再突撃!アンコールワット

Music:Hokago


 ATM事情

 今回の旅はSARSの影響でシンガポール航空便がかなりの便を欠航しており、本来なら十日間ほどで日程を組めるのだが、帰国便の関係でわずか一週間の期間だった。

 到着した日にカオサンで一泊、そしてこのシェムリアップで二泊してこの日が三日目。アンコールワットの再訪は果たした。
 ロリュオスの遺跡群も訪ねた。 そして西バライ、戦争博物館、ヴィエラの家も見た。

 旅は今日で四日目である。明日もう一日遺跡を訪ねてもよいし、今回は町歩きもしていないからのんびりマーケットなどを歩き回るのもよい。僕はどうしようかと考えた。
 ヴィエラはベンメリア(Bung Mealea)へ行きませんかという。
 密林に隠れた巨大寺院。自然破壊の進んだ謎の寺院といわれている。行きたいのはやまやまだが、三度目のアンコールワットの時の楽しみとして置いといてもよいと思った。
 それにバイタク料が三十ドルだとヴィエラが言うのだが、実はドルとバーツの残りが少なくて、これまでのバイタク料に三十ドルをプラスし、宿代やカオサンまでの帰りの費用などを考慮すると、ちょっと無理がある。

 「シェムリアップにヴィザのATMがないの?」

 ヴィエラに聞いてみたが彼は分からないという。宿のスタッフでオーナーの息子のような男性に聞いてみたが、彼は「プノンペンならあるが、シェムリにはない」と言う。
 ヴィエラには「今手持ちのお金が少なくて、ATMがあれば引き出してベンメリアへ行きたいが、プノンペンまで行っていたら日程どおりに帰れなくなる。今回は残念だが次回にする」と言って断った。
 SARS下での閑散とした観光客の状態なので、彼のためになんとかしたいと思ったが、事情が事情だけに仕方がない。

 「じゃあサンセットに連れて行ってくれないか」

 前回のサンセットは曇り空で、国境で知り合った大学生三人とプノンバケンに登ったが見ることができなかった。だからもう一度登ってみたい。それに今日はとてもよい天気だからきっと見られるだろう。

 結局、プノンバケンのサンセットに行くことにして、ヴィエラには夕方四時半ごろに宿のレストランで約束をした。部屋に戻ってシャワーを浴び、少し昼寝をすることにした。
 昼寝は心地よい。天井のファンを最も弱く回してベッドで一時間あまり寝た。なぜか海外を旅している間に見る夢は旅先の夢である。この昼寝でもアンコールワットの姿や国境で知り合ったWesco君が夢に登場した。しかし彼はどこに行ったのだろう。

 部屋を出てレストランの椅子に座ると、ちょうど彼がサンドイッチを食べていた。彼は明日の早朝にプノンペンへ向かう。

 「フジイさんはどうするのですか?パイリンへは行くのですか?」

 「いや手持ちのお金も少ないし、日もないしやめた。明日タイへ戻るよ」

 それなら今のうちにバスのチケットを買っておかないとダメですよと言う。宿のスタッフに帰りのバスチケットを頼んだ。
 大型エアコンバスで国境まで行き、アランヤプラテートからカオサンまでエアコンミニバスが送ってくれるらしい。それで14ドル。

 行きはカオサンからシェムリアップまで百バーツ(二ドル強)だったのに、というわけではない。行きが安いのは、シェムリアップで連れて行かれるGHに泊まることである程度話がついているからである。

 だから道路事情も悪く(これは関係ないかもしれないが)、意識的にシェムリ到着を暗くなってからの時刻まで引き伸ばすのだ。  ま、それはそれで仕方がない。我々は訪問者なのだから。



 
 サンセット

 前回のアンコールワット訪問は2001年の九月。この時は一度プノンバケンのサンセットにチャレンジしたが、残念ながら昼間カンカン照りの好天にもかかわらず、サンセットの時刻になると雲が現れ、結局見ることができなかった。

