第四章、ヴィエンチャン〜ワンヴィエン

 6.父娘バックパッカ-を交えての夕食
 
 タイヤチューブボート遊びのあと、僕とHさんとは昨夜夕食を食べたネットカフェ併設のオープンレストランで軽食を摂りながらビアラオを飲んだ。
 ラオスサラダとフランスパン・ツナサンドを注文して二人で分けて、差し向かいでこんなにリラックスするのは、これが初めてのような気がした。
 彼女はとても興味深い女性なので、僕はこれまでの彼女の旅行歴や仕事のことなどをいろいろと聞いた。
 彼女は大学生時代に、友人と二人でインドに初めてバックパッカ-として旅をしたのがきっかけで、これまでタイ・ミャンマー・マレーシア・ネパール・インドネシアなどを訪れた経験があると語り、インドでは一ヶ月も両親に連絡をしなかったので、インドの日本大使館に捜索願まで出されたと笑っていた。
 僕はそれは笑い事ではないと思ったが、そのような彼女のアッケラカンとした明るさがとても素敵に感じるのだった。
 彼女は神奈川県の川崎市に居住しているらしく、僕の友人が横浜の港北区に住んでいて、年に数回は出張の際に彼の家に泊めてもらい、彼の職場仲間達などを呼んで、大阪名物のたこ焼きやお好み焼を僕が振舞うのですよと言うと、『港北区なら私の家から車で10分程ですよ。 今度来られたら是非呼んで下さいね』と興味深そうに言うので、僕は単純だから今度関東方面に仕事が入ればきっと招待しようと思ったのだった。
 そんな楽しい会話をしていると、何とヴィエンチャンで夕食を一緒した美人がザックを背負って歩いて来た。
 確かにラオスの人口は少ないが、このように旅のルートは大体同じであることが多く、去年のベトナム旅行でもサ・パで一緒だった日本人や欧米人と、バック・ハーで再会するなど、ラオスは特に小さな町が多く、ヴィエンチャンからルアンパバーンに向かい、さらに北部に旅するルートは同じだから、このように偶然何人もの旅行者と再会するのである。
 聞くと彼女はヴィエンチャン発午後1時のバスに乗り、さっき到着してここまで歩いて来たのだが、思ったより早く着きましたと言っていた。
 彼女は僕達が泊まっている宿を聞いてきたが、あいにくタビソックGHFullなので、地球の歩き方に掲載されているGHを訪ねてみると言い、夕食を一緒に食べようと、僕達の宿の中庭で午後6時半頃に約束をして別れた。
 それから僕達は宿に帰って、名物息子のタビソックと中庭で遊んで夜までの時間を過ごした。

