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タイ・ラオス・ベトナム駆け足雨季の旅


 二十四話


 阮(グエン)朝の皇帝達が居住したいわゆる「廟」めぐりは三箇所、「トゥドゥック帝廟」と「カイディン帝廟」最後に「ミンマン帝廟」である。

 いずれも広大な敷地に豪奢な建築物という印象だが、ベトナムの歴史と帝の住居などに特に興味がなければ退屈かもしれない。建築物は素晴らしく、内部の装飾も贅沢極まりないが、細部の彫刻などに、あのアンコールワット遺跡群とはまた違った高度な技術を感じる。

 日本に於いては、江戸時代の将軍たちの住居がこれに相当するのかもしれない。
 大奥などというハーレムを作って、鎖国政策で好き勝手な政治を行っていた日本に比べて、ベトナムの阮朝の政治はどうだったのか。

 各廟の概要や当時の政治経済状況、歴史的背景などは、地球の云々などのガイドブックにも書かれているが、フランスの侵略に遭い、阮王朝はほぼ形骸化された状態だったとある。つまりフランスのインドシナ支配時代に該当する。

 さて、廟のあとはベトナム市民の平均的生活を拝見ということで、一軒の普通の民家を訪れた。平屋建てのかなり古い住居だが、敷地にはかなり広い庭があり、フエでは由緒あるお宅のようだ。

 家の周りには草木が植えられ、日本の田舎の大きな家と同じような造りだが、少し違うのは畳が無いことくらいか。

 さらにはベトナム扇(?)や掛け軸が製造販売されている土産店へ無理やり案内された。扇や掛け軸や提灯などが多種多彩、色とりどり販売されていたが、誰も買わなかった。志垣ガイドもガックリのようだったが仕方がない、その後は市街地へ戻り、小奇麗なレストランで昼食となった。

 ランチタイムを少しずらした時間帯に昼食時間の設定をしていたようで、広いレストランにお客さんはまばら。予約された長いテーブルへ案内され、決められたメニューのランチが運ばれた。

 飲み物は各自が注文するシステムで、僕は前日から気に入っている「フェスティバルビール」を1本頼んだ。

 因みにメニューは、空芯菜炒め、牛肉と野菜の炒め物、春巻きなどの惣菜が数種類と、スープとご飯などが大きめのお皿にいくつか盛られて運ばれ、それを各自の取り皿に取って食べる。味はなかなか良かった。

 僕の斜め前の欧米人夫婦の奥様は、「ベジタリアン」と仰り、首を振りながら食べるものが無いと訴えている様子で、少々ウザッたく思ったが、全般的に満足の行くランチだった。

 遅めの昼食のあとは再びバスに乗り、本日ラストの訪問先「ティエンムー寺」へ。別名「天女の寺」と呼ばれ、寺院ができるまでの伝説があるようだが、ここでは省略。

 寺から出て目の前の雄大なフォーン川クルーズで一日のツアーが終了する。大型のドラゴンボートは水しぶきを上げながらフォーン川を下る。デッキに立つと左にフエ市の旧市街、右に新市街を臨み、絶景である。

 今回の旅行はラオスでずっと雨で冴えなかったが、フエでの炎天下での一日観光で一気に気分が晴れた。東南アジアの旅行は、熱射病や日焼けを注意しながら過ごすくらいが旅行らしいと思う。

 雨季の旅もフルーツが美味しかったり、雨の街並み情緒があったりと、それなりに良いのだが・・・。



 二十五話


 フエ市内一日観光を終えてゲストハウスにいったん戻った僕は、鏡を見て顔が真っ赤になっているのに驚いた。それほどフエの日中の日差しは強烈だったわけである。

 同じ季節でも西側の山向こうのラオスではシトシトと雨が降り続いていたのに、やはり海が近いと気候はガラッと変わるのかもしれない。

 シャワーを浴びて少し夕寝をした。目が覚めると既に日没、ベランダからの宵闇のフエの眺めも格別。

 階下に下りて行き、明日のホイアン行きのバスチケットを依頼したがFullとのこと。そうなれば、明日はラオスへ戻ろうかと思案する。

 晩御飯は近くの小さなレストランに入った。あまりお腹がすいていなかったので、フランスパンとオムレツと春巻きを注文、そしてお気に入りのフェスティバルビールを飲んだ。

 あまり美味しくなかったが、ビールを二本飲んで34000ドン程度だから安い。(200円少々か)

