帰るよ」という言葉が喉の上のあたりまで何度か登ってきたが、微かに寂しげなウコンちゃんの顔を見ると、そのたびに言葉がお腹のあたりまで落っこちてしまうのであった。

「買い出しに行くけん」

「うん」

 外に出て、商店のないアーケードを抜け、広い通りを南へ歩くと大きなスーパーがあった。西の空には、まだ陽がオレンジ色に輝いていた。これから次第に一日が短くなっていく。そして肌寒さを感じるとともに人は寂しさを増していく。

「何考えとるん?」

「うん、ウコンちゃんのことをね」

「ホントね?」

「当たり前や」

「嬉しか〜」

 ウコンちゃんは僕の左腕を抱えるようにして歩いた。今夜僕は完全に明子を裏切るだろうと思った。

 お昼にハンバーグランチを食べたのに、ウコンちゃんは「すき焼きつくるけん!」と宣言し、スーパーで食材を物色しはじめた。肉は牛だけでなく豚も少し加えようと言い、長ネギにシイタケ、そして春菊などは、めったに食べたことがないすき焼きの食材としては僕も知っていた。ただ、ウコンちゃんが躊躇なく選んだシラタキという食材は、僕のこれまでの二十一年間の人生で初めてだった。

「何か足りんのよね、メインの野菜が・・・」

 ウコンちゃんは眉を中央に寄せて考え込んでいた。

「白菜がなかろうが」

「あっ、そうや、福地君よく知っとるね」

 ウコンちゃんはニコッと笑って、四分の一の大きさに上手く切られた白菜をカゴに入れ、そのあと「ビール、ビール」と慌てた素振りで言い、サッポロの瓶ビールを二本カゴに追加した。

 買い物を終えて帰り道、西の方向の夕陽はこの日の仕事をほぼ終える安堵感を淡い光に放っているように思えた。僕のこころには今日一日絶対に安堵感なんかは訪れない、そして夜遅くなってアパートに帰ったとき、明子に何て言えばサラリと聞き流してくれるだろうかと考えた。でも、どんなに考えても絶好の言い訳は思い浮かばず、夕陽に向かて「フー」とため息が自然と出るだけだった。

「何考えとるん?」

「なーんも」

「ウイスキーがあるんよ」

「えっ?」

 脈絡のない言葉に僕は戸惑い、ウコンちゃんは鼻歌などを鳴らしながら、行き先知れないふたりの不安を消そうとしているように見えた。

「これ、半分出すから。すき焼きはほんなこつ久しぶりやけんね」

 僕は汚く折りたたんだ財布から二千円を抜き出し、テーブルの上に置いた。ウコンちゃんは食器棚の扉を開けて真っ黒いボトルを「ドンッ」と置き、「そんなの要らんけん」と言うのだった。

「ウイスキーば飲むんね?」

「やけ酒で買ったけん、ばってん、吹っ切れてからは飲んどらんと」

 よく分からなかったが、ウコンちゃんは台所ですき焼きを作りはじめ、僕は黒いボトルのウイスキーを小さなグラスに注いでチビチビと飲んだ。ウイスキーを飲むのは初めてではなかったが、熱い液体が喉を通りすぎたとき、今日一日がもしかしたら壊れてしまったのではないかと思ったりもした。でも「壊れてしまった一日」なんてことを言葉に出したとしたら、きっとウコンちゃんは、坊主頭だけでなく眉まで剃ってしまうくらいショックだろうと思った。

「カセットコンロとかないけん、熱いうちに食べよう」

 湯気を立てた薄手の鉄鍋を、両手を広げてウンウンと言いながら運んできた。

「凄い、美味しそう〜」

 ビールの栓を開けてふたつのグラスに注いだ。

「乾杯〜」

 ウコンちゃんは満足そうな表情でグラスをククッと飲み干し、それをテーブルにコツンと音を鳴らして置くと「楽しか〜」と言った。僕は「楽しいね」と相槌を打ちながらも、明子のことがずっと指先に離れずにあるような気がして、表現に難しい複雑な気分が続いていた。

 すき焼きを食べ終えたあと、ウコンちゃんは再びインスタントコーヒーを淹れてくれた。僕はそろそろ帰ろうと思い、その言葉を出すタイミングを計っていたが、なかなか機会がなく、黙ったままの僕に彼女は「お風呂、行かんね?」と言った。

「お風呂?」

「銭湯がこのアーケードを抜けて左に曲がったところにあるけん、行こうよ」

 流れるまま僕はウコンちゃんから渡された手ぬぐいを持ち、彼女は大きな洗面器の中にシャンプーなどを放り込み、銭湯へ向かった。アーケードを抜けた空には、ほぼ満月に近くなった月が見下ろしていて、「いったい僕は何をしているんだ?」と彼に向かってこころで呟くのであった。

 

 

 銭湯に入る前に「四十五分後に出ようね」と約束したのに、僕は三十分ほどで出てきた。銭湯の入口の横には公衆電話があったから、アパートの大家さんに電話して明子を呼び出してもらおうと思ったのだ。でもよく考えてみると、呼び出し電話口まで明子が出てきたとしても、彼女が納得するような言い訳があるわけではなく、それなら何も連絡をせず何事もない顔をして帰ればいいと考え直した。

 タオルを振り回しながら待っていると、入ってからちょうど四十五分ほど経ったときにウコンちゃんが銭湯の暖簾をヒョイと手で押しのけて出てきた。

「どうしたん、早く出すぎたんじゃなか?」

「いや、さっき出たところばい」

「カラスの行水みたいやね」

 ホカホカした身体で僕とウコンちゃんは商店のないアーケードに入り、彼女の家に戻った。

「そろそろ帰るわ」

 ウコンちゃんがテーブルの前に体育座りのような格好で腰をおろし、カツラを脱いで、乾いたタオルで坊主頭を拭きはじめたときに僕は思い切って言った。

「何ね?」

「帰るっち、もう遅いから」

「何でね?」

「だから、泊まるわけにいかんから、そろそろ帰る」

「泊まって帰ればよかよ。明日はここから一緒に仕事に出ればよかでしょ」

 時刻はもう午後九時前になっていた。明子は弟とふたりでどうしているのだろう。駅前の床屋を訪ねたり、パチンコ屋などを覗いたりして僕を探しているだろうか。考えれば考えるほど胸が痛くなり、その痛さと同じだけの罪悪感に苛まれた。それらを振り切るためには、目の前のウコンちゃんのシャンプーの香りに身を委ねるしかこころが逃げ切れないと思い、まだ温かい彼女の身体を抱きしめた。

「二階に行こうか」

「うん」

 不思議な位置にある二階への階段を上がると、手前の部屋にはほとんど家具らしいものはなく、奥の部屋の窓際にベッドが置かれていた。ベッドの上に座って窓を少し開けると人通りのない暗く静かな道が見えた。見下ろす道は僕とウコンちゃんだけでなく、明子までをも巻き込んだ、先の見えない暗い未来への道のようにも思えた。