 そして今回、2003年の五月。この日も朝から、バンダナを巻いていてもジリジリと頭皮が焼け焦げるような暑い日ざしが続いていた。
 今日はきっと綺麗な、感動的なサンセットが拝めるだろう、と僕は疑いを持つことはなかった。心地よい昼寝から目が覚め、宿のレストランに出るとヴィエラは約束どおり待機していた。
 明日のバンコク行きバスチケットを予約したあと出発した。シェムリアップの街は一日の終わりに向かって人々が忙しく動いていた。道路はバイクで溢れ、露天や屋台も忙しそうだ。

 プノンバケンの登り口に着くと、既に何人かのバイタクの男性が屋台の周辺などで待機していた。つまり観光客が登っていったというわけである。
 ヴィエラと別れて「よいしょ、よいしょ」と山を登っていく。前回と同じく気をつけて登らないと、サンダル履きだと怪我をする。しかし登っているのは僕を含めて数人だ。
 十数分くらいだったか、二十分はかかっていないはずである。頂上に着いてみると、既に遺跡の石段の上にはチラホラと見物客がいた。そしてここからがもっと神経を使う。幅の狭い急な石段を一つ一つゆっくり登っていく。
 登りはまだよいが、サンセットが終わって帰る時には既に暗いので細心の注意をしないと滑って落っこちる。毎年何人かが重症或いは頭部を打って亡くなっている、という話は聞かないが、おそらく事故はあると思う。

 遺跡の上に登ってみると、意外にもそれほど多くの人はいなかった。前回とは大違いである。やはりSARSの影響で観光客が少ないのは事実だ。
 ところが夕陽が沈む方向を見ると、お日様が雲に隠れて見えないのだ。ついさっきまで日が差していたのに、肝心のサンセットの時刻になって筋のような雲がいっぱい夕陽を覆っていた。残念。

 しばらくかすかな期待とともに夕陽の方法を眺めていたが、あきらめのよい僕は切り上げて、誰よりも先に遺跡の石段を注意深く降りた。既にあたりは随分と暗かったが、下りの山道をゆっくり降りた。
 ヴィエラがあまりに早く降りてきたことに少し驚いた表情をしていた。

 宿に帰り、レストランで夕食だ。フライドヌードルにフランスパンサンド、それにアンコールビール。ヴィエラにもビールを勧めたが、相変わらず遠慮深い。明日早くシェムリアップを発つ。今回のアンコールワット遺跡訪問はあわただしく終わりそうだ。SARSの影響で飛行機の便が少なくなったことが大きい。

 短期の旅では二日や三日の旅行期間短縮は非常に影響が大きい。それだけの日数で別の町を訪れることが可能だから。




 シェムリアップをあとに

 翌日はWesco君が早いバスでプノンペンに向かうので、僕は朝五時半に目覚ま し時計をセットしておいた。
 いつものとおり目覚ましが鳴る前に目が覚め、外に出るとフロントでWesco君が宿代などの清算をしているところだった。

 宿代は一泊三ドルだから計算は簡単、三泊で九ドルだ。しかしレストランで食 べたものや飲んだものをこの時初めて清算する。 フロントの前に置かれているケースに部屋番号の書いた小さなノートがあり、 レストランで食べたものや飲んだものをその都度記入していくのだが、Wesco 君は自分でもきっちりと控えていたようで、それをノートと照合していたのだ。
 僕なら多めに請求されても全く分からない。この辺りが長期旅行者と、僕のよ うにいい加減な短期旅行者かつ中年オヤジとの差異である。

 僕が見守る中、二十分近くもかかってようやく清算がすみ、彼はバックパック を部屋から担いで宿の入り口のチェアーに座った。
 「フジイさん、またメールしますね。来月バンコクで会いましょうよ」

 僕は今回の短期の旅が終わったあと、翌月には二週間くらいのタイ北部の旅を 予定していた。Wesco君がベトナムラオスと回ってバンコクに戻るころに、僕 は再び日本からバンコクに入るつもりだった。 (この物語は現在「チェンマイ・マイラブ」で配信中です)

 まもなく彼の迎えのバイタクがきた。そして「じゃあまた!」と言って彼はシ ェムリアップの街中に消えていった。
 もうひと眠りする時間的余裕はない。 次は僕が出発する番である。
 八時出発のバスだから、十五分ほど前にバイタクが迎えに来るということだっ た。Wesco君を見送ってからようやくシャワーを浴び、顔を洗って歯を磨いた。 パッキングをすませて部屋を出て宿代その他を清算。金額は全部で三十一ドル だった。