 宿に戻ると、フロントのお兄さんが「明日のホイアンへのチケットが空きました」とおっしゃるのでお願いした。そうなると、明日は朝が早いので今夜は早めに寝ようと10時過ぎには寝た。

 ところがである。朝6時ごろに目が覚めると、体がどうもだるい。微熱があるようだし、体全体が疲労している感じだ。おそらく前日のワンデイツアーで、カンカン照りの中、子供みたいにはしゃぎまわったのが災いしたのだろう。つまり弱い熱射病か?

 フロントのお兄さんに、残念だが体調が悪いのでホイアンには行かないと伝えた。その足で、宿の路地を出たところのフォー屋台で朝食のフォーを食べたが、あまり食欲もない。困ったものだ。

 それならタイへ戻り、N君と会う予定のパタヤーまで急ごうと、明日の朝出発のサワナケート行きバスチケットをフロントで頼んだ。

 わずか二週間や三週間の旅行期間中に、このように体調を崩す日が必ず一日や二日はある。以前は三日間くらいベッドに寝込んだままということもあったが、今では一日ベッドで毛布にくるまって汗を出し続ければほぼ回復する。

 フエ滞在二日目は、このように一日体調を崩したたが、昼間は郵便局にエアメールを出しに行き、ついでにシェイク屋でマンゴーシェイクを飲み(絶品の美味しさ、7000ドン)、そして夜は近くの別のレストランでフライドライスとフェスティバルビール(21000ドン、160円程度)を飲んだから、症状はたいしたことはなかった訳だ。

 さて、2007年7月3日、たった二泊のベトナム・フエから、再びラオスへ戻った。昼間のバス移動は、夜間と比べて雲泥の差があり、快適かつ迅速な移動となった。国境で待たされることもなく、出入国の際の賄賂を要求されることもなかった。(このルートの移動は昼間が良いでしょう)

 バスはサワナケートで泊まったゲストハウスの隣にあった中国系のホテル敷地内に止まった。バックパックを背負って、バスターミナルまでまたまた歩いた。
 今日のうちにできればタイへ入国して、ムクダハーンに泊まれないかと思ったのだった。

 だが既に夕刻、あまり無理をせずバスターミナルのすぐ近くのゲストハウスに泊まることにした。エアコン・シャワーつきのシングルが8ドルだという。

 他に宿泊客も居そうにないシーズンオフなので6ドルにしろと交渉したが、ラオス人にしては頑固な若者が8ドルを譲らなかった。

 フエとは異なり、小雨が降り続いていた。


 二十六話
 
 2007年7月3日の夕刻、ラオス第二の都市・サワナケートに到着した僕は、バスターミナル近くの粗末な宿に泊まった。ヌードルスープで簡単に夕食を済ませてから、大通り沿いのマッサージ店でバス移動の疲れを取った。

 ベトナムではこの種のマッサージ店は見かけないが、ラオスでは所々にある。ボディマッサージをリクエストすると二階に案内され、若くてかわいい女性がついたので、することも特にないので二時間コースを頼んだ。

 低いボリュームで静かな音楽が流れる店内で、コリコリになってしまっている足や腕をほぐされると、心地良さでウトウトする。これで5ドルは安い。

 宿に戻ると、この夜は誰も宿泊者はいないようだ。やっぱり旅行者が少ない時期なのだろう。ゲストハウスの周囲も活気がなく、つまらないのですぐに寝た。

 翌日は逃げるようにゲストハウスを後にして、バスターミナルへ。タイのムクダハーン行きのバスは一時間おきに頻発しているようだ。

 ターミナル内の食堂で簡単に朝食を終え、ムクダハーンへ向かった。バス料金は50B程度だったと記憶する。エアコンの効いた快適なバスは出発した。

 バスはサワナケート市内をグルリと一周したあと、メコン川にかかる第二友好橋を一気に渡った。この橋は日本の三井住友建設が施工したらしい。

 タイに入るとイミグレーションがあり、入国手続きは極めて簡単だった。この数日で僕のパスポートは、ラオス〜ベトナム、ベトナム〜ラオス、そしてたった一日でラオス〜タイと、入出国スタンプがどんどん増えて行った。