 一体僕は何をしているんだろうという気持ちを消すために、僕はウコンちゃんに覆いかぶさり唇を重ねた。ウコンちゃんの身体は意外に硬く、緊張しているのかとも思ったが、僕は明子のことがやはり頭を横切ったり掠めたりするため、彼女の身体を開くまでの行為には踏み切れなかった。

「今日はなんだか疲れたね」

「福地君、彼女のこと考えとるんやろ?」

「いや、そげなひとはおらんち」

「嘘言わんでよかよ、ウチには分かるけん」

「どうでもよかばい」

 僕はウコンちゃんを力いっぱい抱きしめた。そのままふたりはいつの間にか眠った。

 目が覚めるともう午前九時を過ぎていて、店のないアーケードの下にも人の声が聞こえた。

「目覚まし時計、しとらんかったけん」

「困ったな、会社に電話せんといけん。無断欠勤ばい」

 交代で洗面を済ませて、慌ててバス停へ急いだ。バス停の近くに公衆電話があったので、僕とウコンちゃんは交代でお互いの勤務先へ電話をかけた。先にウコンちゃんが新大阪の営業所へ電話をかけ、「急用があって遅くなったけど今から行きます」と理由を伝えていた。僕は遅刻の理由が思いつかないまま電話をかけると、最初は田中係長が出た。

「福地、どこにおるんや?ちょっと支店長と替わるから」

「福地君、心配しとったんや。朝、ビルの入口に君の彼女が待ってたからな。昨日は帰ってないんか?」

「はあ・・・」

 ビルの入口にいた女性が、なぜ僕の彼女と分かるのだろうと不思議に思ったが、ともかく「今から行きます」と言い、電話を切った。なにか大変なことを仕出かしてしまったような気持ちになって、園田駅に向かうバスの中、僕もウコンちゃんもずっと黙ったままだった。

 午前十一時を過ぎてようやく僕は心斎橋の事務所に出勤した。ウコンちゃんは阪急の西中島南方駅で「福地君、ゴメン」と言って電車を降り、改札口の向こうに消えた。何を彼女はゴメンと言ったのだろうと、会社に着くまでずっと考え続けたが、彼女が謝るべきことは何一つ思いつかなかった。

 自分の席に着くと、「ちょっと福地君」と伊野支店長に隣の応接室に連れて行かれた。「まあ座れや」と支店長は笑いながら手で示し、僕は怒られるのを覚悟してゆっくりと腰をおろした。

「遅刻と連絡が遅かったことは別にかまへんねん。君もまだ若いし、誰でも若いときはそんなもんや」

「はい」

「そやけどな、君の彼女と思うけど、ビルの前に立ってたんや。何とも言えん悲しそうな顔をしてな」

「はい」

「ちょうど、出勤途中に駅を出たところで田中と会うてな、一緒にビルに入ろうとしたら、その彼女が『JBKの会社の方でしょうか?』って訊いて来たんや」

「そうなんですか、すみません」

「それでな、そうですけどって返事したら、福地は昨夜どなたかのところに泊めてもらったのでしょうかと言うんや。はは〜んと思ったが、ともかく出勤したら連絡するように伝えますと言うたんや」

「すみません」

「そしたら彼女、お願いします言うて自分の会社へ行ったから、君な、電話してあげなアカンで」

 僕は伊野支店長にお礼を言い、席に戻った。昼の時間になって、明子の会社に電話をかけた。交換手が彼女の部署につなぐと、昼休憩にも行かずに待っていたかのように明子が出た。

「ゴメン、許してくれないやろうね。何も言わずに帰らなかったんだから」

「今日は帰ってくるの?」

「帰るよ、帰っていいのだったら」

「それやったら許す。晩御飯作っとくから」

 それだけの会話で「じゃ」とお互いに言い合って電話を切った。電話を切ったあと、山から流れ落ちて海に注ぐ川には本流と支流があるが、明子はやっぱり本流なんだと、バカみたいな思いが頭に浮かび、「僕はどうかしてる」と思った。

 午後からは仕事に集中することで余計な思いを振り落としたかったが、やっぱり明子に昨夜はどこにいたかをうまく嘘をつけないと思うと憂鬱な気分はずっと続いた。そうこうしているうちに午後三時を過ぎて、この日は月曜日だったのでウコンちゃんが書類を集めるために立ち寄った。つい五、六時間前まで一緒にいた彼女が、「こんにちは〜。お疲れ様です〜」と言いながら事務所に入ってきたとき、たった一日一緒に過ごしただけなのに、彼女はもう僕には特別な存在のように思えた。それが川に例えたとして、本流ではなく支流であったとしてもだ。

 田中係長から先週後半の分の書類を受け取ったあと、ウコンちゃんは僕の横に来て「ご機嫌いかが〜」と言うのだった。

「ご機嫌?複雑だな」と僕は咄嗟に返事した。

「なんばしよったと?」

「えっ?」

「違う、どうしたの?」

「どうもしとらんけん。いや、何にもないよ」

 同僚の太田が、僕とウコンちゃんの会話を聞いて不思議そうな顔をしていた。

 ともかく月曜日は仕事を定時で終えてアパートへ真っ直ぐ帰った。JR東海道線のT駅からアパートまでの道が、これから処刑場へ連れられるような絶望的な気分とは大げさとしても、裁判にかけられる被告のような気持ちだった。

 部屋に入ると明子はキッチンに立って料理を作っていた。弟は小さなテーブルの前に座って本を読んでいた。気まずいながらも「ただいま」と言うしかなかった。

「おかえり、もう少し待って、今すぐできるから」

 明子は一昨日までと特に変わった態度を見せず、少し笑って言うのだった。

「兄貴、どこに行ってたと?明子さんと駅の改札口のところで、最終電車まで待っとったとよ」

「亮ちゃん、ええのよ、もうええからご飯食べよう。アンタも早う着替えて座って」

 明子はテーブルに鶏の唐揚げとサラダなどを並べはじめた。僕は二日間着続けて汗臭くなったシャツとヨレヨレのズボンを脱ぎ、「ゴメン、床屋に行くというのは嘘や、それは謝る。京都に住んどる大学のときの友達の家を訪ねて、ちょっと帰れんようになってしもうた」

「フーン、急に行くことになったとね?」

 弟はご飯を食べはじめながら不満そうに言った。

「急やったけん、仕方なか」と僕は返事して、テーブルの前に座った。明子も横に座り「まあいろいろあるんやろ、あとでゆっくりと聞くから。さあ、食べよう、今日は疲れたわ」と明るく言うので、ともかくは救われた気持ちになった。

