第五章、ワンヴィエン〜世界遺産の街・ルアンパバーン


 5.雨のルアンパバーン
 
 翌53日は7時に目が覚め、水シャワーを浴びてから約束のラオス航空ルアンパバーン支社に向かった。(ここのGHはシャワー室兼トイレに簡易湯沸し器がついていたが、機能しなかった)
 外に出ると曇り空で、今にも雨が降りそうな感じだ。
 ホンタビーGHの前の泥道から大通りに出るまでには、左側に小学校があり、ガヤガヤとうるさいのでチョイと覗くと、まだ授業開始前なので子供達が廊下や教室内を走り回っているのが見えた。 子供はどこの国でも無邪気なものだと思った。
 タラート・サオを左に見ながら歩き、2つ目の交差点を右に曲がり、少し行くとラオス航空オフィスがある。(交差点といっても信号はありません)
 建物は平屋の小さなもので、日本でいえば町の特定郵便局を少し大きくした感じだが、敷地は広く建物の前はちょっとした庭になっていた。
 8時ちょうどくらいに行って、予約窓口を覗くと既に欧米人3人が手続きをしていた。
 見るとカウンター内には男性職員が2人いたが、パソコンが1台しか設置されていないので、発券には随分と時間がかかるのを覚悟しなければいけないようだ。
 一旦外のロビーに出て、N君とHさんを待っていると、事務所の他の部屋からシン(ラオスの民族衣装で、女性のタイトなロング巻きスカートである)を纏った美人女性職員が2人出てきたので、僕は無意識にその女性達が行く方向について行ってしまった。
 2人は予約カウンターではない別の部屋に入っていったので、やむなく元のロビーに戻ると、ちょうどそこに二日酔いの感じでN君が現れた。
 N君は明日のルアンパバーン〜ヴィエンチャン、ヴィエンチャン〜バンコクのチケットを購入する目的で、明日の夕方にはバンコクの一流ホテルにチェックインして、酒池肉林、豪遊の限りを尽くすのだと豪語していた。
 『昨夜あれから1人でもうちょっと飲んでたんですわ。 ビアラオを2本飲んだらフラフラになりました』とN君が楽しそうに話していると、間もなくHさんが、宿の青年のバイクに乗って登場した。
 その青年は名前を“ニコン”と呼び、決してカメラに興味がある訳ではなく、25才の現地青年で、着ていたTシャツには、何故か「阪急電車」と縦に書かれていた。
 僕達はそのTシャツを見て、5分間ほど笑いが止まらず、僕はあごが外れてしまい、N君なんかはカメラにその姿を収めながら庭を笑い転げていたが、ニコン青年は訳が分からないままニコニコしていた。
 ともかく3人はチケット購入カウンターで、N君は明日の午前便、僕とHさんとは明後日のヴィエンチャンまでの午前便の航空券を無事に買うことが出来た。
 僕とHさんとは一気にバンコクには行かずに、ヴィエンチャンでお土産などを買い物してから国境を越え、ノーン・カーイから夜行列車で帰る予定をしていた。
 9時過ぎにオフィスを出て、遅めの朝食を摂るために近くのレストランに入り、僕はアメリカン・Breakfast(ハムエッグとフランスパンにコーヒーで12000kip(170円程)もした)、彼女はヴェジタブルヌードル、N君はチキンヌードルだった。(彼はチキンが大好物らしい)
 この頃から雨が次第に本格的になってきた。 ラオスはもうすぐ雨季に入るのだ。
 濡れた道路の上をトゥクトゥクやバイクが忙しく走っている。 歩いている人もいるが、誰も傘などはさしていない。 欧米人旅行者も雨に濡れながら、朝の町を散歩している。 
 ぼんやりとルアンパバーンの雨の街並みを眺めていると、ふと自分が今何故ここにいるのかを瞬時には思い出せないような、夢の中を彷徨っているような気持ちになった。
 【日本でのあらゆることを忘れているとしたら、本当に幸せな気分に浸っているのだなぁ】と半分意識不明の状態で思っていると、『ペロ吉さん、市場に買い物行きましょうよ!』というHさんの元気な声に現実に戻された。
 僕達は雨に濡れながらタラート(市場)に行き、お土産物を見て回った。
 この市場は現地の人々の生活と密着している唯一の大きな市場で、日用雑貨から食料品、衣料品、アクセサリー・宝石類まで、何でも売っている。
 うろうろと1時間程あちこちの店を覗いて回ったが、ベトナムのようにしつこく勧める訳でなく、店の人は僕達が品定めをするのをニコニコしながら眺めているだけで、おとなしいラオス人の性格を感じた。
 彼女はシルクのブラウス、N君は日本の彼女のお土産としてブラウスとTシャツを購入し、僕はお土産を買う対象となる人がいないので、青いレインコートを買った。
 これを買う時も、最初店の中年女性が、『15000kip』と言っていたのを、僕がちょっと高いねと一言言うと、すぐに8000kipに値下げしてきたので、あまりの素直さにズッコケそうになってしまった。
 このレインコートは頭からかぶって、顔と手を出すだけの簡単なものだが、膝辺りまであるかなり長いものなので、青いテルテル坊主がヒョコヒョコ歩いているような感じで、このあと現地の人達は僕をジロジロ見ながら笑っていたので、きっと相当猛烈滑稽な格好だったに違いない。
 僕達3人は雨のルアンパバーンの町を散策し始めた。