 入り口で迎えを待っていたらタケシ君が出てきた。今からアンコールワット遺 跡群を回るらしい。彼はずいぶんとのんびりしており、「ゆっくり全部の遺跡 を見て回ります」と言っていた。
 彼は一週間くらい滞在したようで、このあと船でプノンペンへ行き、ベトナム を少し回ってタイに戻り、インドへ行く予定ですというメールが届いてから現在は行方不明だ。(笑)
 まあ、もうとっくに帰ってきているのは間違いないが、もしこのメルマガを読んでいたらメールください。(読んでないか)

 タケシ君がバイタクで行ってしまってからヴィエラが現れた。見送りにきてくれたわけではないが、最後に彼の顔を見ることができて嬉しかった。

 「またくるよ。今度はベンメリアへ連れて行ってくれよ」
 「分かりました、お待ちしています」

 そして僕は迎えのバイタクにまたがって宿をあとにした。今度はいつこの町に戻ってくるかは分からない。もっと行きたい国や町があるからなぁ。でももし再び訪れることがあれば、ヴィエラと再会したいと思う。彼の実家にも訪れたのだが、いったいどの辺りだったのかサッパリ分からないから、スカイウエイGHに聞けばよいだろう。

 出発のバス乗り場に着くと、ポイペトまでのバスは、行きとはうって変わって大型エアコンバスだった。僕はホッと胸をなで下ろした。  

 つづく・・・



 シェムリアップをあとに その二

 ゲストハウスでもらっていたバスチケットを示して、バックパックをあずけて乗り込んだ。空いている席に座ってよさそうだから、真ん中あたりの窓際に腰をおろす。窓の外は相変わらずの好天下の喧騒だ。道路を走る乗り物の違いこそあれ、どこの国でも同じような朝の風景である。

 大型バスはラオスで走っていたようなガタピシノンエアコンバスとは違って、かなり年季は入っているもののエアコンがよく効き、シートの破れなどもなかった。出発間際になって僕の隣の席に現地の男性が座った。
 なぜ現地人と分かったのかというと、汚れた長ズボンに粗末なTシャツ、それにペタペタサンダルばきだったから。黒髪はべチャット額にたらし、小柄な体躯、小さな顔は間違いなくカンボジアの人だ。国境の町へ商売のための仕入れにでも行くのだろうか。

 「チョムリアップスゥオ!」と僕は小さく言った。

 すると彼は少し驚いたような顔をして僕を見、そしてにっこり笑ってから同じ言葉を言った。その言葉は僕の発音とはずいぶん違うような気がしたが、明らかに同じ言葉だった。よく日焼けした顔に真っ白な歯がとても印象的に思った。年齢は二十代半ばくらいだろう。

 バスは出発した。シェムリアップの市内をあっという間に抜けて、右も左も田園風景という景色に変わった。行きの「ダンシング車天井頭ぶっつけ砂ぼこりモウモウバス」とは違い、揺れも少なく空気も透き通って快適だ。

 隣の彼はしばらくすると眠ってしまった。車内を眺めるとほとんどが欧米人の旅行者で日本人は見当たらない。彼らにとってはSARSなんて「ヘ」とも思っていないのだろう。

 タイ国境へ向かう帰りのバスは行きのミニバスよりもずいぶん早く走り、三時間足らずでそれほど大きくないレストランの駐車場にバスは滑り込んだ。ここで食事休憩をとるらしい。

 あいているテーブルに座るとすぐに店の女の子が注文をとりにきたので、ベジタブルサンドイッチとコーラを注文した。
 各自が思い思いのものを食べていたが、隣のカンボジア人グループが、ごはんがドッサリ入った皿を真ん中に置き、野菜炒めのようなものをおかずにお茶碗に似た食器で、もちろん箸を使って食べている様は、日本人と何等変わらないなぁと思ったものだ。

 僕が食べたサンドイッチは、フランスパンを少しあぶって半分に切り、青野菜やトマトやハム、卵などをはさみ、ドレッシングをかけたもので、腹が減っていたからかもしれないがまあまあ美味しかった。これで百バーツは少し高い気がしたが、もうタイも近いしこんなものかも知れない。

