再突撃!アンコールワット

Music:Hokago


 ゴートゥーシェムリアップ その三

 

 Wecco君はそのレストランのトイレを借りていたのだった。僕の前の座ると、「どうもこんにちは!」と元気よく言った。

 彼はまだ24才(だったと思う)、あとで聞いた話では、新潟家の散髪屋の息子で、理容専門学校を卒業して実家で実習もこなし、一応資格は取得しているらしい。

 「若いのに親父と一緒に散髪屋なんかできませんよ」

 彼はもっともらしいことを言う。東京に出て居酒屋チェーン店でしばらく死ぬほど働いて金を貯め、ワーキングホリデーでニュージーランドに渡った。広大な牧場の農夫見習いとして働きながら、英語を学んでいたということだが、仕事はきついしメシはろくなものではなかったらしい。

 ともかく多くの若者がたどる経緯の通り、Wesco君も数ヶ月でワーホリ生活に飽きてアジアにやってきた。マレー半島を遡り、バンコクに到着して数日後カンボジアに向かったということである。

 そんな話をしていると、僕のカンボジアヴィザが出来上がった。レストランの前に待機していたトラックバスに乗り込み、ボーダーまで行く。ボーダーではタイ側の業者からカンボジア側の業者にバトンタッチされる。

 出国手続きと入国手続きを時間をかけながら済ませて、さらにカンボジアのイミグレを通ったところでSARSのチェックが行われた。

 欧米人が十数人と、日本人が僕を含めて三人。ザックを置いて順番を待った。

 欧米人たちはいつものことだが陽気だ。「どこから来たんだ?カンボジアは初めてか?仕事は何だ?暑くて参るよな」などと話しかけてくる。

 熊のような大男がいた。聞けばメキシコ人らしい。スペイン語ではなくて英語で話すが達者だ。

 「半年間こんな大きなクラブを毎日沖で漁をしていたんだ。しこたま稼いだから、あとの半年は旅して暮らすさ」

 羨ましい生活だ。世界を旅する目的があれば、このような割り切った仕事が必要だと思った。僕にはできないことを彼はやっているというわけだ。

 順番が来た。白衣のカンボジア人の看護婦は、体温計を僕の耳にあてた。しばらくしてそれを抜いて数字を確認すると、何と三十七度を示していた。僕は普段から体温が高いのだ。おそらく三十六度五分程度はあるだろう。だからこんなに暑かったら体温が五分程度上昇するのは当然だと思うのだ。

 「オーケー、ネクスト!」

 看護婦の体温計をチラッと見た医師は何も気にしないかのように言った。形だけのSARS検査だったようだ。

 さて、タイからカンボジアに入ると、毎回のことだがこれほどまでに道路事情や行き交う人々が異なるのかと驚く。道路の端にはゴミ溜めがあちこちにあり、それは異臭を放っている。体の何倍もの荷物を抱え、頭に載せて人々はノロノロと歩いている。

 僕達は一軒のゲストハウスに導かれた。そこには大型バスとミニバスが待機していた。


  ゴートゥーシェムリアップ その四

 カンボジアの国境の町・ポイペトのゲストハウスでシェムリアップ行きのバスを待った。庭に大型バスとミニバスが一台ずつ停車していた。どちらに乗るのか分からないが、大型バスはエアコン付らしい。できればそちらに乗りたいものだと思った。

 「シェムリまでの道はきっとひどいでしょうから、大型バスで行きたいですね」

 Wesco君が汗をびっしょりかきながら言った。

 一昨年、僕がこのルートでシェムリアップに入った時は、舗装道路は少なかったが、予想以上に道路事情は良かった。

 赤土の道はあまり凸凹がなく、ピックアップトラックの荷台に乗って行ったので、白のTシャツが茶色になってしまったが、疲労感はそれほど感じなかった。だからWesco君が大型バスで行きたいと言った時も、僕はミニバスでもいいと思っていた。

 十数分待った後、係員は残念ながら僕達にミニバスに乗ってくれと言うのだ。タケシ君が大型バスに乗って行きたい旨を伝えると、このバスはシェムリアップには行かないと言う。

 やむなく僕達日本人三人と欧米人六人はミニバスに乗り込んだ。灼熱土ぼこりの道路を、このミニバスは一路アンコールワットの町・シェムリアップに向かって出発した。

 ポイペトの町は、前回来た時に建設中だった大きなカジノが完成していたし、町も少しばかり賑やかになっていたような気がした。しかし、バスが十分も走るとあっけなく町を抜けてしまい、あとは延々と続く田園風景だ。