 

 6.体調悪化
 
 雨のルアンパバーンは、緑の多い街並みは小雨でしっとりと濡れて少し色褪せて見え、行きかう人々の様子も穏やかで、落ち着いた風流な街の雰囲気を感じた。
 僕達はタラートを出てから、先ずHさんが家に絵葉書を出すため郵便局に立ち寄った。
 郵便局はテレコムと同じ建物の中にあり、窓口では女性2人と男性1人が暇そうにあくびをしていたが、僕たち日本人3人が入って行っても、けだるそうな態度で応対をするのだった。
 君達もっとやる気を出せよと思いながら、僕もそこで1枚の絵葉書を購入して、去年ベトナムで一緒だった女性に即興で文章を書き込んで窓口に持って行った。
 日本までの切手代は25,000kip(350)、のちに聞くと一週間で届いたらしい。
 再び外に出ると、雨はシトシト降っては止みまた降るといったおかしな天候だったが、僕達はメインストリート沿いのアートクラフト屋や絹織物屋などを覗いてから、通りのはずれの方にあるワット・シェントーンを訪れた。
 この寺院はラオスで最も美しいといわれ、ガイドブックによると1560年に当時の王セタティラートによって建立されたとある。
 中に入ると広い敷地内に観光客は見当たらず、本堂の方に向かうと小さな小屋があり、中年女性が入場券を買ってねと言うので、僕達は、『ヤッパリタダじゃないんだね』と厚かましいことを言いながら、11000kip(14)を支払った。
 ワット・シェントーンは、僕が受けた印象としては、孔雀が羽を広げた形の屋根が重ねられているといった感じの、日本にはない建築様式でなかなか素晴らしいが、ここではこの寺院の建設に至った歴史や建築スタイルの詳細はうまく説明できないので省く。
 本堂の中の仏陀をかしこまって拝んだあと寺院の裏手から出ると、目の前がメコン川だった。
 メコン川は雨が降っていることもあってか、豊富な水量を誇り、川の流れも速く感じた。
 僕達3人は、やはりラオスはメコンの国なんだなぁとしばし見とれていると、1人の現地青年が声をかけてきた。
 達者な英語で話す内容は、川向こうに船で渡って、洞窟やラオラーオの酒造り、陶器作りなどの村を訪ねる3時間ほどのツアーはどうかと言っているのだった。
 洞窟はともかく、アルコール度が強烈なラオラーオという酒造りの様子は、ちょっと覗いてみたい気がする。
 青年は最初16ドルと言っていたのだが、僕達が思案しているとすぐに1ドル値段が下がり、結局5ドルで行ってみようということになり、その前に昼食を摂るので午後1時にこの場所で約束をして、メインストリートの方に戻った。
 レインコートを脱いで一軒のカフェに入って僕はバナナシェイクを注文したが、ここは食べるものがピザしかなかったので、HさんとN君は隣のレストランに移った。
 ところが僕はこの頃から体調がおかしく、熱も少しあるように感じた。
 しばらく旅行のメモなどを整理していたが、どうも体全体がふわふわした感じで、それに疲労感もあるので、熟考した結果、残念だが洞窟探訪他のツアーは行かないことに決めた。
 店を出て隣の彼女達の店に行くと、テーブルには彼女たち2人の他に30代後半くらいの日本人男性が一緒にいた。
 男性はIさんといい、神奈川県在住の僕たちと同じサラリーマンで、年に2,3度はこのような短期の旅を楽しんでいるとのことで、内1度は必ず妻を同行しなければ許してくれないのですと、苦笑いをしながら話していた。
 僕は、『ちょうどよかった。 僕の体調がちょっと悪くなってきたので、代わりに洞窟その他ツアーに行ってくれませんか?』と言うと、Hさんが、『さっきお誘いしたのですよ。 ペロ吉さんは行かないのですか? 大丈夫ですか?』と少し心配をしてくれているようだった。
 N君は、『行きましょうよ。 ラオラーオのキョーレツな酒をグビッとあおったら治るんとちゃいますか?』と無責任なことを言っていたが、ともかく夜6時に“ナジム”というインド料理店で夕食の約束をして僕は宿に戻ることにした。
 ブルーのテルテル坊主姿で僕は、道行く現地人の嘲笑を浴びながらヘトヘトになって宿に帰った。
 フロントにはお姉ちゃんが2人何をするでもなくぼんやり座っていたので、『ドゥーユーハブ ケミカル サモミター?』と聞いてみたが、『残念でした。 おまへん』と声を揃えて冷たく言うので、僕は仕方なく部屋に入り、布団に包まって寝た。
 体全身からみるみる汗が流れ落ちてきた。