 さて、皆が食事をしている間にきれいに水洗いをされて泥を落としたバスに再び乗り込み、国境の町・ポイペトに向かって出発した。日差しは強烈で、今回は旅の期間中ずっと好天だ。
 シソポンを過ぎると道路事情も少しずつよくなっているのが分かる。そして午後一時前にバスは無事に国境に到着した。

 みんなバスから降りてバックパックを背負いゾロゾロとパスポートコントロールへ歩く。途中でバスの乗務員からワッペンを渡されそれをTシャツにつけた。このバスに乗った旅行者はバンコクのカオサンロードまで運んでもらうことになっているから、このワッペンはそのしるしなのだろう。

 しかしながら全く統制もなくゾロゾロと歩く。出国手続きをすませたあとも炎天下をゾロゾロと各自勝手に歩いている。こんな状況で無事にアランヤプラテートでタイ側のバスの業者に受け渡しできるのか?

 僕は少し不安を感じながら、噴出す汗の補充にミネラルウオーターをがぶがぶ飲みながら入国の手続きに向かった。




 カオサンへ その一

 タイへの入国手続窓口は非常に混雑していた。二つしかない窓口に長蛇の列だったが、我慢して並ぶしかない。手続には三十分も要した。タイ側の業者との受け渡しがうまく連絡しているのか若干不安になる。

 でも万が一、分からなくなってしまったとしても迷子にはならない。なぜなら以前にバンコクからこのアランヤプラテートまで鉄道で来たことがあるからだ。五時間ほどかかるがタイ側のバスが見つからなかったら列車で戻ればよいことである。

 入国してアランヤプラテートの町をダラダラと歩くが、ここからバンコクに連れて行ってくれるバスが分からない。周りは様々な物資を持ってあわただしく動く現地人と、疲れた表情で歩く欧米人バックパッカーだ。重いバックパックが肩にズシリと応えてきた。

 来た方向を振り向くと、シェムリアップから仲介業者が異なる何台かのバスが着いていて、続々とバックパッカーたちが降車していた。見ると彼等はそれぞれのワッペンを適当なところにつけている。僕も一応Tシャツの首の辺りに挟んでいた。しばらくすると僕のワッペンを見て、同じものを胸につけている欧米人が話しかけてきた。

 「ここからどのバスに乗るのだろう?」

 「さあ僕も分からない。向こうの方へ行ってみようか」

 僕達は鉄道の踏切を渡ってさらに歩いた。途中、旅先で出会う者同士の普通の会話を交わしながら。

 「あなたは日本人ですか?」

 「そうです、君は」

 「僕はメキシコからです」

 彼は二十五才でインドシナの前はシンガポールからマレーシアを旅してきたらしい。タイからラオス・ベトナム・カンボジアと渡り、タイに戻ってからミャンマーへ行きたいと語っていた。見上げるほどの長身の青年だったことだけが印象に残っている。

 しばらく歩くと大きな駐車場があり、そこに数台のミニバスが止まっていた。そしてその回りにはたくさんの人が待機していて、その中にシェムリアップからのバス中で見覚えのある欧米人もいた。僕とメキシコ人青年はその集団に合流した。

 やがて一台のミニバスに八人ずつ乗り込むことになった。僕とメキシコ人青年の乗ったミニバスには、四人の欧米人と二人の日本人が乗り込んだ。その日本人は若い女の子と中年の男性という不思議な取り合わせだった。メキシコ人青年は僕と同じ後部座席に座ったのだが、長身を折りたたむような感じで窮屈そうなのが、見ていて気の毒に思った。

 すぐにミニバスは走り出した。長い長い一本道のようなタイの道路をビュンビュン飛ばして、一路バンコクのカオサンロードへ向かった。道の両側には何もなく、原野を突っ走る感じだ。

 しばらく走ると前の席の男性が話しかけてきた。彼はイギリス人だったが、メキシコ人青年と言葉を交わしたあと、彼の英語がとても上手だとほめていた。僕も自己紹介をして少し話したが、僕の英語なんかは当然評価するに及ばない。