 道路事情も最初の頃は悪くなかったが、すぐにデコボコの多い悪路と変わり、それはシェムリアップがいよいよ近づいてきたと分かるまで一貫してひどいものだった。それにエアコンなどという代物が、このミニバスにはあるはずもなかったので、当然窓を開けることになる。すると、道路が赤土のデコボコ道だから、窓から土ぼこりが車内に入って来る。

 運悪く、僕達日本人三人は最後部席に座ったので、運転席の列を含めた前三列が窓を開けると、そこから入り込んだ土ぼこりが殆ど最後部席に降りかかるのだった。

 Wesco君とタケシ君は、これがカンボジアの道だろうという覚悟があったのか、文句一つ言わずにタオルで口を押さえている。ところが僕は、前回来た時よりもはるかに道路事情が悪くなっていることに憤慨してしまうのだった。

 あの時は、僕たちをピックアップトラックで運んでくれたバプーンGHの若旦那たちが、「この道路は今年修復されました」と言っていたが、確かに舗装はされていなかったもの、赤土がきれいに均されていてデコボコが少なく土ぼこりが舞うだけだった。

 あれから二年も経たないのにこの悪路ということは、きっと雨季になって車が通ったあとデコボコができても、それを全く修復していないのだ。僕は次第に腹が立ってきた。

 「カンボジア政府は一体何を考えているのだ?フンセンはやる気があるのか?アンコールワットへへの観光客が、この国唯一の外貨獲得手段のはずではないのか?この道路を快適にすることが先ず必要なのではないのか!」

 僕は降りかかる土ぼこりにゲホゲホとむせながら大声で叫ぶのだが、隣の二人も前の欧米人達も怪訝そうな顔で見るのだった。


   ゴートゥーシェムリアップ その五

 ガタピシ劣悪ミニバスは、デコボコ砂ぼこり悪路を二時間あまり走って、シソポン(シソフォン)に到着した。この町はソコソコの町で、ここで少し滞在してもいいかなと思うくらいなのだが、シェムリアップに比べて治安もイマイチらしく、それに見るべき場所もあまりない。

 店が並んでいる辺りにミニバスが停まり、トイレ休憩だと言う。車外に出て土ぼこりを掃っていると、物売りの女の子達に取り囲まれた。のどが渇いていたからコーラを何気なく買った。

 ん?四十バーツ?何も考えずに彼女の言うがままに支払ってしまったら四十バーツだった。おそらく僕はのどが渇き過ぎていたのと、汗だくになっていたので、夢遊病者のような状態だったのだろう。

 払ってしまったものは仕方がない。多分、少なくとも十バーツは多く払っているはずだが、僕はどうもこういうドサクサに紛れられた時には知らないうちにとんでもないお金を払っているようだ。去年の旅でも、バンコクの国立競技場前からタクシーに乗ってホアランポーン駅に行った時、バーツがなくて五十バーツくらいの支払いのところを、何と三十バーツと一ドル渡してしまったりするのだから。一ドルが四十バーツくらいに相当するということに、その時は全く気付かなかったのだ。

 愚痴はともかくとして、十数分休憩を取ってバスは再びシェムリアップの町に向かって走り出した。最初は陽気に会話をしていた欧米人たちも、ポイペトを出て四時間を過ぎると次第に寡黙になってきた。窓を閉めると灼熱サウナ状態だし、開けると土ぼこりだ。バックパッカーの中には、この道こそカンボジアだ!なんてステイタスみたいなことを言う輩がいるが、能書き抜きで正直この道はひど過ぎる。

 途中から一貫して何もない田園風景の中の一本道を、グングンとバスはダンシングしながら走行する。小さな川が数ヶ所あり、そこに架けられた橋を渡るたびに「ガクン、バタン!」と大きな音がする。一ヶ所だけ橋が完全に落ちており、橋のたもとから川を埋め立てた道をグルリンと迂回して渡った。本当に危なっかしい道中だが、カンボジアの人々はそんなことは気にしていない様子である。

