第六章、さよならルアンパバーン

 

              1.ラオス航空プロペラ機 

 昨夜は体調が悪いということもあって、柄にもなく刹那的な気持ちのまま午後9時過ぎには寝てしまった。
 翌55日は、朝6時の目覚まし時計が鳴るまで何度も何度も目が覚めたが、結局9時間も睡眠をとり、体の熱っぽさはすっかりなくなっていた。
 しかしトイレに入ると相変わらずの下痢で、昨夜飲んだ薬は全然効き目がなかったようだ」。
 いよいよ旅もターンということだ。
 荷物を整理し、ザックに丁寧に押し込んでから7時半頃にチェックアウトをした。
 宿のお姉ちゃんはいつも2人で小さなフロントに腰掛けていて、僕が近づくとニコニコ笑うのだった。
 愛想笑いなのか、それともおかしな中年日本人に自然と笑いが出てくるのか、或いはラオス人特有の自然な微笑なのか、言葉が通じたら、『何故笑っているの?』と聞いてみたいのだが、このホンタビーGHの人達は英語も殆ど分からないようだった。
 2年前にオープンしたばかりとのことで、ラオス観光年やルアンパバーンの人気で、ツーリストが急増したためGHを慌しく開業したという感じに思えた。
 3日分の宿代として90,000kip(1,260)を支払い、Hさんが空港に行く途中トゥクトゥクで迎えに来てくれるかもしれないので、中庭の椅子に腰をおろしてしばらく待った。
 僕がザックをドサッと足元に置いてぼんやりしていると、宿の前でさっきから客待ちをしているトゥクトゥクのオヤジさんが近づいてきて、『乗らないのか?』と聞いてきた。
 『いや、空港まで行くのだけど、友達を待っているんだ』と僕が答えると、仕方ないなという感じで戻って行ったが、引き続き宿の前で客待ちをしている。
 815分までHさんを待ったが、結局現れないので、彼女は宿のニコン青年に送ってもらうに違いないと思って、先ほどのトゥクトゥクのオヤジさんと交渉して10,000kip(140円程)で空港まで行ってもらうことにした。
 ルアンパバーンの街中を走っていると、体調を壊したので満足に町歩きもできなかったことが悔やまれ、【さよならルアンパバーン。 いつかもう一度来てみよう】と思った。
 空港には約15分で到着し、ロビーを見渡すと客はまばらで、Hさんの姿も見当たらなかった。
 早速チェックインをしようとするも、9時半にならないと無理だというので、仕方なくロビーの椅子に座って待った。
 ルアンパバーン空港は滑走路が一つで、空港の建物は日本の中標津空港程度の大きさである。
 しばらくぼんやりしていると、920分頃にHさんがニコン青年のバイクで送られて登場した。
 彼女の顔を一日見なかっただけなのに、随分と懐かしい感じがした。
 彼女の話では、昨日はニコン青年のバイクで滝見物に出かけたあと、ニコン青年がのんびり昼寝をしたので、僕達と約束していたスカンジナビア・ベーカリーには全く間に合わなかったらしい。
 ベトナムやタイでもそうだが、やはりこれだけ暑いと体力を消耗するので、昼寝は欠かせない習慣のようだ。
 彼女は昨夜、ニコン青年の姉宅などを訪問し、食事やカラオケなどの接待を受け、現地人との交流という貴重な体験をしたそうで、少し羨ましく思った。
 結局宿に帰ったのは深夜の0時頃で、一日中あちこち動き回っていろいろなことがあったので疲れましたと、本当に疲れた顔で言っていた。
 さてニコン青年に別れを言って、9時半過ぎにチェックイン、ザックを預けて空港内レストランで朝食を摂った。
 僕はオムレツとコーヒーを注文、彼女は下痢気味らしくコーヒーだけだった。
 この時、僕が飲んでいた下痢止めを彼女に一錠あげたのだが、このあとますます彼女の下痢がひどくなってしまい、本当に悪いことをしたと思った。
 ところがいよいよ出発ロビーに入って準備をしていると、何と突然ニコン青年が現れ、彼女にネックレスをプレゼントしたのだ。
 彼女を空港まで送ってから街まで戻り、急いで購入したらしいのだが、彼女の名前の頭文字のものがなくて、アルファベットの次の文字であるMのネックレスを買ったということである。
 思いがけないプレゼントに彼女はかなり感激した風で、これは完全に僕の負けだなと観念してしまった。(何が勝ちで何が負けなのか分からないが)
 やはり国に関係がなく、若者というものは情熱的だと思った。
 ともかく彼女がニコン青年とずっと立ち話をしている間、僕は滑走路を眺めてぽかんと口をあけていたら、ザザー、ゴー、ドコドコドーンという感じで、オモチャのようなプロペラ機が舞い落ちてきた。
 すぐに数十人の乗客が降りて、少しだけ整備をしたあと折り返しヴィエンチャンにこの飛行機は向かうのだ。【大丈夫なのかなぁ】

