第十五話 必要なときにトゥクトゥク野郎が通らず、重いバックパックを背負って、結局はバスターミナルまで三十分あまりかけて歩く羽目になってしまった。 薄暗くなったバスターミナルに着いた時には、体中が汗だくでほぼ瀕死の状態になっていた。敷地内の屋台食堂でチャーハンを食べながらビアラオを一気に二本空けて、やれやれといったん落ち着いた。(35000Kip、400円少々) さて、フエまでのバスチケットを買わなければいけない。窓口で12ドルを支払ってゲット、これで明日フエまで行けるとひと安心する。 こうなると何もすることがない。待合所の長椅子にバックパックを降ろし、バスを待った。予定では21時の出発とのことだ。 周りを見渡すとラオス人かベトナム人か、それぞれたくさんの荷物を持ってバスを待っていた。ともかく日本人はもちろんのこと、欧米人旅行者さえ一人も見当たらない。いったい旅行者達はどこをほっつき歩いているのだ!と心で憤慨する。 もともとがいつも一人旅なので、なにも寂しく思っている訳ではないのだが、このように旅行者が一人も目に入らない街は初めての経験と言っても過言ではないからである。 20時を過ぎてからパラパラと小雨が降り始めた。21時が近づいてきたがなかなかバスは来ない。定刻通り発車するとは思っていないが、少しイラっとする。バスを待つ人々の集団が次第に膨れてきた。 その時、背後から声を掛けられた。しかも紛れもない日本語なのだ。 「あのう、日本の方ですよね」 見上げると、そこには眼鏡を掛けた長身の日本人男性が立っていた。果たしてどこから現れたのだろう? 日本人に飢えていた僕は、まるで数年ぶりに恋人に再会でもしたかのように喋った。日本人男性も気さくで明るい性格のようで、一気に話が弾んだ。 彼の名はI君といって、一昨日からサワナケートに滞在しているという。僕より一日早くビエンチャンからバスで到着し、明日第二メコン国際橋を超えてタイのムクダハーンへ渡る予定とか。 年齢は三十歳前後か、年齢を聞いたかもしれないが忘れてしまった。彼は約一ヶ月の予定で、バンコクにインしてチェンマイなどタイ北部からラオスに入り、バンビエンなどでのんびりしたあとビエンチャンを経て、このサワナケートに至っているとのことだった。(記憶違いかもしれませんが) 日本では奥さんとの間にまだ子供はなく、父からの運送店を営んでいて、時々長めの休みを取って東南アジアを旅行するとのこと。風貌は、例えは悪いかもしれないが、あの山口県光市母子殺人事件の被害者の遺族「本村洋」さんによく似ていた。 本村さんはご存知の通り、この残虐な事件と犯人の非人間性を、たとえ当時未成年であったとしても極刑をもっての償いを訴え続け、最高裁からの差し戻し審で目下死刑判決を勝ち取った毅然とした立派な人物である。このI君も、折り目正しくしっかりした非常に好感の持てる旅人だった。 I君は僕のフエ行きのバスを見送ってくれると言う。それは悪いからと遠慮したが、それじゃバスに僕が無事に乗り込むまでを見届けてくれると言うのだった。本当によい人だ。 その時、バスがフエ行きの停車場に滑り込んできた。そのバスを見て僕は愕然とし、さらに前部の乗降口へタイ人かベトナム人かラオス人かインド人か(これはないか)、要するに様々な顔をしたアジア人が殺到したのだ。 「藤井さん!早く乗らないと座れませんよ!」 I君がその光景を見て叫んだ。 |
---|
第十六話 I君の言葉にバスの方向を見ると、乗降口には何十人もの人々が殺到していた。あわててバックパックを背負う。 「それじゃあお元気で」とバスへ走る僕。 「藤井さん、気をつけて!もしよければメールください。僕のメールアドレスは○△■※×@云々です!」とI君が僕の背中から叫んだ。 乗降口では殺到していた現地人たちを「ダメダメ!」と乗務員が退けて、先ずは僕と欧米人カップル(後で聞くとフランス人だった)だけを乗せた。つまり規定の乗車券をキチンと購入していたのは僕と欧米人だけだということなのだろう。或いは、旅行者を先に乗せる計らいだったのか。 「ありがとう」と振り返り、I君にお礼の言葉を言って乗り込んだ。 