 いくつかの小山を越え、いくつかの小さな川を越え、いくつかの小さな部落を越えて、我々のミニバスは午後七時過ぎにようやくシェムリアップの街中に入って行った。

 僕は二年前にお世話になったバプーンGHに泊まろうと思っていた。長男さんは随分年下の女性と詐欺みたいな結婚をしているはずだし、次男さんは日本語が相当上達していることだろう。そう思うと楽しみになってきた。

 ところがミニバスは国道六号線を突き抜けて、シェムリアップ川を渡り、見覚えのある街並みだと思っていたら、バプーンGHに入る路地の前を通過して少し行った辺りにある「スカイウエイGH」に到着してしまった。

 要するに、バプーンGHの時もそうだったが、ポイペトでタイの業者からバトンタッチされる時に、ソコソコの手数料を支払っているから、カンボジア側の業者は自分たちの指定するGHに宿泊してもらわないと困るわけである。

 ただ、これは強制ではない。嫌なら到着後他のGHに行くことは別段構わない。しかし到着時刻や、ヘトヘトでドロドロの状態から、他のGHへ移る精神的及び肉体的余裕がなく、部屋を見せてもらって特に問題でなければそこに決めてしまうものなのだ。

 スカイウエイGHは鉄筋コンクリート造の三階建の立派なもので、一階はレストランとネットコーナがあり、なかなか快適そうに思えた。部屋を見せてもらうと、一階のシングルでファン、水シャワーアンドトイレ付きの部屋が三ドルだと言う。

 Wesco君もタケシ君もここでいいでしょと言うので、ともかく今夜はこの宿に泊まることにした。


 スカイウエイ・ゲストハウス

 スカイウエイGHに連れて来られて、無事に(?)この宿で泊まることになった。僕の部屋の入口は、一階のレストランと通路を挟んですぐ目の前だった。入口側の隣の部屋にはWesco君が泊まり、タケシ君は二階のシングルである。

 水シャワーを浴びて髪の毛を洗うと茶色の液体が体から落ちた。全身が土ぼこりにまみれていたというわけである。シャワーを浴びて部屋から出ると、このゲストハウスに出入しているバイクタクシーの男性達が、明日からの遺跡回りに「俺を指名してくれないか」と次々と声をかけてくる。控え目な態度で依頼してきた感じの良い青年を僕は選び、明日からお願いすることにした。

 彼の名前はヴィェラといい、二十四才らしい。顔つきは俳優の中井貴一をもう少し幼くした感じといえば想像がつくだろうか?ともかく明日の朝八時にこのレストランで会う約束をした。

 レストランでは欧米人達が既に食事を始めていた。しかし僕達は屋台で食事をしようということになった。

 この宿に着く途中、ミニバスがシェムリアップ川を渡る時に、前回何度も食事に訪れた屋台のある一角は整備されており、その辺りには一軒の屋台も見当たらなかった。あの時家族で営業を行っていた屋台はどこに移動してしまったのだろう。

 宿から川方面に少し歩くと、たくさんの屋台が集まっている一角があった。僕達はどこを選ぶわけでもなく、空いているテーブル席に座った。すぐに少女が注文を聞きに来た。この屋台は物静かな夫婦と、親に従順そうなこの娘さんとで切り盛りしていた。娘さんは女優の広末涼子にそっくりで、名前の通り涼しい綺麗な顔つきだった。(この娘さんの名前は知らないが)

 ともかくアンコールビールを注文して乾杯をした。ところがここの屋台はライス物ができないらしく、その少女も少し困った顔をしていた。お腹が空いているのでフライドライスを食べたかったのだが、今から屋台を移動するとこの少女に悪い気がしたので麺類で我慢することにした。

 屋台に備え付けられたガラスケースの中には細麺と太麺、それにモジャモジャのビーフンのような麺があったので、三人はそれぞれ好きなものを注文した。

 僕は細麺にポークとベジタブルを入れてもらうようにその少女にお願いした。ところがなかなか注文した料理が来ない。一つずつ作るので時間がかかるのだ。ビールを飲みながら、足元を飛び回る蚊を追っ払いながら、少女の綺麗な顔を眺めて待った。

 ようやく運ばれてきたヌードルスープは少し甘みのあるコンソメ風で、テーブルの上の調味料を少し加えるとさらに美味しかった。今夜はかなり疲労がたまっているので、宿に帰ってからもう一度レストランでアンコールビールを飲んで部屋に戻った。