 明子は食事中も昨夜のことには触れず、大学の下見を終えた弟が明日佐賀に帰ることになったから、「こいさん」という饅頭を両親への大阪土産にと買ってきたことや、来年の受験の際は、またここに泊まれば良いなどとアドバイスをしたり、穏やかな表情だった。

 晩御飯を食べ終えてから、弟が「駅前の本屋を覗いてから銭湯へ行く」と言って出かけた。おそらく僕と明子が話をするふたりだけの時間を作ろうとした気遣いに違いなかった。僕はお茶を啜りながら明子の言葉を待った。だが、明子は何も言わずにアイロンをかけはじめる始末、「怒ってないのか?」と僕から切り出した。

「友達のところに泊まったんやろ?」

「そうや」

「ほんなら、別に怒ることはないよ」

「最終電車まで、ずっと駅で待ってくれたんか?」

「そうや」

「悪かったよ、本当に。謝るけん」

「弟さんに謝ってやって。私のこと、ずっと心配してくれたから」

 明子はそう言って「ウチらもお風呂行こうか」とアイロン台を片付けて支度をはじめた。

 翌朝、三人一緒にアパートを出た。高速バスで九州に向かう弟とは大阪駅で別れ、地下鉄御堂筋線の本町駅で明子は降り、僕は心斎橋駅で大勢のサラリーマンやOL等とともに地上へ出て、普段と変わりのない日常がまたはじまった。

 そしてその夜、今度は明子がアパートに帰ってこなかった。

 

 

 アパートは妙にガランとしていた。少し残業して帰ったにしても、そんなに遅い時間ではない。おそらく明子は仕事を早退して、アパートに置いていたものすべてを持ち去ったのだろう。明子の衣類や化粧道具をはじめコンパクトな裁縫箱、料理雑誌やファッション雑誌まで、そして小さな食器棚を見ると、彼女がお気に入りだった茶椀や箸、湯飲み茶碗までもが消えてしまい、つまり跡形が残るものは全てなくなっていた。見事というほかはない。

 僕はしばらく呆然と立ちすくんでいたが、どうにも仕方がなく、何をどうしてよいのかも頭の中がまとまらないまま、ともかくは靴を履いて出て駅前の方へ歩いた。駅前の中華料理店に飛び込んでビールと餃子を注文、戸惑う気持ちを整理した。昨夜の明子はちっとも怒っていなかったし、「友達のところに泊まったのなら、別に怒ることはない」と言っていたではないか。弟がいた手前、もう一泊だけ我慢したのだろうか。本当はこころの中は怒りで満ち、今にも爆発しそうな状態だったのだろうか。最終電車が行ってしまうまで改札口でずっと待ってくれていた明子の心境をよく考えてみると、今更遅いのだが、本当に悪いことをしてしまったと、深く詫びたい気持ちになった。実は大変なことを仕出かしてしまったのだ。明子は深く傷つき、跡形も残さず部屋を出て行ってしまった。これだけが間違いのない揺るぎない事実だと思った。

 店を出て駅前の公衆電話から明子の実家へ電話をかけてみた。摂津市内の淀川の土手に近いところに彼女の両親はふたりで暮らしていて、付き合いはじめて間もない頃に呼ばれて訪ねたことがある。

「娘をよろしくな」と、職人気質の父親から、ちょっとドスの効いた口調で言われたとき、僕は一瞬だけビビってしまったことがある。そんな実家におそるおそる電話をかけてみると母親が出た。

「福地です、こんばんは」

「あら、どうしたの?」

「明子さん、そっちへ行ってませんか?」

「来てないけど、どうしたの?」

「いえ、じゃあ大丈夫です。きっとどこかに寄っていると思いますから」

 そう言って、あまりいろいろ聞かれる前に電話を切った。

 その夜から数日、僕はあまり眠れずに、眠ったと思ったら明子の声に呼び覚まされ、朝までウトウトしているともう仕事に出る時刻になってしまったり、睡眠不足で疲労困憊状態になってしまった。

 そんな折、会社では午後になるとウコンちゃんが書類を集めに来て、帰り間際に僕の横に立ち、相変わらず「ご機嫌いかが〜?」と、ラジオのDJのように囁きかけてくるのであった。

「ご機嫌?もうボロボロっち」

「どげんしたと?」

「どうにもこうにも分からんばい」

「おいでよ、ウチんところに」

「そういうわけにいかんっち」

 そんな会話を交わしていると、同僚の太田が不思議そうにじっと見ているし、田中係長は吹き出すのを堪えて、下を向いて身体を震わせているのだった。しかし僕は笑いごとではなかった。

 明子はずっと帰ってこなかった。明子と知り合って一年あまり、一緒に暮らしはじめてから四ヶ月目に入ったところだった。両親や兄や姉はから付き合う許可はもらっていたとしても、一緒に住むことは絶対に許さないと言われていたのだが、明子は周囲の反対を振り切って、僕のアパートに転がり込んできた。

「ウチ、もうどうでもええねん。あの人たちウチをいくつやと思ってるんやろ。どうしようと勝手やん」

 ある日いきなり少しだけの荷物を鞄に詰めて、僕のアパートにやってきた明子は、涙を浮かべながら憤慨して言った。

「ここにいたらよかよ。お父さんやお兄さんがここに来たら、キチンと言うから心配はなか」

 その二週間後に、明子の兄が夜八時を過ぎたころに奥さんと一緒に訪ねてきた。僕は殴られるのを覚悟で構えたのだが、兄は手にポータブルテレビなんかを持っていて、「テレビ無いんやろ。これを観たらええから」と優しく言い、なんの咎めもなくテレビを置いてすぐに帰った。

 そんな経緯があって、僕と明子の関係を両親も兄弟も公認してくれたというのに、たった一度のミステイクで彼女は出て行ってしまった。

 明子の勤務先は日本で唯一の外為銀行で、彼女は堺筋本町の支店に勤めていた。いなくなった翌日から、僕は毎日勤務先に電話をかけた。だが、交換手の女性が一旦は「お待ちくださいませ」と言って繋ごうとしてくれるのだが、次にはおそらく明子の部署の人だろうか、「山下さんは今電話に出られません」と言うのであった。何度かけても同じで、明子が僕を拒絶していることは明白だった。

 考えた挙句、明子が最も親しくしている高校時代からの友人で横山さんという女性が居ることに気づき、以前、一緒に食事をした際に自宅の電話番号を聞いていたことを思い出した。夜、そんなに遅くならない時刻に、アパートの近くの公衆電話から横山さんに電話をかけてみた。家族が応対に出たあと、横山さんに替わった。