可愛いタビソックとバンダナオヤジ
 中庭でタビソックの写真を撮ったりしていると、宿の女将さんが大きなパイナップルを切ってくれて、昼寝から起きて来たN君も交えてご馳走になり、僕は普段果物を殆ど食べることがないのだが、こんな美味しいものなら毎日でも食べたいと思った。
 (ラオスのフルーツはタイと同様に、種類が豊富で美味しかった)
 さらに女将さんは、中庭でタケノコを削り始め、これは今夜のメニューの一部なのだが、僕達にもタケノコスープとして振舞ってくれたのだった。(このタケノコスープは、名前は忘れましたが、ラオスでは有名な料理らしく、大きな具が一杯入っていて、塩味ベースですがとっても美味しかったです)
 中庭の丸い石テーブルでビアラオを女将さんに注文し、僕とN君とHさんとでスープをいただきながらくつろいでいると、K子さんがお父さんを連れてやって来た。
 お父さんは61才で、去年定年退職を迎えて今は悠々自適でのんびり過ごしており、今回初めて娘さんの旅に同行したという訳である。
 年令的なこともあるが、穏やかで丁寧な物腰が聞き方をとても安心させる人で、K子さんは良いお父さんを持って羨ましいと感じたが、K子さんはお父さんに対してかなり言いたい放題だった。
 お父さんはそんなK子さんを、とても大きな心で受け止めてニコニコとしており、親というものはこれくらいどっしりするべきだと、僕も2人の息子を持つ父親としてはつくづく思うのだった。
 さてその後、先程の美人(この女性は名前を聞くのを忘れたので残念に思っています。 年令は24才で、どういう訳か今春大学を卒業したと言っていた)も現れたのだが、女将さんが家族の主食であるカオニャーオ(もち米で作ったもので、手の先で少しこねて食べます。 甘味があってこれも美味しい)も小さな竹篭に入れて振舞ってくれ、途中N君が近くの屋台でチキンの唐揚げなどを買ってきたので、今夜はレストランには行かないで、ここで夕食にしましょうということとなった。
 丸い石テーブルを囲んで、僕達3人とK子さん父子、そして美人さんの計6人は、ラオスに来て毎夜のようになってしまった日本人同士の夕食を楽しんだ。
 K子さんのお父さんは上品で理知的なタイプなのだがかなり饒舌で、『日本の町工場の社長が、ラオス政府に900万円を寄付して、ビエンチャンに中学校を建てたら、ラオス一の規模のものが出来たらしく、その開校式に招待されて大歓迎を受けたらしいです。 日本ではその10倍以上は費用がかかりますからなぁ』と、ボランティアに興味があるようなことを話していた。
 しばらくすると、外から岡崎大五さんが帰って来たので、『一緒にいかがですか?』と誘って、さらに賑やかな夕食の席となった。
 ここからは話の主体はやはり旅行に関することになり、岡崎さんはやはり旅行作家ということもあって、世界の様々な国の情報をよく知っていた。
 K子さんの父上様が、ブータンという国に興味があると言うと、『あの国は落ち着けますよ。 義理堅い国です。 日本の皇室に対しても礼節を徹底していますから、日本人には友好的です』などと、実際彼は訪問しているので、生の有力な情報を教えてくれるのであった。
 このように夜遅くまで、宿の女将さんの親切な手料理で、日本人旅行者同士が旅行論や人生論を、ああでもないこうでもないなどと好き勝手に話し合うということは、日本での人間関係が入った席とは異なって、とても楽しいものだと僕は感激したのであった。(僕ってホント単純)

 第五章、ワンヴィエン〜世界遺産の街・ルアンパバーン
              1.さよならタビソック  
 
 翌日の52日は、前夜からポツポツと降り始めていた雨が朝になっても降り続いていた。
 前夜はあれからK子さん父子と美人が11時頃にGHに帰って行き、僕はすっかり眠くなってきたので、『明日はともかくルアンパバーンに向かって発つよ。 この町には後ろ髪を引かれるけど、旅は先に進まないとね』と言って先に部屋に戻ってすぐに寝てしまった。
 N君はここにあと2日程滞在して、バンコクに戻って豪遊すると重ねて豪語していた。
 又、Hさんも、『私はもうここにずっと居ようかなぁ。 できれば1ヶ月位』と、相変わらず訳の分からないことをおっしゃっていた。
 6時半頃に目が覚めて洗濯物を取りに行ったら、当然雨でビショビショだったが、考えてみると僕はラオスに入国してから毎日洗濯をしている。(暑いから毎日汗をかくってことだね)
 決意も固く、シャワーを浴びてバックパックの整理をしてから下に降りていき、2日分の宿代60,000kip840円程)を支払っていると、少し疲れた目をしてHさんが起きて来た。
 『昨日は遅くまで飲んでいたの?』と僕が聞くと、『私は11時過ぎには部屋に戻りましたけど、Nさんはまだ岡崎さんと遅くまで話している声が聞こえていましたよ』とのことで、さらに意外にも、『私も今日、ルアンパバーンに向います』と言うのだった。
 彼女は僕と同様に、この町とこのゲストハウスに後ろ髪を引かれているようだったが、短期間の旅人はドンドン先に進まなくてはいけないのだ。
 ところが彼女が準備をしている間にN君も起きてきて、『僕もルアンパバーンに一緒に行きます』と言うのであった。
 N君のあっという間の予定変更に、またしても彼女と2人だけのバス旅行は一瞬の喜びに終わってしまい、ヴィエンチャンからワンヴィエンに来たのと同様に、3人のバス移動となった。
 バスは一日1便、午前9時出発である。 1時間前には行っておかないと座れない。
 ともかく僕達は朝食を摂るために近くのレストランに入り、僕はベーコンエッグ&フランスパン・ラオコーヒーを注文(8000キープ)、彼女とN君はヌードルスープで慌しい食事を済ませた。
 宿に戻って、再びバックパックを背負い階下に降りた。
 中庭では宿の女将さんやご主人の弟さん、さらにあの可愛いタビソックも眠そうな目で起きて来ていた。
 もっとこの宿で世話になりたいが、2人が準備をして中庭に出てきたので、残念ながら出発だ。
 僕達3人は、女将さんや家族に丁寧に別れを言い、バス発着場に向かってゆっくり歩き始めた。
 後ろを振り返ると、皆が手を振っていた。 僕達も負けずに手を振る。
 僕達が道路から見えなくなるまで、家族の方達は手を振ってくれていた。
 それにあの可愛いタビソックまでもが、小さな手をいつまでも振ってくれていた。
 僕は涙が出そうになった。
 【タビソックGH! とても親切で楽しい宿だった。 きっと必ず又来るからね。 昨夜のご馳走のお礼を何もしなくてごめんなさい。 今度日本のお土産を持って帰ってきます。】
 