 猛烈に暑いが、天井で回っているファンの風が心地よく、僕はすぐに寝てしまった。


 二度目のアンコールワット その一

 翌日の五月七日は、午前七時前に目が覚めた。
 前夜は疲れから午後十一時には寝てしまったが、暑さに寝苦しくて夜中に何度も目が覚めた。部屋やシーツは清潔なのだが、僕の場合、暑さから体が痒くなる傾向があり、一晩中無意識に体のあちこちを掻くので、朝になると足や手が赤くなっていた。
 
それでも水シャワーを浴びるとすっきり快適である。部屋を出て目の前のレストランには既にヴィエラ青年が僕を待っていた。

 「悪いけど、お腹がペコペコだから朝食のあと出発しよう。君はもう食べたの?」
 「はい、私は、もうたべました」
 彼はゆっくりと区切りながら日本語で話す。

 シェムリアップで助かるのは、バイクタクシーやGHのスタッフが、かなり日本語を上手に話すことである。
 アンコールワット遺跡群を訪ねる観光客は、欧米人と日本人が大部分だが、欧米人というのはひと括りだから、一つの国としては日本人が最も多い。次いでフランス人らしいのだが、これはフランスが長年インドシナを支配してきた歴史的背景からだと思われる。

 しかしフランスという国は、よくもまあこのような暑くて土埃の舞う農業国ばかりを植民地にしたものだ。一体、何の利権が魅力で世界から非難されながら支配していたのだろう。
 第二次世界大戦で全土が戦場となり、本国が疲弊していたのに、一方ではインドシナを支配下に治めていたとは、僕の知識の範囲では理解しがたいことだ。
 このフランスのインドシナ支配から、千九百五十三年のディエン・ヴィエン・フーの戦いによりフランスが敗北するまでの歴史や、その頃の世界情勢は非常に興味深いが、ここではそれには触れない。

 そんなことを考えながら、フランスパンに濃厚なマーガリンをつけて、ホットコーヒーとで簡単に朝食をすませた。間もなく隣の部屋からWesco君が出てきた。

 「早いですねぇ。もう出発ですか?」

 「朝のうちにアンコールワットの周辺を回って一旦戻ってくるよ。昼の休憩は絶対に必要だから。前回僕は初日に一日中嬉しそうに回って、その夜に高熱を出してダウンしたからね。この熱射では炎天下に日陰で休まないと死ぬよ」

 大げさではなくて、本当に暑さでダウンしてしまう。現地の人々はそれが分かっているから、昼寝は生活のリズムである。日本人の感覚だと、東南アジアの人々はなんて怠け者なんだ、と思うかもしれないが、それは生活に必要なことなのだ。

 Wesco君はアンコールワットの遺跡だけではなくて、遺跡そのものにあまり興味がないらしく、「僕はともかく訪問国の街を歩くことが好きなのです。一応ここでも一日は遺跡を訪ねますが、あとは街歩きをします」と言っていた。この日はのんびりマーケットでも見に行って、あとはGHでビールでも飲んでいるとのことだ。

 もう一人のタケシ君はなかなか起きてこないが、僕はともかく出発した。ヴィエラのブルーのバイクはまだ新しかった。聞けば彼の所有ではなくて、一日二ドルで借りているらしいのだ。だから僕が彼に一日六ドルを支払っても、そこからバイクレンタル代を支払って、彼の取り分は四ドルということだ。

 彼はこのスカイウエイGHに出入しているが、雇用契約のようなものはないので、出入して客を取らせてもらう手数料も、もしかして必要なのかもしれないが、それは分からない。

 バイクの後部に跨り朝のシェムリアップの町に出た。青空の下で町は既に動いていた。


 二度目のアンコールワット その二

 シェムリアップの中心部からアンコール・ワットへの料金所(チェックポイント)までは約五キロほどである。

 ここでは前回訪問時と同じ、一日券が二十ドル、三日券が四十ドル、そして七日券が六十ドルという値段設定で、写真を一枚渡してすぐにカードを作ってくれる。宿代や物価などと比較して、このチケット料金は破格の値段だと思う。カンボジアの外貨収入の基本だからやむを得ないが、一日券の値段が現地の公務員の月給よりも高いとは、この国の貧しさがこんなところにも窺える。

 僕は二回目だし、今回は三日券を買うだけのドルの余裕がなくて一日券にした。パウチを入れてもらってゲートを通過、最初のT字型を左折するとアンコールワットの外濠である。