「私、福地さんには失望しました」

 横山さんはいきなり言った。

「えっ、どういうことですか?」

「明子のこと、大事にしてくれる人だとばかり思っていたのに」

「大事にしているつもりなんですけど・・・」

 明子は横山さんにアパートを出たことを伝えていた。

「でも、明子は傷ついていますよ。しばらく福地さんには会いたくないと言っていますから」

「明子はそちらにお世話になっているんですか?」

「いえ、ここにはいません。でも明子の許可がないと居場所は教えられません」

 そのあと、僕は横山さんに謝りながら、経緯を言い訳しながら居場所を聞き出そうとしたがダメだった。

 そんな日が続いたが、一週間があっという間に過ぎ、また日曜日がやってきた。「床屋へ行く」と嘘をついて帰らなかった日曜日から、あっという間の一週間だ。僕は仕事の疲れと、ここ数日の睡眠不足と、明子がいなくなった精神的な疲れとで、午後二時を過ぎるまでずっと寝続けた。目が覚めても部屋に明子はいない。僕は絶望的な気分になった。

 夕方まで部屋であれこれ考え続けたが明暗は浮かばず、何か行動を起こさなければいけないという焦りも感じたが、どうして良いかわからないまま日がとっぷりと暮れた。そして、僕の足はJRT駅から大阪駅に出て、今度は阪急電車に乗り換えて園田駅に向かっていた。ウコンちゃんが住む街の駅へと、なぜか足が向いてしまったのだ。

 


 園田駅で降りたとき、時刻はもう午後十時半を過ぎていた。ウコンちゃんの住む街への最終終バスが、まるで僕を待っていたかのようにポツンと停まっていた。明子はどこに行ってしまったのか分からない。自分が犯したミステイクなのだから、明子が許してくれるまで普段の日常を送りながら、ジッとアパートで帰りを待つべきなのだが、寂しさに勝てなかった。昔からそうだ。両親や弟や妹と同じ屋根の下で暮らしていても、僕はフトした瞬間に猛烈な寂しさに襲われ、自転車に乗ってあてもなく彷徨い、友人の家を夜遅くに訪ねたりする妙な癖があった。寂しさを耐える力が自分にはゼロなのだと思った。

 そんなことを考えているとバスの発車ブザーが鳴り、ドアが閉まった。その音に僕は我に返った。
「自分はいったい何をしようとしているんだ?どうかしている」
 だが、夜のバスはためらいもなく暗闇を走り抜け、ウコンちゃんの街のバス停にまもなく着いた。

 商店のないアーケードに入り、ウコンちゃんの家の前に立ってドアをコツコツと叩き、しばらく待ってみたが応答がなかった。見上げると二階のベッドのある部屋の電気も消えていた。まだ帰っていないのだろうか、いやこんな時刻だからもう寝てしまったのだろうか。ここまでやってきたのだから、少しだけ顔を見て「やあ、元気?」とだけ言って、それからT駅のアパートまで歩いて帰ろう。四時間も歩けば帰れるはずだ。
 僕はしばらくそんなことを考えたが、そのあと入口の横にあるゴミ箱の上に足をかけて、壁を這っていた細い水道管になんとか掴まって上がり、今度は以前店舗だっただろう部分の幅の狭い屋根に這い上がった。屋根の上の土埃で茶色に汚れた服の埃を払いながら立ち上がると、ようやく二階の窓のあたりに顔が届いた。窓の向こうにはウコンちゃんのベッドがある。コツコツと叩いてみた。まるでオリビアハッセーとレナードホワイティングの映画「ロミオとジュリエット」のワンシーンみたいだなと思ったとき、窓が少し開いてウコンちゃんの顔が見えた。
「こんばんは」と僕は言った。
「福地君、なんばしとるばってん?ちょっと待って、今すぐ玄関を開けるから気をつけてゆっくり降りて!」
 ウコンちゃんは大きな目をさらに大きくして驚いた。
「玄関、開けなくてよかよ。ここから入るけん、いいやろ」
 僕は窓をもう少し開けて、両手に精一杯の力をこめて自分の身体を引き上げた。思ったより簡単に窓に身体が乗っかり、そのまま部屋に滑らせた。途中で脱ぎ捨てた靴が店舗の屋根で跳ねて一階のゴミ箱の上に音を立てて落ちた。部屋の中に身体を入れると一回転してベッドに仰向けになった。
「馬鹿よ、福地君」
 そう言って、ウコンちゃんは僕の身体に覆いかぶさってきて、それから声をあげて泣きはじめた。
「ちょっと待って、服が汚れとるけん」
「そんなこと、どうでもよか。ウチ、嬉しか〜」
 どうしようもなく馬鹿なことをしていると思いながらも、僕はウコンちゃんの震える身体をきつく抱いた。

 翌日、ウコンちゃんと一緒に仕事に向かった。昨夜は彼女のベッドでずっと抱き合ったまま寝た。僕は明子がいなくなってしまった空虚を埋めるためにウコンちゃんを腕に抱いていたが、彼女はどんな気持ちで僕の腕の中で夜明けまでの時の刻みを感じていたのだろうと思うと、真夜中の窓からの訪問者なんて、平面な文字だと素敵だとも言えるのかも知れないが、単なる自分の意のままの行動に過ぎず、考えれば考えるほど恥ずかしく思うのであった。

 家を出てから、ウコンちゃんは僕の右腕を抱くようにして歩き、バス停で待っている間も腕をずっと持っていた。真夜中の訪問者への強い信頼感が、腕を取るという彼女の行為に明らかに表れていた。それは嬉しくもあり、また戸惑いを感じないわけにはいかなかった。

 園田駅で阪急神戸線に乗り、ウコンちゃんは西中島南方で下車し、僕は梅田まで出て地下鉄御堂筋線に乗るのだが、御堂筋線は西中島南方で連絡しているので一緒に降りた。

「どげんしたと?」

「ここからも御堂筋線、つながっとるばい。ちょっとまだ時間あるやろ?喫茶店に入ろうっちゃ」

 駅の近くの小さな喫茶店に入った。ウコンちゃんの信頼度が急速に上昇しているのは分かるが、僕だって彼女といる時間の心地よさを捨てられないだろうと思った。

「今日も昼から書類集めに来るっと?」

「うん、それがどげんしたの?」

「いや、また顔を見れるから、そう思っただけやけん」

 ウコンちゃんはコーヒーカップを持って、「フー」と二度ばかり冷ましてから一口だけ飲んだ。その仕草がちびまる子ちゃんに似ていてすごく可愛く、僕は自然と笑顔になった。

「何笑っとると?」

「笑ってないっちゃ、コーヒー飲みよる仕草が可愛いから」

「何よ、そんなこと言って。どうするん?」

「何が?」

「ウチらふたりのこれからのことよ」

「うん」

 僕は黙る。黙るしか術はなく、今の自分の立場からどんな言葉をウコンちゃんに伝えたところで、それはおそらく彼女にとっては遠くで聞こえる鳥の鳴き声くらいにしか感じないだろうし、明子への培われた愛情とウコンちゃんへの気持ちとは別の種類のものであるのは分かっているとしても、うまくそれを伝える自信がなかったからであった。

「黙ってるってずるい」

「うん」

「彼女のこと、どうするんね?」

「ちゃんと考えるばい」

 私こともちゃんと考えて欲しいと、きっとウコンちゃんは言うだろうと思っていたが、意外にも返ってきた言葉は「約束しとるんなら守らんといけんよ」だった。確かに明子の父親から「娘をよろしくな」と、ヤクザの親分みたいなドスの利いた言い方をされたり、彼女の兄からも「結婚は慌てることはない。ちゃんとしたアパートに住んで、電話を引いて普通の生活ができるようになってからや」と前に言われたことがある。普通の生活とはどういう暮らしを指すのだろうと、天邪鬼な僕は言葉にこそ出さなかったが、「今でも普通の暮らしではないのか」とこころで反発したものだった。

 結婚の約束?

