三十話 2007年7月6日、この日のバンコクは朝から小雨模様。 カオサンのゲストハウスをチェックアウトした僕は、バスとBTSを乗り継いで、エカマイの東バスターミナルには昼前に到着した。パタヤーへのバスは頻発している。 N君はこの日も仕事なので、パタヤーには17時すぐに着けば良いが、道路事情で遅れることも考えて14時頃のバスに乗れば大丈夫と考えた。 とりあえずパタヤー行きの一等エアコンバスチケットを購入(120B程度)、ターミナル内の屋台で昼飯を食った。カオ・パット・クン(海老入りチャーハン)、これがメチャウマだった。 バスは座席が決まっていたが、VIPバスではないので前の席との間隔が狭く、かなり窮屈であった。遅れずに着いて欲しいと思ったが、なかなかパタヤーには着かなかった。 結局、通常だと2時間から2時間半程度で到着するようだが、この時は3時間半程もかかった。途中、かなり渋滞していたのは車両同士の事故が原因だった。 パタヤーのバスターミナルは意外にも小さかった。このバスターミナルはバンコク方面のみのようで、パタヤーにはもうひとつバスターミナルがあるとのことで、そちらがメインなのかもしれない。 到着してすぐにN君の携帯へ連絡した。 「ああ、藤井さん、着きましたか。そしたら五分くらいでそっちへ行きますわ」 懐かしいN君の声だ。この年の正月にカンボジア帰りで会って以来だから、半年振りであった。 N君はランドクルーザーでバスターミナルに現れた。助手席に乗って市内を走る。パタヤー市内はもうすっかり知り尽くしているような感じ。 「どこのホテル泊まりますか」とN君。 事前に何も調べていなかったので、適当でいいと僕が答えると、「僕のアパートに帰る途中に手ごろなホテルがありますよ。そこでエエですか?」と言うので、 簡単に決めた。 ホテルの名前は忘れたが、シーズンオフなので650Bで良いという。日本なら東急イン程度のビジネスホテルのような感じで高級感がある。部屋は広く清潔で、ダブルサイズの大きなベッドがドカンとあり、冷蔵庫にはミネラルウオーター、バスルームにはなんとバスタブまであった。 ここ数日はラオスのサワナケートのゲストハウスから夜行バスでバンコクへ戻り、カオサンの共同シャワーの部屋に泊まった僕としては、とても贅沢をしている感覚になった。 バックパックをおろしてシャワーを浴びた。N君は車を置きに戻ったので、三十分後にロビーで待ち合わせ、パタヤー・ヌア通りへ出てソンテウ(軽トラック風大型トゥクトゥクとでも言いますか、そんな乗り物です。市内のどこでも走っていて、手を上げれば乗せてくれます。近場で10B、少しはなれた目的地には20B)でパタヤーの歓楽街へ出た。 「何を食べますか?」とN君が聞くので、迷わず「シーフード!」とリクエスト、「そんなら海に張り出しているレストランへ行きますか?」と、かなり大きなシーフードレストランへ入った。(海に張り出しているレストランって、それは桟敷レストランって言うんだろう、N君) パタヤーの歓楽街は大勢の欧米人が偉そうに闊歩し、タイ美女と目玉が飛び出そうになる恐ろしくセクシーな「オカマ美女」とであふれ返っていた。 「日本人がほとんどいないのはなぜ?」 「日本人もそれなりにいますけど、おとなしいところで飲んでますねん。歓楽街にはあまり出てきませんわ」とN君が説明する。 欧米人の好き放題の街と化している印象を受けて、僕は少々苛立ってきたのだった。 |
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三十一話 ウオーキングストリートと呼ばれる(19時〜深夜まで歩行者天国のようだ)通りにはシーフードレストランが並んでいた。N君とパタヤー湾に面した桟敷レストランに入った僕は、まず入り口の生簀で泳いでいる魚介類に驚いた。 情報ではパタヤー湾はあまり綺麗でないとのことだったが、日本近海でも取れる魚介がパタヤーで獲れないはずはない。生簀があっても当たり前のことである。 小雨がパラついていたが、桟敷レストランは天井がついていて問題はない。海の方にはナイトクルージングが行われているのか、船のライトが点在していた。 「蟹が食べたい」と僕がリクエストすると、注文を聞きに来た女の子にN君は流暢なタイ語で伝えていた。すっかりタイ人になったN君、この時点では四年余りのタイでの滞在、職場ではほとんどタイ語らしく、日本語を一言も話さない日もあるのだとか。大したものである。 ビアシンに氷りを放り込んで再会を乾杯した。