再突撃!アンコールワット

Music:Hokago


 ヴィエラ青年

 ロリュオスの遺跡は最後にロレイを訪れ、敷地から出たところにある屋台で休憩した。ヴィエラと一緒にコーラを飲みながら彼といろいろ話をした。

 今回僕のバイタクを担当してくれたヴィエラは二十四才、スカイウエイゲストハウスに出入をしている。顔つきは俳優の中井貴一をもう少し優しくした感じで、笑うと白い歯が印象的なハンサムボーイだ。いやボーイという年令ではないかもしれないが、やんちゃでいい加減なバイタク野郎が多い中にあって、物静かで奥ゆかしい彼は好青年である。

 ヴィエラ青年

 是非、アンコールワットを訪ねた際には、スカイウエイGHに出入しているヴィエラを指名してやって欲しい。彼なら間違いはないと僕は思う。

 彼は二男一女の第二子長男としてシェムリアップ近くの村で生まれ、高校を卒業後、特に仕事がないのでバイタクに従事しているという。この仕事のために、同じバイタク仲間とシェムリアップの町中にあるアパートで共同生活をしているらしい。

 実家はバイクで三十分もかからないところにあって、そこには母と姉と弟が暮らしている。父は去年五十一才で病死し、実家の生計はレストランのウエイトレスをしているという姉の収入とヴィエラの収入で賄っており、弟はまだ高校生である。

 「生活はずっと苦しいですね。父が亡くなる前もずっと両親は仕事をしていませんでした。私が高校を卒業できたのは親戚などから援助してもらったからです」

 「亡くなったお父さんは昔からずっと病気だったの?」

 「いえそうではありません。父は特に体が悪いということはなかったのですが、仕事がありませんでしたから家にいました。父が学生の頃はポルポトが支配していた時代で、学校で勉強ができなかったので、文字を書いたり読んだりすることや、計算することができませんでした。だから今のシェムリアップでは、読み書きができないと仕事はありません」

 ここにもポルポトの悪政の犠牲者の生の声が聞かれた。

 カンボジアの歴史の中で最も悲惨なポルポト支配化時代。
 なぜロンノルからポルポトに政権が移ったのか、クメール・ルージュが台頭した背景は?或いはベトナム戦争との関係や、ベトナム、アメリカの利害関係など、ここでは述べないが、ヴィエラの言葉にもあるようにポルポト時代は教育というものを排除していたのだ。

 ポルポトの極悪政などに関しては下記のサイトが比較的分かりやすく記述されています。

    ↓ (無断拝借ですが、まあいいでしょう)

 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/3077/sub3-78.html 

 そしてヴィエラはさらに語った。


 ヴィエラ青年 その二

 カンボジアのアンコールワット遺跡群のある町・シェムリアップ。

 「アンコールワットを撮りたい。できればクメール・ルージュと一緒に。地雷の位置も分からず、行き当たりドッカンで、最短距離を狙っています・・・・」

 こう言い残して、フリーの報道写真家・一ノ瀬泰造は、今から三十年前の千九百七十三年十一月にアンコールワットに突撃して戻っては来なかった。同氏が生前、カンボジア、バングラディッシュ、ベトナムなどから両親や友人知人、恩師などに送った手紙や残された日記などをもとに出版された「地雷を踏んだらサヨウナラ」は、周知の通り数年前に映画化され、再び若者たちの心を惹きつけている。

 僕はこの本を何度も何度も読んだ。読んで数ヶ月してからまた思い出したように読んでいる。それは写真家に憧れているからでもなく、アンコールワットに対する思いでもない。

 自分自身が様々な要因でくじけそうになった時、或いは目的に向かって頑張ろうという気力が萎えそうになった時に、一ノ瀬氏の本を読む。そこには常に前しか見ていない人間の姿があり、確固たるポリシーと意思が存在し、さらにアッケラカンと感じるほど命に何等こだわらない逞しい彼の姿があるからである。