 考えてみれば結婚の約束なんかしていないと思った。付き合いを認めてください的な言葉を明子の両親や兄などに伝えたことはあるが、結婚したいという意思は伝えていない。

「何考えとるん?」

「いや、いろいろとね。行こうか」

 ウコンちゃんと別れて地上を走っている地下鉄に乗り、ああ一週間がまたはじまったんだと思うと憂鬱になった。ともかく、しばらく明子から会社に電話がかかってくるのを待とうと思った。

 

 

 明子からは一向に連絡がなく、駅からアパートが近づいてくると、もしや窓の明かりが灯っていないだろうかとの期待も虚しく終わる日々が続いた。このまま別れてしまう自分を想像してみたが、僕の現時点における生活に明子の存在がない情景は見えなかった。明子は僕のこころというアイテムの奥深くに入り込んでいたことが、客観的な想像から分かった。そうなると焦りの気持ちが日を追って膨らんできた。

 そんなこころの状態だったが、ウコンちゃんは相変わらず週に二日か三日は書類の受け渡しにやって来て、用事が終わると「ご機嫌いかが〜」と、ラジオのDJよろしく囁いてきた。

「何もなかよ」

「返事になっとらんよ」

「何もいいことなんかなか、萎れとるばい」

「ウチんちおいでって」

 カツラのほぼオカッパ頭の髪をいじりながら、ウコンちゃんは悪戯っ子みたいな笑いを浮かべて言う。でもそういうわけにはいかない。

「ウーン」と生返事をしていると、田中係長などが咳払いをしてくるので、ウコンちゃんは「じゃあ、ご機嫌よう〜」と言って事務所を出て行く。そんな日が続いた。

 季節は秋に移り、休みの日に駅までブラブラと出ると、小学校の運動会が行なわれていたり、公園の木々も次第に色を変えつつあり、老人たちの視線を浴びているといった情景を目にした。

 明子がいなくなって早二ヶ月になろうかというころ、彼女の親友の横山さんから会社に電話がかかってきた。

「もし時間があったら仕事が終わったあと会えますか?」

「大丈夫です、いつでも」

 横山さんの勤務先は近鉄奈良線の上本町六丁目駅近くで、僕は仕事を提示で終えたあと、彼女の指定する喫茶店へ急いだ。もしかして明子が一緒にいるんじゃないかと、こころが少し興奮しているのに気がついたが、そんなことはないだろうと打ち消した。物事の解決には順序があるはずだから。

 喫茶店に入ると横山さんが僕を確認して手を振った。

「ごめん、いろいろと心配かけて」

「心配はしてないですよ。明子は福地さんのこと好きなのは分かってるし、ちょっとガッカリだったけど、もう何もないんでしょうね?」

「ないです。悪かったと思っています」

 本当は「ないことはないと」と思った。明子への愛情とウコンちゃんへの気持ちとは種類が異なる。それは人の趣味だって同じじゃないかと思う。釣りが好きだが、釣りだけに情熱を注ぎ続けるわけにはいかないだろうし、並行して音楽を趣味にして、どちらも大切だが失えないというのと、何ら違いがないではないかと思うのだ。嘘を吐いて無断外泊は罪だが、そういう明子を大切にしながらウコンちゃんとの付き合いだって可能だろうと、このときの僕は思っていた。

「じゃあ、明子に連絡するように伝えます。本当にもう大丈夫なんですよね?」

「はい」と僕は返事し、「こんなことはもう絶対にしないと明子に伝えてください」言い、横山さんと別れた。

 アパートへの帰りの電車の中で、梅田で阪急に乗り換えてウコンちゃんの家へ向かおうかと一瞬だけ気持ちが掠め通ったが、どうにか打ち消した。

 横山さんと会った翌日、午後一時を少し過ぎたころ、会社に明子から電話があった。「もしよければ今夜会いたい」と彼女は元気のない声で言った。

 どこに行けばいいのかを聞くと「近鉄大阪線の小阪駅の改札口まで来て欲しい」と言った。

「何時に行けばいいかな?」

「六時半ごろ、来れる?」

「仕事、放り投げてでも行くよ」

「うん」

 明子は東大阪市の小阪というところに住んでいるようだった。今夜明子に謝って、アパートに戻ってきてもらおう。ここしばらくの空虚と悔恨の念が小さく萎んでいくような感覚になって、ともかくはホッとした。

 この日も午後三時前ごろにウコンちゃんが書類を取りにやって来た。いつものとおり受け渡しが終わると僕の横に来た。この日は支店長も係長も不在で、同僚の太田と女子社員が数人、おしゃべりをしながら事務をとっているという、少しリラックスした事務所内の雰囲気だった。

「福地君、ご機嫌いかがかしら〜」

「変わらんよ、何もいいことなか」

 するとウコンちゃんは僕の耳元に顔を近づけて「今夜、ウチ来んね?」と言い、彼女の顔を見上げると、ニコッと笑うのだった。

「今夜はだめっちゃ、用事があるけん」

「そうなん、じゃ仕方なかね」

 ウコンちゃんは「ご機嫌よう〜」と言い残して事務所を出ていった。明子がアパートに戻ってきてくれたら、そのことをウコンちゃんにキチンと話をしないといけないと思った。

 午後六時半の少し前に、僕は近鉄の小阪駅についた。改札口を出たところで立っていると、間もなく明子が同じ改札口から出てきた。ひとつ後の電車に乗っていたようだ。

「ごめんね、勝手に飛び出して」

「いや、こっちが悪いから」

「居所も教えなくて、本当にごめんなさい」

「いいって、僕が嘘をついたんだから、明子が怒るの当たり前やけん」

 明子が住んでいるのは、駅からわずか二分程度の普通の民家の隣にある離れのような部屋だった。

「となりが大家さんなんよ」

「こんな部屋、どこで知ったの?」

「大家さんが横山さんの知り合いでね、アパートを出て彼女の家に二日ほどお世話になったんやけど、ずっといるわけにいかないから、ここを紹介してもらったのよ」

 入るとフローリングの六畳ほどの部屋には家具は何一つなく、布団が折りたたまれて隅に置かれ、ボストンバッグがひとつだけと、洋服が三着ほど壁のハンガーに吊るされているだけだった。