 左手にプノンバケンの山を見ながら進み、ヴィエラは最初にアンコール・トムに僕を連れて行った。これは前回も同じで、アンコールワットの遺跡群観光客を案内する順序の定番のようだ。

 人面像の南大門をくぐり、真っ直ぐ進むとバイヨンだ。ヴィエラのバイクから降りて東門より入る。彼は王宮前の屋台あたりで待つから、どうぞごゆっくりと言う。

 バイヨンの人面像に睨まれながらも、ここの回廊壁画はじっくり見る価値がある。十二世紀頃の人々の様子が描かれており、明らかに戦っている兵士の壁画やお祭りを描いたもの、処刑を描いていると思えるものなど、興味がある方はここでバイタクの男性が待ってくれていることを気にせずに鑑賞すると良い。

 三十分ほどでバイヨンを出て、ヴィエラが待っていると言った屋台の前をウロウロするも、僕の姿が分からないのか近寄ってこない。屋台や土産物屋の呼び込みを聞きながら、隣のバプーオンへ入って行った。

 ここはピラミッド型の大きな寺院なのだが、二年前の工事がまだ続いていて立ち入れず、参堂を少し歩いただけで隣の王宮へと足を運んだ。まだ午前十時前なのに日差しが強烈である。

 ピミアナカスという「天上の宮殿」は前回登ったので今回はやめた。急な階段を登った経験は一度で結構だというより、まあアンコールワット遺跡群の中で、このような寺院の遺跡は数多存在し、それらを二度も三度も訪れる必要は感じない。個人的に何度も足を運びたい遺跡は、現時点では月並みだがバイヨンとアンコールワット、それにタ・プロームといったところ。

 王宮の北門からライ王のテラス付近の広場に出た。二年前に土産物を購入した女性がまだいるかと思ってウロウロと探してみた。しかし、このあたりの様子は全く変化なかったが、彼女の姿は見当たらなかった。

 一時間あまりアンコール・トム内の遺跡を訪ねて、もう一度ヴィエラが待っていると言った屋台の方へ戻った。すると今度はすぐに僕の姿を確認して近づいてきた。

 さて、いよいよアンコール・ワット再訪問である。西参道前でバイクを降り、カードチェックをしてもらって西塔門へ向かう。外濠では大勢の人達が水草の掃除を行っている。何とものどかな光景だ。


 二度目のアンコールワット その三

 西塔門から入り、今回僕はバイヨンの遺跡でもそうだったように回廊壁画をじっくり見て歩いた。第一回廊にはマハーバーラタ・ラーマーヤナなどのレリーフ、第三回廊の内側には有名なデバダーのレリーフがある。これらはどのようなものかは説明が困難なので、興味のある方は一度アンコールワットへ行かれるか、インターネットで検索するとおそらく壁画の画像を掲載しているHPがありますので、どうぞそれをご覧になってください。

 いずれにしても僕はそのような壁画を一時間近くかけてじっくり見て歩いた。時々欧米人と出会うが、SARSの影響で日本人観光客が殆ど見当たらず、日本人が少ないということはこのような観光地は閑散としているということである。

 暑さにぐったりしてアンコールワットをあとにした。ヴィエラのバイクに跨り、一旦宿に戻った。レストランではWesco君がフランスパンサンドイッチをパクつきながら、昼間からビールを飲んでいた。昼食はヌードルスープにした。暑い中歩き回ったのであまり食欲がない。

 さて、昼食を摂ってから再び遺跡めぐりに行きましょうとヴィエラが勧めた。僕としては午後から街歩きをしたいので、今回訪れたかったロリュオスの遺跡は明日にしたいと言った。

 ところがロリュオスも有料らしく、僕は一日券しか買っていないので、今日訪れないと明日だったらまた新たに費用がかかると言うのだ。聞けば前回無料だったプノンクロムも有料になっているとのことで、何とまあカンボジア政府も本気で外貨獲得に乗り出したのかと思ってしまった。

 ドルの手持ちが少ない僕としては、涙を呑んで体を叱咤激励して午後からロリュオスの遺跡に向かった。

 ロリュオスの遺跡群は、シェムリアップから国道六号線を東方向へ、つまりプノンペン方向へ約十三キロ行ったところに所在している。この遺跡はアンコールワットよりもずっと古くに建築されたもので、バコン、プリア・コー、ロレイから形成されているが、かなり老朽化している。