 タイ側に入るとラオスとは風景が一変する。タイの東北部の小さな町であるムクダハーンでさえ、ラオス第二の都市サワナケートよりもずっと都会なのだ。

 イミグレーションを抜けて市内へ入ると、セブンイレブンやモービルのガソリンスタンド、さらにはテスコロータスもしっかりと営業されていた。国が異なるのだから経済状況の違いで当然なのだが、川を隔てただけでこのような変化を見ると驚く。

 ムクダハーンのバスターミナルはサワナケートのものよりも当然大きく、敷地は三倍以上もあるように思えた。ここからはバンコク方面はもちろん、パタヤーへの直行バスも出ている。

 2001年の初ラオス以来の親友であるN君は、現在パタヤーの現地へ長期出向していて、この旅の途中に少し立ち寄る約束をしていた。一気にパタヤーへ向かうか、バンコクでいったん休むか、ともかくムクダハーンの市内を少し散策してから考えることにした。

 バスを降りるとトゥクトゥクが乗れ乗れコールをしてきたが、バックパックを荷物預かり所に預けて歩くことにした。ラオスと打って変わって、灼熱の強い日差しがバンダナを突き破って、頭皮を焦がし始めた。


 二十七話


 ムクダハーンのバスターミナルから大通りへ出て、さてどこへ行こうか?としばし立ち止まっていた。(ガイドブックの類を持っていないのは前にも書きました)

 すると、僕が立っていた位置の斜め後ろにあった商業銀行から中年の男性が出てきて、「どこに行きたいのだ?」と聞いてきた。

 「ショッピングモールのようなところへ行きたいのですが」と僕。」

 「それならこの通りをずっと行ったところにテスコ・ロータスがあるぞ」と男性。やっぱりそんなに大きくないムクダハーンでは、テスコ・ロータスがメインの店なのか、と納得。

 トゥクトゥクに乗って行けとアドバイスしてくれたが、頑固として「歩く」と答え礼を言った。

 しかし歩き始めると全身から汗が噴出した。ミネラルウオーターも持たず歩いたので、ちょっと酸欠状態に近くなった。しかも目茶苦茶遠い。テスコ・ロータスにたどり着くまでに二十分近くもかかり、着いた時にはほぼ瀕死の状態だった。

 冷凍庫のような店内に入ると一気にお腹が空いてきた。きっと体内から水分が出尽くしたので、体が何でもいいから食べろ、或いは飲めと指示しているのだろう。そして入った店が「ピザハット」、店内は何故かガラガラ。

 何とかセットというのがあったので注文すると、大きなピザが一枚とポテトサラダと大きなグラス入ったペプシが運ばれてきた。これで99B(300円弱)だから安い。

 さて、満腹になったが再び歩いてバスターミナルに戻る気はなくなった。また猛烈に汗が吹き出るに違いないから。

 外に出るとトゥクトゥクが客待ちをしていた。バスターミナルまで15Bで行かないか?と言うと「冗談じゃないよ、旦那」ってな感じで笑って断られた。相場は30B程度のようだ。すぐ近くなのになぁ。

 ピザを食べている間に、バンコクへいったん戻るか、パタヤーへ直行でいくかを考えた末、結局バンコクへ戻っていったん一息つくことに決めた。そうなればバスチケットを買っておかないといけない。トゥクトゥクで戻った。

 バスターミナルに戻り、チケット売り場でバンコク行きを購入、一等エアコンバスで500Bちょっとの料金、思ったよりも高い。17時過ぎのバスに乗って、翌朝には北バスターミナルに着くそうだ。

 時刻はまだ昼過ぎ、夕方まで時間をつぶさなければならない。やむなく今度は大通りを突っ切ってメコン川方面へ歩き出した。するとまもなく住宅街へ入り、そのあたりは木々が茂っていて日陰が多く、散歩には快適な通りであった。

 ムクダハーンはいったい何が観光名物なのだろうとのんびり歩いていると、今度はバスターミナル前の大通りよりもまだ広い大通りが現れた。ここがメインストリートなのか?