バスはエアコンなど付いているはずもないのは覚悟の上だったが、驚いたことにバックパックを屋根の上に上げる訳でもなく、皆が手荷物を車内へ持ち込んだから大変。 しかも予め通路や座席下に段ボール箱やズタ袋などがビッシリ敷き詰められていて、座席を与えられたものの足を伸ばせず、「体育すわり」を余儀なくされた。 この物資はおそらくラオスからベトナムへ輸送手段としても以前からあるのだろう。 バックパックは係員によってバスの後部へ移動された。後部は座席が外されて、荷物が積まれていたが、その間に僕と欧米人カップルのバックパックが押し込まれるという格好になった。 そして次に・・・われわれ三人が着席したのを確認した後、係員がいよいよ現地の人々を乗り込ませた。殺到して車内へ入り、大人も子供も女も男もギャーギャーと何かを叫びながら席を奪い合う。車内はたちまち阿鼻叫喚に包まれた。 座席数を決定的に大きく超えた人々が乗り込んだため、通路に座る人々、後部の荷物の上に座る人々、さらには網棚に紐を掛けて、ハンモックを吊るして寝る男まで現れ、もう訳が分からないパニック状態。そして幸運にも座席に着けた人々も、すべて体育座り。何なのだこれは? ともかくバスは出発した。小雨は降り続いている。エアコンのない車内は蒸し暑く、窓を少しだけ開けるが、雨が入り込んでくる。状態としては非常に悪い。 さらに僕の隣席にはラオス人かベトナム人か中国人か分からんオッチャンが座り、彼の体臭からすえた匂いが発散されており、不快感が増してきたのだった。 そんな劣悪な車内で、乗車前にI君が叫んだ彼のメールアドレスを忘れないうちに、首から吊り下げているミニバックからメモ帳を取り出し、しっかりと書き留めた。 この一瞬の記憶力は、僕が長年携わってきた探偵業における賜物と言っても良いのだが、この記憶力は残念ながら一時間がリミットで、それを過ぎると忘却の彼方へと散ってしまう。 さて定員をはるかに超えた人々を乗せたバスは、この先ベトナム国境の町・デーンサワンへ向かったのだった。 |
---|
第十七話 2007年六月三十日の夜、僕はラオスのサワナケートで、ベトナムのダナン行き国際バスに乗った。 目的地はベトナムのフエ。翌朝の午前中には着く見込みである。 ベトナム国境の町・デーンサワンへ向かったオンボロガタピシノンエアコンバスは、小雨が降り続く中、順調に走った。 途中で国境を越える際に降車するだけだと思い込んでいた僕は、デーンサワンに到着してバスを降ろされた時、入国の手続きを終えたらすぐに出発するものと思っていた。 ところが全員降りたあと、そのバスは荷物を積んだままどこかへ走り去った。降ろされた客たちは、最初呆然と立ち尽くしていたという印象だったが、係員のような小柄な男が何か言ったあと三々五々散っていった。 降り続く小雨。民家の軒下で雨をしのいで立っている人々もいる。道路の両側には粗末な食堂があり、一軒の食堂の上が仮眠所となっているようだ。とりあえず食堂を抜けて狭い階段を上がってみた。 するとそこには、狭い部屋に何十人ものラオス人やベトナム人が折り重なるように寝ていた。もちろん僕が入る余地は猫の額ほどもなかった。仕方なく食堂へ引き返す。 その時突如として便意が襲った。おなかがグルグルと鳴る。国境付近は山岳地帯になっていて、夜になると気温が下がり、バスから降りたあと小雨の中をしばらく立っていたから急に冷えたのかも知れない。 はて?トイレはどこにあるのだ。一階の食堂は人で溢れていた。店の人も次々と注文が来る料理を作ったり、飲み物を運ぶのに忙しい様子でトイレの場所を聞けない。 慌てて道路を渡って反対側の食堂へ急ぐ。客席を抜けてキッチンに飛び込み、中年の女性に「トイレ!」と叫ぶ。建物の裏を指差す女性。サンキュウ!と言ってその方向へ雪崩込むように急ぐ。 するとそこには粗末な小屋があり、明らかにトイレのようだった。電気をつけて中に入ると、しゃがみ型の日本式トイレがあった。(日本式とは少し違いますが) ホッとする間もなく、トイレが視界に入ったことで体がすぐに反応し、激烈に便意が襲った。ズボンを下ろしてしゃがむや否や怒涛の勢いで排出されるものが・・・。しかもそれは下痢の様相を呈しており、さらに勢い余って少々便器をそれて飛び散ったものも・・・。