 命など気にするな、と言っているわけではない。そんなものにこだらずに目的に向かって進む姿に、僕はいつも心を打たれる。

 「地雷を踏んだらサヨウナラ」 − こういう言葉を残せた彼は、地雷は踏まなかったがクメール・ルージュによって処刑されたわけだが、最後の瞬間まで後悔はしなかっただろうと、僕は無責任に思うのである。

 まだお読みでない方は、一度読んでみてください。

 講談社文庫として500円ほどで販売されています。

 

 さて、一ノ瀬泰造氏の本のことをいきなり書きましたが、なぜかというと、やはり今月は十一月だし、それに彼がアンコールワットに突撃してちょうど三十年ということでちょっと触れてみました。

 ロリュオスの遺跡を訪ねたあと、ロレイの遺跡の敷地でコーラを飲みながらヴィエラ青年とさらに話をした。

 彼はシェムリアップでバイタク仲間とアパートを借りているのだが、少し離れたところにある実家では母と姉と高校生の弟が暮らしている。家族の毎月の生活費は大体六十ドルほど必要らしい。家は自分のものだが土地は借地だという。

 ヴィエラがバイタクで毎月八十ドル稼ぐと、ウエイトレスとして働いている姉が三十ドルほど稼ぐので、何とか生計は維持できるらしい。

 「八十ドル稼いでも、自分のバイクではないので、バイクのレンタル料とガソリン代がかかります。そして私は今日本語学校に通っていて、これが毎月十ドルです」

 だから月収八十ドルでも残るのは四十ドル程度らしいのだ。その中から少しだけ小遣いのようなお金を自分が取って、残りを実家に渡すという。観光客が多い季節だと月収百ドルを超えることもあるが、今回のようにSARSの影響で閑散としていると、八十ドルには遠く及ばない。そんな月は借地代を支払えず、少し待ってもらうこともあると語っていた。

 「日本語教室も日本人の先生の学校だと月に二十ドルかかります。カンボジア人の学校だと半額です。カンボジア人の先生に習っても、あまり上達しないので、本当は日本人の先生から学びたいのですが、今は無理です」

 彼は少し苦笑いをしながら言った。僕はただ曖昧な微笑を浮かべながら、彼の話を聞いていた。


 水浸し事件 その一

 ロリュオスの遺跡をのんびりと時間をかけて見たあとは宿に戻った。部屋に戻り、汗と泥を洗い流してからヴィエラに郵便局まで乗せてもらった。

 「五分で戻ってくるから」と彼には入口で待ってもらって中に入り、絵葉書を三枚買って徒然なるままに書きなぐってから局員のお姉さんに渡した。日本には一週間ほどで届くはずである。

 再び宿に帰り、散歩にでも出ようと思ったが、Wesco君がレストランでアンコールビールを飲んでいた。彼は遺跡を回らずにビールばかりのでいるような気がする。

 「明後日プノンペンへ向かいます。バスチケットをこの宿で手配してもらうより、市場近くの旅行社で買うと三ドルほど安いのですよ」

 これから半年ほど旅を続ける予定という彼には、三ドルの金額も貴重なのだろう。僕なんかは短期旅行なので、宿で取れるものは手間が省けるから、よっぽど大きな金額差がなければ頼んでしまう。

 彼はこのあとプノンペンに数日滞在し、ベトナムにはバスで入り、ホーチミンからダナンまで上がり、バスでラオスのサワナケート、さらにヴィエンチャンから再びタイに入り、ノンカイからバンコクという経路を一ヶ月ほどで旅している。七月にバンコクで再会する予定だったが、思いがけない彼のアクシデントでそれは叶わなかった。

 そして彼はバングラディッシュ、インドを経てネパールに入り、再びインド〜パキスタン〜イラン〜トルコ〜東ヨーロッパと旅を続けたのだが、一ヶ月ほど前にマレーシアから便りが届いたきり連絡がない。もしこのメールマガジンを読んでいたら、Wesco君、連絡してくださいね。(読まないかなぁ)