 企業やお店、ガソリンスタンド、銀行などが通りに並んでいる。ムクダハーンでさえこうだから、やっぱりタイとラオスとは全然経済事情が著しく異なることを改めて感じる。

 日本では「マイコハーン」という映画が上映されているころだなとバカなことを思いながらフラフラ歩いていると、ネットカフェを見つけたので涼みがてら飛び込んだ。

 ムクダハーンのつかの間の滞在はこんな風に過ぎて行った。


 二十八話(大田周二さんさんとの出会い)


 2007年7月4日、タイの東北部の田舎町であるムクダハーンから、夕方五時過ぎの夜行バスに乗って首都バンコクへ向かった。

 ムクダハーンは、今回数時間滞在しただけで通過してしまったが、次回はメコン川沿いの宿にでも一泊してのんびり過ごしても良い町に思った。穏やかな落ち着いた町の印象を受けた。

 翌朝のまだ暗い時刻にバンコクの北バスターミナルに到着した。途中何度もトイレ休憩を繰り返したが、どこの町のバスターミナルで停車したのかさっぱり分からなかった。ただ、どのバスターミナルも夜中でも賑わっていて、タイのバス網は日本のものよりも随分と整っているような気がしたものだ。

 北バスターミナルからカオサンまではタクシーで移動、早速宿を探した。カオサンの通りは喧しいので、ワットの裏側の、以前N君が泊まっていてなかなか感じが良さそうだった「ウエルカム・サワディー・イン」へ。

 一泊だけなのでエアコンのシングルを希望すると、フロントのお姉さんが「空いてますよ、400Bね」とおっしゃる。トイレトシャワーが共同とのことだが、ま、
 こんな料金なのだろう。

 4階の部屋はすこぶるきれいで、窓からはラマ一世通りの向こうの風景まで少し見えて快適だ。エアコンもTVもバッチリ機能する(笑)ので、トイレトシャワーが中にあったとしたら、ちょっとしたホテルのような仕様である。

 シャワーを浴びて汗を流してから、バスの疲れを取るために一眠りした。昼前に目が覚め、カオサン通りへ。このところの旅行では、すっかりカオサンから遠のいているので、真昼間のカオサンを歩くのは久しぶりだったが、相変わらず旅行者であふれ返っていた。(当たり前だが)

 以前に比べて日本人が少なくなったような印象を受け、欧米人の多いのは変わらないが、日本人に変わって韓国や中国などのアジア人の若者が増えたのではないか。明らかに日本人の顔つきと異なるアジア顔が闊歩している。

 裏通りの屋台で、カレー風の肉じゃがのようなものをご飯にぶっ掛けてもらい(いわゆるぶっ掛けご飯)、油で揚げた目玉焼き(目玉揚げ)を乗せてもらう。

 マイウ〜である。いろいろアジアの料理がたくさんあるが、このぶっ掛けご飯に目玉焼きが最高だな。

 ネットカフェで、目下パタヤーで働きまくっている友人のN君にメールを出しておいた。明日の夕方には着くから、バスターミナルまで迎えに来いと。(偉そうだが)

 そして、サワナケートのバスターミナルで見送ってくれたあのI君に、あのあと何度かメールを出していて、目下は、ホアランポーン駅の近くにあるファミリーゲストハウスに滞在しているとのことだった。早速向かった。

 バスと地下鉄を乗り継いでホアランポーン駅に到着し、場所を聞いていたゲストハウスを訪ねると、精悍な顔つきの日本人男性が入り口の外のチェアーで本を読んでいた。

 「あのう、ここにI君が泊まっているとのことなのですが・・・」と恐る恐る聞いた。

 「アッ、I君は今ちょっと買い物に近くまで行っています。すぐ戻りますからどうぞ」

 男性はニコッと笑って僕を彼の向かいに二つ並べられたチェアーを勧めた。この男性があとで分かるのだが、「パゴダの国のサムライたち」の作者でもあるルポライターの大田周二さんだった。