(汚いのでこの程度にしますが) トイレにしゃがみながら、「いったい僕はこの国境で何をしているのだ?」と自分に可笑しくなったのでした。 さて、スッキリしたあと先ほどの食堂に戻ると、バスで一緒だった欧米人カップルが大勢の現地人たちに挟まれて座っていた。偶然にも隣の椅子が空いていたのでそこに座った。 「いやぁ、いったい我々どうなるの?」と僕。 「ボーダーが開く朝までここで待つのじゃないか?」と男性。 聞けばフランス人で、もうかれこれ一年以上旅を続けているとか。男性は白髪の混じった金髪の髭を顔中に貯え、一見すると日本の歌手で「また会う日まで」を歌っていた尾崎紀世彦さんにそっくりだった。かなりの年配だ。 女性はというと、彼には不釣合いな若いフランス人形のような美女。「いったいこの世の中はどうなっているのだ?」と心で憤慨する僕だった。 |
---|
第十八話 ベトナムとの国境の町・デーンサワンは、小雨がシトシトと降り続き、たった二軒しかない食堂で、大勢の人々が夜明けを待った。 腹が減っているのかいないのか、全く分からない自分自身の体調と同じように、周りの人々もラオス人なのかベトナム人なのかさっぱり分からない人たちが、旺盛な食欲で麺類や焼き鳥の類を食べながらビールを飲んでいた。 フランス人カップルもコーヒーを飲むだけで、しきりにタバコを吸い続けていた。 粗末な椅子に座って、少しでも寝ようと試みるのだが、周りが煩いのと気持ち が何故か昂ぶって眠れない。諦めてコーヒーを注文した。 ここのコーヒーはベトナム式であった。つまりアルミカップの二段式で、上部 には細かい穴が開いていて、そこに挽かれたコーヒー豆を入れて熱いお湯を注ぐものである。 ろ過されたかなり濃厚なコーヒーは、アルミカップの底にあらかじめ入れられたコンデンスミルクと融合し、独特の苦味と甘みと、そして香りを醸し出すのである。(猛烈にオーバーな表現だが) この濃い目のコーヒーは僕の好みであった。夜が明けるまでにもう一杯注文をして眠気を払う。 支払いをラオスKipですると、おつりがベトナムドンだった。どうなっているのだ? レートが分からないので、これで良いのかどうか、損はしていないのか否かなど全く分からない。 たいした金額でないのでまあ良いだろうと思っていたら、いきなり小柄なラオス人がパスポートを集めに来た。しかも3ドルと一緒に差し出せと言うのだ。 「何の金だ?」とフランス人カップルの男性が聞いた。だが男はラオス語か何語か分からない言葉で意味が不明だ。おそらく手数料だと言っているのだろう。 彼は「意味のない金は払わない」と言った。(ようだ) するとラオス人男は、身振り手振りを交えて「ノーパスポート、ノースタンプ」などと言うのだ。つまり「金を払わないと出国スタンプは押さへんで!」と言うのだ。コシャクナ野郎め。 僕とフランス男性は顔を見合わせて、「どうする?」と考えた。彼は「仕方がないな」という感じで彼女の分と合わせて6ドルをラオス野郎に支払った。 男は「お前はどうするのだ?」と挑戦的な目で僕を見た。仕方なく3ドルを支払う僕。わずか3ドルだ、男にくれてやっても良いのだが、納得がいかない。 そして少しウトウトしたら夜が明けてきた。外は相変わらず雨が降り続いていた。外に出てみると、ゆるやかな坂道が続いており、その先にイミグレーションがあるようだ。 しばらくしてバスがやってきた。食堂にいた人々は我先にとバスに乗り込む。なぜこの人たちは争って乗る必要があるのだろう。順番に乗れば良いではないかとフト思う。 バスは緩やかな坂を登りきり、平坦な道を少し走ったところで止まった。再びバスを降りた。そして既に出国手続きが終わっていたのか、われわれは無事に通されて、今度はラオス側のイミグレーションを抜けて、ベトナム側のイミグレーションへ歩いて向かった。 この間、皆がゾロゾロと移動するのだが、バスの乗務員や係員からは何の説明もない。 ラオスの建物に比べてベトナムの建物は格段に立派だ。ここでパスポートを預けたラオス野郎を待たなければならない。雨は降り続く。鬱陶しい国境の町、そして待てども待てども現れないバス。パスポートを預けたきり姿を見せないラオス野郎。 不安が広がっていった。 |
---|