僕はタイでN君と飲むのが最高のリラックスタイムである。 2001年のゴールデンウイークにラオス国境で知り合ったN君。大阪在住で大学が同じだったこともあって(当時僕は大阪でした)、仕事が終わればよく飲みに行っていた。 一流企業のプラントの設計に関わっていて、係長だった彼は、「日本を離れてタイで住みたいと思ってますねん。仕事は好きですが、上司がアホばかりであきまへんわ」と言っていたなぁ。 有限不実行の僕とは違って、N君は不言実行タイプ、2003年の3月に仕事をきっぱり辞めて、インドやネパールを旅したあとタイに入り、そのままタイ語学校に入学したのだった。 目下は日本の商社系列の物流会社でマネージャーの立場、タイの女子大生ともお付き合いがあり、羨ましい限りの暮らしに見えるが、本人は全くそうではないらしい。 「タイ人の悪口を言えと言ったら三日では足りませんな。あいつら訳分かりませんわ。現場の奴らも言うたことしかやりよりませんねん。あとはクイッティアオとソムタムとビアチャンがあったらそれで満足な奴らですわ」と辛辣なことを言っていた。 さて、すっかりシーフードに満足をした僕は、N君にナイトライフを案内してもらうことになった。シーフードレストランは決して安くはありませんが、一人700バーツ程度で新鮮な魚介類を食べてビールもしこたま飲んだし、リゾート地の料金としては良しでしょう。 「パタヤーにもゴーゴーバーがありますよ。でもここはバービアが基本で、あとはいろんな飲み屋がありますわ」 パタヤーに欧米人が好むタイプのバーが乱立しており、至るところにビアバーがあり、昼間から女の子相手に飲むファランをよく見かけた。他にはコヨーテバーてなものもあるらしく、どんなものか分からないが、N君が時々覗くと言うのでこの夜はチョイと行ってみた。 でも店は普通のアイリッシュパブもどきで、単に店の女の子が客の周りをウロウロしているだけで、何が「コヨーテ」なのかサッパリ分からない。 N君に聞いても「何か分かりませんが、コヨーテバーということになっているんですわ。奢ってやれば横に座りますよ」と言う。つまり普通のキャバクラもどきパブか? 僕とN君はビールを少し飲んでとっとと出て、普通のビアバーに行った。ビアバーとはコの字やロの字型になったカウンター内に女の子が数名いるスペースがいくつも集まっているもので、大規模なビアバーになるとその数は30位にも及ぶ。 何がどう楽しくてファラン達は行くのか、僕達はちょっとエキゾチックな顔つきをした女の子がいたスペースに座った。 |
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三十二話 2007年7月6日の夜、小雨降るタイの有名リゾート地のひとつであるパタヤーで、僕は親友N君とビアバーで飲んでいた。 僕たちが座ったロの字形カウンター内にはタイ人女性が4人いて接客にあたっていた。接客といっても大したことをするわけではない。注文に応じたドリンクを出して、オセロゲームや訳の分からない簡易ゲーム盤をカウンターへ持ってきて客と遊ぶだけだ。 N君はタイ語がペラペラなので、適当に冗談やエロ話などをかまして、女の子たちを喜ばせていたようだが、いったいビアバーの何が面白いのかサッパリ分からなかった。要するに日本の場末のスナックを野外に持ち出したような感じか?(笑) 一時間ほどビールを飲み適当に遊んでそこを出たあと、次にアイリッシュパブを覗いた。店内は当たり前だが欧米人でいっぱいだった。ここでも適当にビールを飲んで、N君との再会の喜びと近況などを語り合っていたら、あっという間に夜も遅くなってしまった。 N君は翌日も仕事なので、タクシーで一緒に帰り、「また明日夜遊びましょう」と言ってホテル前で別れた。部屋に入りベッドにぶっ倒れてそのまま深い眠りに落ちていった。(と言っても死んだわけじゃありませんが) さて、翌日はなぜかスッキリと目が覚めて、シャワーを浴びてフロントに降りると、ホテルは閑散期のこの時期朝食はついていなくて、一階のカフェでコーヒーだけを提供していた。仕方がないので、ホテル近くの小さなレストランへ朝食を食べに行った。 いったん宿に戻ってみたが、はて?することも特にないので散歩に出ることにした。この日は前日と打って変わって好天、日差しがかなりきつく慌ててバンダナを巻いた。 ホテル前の通りをビーチ方面にズンズン歩くと「イルカの像」という大きな交差店に出た。そこを左に折れるとパタヤー・サーイ・ソーン通りという最も広い通りに出て、少し歩くと左手にテスコ・ロータスがあった。 