 

 7.タンクトップ女性
 この宿は体温計も置いていないのかと少々憤慨しながらも、熱っぽくフラフラした体をベッドに横たえて布団に包まると、全身から汗が吹き出てきた。
 熱がある時は気持ち悪くとも、このように汗をドンドン出したほうが熱が下がり、体内の不純物も排出されて体調の回復が早い。
 いつの間にか眠りに落ちていたが、短時間で番組が変わる夢は、僕がHさんやN君とバスに乗っている風景や、宿をどこにしようかとちょっと揉めている場面などで、やはりラオスに滞在中はラオスの夢を見るものだと不思議に思った。
 1時間ほど眠ると、汗でヌルヌルした体があまりに気持ちが悪いので目が覚め、体を拭いてからTシャツだけを着替えてさらに眠り、再び1時間あまり眠ると同じ様に目が覚め、さらにTシャツを着替えて眠った。
 僅か3時間の間に2回着替えて噴出した汗を拭い、3度目に目が覚めると夕方4時だった。
 【随分と汗をかいたものだ】と濡れたシーツをしばらく眺めてから汗臭いTシャツを脱ぎ、ヨロヨロと立ち上がると少しばかり身が軽くなった気がした。
 寒気はないので風邪ではないと思うが、トイレにしゃがんでみると水便が勢いよく飛び出し、いよいよ下痢に見舞われたことを実感、汗と下痢便で汚れた体を水シャワーで綺麗に洗った。
 今回の旅は、ヴィエンチャンで一度お腹の具合が悪くなりかけたが、幸いにもFさんからもらった正露丸でよくなり、その後は快調に過ごしていたが、やはりここに来てとうとう壊してしまった。
 旅では当たり前のことだからそれほど気にはしないが、出来るだけ早く直さないと、食事が美味しくないというのは旅の魅力が半減してしまうから嫌だ。
  原因は何だろう? 昨夜食べたものが悪かったとは思えないし、ビアラオも飲みすぎてはいない。
 考えられるのは、ブルーのテルテル坊主レインコートで街を歩きすぎたからなのか、いやそんなことは関係がない、きっとワンヴィエンからのファッキンクレイジーロードのバス旅で体が揺れすぎたからに違いない。
 ともかく体を綺麗にしてパンツも新しいものに着替え、少し楽になった気がしたので、怪しげなブルーテルテル坊主を再び被って、日本で浪人中の息子に電話をするためにテレコムにゆっくりと歩いた。
 テレコムは前にも述べた通り郵便局の中に所在し、受付に行くと1台しかない電話を欧米人数人が順番を待っていた。
 【電話の台数くらい増やせよ、ラオス政府!】とクレイジーロード以来久しぶりに憤慨したが、これは待つしかない。
 結局20分ほど待った挙句、1分半程長男と話をした。
 特に変わったことはなく、毎日予備校とアルバイトに頑張っているという、真実を述べない行儀の良い返答だった。()
 再びテルテル坊主になってルアンパバーンのメインストリートから市場のほうに歩き、昨夜ちょこっと訪れたインターネットカフェに立ち寄った。
 自分のHPをチェックし、ニヤニヤしていると、背後から『あのう、ここのパソコンは日本語変換が出来ないのでしょうか?』と明らかに若い女性の日本語が聞こえた。
 振り返るとそこには何と、白のタンクトップにショートパンツ姿のセクシーな日本人女性が立っていた。
 『いや、よく分からないのですけどね。 ダウンロードしないと不可能じゃないでしょうか?』と中途半端な返答をしたあと、彼女が所在なげにたたずんでいるので、『もし今時間があるようでしたら、隣のカフェで少し話をしませんか?』と誘ってみた。
 僕は日本では女性の前で本当に根性がなく、特に綺麗でセクシーな女性を前にすると体も気持ちも縮こまってしまうのだが、海外ではちょっと猛烈積極的になってしまうのは何故だろう。
 彼女は快くOKをしてくれて、僕のPCが終わるのを少し待ってもらってから隣のカフェに入り、僕がレモンシェイクを、彼女はホットコーヒーを注文してリラックスした。
 洞窟探訪やラオラーオ酒造り訪問はできなかったけど、神は僕にこのような楽しいひと時を与えてくれたのだった。
 神に感謝しながら僕達は自己紹介を始めた。

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