 さてバス発着場に8時過ぎに到着すると、既に欧米人を中心とした乗客で溢れていた。
 ワンヴィエンからルアンババーンまでのバスは一日一便、午前9時に出発し、約7時間の山岳道路を登って行くのである。(50,000kip・・・700円程だったと記憶します)
 乗務員が客の荷物をバスの天井に載せて、その上から幌を被せてロープで縛っている。
 乗客の中に日本人は僕達3人と、30才前後の青年(彼はこの時点で少し言葉を交わしましたが、名前もお互いに告げませんでした)しかいないように思われた。
 発着場横の店で、退屈な旅のために飴とガムと、それにミネラルウオーターを購入し、さてバスに乗り込むと、シートはクッションがあるものの、破れて中身が出ていたり無くなっている席もあり、相当年季の入ったバスだと思った。
 座席は3人掛けと、2人掛けが並んでおり、僕達3人は真ん中に僕が座って並んだ。
 前の座席との間隔はかなり狭いようだが、幸いにも僕達は一番前の席を選んだので、足を投げ出すことが出来て、後ろの乗客に比べると少しは楽だった。(筈だった)
 午前9時になり、予測に反して定刻通り出発した。

ワンヴィエン〜ルアンパバーンまでのバス

 バスは少なくとも20年は走り続けているのではないかと思われるくらいガタガタ音を立てたが、走り始めるとエンジンは快調そうだった。
 しばらく平坦な田舎道を走ったあと次第に登り道となり、しかも鋭いカーブが続いた。
 ラオスは経済的なことと技術的なことから、橋やトンネルを建設するまでには至っていないとみられ、やむなく山裾の形のまま道路を建設したので、このようなヘアピンカーブばかりの国道になってしまったと思われた。
 カーブの度に僕は曲がる方向の足を突っ張って、隣のHさんやN君にもたれかからないように注意をするのだが、何時間も同じことを繰り返していると、足やお尻が痛くなってきて、普段温厚な僕もこの道路にちょっと頭に来そうになってきた。【何とかしろよ、ラオス政府!】



 2.ファッキン・クレイジーロード

 