ここのテスコはバンコクの定宿があるオンヌット駅前のテスコより大きいくらいだった。短時間で汗びっしょりとなった体を冷やし、店内をウロウロして出た。 1階にMKがあったので、今夜はN君とタイスキを食べたいなと思った。こんなどうでも良いことを思い浮かべながら、ブラブラと街歩きをすることが、海外旅行における重要な部分だと僕は思うのであった。 ホテルに帰る途中、かなり大きなタイマッサージ店があったので飛び込んだ。暇なので2時間のボディマッサージをリクエストしたが、それでも350バーツだった。さらにマッサージを担当してくれた女性は若くて可愛い。つかの間の天国である。 昨夜のアルコールも抜けて心身ともにすっかりリフレッシュしたあとは、再び歩いてホテルに帰った。ホテルに帰った頃にはまた汗びっしょり。いったい僕は何をしているのだろうと思いながらベッドに横になり、少し昼寝をすることにした。 夕方になり、ホテルのロビーで仕事を終えたN君と合流し、通りでソンテウに飛び乗りテスコ・ロータスへ。ソンテウで十数分もかかる距離を、僕は今日暑い最中に往復したのだなぁと、フト思う。 テスコの1階にあるMKでこの夜は豪勢なタイスキである。豪勢といっても、ビールを飲んでタイスキの具をいろいろいっぱい入れても、一人500バーツ程度だ。 スープにチリソースを入れて食べると、これが格別に美味しい。いくらでも食べられるので、食べ過ぎないように野菜を中心に具を注文したくらいであった。 そしてこの夜はサプライズが。一日に決められた時刻に数回、「MKダンス」タイムがあるのだが、初めてこの夜遭遇した。 急に軽快な音楽が流れ、パンパンパンと店員さんが手拍子を鳴らし始めたと思ったら、ウエイトレスさんなどの女の子が踊り始めたのだ。 MKダンス⇒ http://www.youtube.com/watch?v=8R1DqWBKrF0 |
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三十三話 (よいよあと数話で終わります) 2007年7月7日、日本では七夕祭りで、ヒコ星と織姫が年に一度のセックスを楽しんでいる頃、僕はタイのパタヤーからバンコクへバスで向かっていた。 前日はテスコロータスのMKでタイスキをしこたま食べて、MKダンスにも遭遇する幸運にも恵まれた。そのあとは夜の街には繰り出さず、N君が疲れていたこともあって、おとなしくホテルに帰って寝たのだった。 さて、今回の旅行もあと数日だ。バンコクへ戻って買い物などを実施し、タイマッサージで疲れを取ったら、あとは帰国を待つだけだ。 朝10時過ぎに出発したバスは、これと言った渋滞もなく、それでもバンコク市内に入ればグダグダと遅れて、午後二時過ぎに東バスターミナルへ到着した。 スクンビット・オンヌットGHへバックパックをおろして、少し休んでからホアランポーンへ向かった。 おそらくまだファミリーゲストハウスに滞在しているI君に会うためである。三日ぶりに訪れてみると、前回と同様に大田周二さんが入り口で本を読んでいた。 このあとの旅行の際も何度かここを訪れたが、いつも大田さんは入り口で静かに本を読んでいるのだった。 「どうも藤井です。パタヤーから戻ってきました。I君はまだいますか?」 大田さんは結構武闘派であるが、内に秘めた闘志など表面的には全く窺えないもの静かで腰の低いひとである。こういう人がいざ怒ると滅茶苦茶怖いのだ。 「すぐもどってきますから、ここでお待ちください」 ニコニコしながらプラスチック製の椅子を勧める大田さん。 「ところでパタヤーはいかがでした?」 「いやはや、欧米人のために作られたようなリゾート地ですね」 「今はオランダやロシアなどの麻薬やドラッグのマフィアが入り込んできていますからね。パタヤーは一昔前のパタヤーとは大きく変わっているのじゃありませんかね」 大田さんはミャンマー取材が基本だが、今はタイ南部のイスラム過激派の取材に、時々南部のハジャイなどに出かけている。長年タイに住んでいるので、パタヤーのこともある程度情報が入るのだろう。 さて、そうこうしている内にI君が戻ってきた。しばらくI君と太田さんとを交えてコーラを飲みながら、旅話から政治話からタイの話から日本の話も、様々なことを語り合った。 そして、大田さんはゲストハウスの仕事があるので行けないが、今夜はI君と、僕の知人が営む「一等食堂」で晩御飯を食べようと言うことになった。 この時期、タイは雨季の始めであるが、三人で雑談をしている時からスコールのような激しい雨が降り出した。