 


 2.さよならラオス
 
 ラオスでは毎月2,3機、飛行機が墜落していて、その度に多くの人々が犠牲になって、ただでさえ人口の少ない国が出生人口より飛行機事故で亡くなる人のほうが多いので、人口が減少気味らしい、というのは勿論嘘に決まっているが、そんな危惧を抱きそうなくらいオンボロのプロペラ機だった。
 Hさんとニコン青年は15分程立ち話をしていたが、時は2人を引き裂く・・・やむなくニコン青年と別れたHさんは心なし寂しそうだったが、いよいよルアンパバーンともお別れだ。
 今回は残念ながら体調を崩し、あちこち行けなかったが、聞いていた通りの素敵な町だった。
 今度来る機会があればニコン青年のGHに泊まってあげようと思った。
 
 飛行機はゴーという音とともにあっけなく飛び立ち、みるみる高度を上げて行き、窓から見るルアンの街並みは緑豊富な綺麗な町だった。
 機内は2人がけの席が通路を挟んで両側に並び、定員は80名程に思えた。
 僅か40分程のフライト時間であったが、オシボリと飲み物サービスがあり、2人のスチュワーデスが慌しく動いていた。
 途中何度か機体が大きく揺れ、横のHさんは非常に怖がっていたが、僕は飛行機に乗った時は毎回死を覚悟しているので、別段どうってことはなかった。
 それに今回は彼女と一緒だし、万が一の時は本望じゃないか。
 僕にも今後の人生でしたいことがたくさん残っているので、一応ヒヤヒヤしながら顔に出さずに寝たフリをしていたら、間もなく午後125分頃にヴィエンチャン空港に到着した。
 さすが首都の空港で、ルアンパバーンよりも随分と大きかったが、それでも宮崎空港程度だろうか。
 僕達は空港を出て、ともかくお土産を購入してから今日のうちにタイに入り、今夜の夜行列車でバンコクに向かう予定なので、目の前のタクシーに乗って市内に向かった。
 見覚えのある通りや建物の前を通過して、タラート・サオに到着したが、途中一週間ぶりに見るヴィエンチャン市内の様子は何故かとても懐かしく感じた。
 タラート・サオで僕達は、ビアラオと書かれたTシャツや民芸品などを少々買って、その後市場内のレストランで休憩したのだが、2人とも下痢のため何も食べられず、バナナシェイクなんかを飲むだけだった。
 考えてみれば日本人の親子のような男女が、異国のレストランで下痢状態でぐったりしている姿は、とても滑稽なものだと思うのだが、その時は本当に大変だった。
 しばらく休憩してからトゥクトゥクでボーダーまで向かい、入国の時と反対の手続きをして、あっという間にメコン川を渡り、タイのノーン・カーイに到着した。
 ボーダーからのバスは駅まで行かずに、だだっ広い広場に到着し、そこから駅まではトゥクトゥクを利用しなければならない。
 この時トゥクトゥクの値段交渉で、向うの言い値と僕達の希望の値段とが食い違い、ちょっと時間がかかった。
 最初向うは50バーツを提示してきたので、僕達は体調が悪かったので妙に2人ともイライラした状態で、僕は『おっさん、何ゆうてんねん! 30バーツで行かんかい、ワレ! なめとったらいてまうでぇ』といった気持ちになった。
 実際は彼女の方が毅然とした態度で、『30じゃないと駄目! 甘く見ないで!』という感じで言うのを、僕は横でハラハラしながら見ていただけで、普段穏やかな彼女の意外な部分を垣間見たような気持ちになった。
 結局、『まあいいじゃないですか、40Bということで』と僕がオロオロと情けなく間を取って交渉し、ともかくノーン・カーイ駅に到着した。
 彼女は既にバンコクまでの2等エアコン寝台席のチケットを購入していたので、僕の分を買うために窓口に行ったのだが、もしここでチケットが取れなければ残念だが彼女とはお別れで、僕は夜行バスでバンコクに向かうつもりであった。
 今から思えば3等席ならば空席は当然あったと思うのだが、その時は体調がひどくて、とても寝台席以外で帰ることが頭になかったのである。
 僕は心の中で【どうか空席がありますように】と、神仏御先祖様などに念じながら窓口に行き、『バンコクまで、2等エアコン寝台席!』と叫んだ。
 ところが窓口の駅員は無情にも、『Full!』と言うのだった。

 

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