 さて、もう一人の日本人タケシ君にMSNのホットメールの使い方を教えたり、バイタクの連中とふざけたりしていると晩御飯の時間になってしまった。外に出るのは面倒だし、この宿のレストランはなかなか味がよいのでビールを飲みながらフライドヌードルなどを食べた。

 しばらくしてこの日タイの国境からバスに乗って来た旅行者達十数人がドヤドヤと到着した。バイタクの連中も日頃この宿から仕事をもらっている関係で、部屋の案内などを手伝い始めた。この日の宿泊客の大半はやはり欧米人で、日本人の単独はいなかった。

 三十分ほど経ってから数人の客がレストランに降りてきた。
 その中で三十代の日本人女性と高年の男性とのカップルが僕達のテーブルの隣に座った。聞けば彼は中国人だという。どういう関係かは知らないが、彼と彼女はずっと旅を続けているらしい。
 会話の殆どは英語で交わされ、Wesco君がなかなか達者な英語で相手をしていた。彼によるとその中国人の男性はアメリカ滞在が長かったので、英語が話せるようになったらしい。そして日本人女性とはアメリカで知り合ったと言う。

 そんなふうにレストランでくつろいだ夜を過ごしていると、突然一階のWesco君の部屋から水が流れ出てきた。スタッフが慌ててドアを開けると、彼の部屋の床は水浸しになっていた。

 ※ Wesco君とはその後、彼が帰国後メールをいただいたので連絡を取り合うことができました。


 水浸し事件 その二

 突如としてスカイウエイゲストハウスの最も入口に近いWesco君の部屋から水が溢れてきて、スタッフがドアを開けると部屋の奥にあるシャワー室から勢いよく水が噴出していた。

 水道管の破裂のような勢いにスタッフ五、六人が総出で応急処置を始めた。水は廊下まで流れ、廊下を隔てたこちらのレストランまで近づいてきたが、ようやく水道管の水漏れ部分をとめることができて噴出は収まった。

 次に雑巾で水を吸い取り、バケツにそれを絞っていく床の吸水作業がが始まった。我々は何事かと驚きながらも、ビールを飲みながらその様子を見守っていた。Wesco君が部屋に入ったところ、ベッドは壁の奥にあるので水は一滴もかかっておらず、バックパックも無事だったようだ。

 ところが今度は隣の僕の部屋のドアの下から勢いよく水が流れてきた。慌ててスタッフがドアを開けると、Wesco君の部屋と同様に奥のシャワー室の水道管から水が飛び出していた。再び総出で応急処置。

 そして数人のスタッフが二階に上がって行き、しばらくして戻ってくるとなにやら上を指差して話し合っている。そしてまた工具をいくつか持って二階へ。

 スタッフに聞くとWesco君の真上の客が水を出しっぱなしにして外出中らしいのだ。この町の水道の配管事情などは分かる由もないが、どうやらあまり性能のよい水道管を使用していないので、一定量水が貯まるとどこかでそれが噴出してしまうのではないかと推測された。

 日本では考えられないが、まだまだこのような水道管や下水管事情は遅れているのだろう。しかしまあ階上の客はなんてことをしてくれたのだ。幸いにも僕の部屋もWesco君と同じ造りなので水はベッドには一滴もかかっておらず、床に置いていたバックパックが少し濡れていただけだった。

 スタッフ総出で雑巾で水を吸い取る作業が一時間あまりも続いた。
 我々はわずか三ドルの宿代でも一応客だから、それを手伝うということもせずに呆然と眺めているだけだった。この突然のアクシデントで、この夜は更けていったという感じで、夜間外出することもなかった。それに灼熱の太陽の下でアンコールワット遺跡群を回ったことで、僕自身は疲労困憊していた。

