第五章、ワンヴィエン〜世界遺産の街・ルアンパバーン
11.のんびりした光景
ルアンパバーン3日目は、体調が少し良くなったり、また悪化したりという繰り返しで、相変わらず下痢も止まらなかった。
午後3時になり、約束の4時には少し時間が早いが宿を出て、途中郵便局に立ち寄り、絵葉書を2枚購入し、1枚はベトナムで世話になった彼女に、もう1枚はHさんに即興で文章を書いて送った。
天候は雨が降ったりやんだりで、いよいよラオスも乾季から雨季が訪れてきた気配を感じた。
ブラブラとメインストリートを歩き、午後4時少し前にスカンジナビア・ベーカリに着いた。
朝から食事らしいものを全く摂っていなかったので、小さなパンとヨーグルト、それにペプシを購入し、オープンテーブルでHさんとO君を待った。
パンを小さくちぎって口に放り込み、無理やりペプシで流し込んだが、2口ほど食べると気分が悪くなってきた。
しばらくすると一昨日同じ場所で会った日本人4人のうちの1人の男性が偶然現れ、体調を壊したと言うと、『正露丸などの薬では効きませんよ。 現地の病気は現地で売っている薬が効くらしいですよ』と真面目な顔をして言った。
【そんなものかなぁ】と思っているとO君が現れ、3人でしばらく、道路の向かい側で行われている屋根瓦修復工事の様子を眺めながら、Hさんを待った。
その様子は本当におかしな光景で、改築した民家の屋根瓦を交換しているのであるが、屋根の上に男性2人が上り、男性1人が下から新しい長方形の瓦を放り上げ、上の1人の男性がそれをキャッチしてもう1人の男性に手渡し、その男性が一枚ずつ瓦を張って行くといったコンビネーションで行われているのである。
日本なら絶対に見られない光景だと思う。
何故なら日本であれば下から一枚一枚放り上げて、それを丁寧に受けて・・・といった方法はおそらく採用しないと思われるからだ。
ハシゴがあるのだから、まとめて瓦を屋根に上げてから、皆で貼って行くというやり方ではないかな?
ラオスという国に来てみて最初に感じたのは、人々をはじめ街やメコン川の流れまで、あらゆるものがゆったり、のんびりと動いているということだった。
首都ビエンチャンは信号機が2ヶ所しかなく、信号無視をしたトゥクトゥクを警察官が呼び止めても、まあいいじゃないかという感じで見逃していた。
ルアンパバーンの郵便局員は、僕が入って行っても窓口で大きなあくびをしていて、やる気があるのかないのか分からなかった。
あくせくしないということは分かるが、日本人から見るとのんびりし過ぎだという印象にも感じられ、国全体がこのようにゆったりと動いているから、経済の発展もきわめてスローであり、【大丈夫なのか、ラオス人民!】と思ってしまうのだ。
屋根瓦の修復作業ひとつ取っても、エイ! ホッ!ヤッ!という風に掛け声があるわけでなく、一枚を放り上げる間隔が長くて、なかなか作業がはかどらない。
時には放り上げた瓦を、上の男性がうまくキャッチできなくて下に落とし、ガチャーンと見事に割れてしまうのを苦笑いをして彼等は眺めているのだから、本当にしっかりしろよと思ってしまうのだ。
『のんびりした屋根工事ですね』
O君も僕と同じ様なことを感じていたのか、対面の光景を眺めながら呟いた。
『この国では一日が48時間あるんじゃないの?』
僕は本当にそんな錯覚を起こしそうになりながら、笑って言った。
午後4時40分までHさんを待ったが結局現れなかったので、僕達3人はルアンパバーンの名物であるプーシーの丘に登ろうということになった。
HさんはGHのニコン青年と滝遊びに夢中なのだろう。
昨夜別れ際に、『4時に間に合うかどうか分かりません。 滝まではかなり遠いらしいですから』と言っていたので、ある程度予測はしていたが、ちょっと残念な気がした。
プーシーの丘の登り口はメインストリート沿いにあり、僕らはカフェを出てゆっくり歩き始めたが、突然アメが本降りになってきた。
やむなく僕達は民芸品屋の軒下でしばらく雨宿りをすることにした。
本当にのんびりとラオスの時間は流れて行く。
12.ルアンパバーン最後の夜
プーシーの丘とは、ルアンパバーンの街の中心部に、うまい具合にポツンとある小さな山の頂上を指す。
メインストリートに面した登り口から階段を300以上も登った頂上には小さな寺院が設置され、そこから見下ろす街並みの眺めは絶景だとの話である。
僕達3人は民芸品屋の軒下でしばらく雨宿りをしたあと、ちょっと小雨になった頃合をはかって石段を登りはじめた。
トントントンと半分ほど登ると雨が激しくなり、ちょうど入場料を支払った(いくら支払ったか憶えていません。おそらく500kip)小屋でしばらく休憩しながら、何とか頂上までたどり着いた。