 二十九話

 2007年7月5日、ラオスのサワナケートからベトナムのフエを往復して、さらにタイ北東部のムクダハーンを経てバンコクへ駆け足で戻ってきた僕は、サワナケートのバスターミナルで知り合ったI君と再会するために、ホアランポーン駅近くのファミリーGHを訪れた。

 入り口で本を読んでいた男性がルポライターの大田周二さん、普段の活躍の場はミャンマーや、イスラム信者が比較的多いタイの南部らしいのだが、いずれも目下のところ情勢が落ち着かず、取材にはしばらく様子見状態なので、このGHに長期滞在しているのだとか。

 精悍な顔つきに反して、すごく丁寧な物腰、笑うと目じりが下がり、人の良さが窺えた。遠慮なく入り口のチェアーに座りI君が戻るのを待った。

 最初は当然大田さんのことはまったく知らなかったので、このゲストハウスには旅行中の滞在かと思っていたら、話の途中で「実はここの雑用をしているのですよ。宿泊代は無料にしてもらって、客対応とかその他諸々をやっています。清掃は別のスタッフがいますけどね」とおっしゃった。

 ファミリーGHは一応「地球の歩き方」のゲストハウス部分の最後尾あたりに掲載されているので、日本人のバックパッカーがよく訪れるらしい。経営者がチェンマイに本社のある旅行代理店だが、ファミリーGHまでは手が回らないらしく、タイ人の親戚筋に任せっきりの状態なので、収支は最悪だとか。

 つまり、任されているタイ人が博打好きで、店の売り上げを一か八かの博打に流用した挙句大穴を空け、ある日突然行方不明になったままだとか。大田さんも「バカなタイ人気質が思いっきり出たゲストハウスですよ。ま、私は宿代タダだし、店番やっていればよいのですけどね」と呆れていた。

 僕が訪れた日の少し前にも、別のタイ人夫婦が店を任されていたが、奥さんが夫の博打好きに愛想をつかして出て行ったとか、話の真相は明確には覚えていないが、つまりそのような経営上の不始末が続いて、ゲストハウス自体の収支は全く成り立っていないとのことだった。

 そんな話をしているところへI君が帰ってきた。

 「アッ、藤井さん、戻ってらっしゃいましたか」

 目上の人間への言葉遣いも丁寧な、しっかりした若者の姿がそこにあった。ついこの前少し言葉を交わしただけなのに、何故か懐かしい思いがした。

 隣の店でペプシを買ってしばらく三人であれこれ話をした。I君はタイが大好きで、これまで何度も訪れている。家業を手伝って、ある程度まとまった貯蓄ができてはタイを中心とした東南アジアに旅行に出て、帰国したらまた仕事に復帰して頑張る、といったことを繰り返している。

 ただ、家業も廃業することになるらしく、そうなると就職しては辞めて旅に出て、また新たな職場に就くといったことが現実的には難しくなるだろうと言っていた。

 「長期の旅行は快適で、心が洗われるのですが、帰国してからの仕事がこの不景気で厳しいですからね」

 I君は語っていた。

 大田さんのプライベートな部分を、いくら読者の少ないメールマガジンで書いたとしても、大田さんのことを知る人に検索エンジンで引っかかったらまずいかも知れないので、あまり詳しく書かないが、とても魅力的な人だった。

 長年、編集関係に従事し、「パゴダの国のサムライたち」や「ルポルタージュ 長良川河口堰を考える─人と自然の共生を求めて」などを出版したあと、いろいろなことがあってタイを活動の場としたようだ。

 近くの某ゲストハウスに滞在する行儀の悪い欧米人に「ヤキ」を入れたり、正義感と男気の強い人である。

 この日はI君と近くの屋台で食事をして別れたが、もう少し滞在しているとのことなので、パタヤーから戻ってきたらまた飲みましょうと言って別れた。

 旅も終盤になってきたが、気持ちの良い酔い方でカオサンの宿に戻った。



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