 明日はWesco君も遺跡を回るという。そして翌朝早くにプノンペンにバスで向かうらしい。タケシ君は「まだしばらくここにいます。特に遺跡に興味があるというわけじゃないのですけど、急ぐ理由もないですしゆっくりします」と言っていた。

 ヴィエラは夜十時を過ぎても他のバイタク仲間と一緒にゲストハウス内でブラブラしていた。何人かはディスコへ遊びに行ったらしいのだが、「興味がありません」と彼は日本語で言った。ビールを勧めると「ありがとうございます」と日本語で言ってチビチビと飲んでいた。彼は常におとなしく物静かだ。

 「酔ってバイクで転ばないように」

 「何ですか?」

 「ビールを飲んで酔ったら危ないけど大丈夫?」

 「ヨッタラ・・・?」

 どうやらヴィエラは「酔う」という日本語が分からないようだ。無理もないことである。彼らにとっては英語やフランス語に比べると、日本語は随分難しいらしいから。

 午後十一時ごろまでレストランでビールを飲みながら、Wesco君とタケシ君とバイタク連中と話をした。
 僕はかなり疲れていたが、レストランでは欧米人の旅行社が逞しくビールを飲んで逞しくあれこれ食べていた。そして綺麗な瞳をした欧米人女性達数人の様子を見ていると、煙草を吸っては消して、すぐにまた新たな煙草に火をつけて吸う、といった眺めだった。
 ヨーロッパかどこか知らないが、こんなにヘビースモーカーばかりの欧米人女性達に、僕は何かあっけに取られてしまったのだった。


 ヴィエラの家

 アクシデントで一時は水浸しの部屋だったが、スタッフの懸命の作業でほぼ綺麗になった。勿論シーツに水は一滴もかかっておらず、その日の夜は少し暑苦しかっただけでまずまず快適に寝ることができた。

 翌日はオムレツとフランスパン・サンドイッチにホットコーヒーの朝食のあと、迎えに来ていたヴィエラと出発した。最初の目的の場所は西バライである。

 国道六号線をシソポン方面に戻り、空港への道を越えてから北に上がると西バライだが、その前に彼は「私の家を案内します」と言った。彼は前にも述べたようにシェムリアップでバイタク仲間数人と暮らしているのだが、実家は少し離れたところにあるという。

 国道六号線から北に入り、どこをどう走っているのか分からないが、田園地帯や雑草の生い茂った空き地や椰子の木の風景などを見ながら十数分荒れた道を走ると、ひとつの小さな集落に着いた。砂地の路地を入ってバイクがスリップしそうになりながらも一軒の高床式住居の近くでヴィエラは止まった。

 「ここが私の家です」

 ごく一般的なカンボジアの住居である。高床式の木造建築物の下はなぜか白いコンクリートの床になっていた。建物の周りは高い椰子の木などが覆っており、それらが強い日差しをさえぎり、思ったより快適そうな住居である。ただ、ほとんどが木と藁でできており、台風が来ると一発でだめな気がするが、この辺りは台風など来ないのかもしれない。

 「ちょっと入って行きますか?お母さんがいるはずです」

 ヴィエラはバイクに乗ったまま僕に問いかけてきた。せっかくだから少しだけ見せてもらうことにした。住居の横についている八段ほどの木の階段をトントンと上がると広い部屋があった。奥にも部屋があったが、大きな玉すだれのようなもので区切られていてよく見えなかった。

 部屋の隅にはなんとテレビがあり、フローリングの床に藁で作った座布団のようなものが無造作にいくつか置かれていた。風通しもよくてひんやりした感じだった。五分ほど部屋に入り、窓の仕組みなどを観察していたが、彼のお母さんが出かけている様子なので長居はしないことにした。