「ここ、窓がないのよ」

 言われてみると部屋には窓がなく、かなり高い位置に磨ガラスの小窓が見えたが、それが何のためにあるのか分からなかった。

「夜は電気を消して寝るのが怖くて、寝られへんかったんよ〜」

 そう言ってから明子は急に泣きだした。僕は彼女の身体を軽く抱き、「ごめん、悪かったよ。こんな寂しい思いをさせたのは僕の責任やから。アパートへ帰ろう」と言った。

 それから明子とふたり、となりの大家さん宅を訪れて事情を説明し、一ヶ月分の家賃は既に支払っていたので、今度の日曜日に布団などを運ぶことにして、この日は一緒にアパートに帰った。帰りの電車の中、明子は僕の手をずっと握っていた。

 

 

 明子が戻って来てくれてから、朝は仕事に一緒に出かけ、夜は残業があってもできるだけ断って真っ直ぐアパートに帰った。僕のほうが帰り着くのが早い日もあり、畳にゴロンと横になってボンヤリしていると、「あら、最近仕事は忙しくないの?」と、帰ってきて急いで晩ご飯の準備をしながら、明子は心配そうに訊く。

「残業で遅くなると、明子が心配するって思うけん」

「心配なんかしてへんよ、信じてるから」

「ほんなこつね?」

「うん、信じてるから、もう嘘つかんといて」

「分かっちょるばい、心配なか」

 日曜日もトイレと銭湯へ行く以外はずっと明子と一緒で、ふたりが時間と空気を共有している感覚は、明子が家出する事件の前には特に認識したこともなかったが、こんなに心地良いものだとは思わなかった。そんなふうに僕には幸せの時間が積み重なっていったが、会社でときどき顔を合わすウコンちゃんの表情は、僕のそれとは反比例していくかのように次第に曇りがちになり、やがてはお馴染みの「ご機嫌いかが〜」と、ラジオのDJのような囁きも、少々投げやりな口調にも思えるのであった。

 数日前にたまたまトイレから出て事務所に入ろうとしたとき、エレベータが開いてウコンちゃんが登場した。

「こんにちは〜、福地君、ちょうどよかった、ちょっと五分ほどよかね?」

「うん、どげん話なん?」

 エレベータに乗って八階まで行き、そこから階段を上って屋上に出た。御堂筋の向こうに高層ビルが並んでいたが、このビルの周辺は街の印刷屋や民家がまだ残っている区域で、屋上の僕たちふたりは視界の外にあった。

「彼女とうまくいってるの?」

「普通じゃけん」

「普通って、その言い方、不誠実よ。そんなの、失礼じゃなか?」

 僕はウコンちゃんの言葉の意味が分からず、かなり向こうにそびえているソニータワービルの方を見た。

「いいんよ、彼女と、そう、彼女を大事にしてあげて、私はいいけん」

 ソニータワービルから、その手前の建築中の大きなビルを眺め、今ここでどんな言葉をかけても、ウコンちゃんはきっと泣き出すだろうと思い、僕は黙った。

「私は二番目でよかけん、また時間のあるときウチんち来てよ」

 それから彼女は「じゃ、事務所へもどろう」と言い、僕たちは階段をおりてエレベータに乗った。五階までの数秒間、ウコンちゃんは僕に身体をあずけてきた。彼女の首筋からお店のないアーケードの匂いが微かに漂い、その香りは僕の唇を彼女のそれに導いた。

「開くけん」と、ウコンちゃんは唇を離して言った。僕の唇に彼女の口紅が少し付いているのが分かったが、事務所のドアを開ける前に舌で舐めとった。

 

 人はなぜひとりの女性だけを愛さないと不道徳なのだろう、人は誰もがひとりの女性にこころが突き進めば、周りの女性は全く見えないのだろうか、などと、このころの僕は毎日のように自問し、それに自答できないままモヤモヤとした日々が続いていた。

 ウコンちゃんは月曜日と水曜日か木曜日の午後一時を過ぎるとやって来たが、「ご機嫌いかが〜」とラジオのDJのような囁きではなくなり、「じゃ」とだけ僕の前を通るときに言い残して事務所を出ていくようになってしまった。

 そしていつの間にか紅葉の季節が終わり、一年のラストスパートの助走に入りはじめたころに、ついにウコンちゃんは事務所にやって来なくなった。二度か三度、新大阪のデータセンターの所長が自ら書類の受け渡しに来たが、やがて大柄でザーますメガネをかけたツンとした女性が所長と一緒に一日だけやって来て、そのあとは彼女がひとりになった。つまり、ウコンちゃんは辞めたか部署異動したかどちらかである。

 新人の彼女は支店長や係長と言葉を交わしたあとは、僕の方など見向きもせず、書類を受け取って颯爽と事務所を出ていった。ちびまる子のような愛嬌のあるウコンちゃんとは、正反対のタイプの女性だった。

「新人ですか?」

「そうや、ウコンちゃんは辞めたようやな」

 僕はショックを顔に出していたようで、向かいの太田が「福地がフッたからやろ。あ〜あ、ウコンちゃん、いい感じやったのに」などと言うのであった。

「フルもフラれるも、別に付き合ってなかったですから」

「ホンマか?彼女、福地にゾッコンやったみたいやぞ」

 うるさい同僚の言葉よりも、やっぱり僕に前もって告げずに退職してしまったことがショックで、その日は仕事が手につかず、何とかしてすぐにでも訪ねて行きたいと思った。このところ残業はしていないから、一時間くらい帰るのが遅くても疑わないだろう。仕事を定時で終えて、僕は焦る気持ちを身体中に抱えたまま、阪急電車に飛び乗った。園田駅で降りて、ちょうど発射寸前だったウコンちゃん行きのバスにも更に飛び乗った。今日会えたら「僕には彼女がいるが、ウコンちゃんがいないと困るんだ」と言おう、そしてその言葉の先に何があるのか、何が見えるのかは分からないにしても、ともかくウコンちゃんが前に言っていた「私は二番目でよかけん」という言葉を、二番目でも一番でもそれは気持ちの順序ではないと伝えよう。

 園田支所前バス停で降り、店のないアーケードへ突進した。今にも電源が切れそうな街灯が暗闇を微かに照らしていた。ウコンちゃんの家の前に立ったが、一階も二階も電気は消えていた。ドアをコツコツと叩いても応答がなく、ふと見ると、玄関横のゴミ箱がきれいに空になっていて、黒い大きなビニール袋が数個出されていた。電気メーターの回るスピードがジリジリと緩慢な動きになっているのを見て、僕は焦る気持ちでドアをかなり強く何度も叩いた。