しばらくは雨が降り続くバンコクの町並みを三人で眺めていた。こういうシチュエイションが僕はとても好きで、幸福を感じるのだった。 一時間あまりも降り続いた雨は、一気にカラッと晴れて、すぐに今度は夕焼けとなった。日没前の太陽の日差しもかなりきつく、水溜りから水蒸気が上がる。 太田さんに「また来ますからお元気で」と言葉を残してファミリーゲストハウスをあとにした。地下鉄に乗り、アソークでBTSに乗り換えてビクトリモニュメント駅で下車、一等食堂へ。 ちょうど晩御飯時なので、店はほぼ満席に近い状態だった。いつも午後八時ごろにしか顔を出さないオーナーのMさんだが、この夜は既に店にいた。 「あれ?藤井さん、帰ってこられましたか」と人懐っこい笑顔で迎えてくれた。 |
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三十四話(最後です) 2007年6月半ば過ぎから7月上旬にかけての旅行も、とうとうあと余すところ二日となった。 ホアランポーン駅近くのゲストハウスにいるルポライターの大田周二さんを訪ねたあと、サワナケートで知り合ったI君と一緒に、ソイランナムにある一等食堂で晩御飯を食べた。 一等食堂は、僕のこれまでのメルマガやWebをお読みくださっている方はご存知のとおり、三十代半ばの日本人が営む日本料理店である。 「食堂」と名づけているように、手ごろな値段で簡単な日本料理を食べさせてくれるが、高級店ではないので日本の料理屋のようなものを期待してはいけない。 オーナーのMさんを交えて、お好み焼きやカツ煮やだしまき卵などを食べながらビールを飲んだ。閉店までビアシンを十本近くも空けたあと、ソイ・カーボーイへ繰り出そうということになった。 うらぶれた通りにギラギラとネオンが光り輝き、大音響とファランと日本人やチーノやアラブや韓国人など世界民族が、ゴーゴーバーのオネイサン達に酔いしれる、一種異様な世界だ。でも素晴らしい! 僕たち三人は閉店近くまで100バーツのビールを何度か繰り返し注文して彼女たちのダンシングを楽しんだ。さすがにI君もMさんもどちらかと言えば硬派、ダンサーを外に連れ出そうとは言わなかった。 既に一等食堂でさんざんビールを飲んでいたので、僕はかなり酔っ払ってしまった。ゴーゴーバーを午前二時ごろに出たあと、Mさんは「僕のアパートで飲み直しましょう」と言ってくれたが、酩酊の僕はタクシーを拾ってゲストハウスへ帰った。 翌日、一等食堂へ昼ごはんを食べに立ち寄ったら、昨夜あのあとI君はMさんのアパートで朝まで飲んでいたとのことだった。I君とも帰国後メールのやり取りをしたところ、Mさんと有意義な話をして飲み明かしたと述べていた。I君とは日本でまた会いましょうと言っていたが、まだ実現はしていない。 旅先で知り合った人と、旅行中に再会したり日本へ帰ってから再会することは楽しいものだ。共通の趣味を通じて、その後も連絡を取り合っている人もいれば、どちらからともなく連絡をしなくなってしまった人もいるが、それは気にすることではない。 これまで多くの人と旅先で知り合ったが、今も連絡を取り合っているのは、僕のメルマガに再三登場するN君とH嬢、それとノンフィクション作家の大倉直さんくらいのものだろう。(N君はもはやすっかりタイ人となっていますが) 翌日はお土産を買いに出た。ソイランナームから伊勢丹へ向かう間にある、衣類や雑貨の安い商店街を覗いていたら雨が降り出した。それは一気にバケツをひっくり返した激しい降りとなった。 店先のテントの下で止むのを待っていたら、三十分もしないうちに止んでしまった。道路は一時的に激しい水の流れが、まるで激流のように流れ出したが、すぐに日が照り始めて水蒸気となって蒸発する。 タイの本格的な雨季は雨季が明ける前に来る。つまり9月、10月に降水量が多いのだ。今回の旅行期間はラオスでは雨季で晴れの日は一日もなかったが、ベトナムやタイの雨季はラオスとは異なることが分かった。 移動の多い旅行だったが、同じことの繰り返しの日常と離れて、気持ちが随分とリフレッシュした。僕の旅行は東南アジアだけで、アメリカ大陸やヨーロッパとはなかなか縁がないが、この先もしばらく同じような旅行を繰り返すだろうなと思うのだった。 - 完結 - ・ご感想をお待ちしております! E-mail: pero@carrot.ocn.ne.jp |
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