 そしてミニバスは二時間余り走ったところで休憩をとった。休憩所は小さなオープンレストランで、敷地内にはガソリンスタンドとトイレもあった。コーラを飲んで焼き鳥を食べていたら日本人の男性が話しかけてきた。

 「暑いですなぁ。あなたもアンコールワットを見てこられましたか?」

 「ええ、二度目です。相変わらずひどい道路でしたが、帰りは大型バスなので助かりました」

 聞けば彼は娘さんと二人でアンコールワットを見に行ったらしい。
 不思議な取り合わせだと思っていたが、何ということはない親子だったのだ。



 カオサンへ その二

 

 「娘が一度アンコールワットを見てみろというものですから今回一緒に訪れました。まあ、すごいものですなぁ、日本にああいった遺跡や寺院はありません。しかしこの暑さは何とかなりませんかな」

 この父親は五十八歳で、名古屋で商売をしているが最近は少し業容を小さくしているので、十日間ほど娘さんとアンコールワットに来たらしい。娘さんは二十五歳、アジアが好きなバックパッカーで、これまでカンボジアには何度も訪れている。

 日本の日本語教師育成学校で学び、目的はカンボジアで日本語教師をしたくて、今回はシェムリアップに仕事先を探しに来たという。数ヶ所の日本語学校を、見学を兼ねて訪れて、一応ある学校で今年の秋ごろから働くことで話もほぼ決まったとのことだ。ややふくよかな体躯の色白の可愛い娘さんだった。

 「東南アジアは初めてなのですが、しかしなんですなぁ、いろいろ驚きますなぁ。日本は本当に平和なんですなぁ。あなたはよくあちらこちらに旅をされるのですか?」

 「いえいえ、僕も初心者みたいなもので、あちこち訪れてはビックリしていますよ。でもいいですね、親子でこうしてアジアの旅をされるなんて」

 ミニバスが再び出発するまでの間、十数分この父親と言葉を交わした。奥さんを数年前に亡くして、一人娘さんとの二人暮しらしい。そのむすめさんがしょっちゅう旅をしていて留守がちで、しかもこの先カンボジアで日本語学校の教師をする予定。

 「それじゃ、この先お一人になってしまわれるのですね。寂しくありませんか?」

 「まあ、仕方ありませんよ。娘のやりたいことを阻むことはできません。彼女には彼女の人生がありますからな」

 理解のある父親である。彼は今夜バンコクに戻って一泊したあと、明日の飛行機で日本に戻るとのことだった。いくら小さな仕事でも十日以上放っておくわけにはいかないと言っていた。年令のワリにはまだまだ体力がありそうな人だった。

 ミニバスは再出発した。整備された道路をグングン飛ばして走る。どこをどう走っているのか分からないが、徐々に建物が多く見えてきて、その反対に田園風景が少なくなってくるとバンコクに近づいているわけである。

 空が次第に暗くなり、遠くにオレンジ色の夕焼けが現れた頃にミニバスは高架道路に入った。いよいよバンコクだ。今回のアンコールワットの旅はSARSの影響で日本人が少なく、日本人が少ないと言うことはシェムリアップの町も閑散としていて、バイタク青年たちも暇をもてあましていた。

 短い旅だったが、自分自身としては十分満足なものだった。

 

 蛇足ですが、カンボジアで日本語教師を目指していた娘さんとは翌日の朝、カオサンの屋台で偶然にも再会しました。僕がいつもの店で朝食を食べていたら、たまたま前から歩いてきて、「あれ?」っと顔を見合わせ、彼女も僕と同じ屋台で朝食をとり、そのあと近くのカフェで少し話し込みました。

 お父さんは先ほど空港に向かったそうで、彼女はこの先ネパールからインド、パキスタンと旅して、秋には再度カンボジアに入ると語っていました。

 「それじゃあ、お元気で頑張ってください」

 メールアドレスを交換して別れましたが、その後、インドから二度メールが届いていました。今はきっとシェムリアップで日本語教師として頑張っていることでしょう。

 「突撃!アンコールワット」二度目は今回で終了です。

 駄文にお付き合いくださりありがとうございました。三度目のアンコールワット旅行記まで皆様、一時サヨナラです。



Back Top Index