 ワンヴィエンからルアンパバーンへは、山岳の悪路を7時間とガイドブックなどには記載されていた。

 つまり、首都・ヴィエンチャンからルアンへ一気に行く場合は、11時間を要するということである。

 ヴィエンチャンからワンヴィエンまでの4時間のバスの旅は、道路事情も良好で、思ったより快適だった。

 しかし、ワンヴィエンからルアンパバーンへの7時間は、カーブの多い山道ばかりということもあって、僕には随分ハードな移動だった。

 バスは山裾の形に沿って造られた道路を走るのでクネクネと曲がり、山越えともなると急なヘアピンカーブが続き、直線道路は殆どなく、ちょっと腹具合がおかしくなってきた。

 しかし、両隣の2人は車酔いなど関係ないといった澄ました顔で一向に動じることなく、ひたすらスヤスヤと寝ているのだった。

 ただ、道路は意外にも大部分が舗装されており、数年前の旅行者がホームページなどに記述している埃まみれの悪路とはちょっと違っていた。

 ラオスは1999年から2000年を観光年としていたこともあって、ラオス政府もここ数年の間に道路建設に力を入れ始めたのではないかと思われる。

 時々通る村々の風景は、高床式の粗末な茅葺屋根の住居で、大雨や嵐には耐えられそうには見えなかった。 点在する住居の周りを裸足の子供達が走り回り、僕達のバスに向かって手を振っている。 ここでは水道や電気などは通じておらず、このような山村ではまだまだ貧困の度が深いようだ。

 天候は途中からどんよりと曇り始めたが、雨には至らず、相変わらずのカーブで右や左に傾く体を足と尻で支えながら、出発して3時間余りの午後12時過頃になっていよいよ疲れてきたと思った時に、食事休憩のため小さな村(ラオスでは町になるのかも)に停車した。

 この村が地図によればカシーという町なのかも知れないが、確認するべくもなく、僕達はハラペコなので目の前に数軒並んでいる屋台風レストランのうち、店の前で中年女性がチキンライスのようなものを鉄板で炒めているところに入った。

 他の店ではヌードルスープやフランスパンサンドイッチなども食べられたようだが、ご飯類を食べたかったので、その女性から出来上がったばかりのものをお皿に盛ってもらった。

 それは食べてみるとヤッパリチキンライスだった。()

 しかし、日本のチキンライスに比べると味はかなり濃く、反対にケチャップが少なめで、チャーハンに似た感じもしたが、味は勿論美味しかった。

 レストランでのんびりと周りを窺うと、やはり日本人は僕達3人と青年だけで、他は殆ど欧米人旅行者であった。 やはりラオスはインドシナ3国のひとつで、長年フランスの支配下にあったことから、ヨーロッパ人からは観光候補地に数えられているのだろうか。

 僕は小さなバナナを2000kip(28円程)で買ったのだが、これがなんと15房もくっついているのだ。

 これがバナナとサツマイモをミックスしたような感じで、なんともおかしな味だったが、僕はたちまち3房を食べてしまった。(こんな食べ方するからこのあとお腹を壊すんだね)

 さて40分程の休憩の後、再び出発だ。

 しばらく山岳道路を登ったり降りたり、曲がりくねったり、再び曲がりくねったりしながら3時間程を走り続け、バスのエンジンは変わらず快適そうだったが、僕はとうとう両足と尻に力が入らなくなり、カーブの際に体を支えられなくなってきた。

 『ファッキン・クレイジーロード! もういい加減にしてくれ!』と心の中で何度か叫んでいるうちに、午後4時頃にルアンパバーンに到着した。

 バスはだだっ広いターミナルに着き、乗務員が屋根から降ろすザックを受けとり、さて街中までどう行くのかな?と思うまもなく、旅行者目当てのトゥクトゥクが十数台も、僕達や欧米人達を取り囲んだ。

 トゥクトゥクと提携したGHの客引きが、名刺を次から次に僕達に渡し、『俺の宿に泊まってくれないか。 ホットシャワーだ! 清潔だ! エクスペンシブだ!』などとアピールしてくる。

 たちまち手の中に4,5枚の名刺が乗せられ、左右前後の青年達にガヤガヤと誘われて躊躇していると、Hさんが、『この青年が売り込む宿に行こうと思いますがどうしますか? 性格良さそうだし』と言うので、『じゃあ一緒に行こう』ということになり、N君も含めた3人で、そのホッソリとした青年の宿に連れて行ってもらうこととなった。

 喧しい音を立てて僕たちを乗せたトゥクトゥクはバスターミナルをあとにし、世界遺産の都市・ルアンパバーンの街中に入って行き、【やっぱりワンヴィエンに比べると都会だなぁ】と思っていると、アレレ?メインストリートを通り抜けてドンドントゥクトゥクは走り、やがて街外れの一軒のGHに着いた。

 『随分街中と離れているじゃないか?』


つづく・・・

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