 「ありがとう。なかなか良い家じゃないか。日本の僕の家のほうが小さいよ」

 彼は笑っていたが、部屋全部の広さなら本当に彼の実家の方が広いと思った。それに清潔感があり、外から見るのとはずいぶん違っている感じを受けた。

 しかし彼はなぜ僕を家に案内すると言ったのだろう。母親が不在だったからよかったものの、もしいたなら僕は何の手土産もなく失礼な訪問になるところだった。つくづく厚かましい自分に嫌気が差してしまった。

 再びヴィエラのバイクにまたがり、集落を抜けて未舗装の道路へ出た。高い木々が生い茂った道をドンドン進んで行くと堤防のようなコンクリート壁が見えた。

 坂道を上がると、そのコンクリート壁の向こうに果てしなく広がるきれいな海が見えた。と思ったら、それは海でも湖でもなく貯水池だったのだ。それに果てしなくというわけではなく、向こう岸には緑の森が見えた。

 バイクから降りてしばらく僕はその広大な貯水池を見て佇んでいた。

 

 ※ 西バライの画像は一枚だけあります。ヴィエラの実家の写真は、失礼なのでさすがに撮影できませんでした。


 西バライ  


 平日の午前ということもあってか西バライの砂浜(というのかな)には殆ど人はいなかった。
 ヴィエラは湖岸(というのかな)で待っているというので、僕は階段を下りて水辺に向かった。  風が殆どない穏やかな好天のため、貯水池の水面はさざ波ひとつたっていなかった。
 サンダルを履いたまま足を浸し、少し進んでいくと、水は思ったより綺麗で一メートルほどの深さまで見えるくらいの透明度だった。  

 しばらく砂浜を歩いたり水に手足を浸したりしていた。誰も泳いでいないがビーチパラソルやタイヤが点在しているということは、休日にはシェムリアップの人々が家族連れやカップルで楽しむのだろう。
 海水浴ではないから貯水浴とでもいうのだろうか。それにしても広大な貯水池に驚かされる。

 三十分もそうしているとやはり熱射でフラフラになってきた。階段を上がって岸壁に戻るとヴィエラが木陰で待っていた。次に向かったのが戦争博物館である。地球の歩き方のガイドブックには地雷博物館は掲載されているが、ここは紹介されていない。

 西バライからシェムリアップに戻る途中の雑種地のようなところにそれは所在していた。ここでもヴィエラは外で待機だ。
 入ったところで入場料を支払い(忘れましたが二ドルか三ドルだったと記憶します)、「さあどうぞ、矢印に沿って進んで勝手に見て行ってください」(多分こんなことを言っているのだろうと思う)というふうに若い女性に案内された。

 戦争博物館といってもベトナムのハノイやタイのカンチャナブリにあるような立派なものではない。建物はなく野ざらしなのだ。   要するに柵に囲まれた広大な敷地内に、戦車や大砲や追撃砲や、もちろん地雷やロケット砲や機関銃などがいっぱい無造作に置かれているのである。
 それらは皆赤茶色に錆びついており、置かれた周囲には草が生い茂り高山植物のような小さな花が咲いている、といった具合だった。

 僕はそれらを時間をかけてゆっくりと見て歩いた。敷地内には屋根のあるバス停のような休憩所が数ヶ所あり、そこには戦争や地雷で手や足を失くした人々の無数の写真が掲げられていた。あらためて戦争、内戦の悲惨さが窺えた。

 ここでも炎天下での見物だったので外に出てきた時はぐったりだった。なぜか外には戦時中に使用した戦闘機がドカンと置かれているのに気がついた。そしてヴィエラのバイクにまたがり宿に向かった。

 ヴィエラのバイクの運転は決してスピードを出さず安全運転に徹している。うしろからくる同じようなバイクや、時には「カブ」のような小さなバイクにまで追い抜かれるが、彼は絶対に運転を変えない。
 やはり日本でもそうだが、車やバイクの運転には性格が出るものなんだろう。安心できる奴である。

 ところが宿に戻って昼食をすませたあと、僕のある事情によって彼の期待に応えてやることができなかったのだった。

 つづく・・・

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