 その中でもピラミッド型寺院とされるバコンでは中央祀堂に登ってみた。そこから下を眺めると、この遺跡群がある一定の規則によって建てられたことが窺える。ガイドブックでは祀堂や僧坊が幾何学的に並べられていると説明があるが、僕にはその幾何学的というものが分からない。まあともかく青空を背景に、なかなか絶景な眺めであった。

 しばらく腰を下ろして下界を眺めていたが、ふと横を見ると一人の女性が佇んでいた。グレーの制服を着て座っている。おそらく遺跡の警備員なのだろうがずいぶんと若い女性である。

 「チョムリアップ・スオ!」

 僕はクメール語で「こんにちは!」と話しかけてみた。

 さらにガイドブックを取り出して、「タウ・ネアック・チムオホ・アウェイ?」(貴方のお名前は?)と聞いた。すると祀堂の裏側から彼女と同じような女性三人が「何事だろう?」という感じで現れた。

 外国人がクメール語で話しかけたことに、意外性と嬉しさを感じているようだった。僕はさらにガイドブックを見ながら、「あなたはとても綺麗ですね」という単語を探した。


 ロリュオスの遺跡

 アンコールワット遺跡群の中でもロリュオスはかなり古い遺跡で、クメール王朝の最初の都が置かれたところである。ロレイ、バコン、プリア・コーの遺跡群の中で最も大きなバコンの祀堂に登り、そこを警備する若い女性に話しかけた。

 「チョムリアップ・スオ!」はこんにちはだ。「タウ・ネアック・チムオホ・アウェイ?」はあなたのお名前何てーの?である。彼女は僕に名前を教えてくれたが記憶していない。そして何事だろうと現れた女性三人を相手に、僕は「あなたはとても綺麗ですね」と言った。勿論その言葉は最初話しかけた女性に対してである。

 すると女性達は大爆笑して、なにやらクメール語でワイワイ喋りだした。でもさっぱり分からん。

 おそらく「この変なおっちゃん、どこの国からきたんやろうね?女性に向かっていきなり綺麗だなんて、先進諸国の男どもは口がうまいから気をつけないとね。でもクメール語を一生懸命話そうとしているから良い人かもね・・・」といった具合だろう。

 「貴方達の職場はこの場所ですか?」

 「そうでーす」

 「ここでどのような仕事をしているのですか?」

 「・・・・・●△■×※」

 仕事はおそらく遺跡の警備、管理というものだろう。日本のライオンズマンションや長谷工のマンションの昼間の常駐管理人のようなものと思うのだが、彼女たちはその言葉をクメール語で賑やかに喋るからさっぱり分からない。

 写真を撮っても構いませんか?と言うと、またまたキャッキャキャッキャと喜んでいるのかはにかんでいるのか、ともかく嬉しそうだったのでバシャッと撮影した。(この画像は追ってHPに載せます)

 このような楽しいひと時だったが、彼女たちに別れを言って腰を上げた。ヴィエラが待ってくれているから長くは落ち着けない。それに石垣の頂上は暑くていけない。

 次に訪れたロリュオスの遺跡は国道の反対側にあるロレイである。ここは赤レンガ造りの祀堂がかなり崩れており、修復するための準備が行われているようだった。敷地内に四基建てられていたが、今後はいかに保存状態を維持するかが課題ではないかと感じた。

 敷地内には寺院や僧坊もあったが、お坊さんは見当たらなかった。このロリュオスの遺跡を回っている間に、旅行者にはバコンで一人の欧米人女性とすれ違っただけだった。SARSの影響が大きいのか、この遺跡を回る人が少ないのかは分からないが、もし読者の方で将来アンコールワット遺跡群を訪れる計画のある方は、このロリュオス遺跡に立ち寄られることをお奨めいたします。静かですから。

 敷地から出たところでヴィエラと合流し、ちょっと冷たいものでも飲もうと思い、屋台の店でコーラを注文した。彼にも何か飲みなさいと勧めたが、彼は「いえ私は結構です」と遠慮するのだ。何度か勧めてようやくコーラを注文した。本当に控え目で真面目な好青年だ。

 僕達は日陰に座り、コーラを飲みながら話をした。彼のこれまでの人生や家庭環境などを質問した。

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