プーシーの丘からの眺め(向こうはメコン川) | プーシーの丘の上でのショット(ヨレヨレ状態) |
2人は若いから、このような石段も何ということなくドンドン登って行くのだが、何しろ僕は中年だし、しかも目下のところ体調は最悪ということもあって、頂上にたどり着いた時にはほぼ瀕死の状態であった。
しかし無理をおして登ってきた甲斐があり、そこからの景色は本当に最高で、雨が降ってややモヤがかかっていたことがさらに映えて、まるで緑溢れた箱庭のような感じで、世界遺産に登録された町であることが十分納得できた。
しばらく頂上を360度回って景色を堪能し、写真を撮ったり物思いに耽ったりしたが、何しろ頂上といってもゆっくり一回りしても3分もかからないのだから、長くいても仕方がない。
それにますます下痢がひどくなり、汚い話であるが、お尻の括約筋に力を入れてなんとか止まっている状態で、いよいよ苦しくなってきた。
1人の男性とは、『これからも良い旅を』とここで別れ、僕はO君とフラフラしながら階段を降りて、下痢止めを買いに薬局を探すことにした。
O君が確か市場の近くに薬局らしき店があったというので、タラートの方向に歩いた。
薬局は結局(笑)、僕のGHから通りに出てタラートのほうに曲がった通りの店の並びにあった。
店には若い娘さんが一人で店番をしており、僕はちょっと恥ずかしい気がしたが、ともかく言葉が通じないようなので、おなかを手で押さえて次にお尻の辺りを指で示しながら、『Loose!』と何度も言ったら分かってくれたようだった。
時刻は午後6時を過ぎたので、僕達は近くのレストランに入り、彼はフライドライス・ウイズ・チキンとビアラオ、僕はオニオンスープとオレンジジュースを注文し、早速先ほど購入した下痢止めと思われる薬をミネラルウオーターで流し込んだ。
O君は、『大丈夫ですか? 宿に帰って休んだ方が良いのではありませんか? 僕だけビールを飲んでごめんなさい』と気を遣ってくれ、優しい人柄にこちらが恐縮してしまうくらいだった。
このO君は横浜の人で、年令は28才、阪神タイガースの藪投手に顔立ちや体つきが似ている好青年である。
落ち着いた物腰で静かに考えながら話し、粗野で言いたい放題の僕とは異なって、きっと女性にモテルに違いないと思った。
彼は僕に、『どのようなお仕事ですか?』と聞くので、正直に探偵調査会社に勤めていることを話すと、『日本にもそういう仕事があるのですねぇ』と不思議に思っているようだった。
彼は大学卒業後、コンピュータ関係に従事し、主にハード面のメンテナンスを行ってきたらしいが、以前から旅の魅力に取り付かれているため、雇用形態が気分的に楽な派遣会社に登録して、一定期間派遣で仕事をして貯蓄し、契約が切れると旅に出るという生活でこれまできたようである。
今回は1年間の計画で、アジアを横断して最終的にトルコからギリシャに向かうという、いわゆるユーラシア大陸横断旅行の目的で、2週間程前に日本を発ったらしい。
1時間あまり、彼と人生や旅について有意義な話をして、とても良い夜を過ごせたが、体調は一向に良くならず、オニオンスープも殆ど残してしまった。
お互いにメールアドレスなどを交換してからレストランを出て、しばらく歩くと彼が、『甘味屋がありますから、ちょっと寄りましょう』と言い、僕が脂っこいものを全く食べられないことに気を遣ってくれるのであった。
甘味屋はアジアでは所々に見かけ、店先にはフルーツや寒天や色とりどりの甘味食材が容器別に並んであり、食べたいものを指差して容器に入れてもらい、それに砕いた氷をガサッと入れて出来上がりである。
僕はあんみつのようなものを注文し、全部食べることは無理だったが、体調が悪い時の甘いものは本当に美味しく感じた。
甘味屋を出て僕の宿の方向に歩き出し、彼のドミトリーはその先にあるらしいのだが、いよいよお別れだ。
僕は明日の午前便の飛行機でHさんとヴィエンチャンに向う。
『それじゃあ、O君。 くれぐれも体に気をつけて良い旅を』 『Fさんもお元気で。 いつか又日本で会いましょう。 必ずメールを出します』と言葉を交わして別れた。
僕は暗闇の中、O君の大きな背中が闇の中に消えてゆくまで、ずっと立ち尽くしていた。
僕は体調が悪いこともあってか、何故か悲しかった。
大きな寂しさに覆われていくような気がして、宿に帰ってもベッドに腰掛けて茫然と外の暗闇を眺めていた。
今日は爽やかな明るさを持ったHさんの顔を1度も見ていないからかもしれなかった。
僕は暗闇だと切なさに耐えられなくなってしまいそうなので、情けない話だが部屋の電気をつけたまま寝た。
旅も後2日となってしまった。