「あのう、ウコンさんは引っ越されましたよ」

 いつの間にか僕のうしろに中年の主婦が立っていた。

「えっ?」

「一昨日の昼間、運送屋のトラックが来ていましたよ。ウコンさんは夕方、このご近所何軒かに挨拶に来られました。大きなカバンを持っていて、これから実家へ帰ると仰ってました。前にここにお住まいだった叔父さんも手伝っていましたね」

 主婦はそう言って立ち去った。僕はしばらく呆然としたまま動けなかった。

 

 

 ウコンちゃんが会社を辞め、田舎に帰ってしまったと知ってから二週間ほどがあっという間に過ぎた。その間、ウコンちゃんから会社に電話がかかってくることをずっと期待して、昼休みも外には出ずに出前を取ったり、通勤途中でパンやおにぎりを買って事務所で昼食をとり、彼女からの電話を待っていたが、幸せの電話は鳴らなかった。

 ウコンちゃんが立ち去ったあとの家を訪ねたとき、近所の主婦が確か熊本の実家に帰るようなことを言っていたと聞いた。こうなれば、ウコンちゃんの実家を訪ねるしか彼女と会える方法はないと思った。

 ある日の昼休み、近くの電話局を訪ねて全国の電話帳を見せてもらい、熊本県玉名市の「ウコン」という苗字の電話番号を全部控えた。さすがに珍しい名前のようで、玉名市にはウコン姓は四軒しか存在しなかった。僕は昼休みを利用して、それらに次々と電話をかけてみた。すると最後の四軒目が彼女の実家だった。

「ウコンです」とかなり年配ふうの女性が出た。

「私は福地といいますが、和子さんはご在宅でしょうか?」

「和子なら今出とりますが、どちらの福地様ですかね?」

「大阪の福地とお伝えいただけませんか、また改めてご連絡します」

 電話を切った。ウコンちゃんの実家の住所は電話帳に記載されていたものを、あらかじめ控えておいたから、これで彼女と再び線がつながったような感覚になった。

 ウコンちゃんと会いたい気持ちが日に日に膨らんでいき、考えた挙句、僕は明子にまた嘘をついた。

「佐賀の実家のおばあちゃんの具合が悪いらしいけん、心配やから今度の土曜日は休みを取って二日間ちょっと帰ってくる」

「そうなん、それは心配やね。帰ってあげないとね」

 明子の表情からは、ただの一ミリさえも疑いの様子は窺えなかった。こころが少し痛んだが、あと一回だけ許してくれとこころで訴え、僕はその週の金曜日の寝台特急で熊本へ向かった。二十時半頃の列車に乗り、本を読みながら雑念を払おうとしても、明子への詫びる気持ちとウコンちゃんへのときめきとが、交互にこころに現れ消えて、さらに列車の揺れで翌朝八時過ぎに玉名駅に着くまでほとんど眠れなかった。

 ウコンちゃんの実家がある玉名市大浜町へは駅を出て南へ少し下り、菊池川を渡ってからは、川沿いにドンドン歩いていけば着くようだが、こんな朝早い時間に訪ねても、彼女の家族も驚くに違いないと思い、幸いに好天でもあったので、大浜橋を渡ったあたりの土手に寝転んだ。真っ青な空を見上げていると、いったい僕は何をしているんだろうと虚しい気持ちもなったが、ここまで来たからにはウコンちゃんと会って帰ろうと思った。会ったとしても、その先には何かが見えるわけではないだろうが、未熟な僕は今はそうするしか思い浮かばなかった。

 土手を降りると小学校の運動場が見えた。半ドンの土曜日、一時間目の授業の真っ最中なのだろう、運動場に児童の姿はなく赤茶けた土が剥き出しのまま、二階建て校舎の開いた窓から子供たちの頭が並んで見えた。

 板張りの古い家屋の並びを抜けて、小さな神社の裏手に回るとウコンちゃんの実家のあたり、こちらに向かってゆっくり歩いてくるお婆さんに尋ねてみると、次の角を曲がって二軒目と言う、銅鑼の鐘がひと鳴りしたように急にこころときめき緊張した。

 言われた通りに曲がると、左手に並んだ住宅のはるか向こうは田園で、そのまた向こうは有明海のようだ。ウコンちゃんはこんなにも景色の素晴らしいところで生まれ育ったのだ。

 付近は農地が多く、ウコンちゃんの家も古い大きな農家だった。開いていた門から玄関まで歩く間に、あらかじめ鞄に入れていた大阪土産の和菓子を取り出し、少し緊張してインターホンを鳴らした。しばらくして戸が開いた。

「どちらさまでしょうか?」

 母親と思われる女性が不思議そうな顔で僕を見た。早朝の農作業から帰ってきたばかりのような服装だった。

「大阪の福地と申します、朝早くからすみません。和子さんはご在宅でしょうか?突然でご迷惑かもしれませんが、いらっしゃったら少しお会いしたいのですが」

「福地さん・・・この前、電話ばくれとらした方やとか?和子ば、わざわざ大阪から訪ねて来んしゃったとですか?」

「はい」

「ちょっと待っとってんしゃい、すぐに呼んで来ますから」

 彼女は僕を中に手招いたあとで奥へ戻っていった。家の中は外からの印象と違って内装が綺麗に施され、廊下はよく磨かれて木の光沢が反射していた。僕は五分以上も待たされ、少し居辛さを感じはじめたころに彼女が戻ってきた。

「来たんね〜」

 ウコンちゃんは目を真ん丸にして明らかに驚いた表情で言い、母親は「上がってもろうたらどげんなん?」と、娘をいきなり訪ねて来た男に戸惑いながらも困った様子は見えなかった。僕は少し躊躇したが、ウコンちゃんが「上がって、遠慮いらんけん」と、僕の片手を取って言うので靴を脱いだ。

 彼女の部屋は廊下を何度か曲がったところにあり、庭を四方から囲むように部屋がある大きな屋敷風の家に、今度は僕が驚く番だった。ウコンちゃんの部屋の真ん中にはすでにコタツが出されていて、窓際に大きなベッドがドカンといった感じで置かれていた。窓際のベッドを見て、壁をよじ登って窓から侵入したあの夜のことを思い出し、あれから三ヶ月ほどしか経たないのに、僕にはもう半年以上も前のことのように思えて、懐かしい気持ちに包まれた。

「寒くなってきたばいね。足、どうぞ入れてください。今お茶ば淹れますから」

 母親はそう言ってから部屋を出て行った。ウコンちゃんがコタツに入り「ごめんね、何も言わずにいなくなって」と言った。僕は彼女の顔を久しぶりに見て、こみ上げてくる気持ちを抑えられず身体が震えた。

「ご機嫌いかが〜って、言うてくれんと?」

「よかよ。ご機嫌いかが〜?」

「心配したばい」

「ごめんね。でも来てくれて、ほんなごと嬉しか〜」

 そう言って、ウコンちゃんは下を向いたまましばらく顔を上げなかった。

 ウコンちゃんはしばらくの間、本当にそれは長い時間、おそらく十数分も下を向いたままだった。彼女の母がお茶を持ってきてくれて、それをこたつのテーブルの上に置いたとき「あんた、どげんしたと?」と言ったが、それでも顔を上げず、首をゆっくり左右に振るだけだった。

 母が部屋を出て行ったあと、出された熱いお茶を飲んだ。二度お茶を啜ったときウコンちゃんが顔を上げて「まさか来てくれるなんて思っちいなかったから、嬉しかったっちゃ」と言った。

「ちょっと外に出らんか?」

 僕は母親にお礼を言い、ウコンちゃんは「ちょこっと外に出てくるから」と言って、大きな家を出て田園を横切り、菊池川の土手に上がった。しばらく歩くと古い橋が見え、その手前で河川敷へ降りた。

「佐賀の田舎の川と同じくらい透明やね」

「ここはいっぱい魚が釣れるっちゃ、水がきれいやけんね」

 コンクリートの川べりに腰をおろして、ふたりそろって水面を眺め続けた。伝えたい言葉が伝えられないもどかしさに僕は唸った。ウコンちゃんも正反対の立場で同じことを考えているのかも知れないと思った。長い時間が過ぎて、二度と戻らない遥か彼方に消え去った。陽射しは初冬の暖かみを含んでいて、ふたりを心地良く包んでくれたが、こころの中は決してそうではなく、僕は泣きたくなるのをずっと堪えた。

「またここに来てもよか?」

「玉名に?」

「そう」

 ウコンちゃんは立ち上がって「有明海の方に行こう」と言った。狭い河川敷を僕たちは手をつないで歩いた。

「そげなこつ、言わんで」

「なして?」

「いつ来てくれんかっち、待つのが辛かけん」

 有明は僕には寂しい海に思えた。泥のような海が水辺線の向こうまで続いているような錯覚にも陥った。決して見通せない有明の表面は、彼女のいる僕とウコンちゃんとの関係のようにも感じられた。或いは永遠に続くレールのようにも・・・。

「寂しい海やね」

「そげなこつはなかっちゃ。ここは夕陽がどこよりも綺麗やけん」

「うん」

 それから再び河川敷を戻り、真昼間というのに橋の下に差しかかったあたりで、僕は我慢できずにウコンちゃんを抱きしめ、唇を重ねた。懐かしい香りが彼女の口の奥から漂ってきて、唇を離したあともその匂いに酔った。

「電話や不意に会いに来ることは、今後はせんっち言って」

「なしてそげんこつ言うと?」

「分からん人やね」とウコンちゃんは怒った顔で僕を見た。

 それから土手を上がり、駅のほうに向かった。時間の許す限りウコンちゃんと一緒にいたかったが、長くいればいるほど彼女のこころをえぐり取っているような気になり、僕はいたたまれなくなったのだ。

 

 曜日は日曜日にさっき替わった。

 玉名の駅で列車に乗ったのが午後三時半ごろ、行けるところまで行こうと各駅停車と快速電車を五回ほど乗り継いで、ここ終点尾道についたのが午前零時五分、この先へ行くには午前五時過ぎの始発まで待たなければならなかった。

 ウコンちゃんと玉名駅の近くまでずっと河川敷を、農免道路に差し掛かるあたりで土手を上がり、駅までのほぼ一直線の道路を、彼女に右腕を抱き抱えられるようにして歩いた。

「ウチんちで晩ご飯ば食べて帰ったらどげんなん?」

 ウコンちゃんはそう言って僕の腕を引くような仕草を見せた。でも、日が暮れてから別れて駅まで見送られたら、きっと僕はこころが破裂してしまいそうなくらい辛くなる気がしたから、「これから佐賀の実家に寄らんならんけん」と嘘をついた。

 玉名の駅が近づくと、なにか話さなければと言葉を探したが、もう今更何を言っても僕らは離れ離れの暮らしを送っていく現実を変えられないし、彼女の顔を見たいという目的は達したのだから、これでいいんだと自分に言い聞かせた。

「ご機嫌いかが〜って、ラジオのDJみたいにもう一度だけ言ってくれんね?」

「よかよ」

 耳とこころにしっかり記憶しておこうと言葉を待った。でも道路を渡って駅前の広場に差し掛かったあたりまで、ウコンちゃんは何も言わず、僕の右腕をさらにきつく掴んだままで、そのまま駅舎の前に着いてしまった。

「ご機嫌・・・いかが〜?」

 鳴き声で彼女はようやく言ってくれた。その声につられて僕の胸も一気にせり上がってきて、もう何も言えなくなってしまった。

「機嫌は、最高やけん、よか気分で電車に乗れるちゃ」

 駅の改札前には何人かが列車を待っていた。ふたりが共有できる時間は、あとわずか五分もない。僕はひと目も気にせずウコンちゃんを抱きしめた。この感触がいつの日かまた蘇る日が来るだろうかと思うと、切なさが沸点に登った。

「辛くなるけん、もう行ってよかよ」

「うん」

「福地君、激しく生きてね」

「何ば言うとね?」

「暗いから、福地君」

 僕の腕の中から消えたウコンちゃんは「じゃ」と言い残して通りの方へ走った。道路の手前で振り返って何かを叫んだ。でもその声は僕には届かず、やがて姿が見えなくなった。

 尾道駅で降りて、駅のベンチに腰をかけた。駅舎の向こうに瀬戸内海があるはずだが、真っ暗で何も見えず、向かいの島だろうか、ところどころに小さな灯りが灯っていた。

「福地君、暗いからって・・・」

 ウコンちゃんの最後の言葉を反芻してみた。激しく生きろという言葉も考えてみたが、どうにも分からなかった。しばらくすると駅員がやって来た。

「もう列車は来ませんよ。電気をすべて消しますから、駅の待合室で横になりませんか?」

 僕より少しだけ年上だろうか、人の良さそうな駅員が心配そうに言った。僕の表情や雰囲気から、もしかして自殺でもしそうに思ったのだろうか。

「駅から出ても、この切符で明日の朝乗れますか?」

「大丈夫ですよ」

 駅舎を出て、瀬戸内海を見ようと思った。駅員にお礼を言って、寝静まった駅前の道路を渡るとフェリー乗り場があった。誰もいないベンチに座って海を眺めると、ときどき明かりが灯った船がゆっくりと通過していった。ひとつの短編小説を読み終えたような気持ちになった。

 

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