第十八話 2009年12月28日、ラオスの首都・ビエンチャンを午後二時過ぎに出発した中国・昆明行きのバスは、夕闇が迫る頃には既にバンビエンも通り越して、ドンドン山道を上がって行った。 ビエンチャン〜バンビエンまで、ローカルバスでは4時間あまりかかるが、何故こんなに早いのかというと、このバスは新型デラックス大型バスだからである。 ラオスのバスといえば、僕が最初にラオスを訪れた2001年ごろは韓国や日本からの使い古したバスをもらって、ローカルバスとして利用していたようで、当然エアコンなど洒落たものはあるはずもなく、開け放った窓からは砂埃が舞い込んでくるといった情緒あふれるものだった。(現在もローカルバスはこの 種のものが、路線によっては走っています) それ以前となると、これはもう語り継がれる伝説のトラックバスというものがあったらしく、荷台を長いベンチ風にして、「バス」と無理やり呼んでいた代物が走っていたそうだ。 昆明行きの新型デラックス大型バスの中は座席ではない。全席寝台車である。 寝台車といっても一人が占める幅はわずか60センチ程度、僕のような小柄な者は不自由はないが、大柄で横幅の広い体躯の者ならこれは大変だ。 当然寝返りなど不可能で、薄い掛け布団と小さな枕が支給されるが、これで眠れるかどうか不安である。しかも僕のベッドは二階の窓際、ベッドに座ると頭がバスの天井にゴツンと当たる。 エアコンは効きすぎるほど効きすぎていて寒い位だし、乗客は中国人が大部分を占めているためか、バスの運転席の上に「禁煙」を意味していると思われる漢字四文字が掲げられているにもかかわらず喫煙三昧なので空気が悪く、快適どころか不快である。 いずれにしても「老走寸万象(ラオスビエンチャンという意味です)〜中国昆明」と正面とボディに大きく書かれたデラックスバスは、クネクネとしたラオスの山道を登り下り、夜七時ごろに見知らぬ町中の小さな食堂の前で一旦停まった。どうやら食事休憩のようだ。 この経路を走る中国バスの決められた食堂のようで、勝手知った乗客たちは次々と急いで入って行く。店の奥には大型炊飯器と様々な惣菜が大きなトレーに入っていて、客は女性店員に「これとあれとご飯と汁!」という具合に指差して注文する。 このバスには旅行者は3人しか乗っていなかったことがこの時点で判明、一人は米国からの三十才位の男性、もう一人はタイ人の公務員さんでこちらも三十代前半とあとで聞いた。 彼らと僕との三人は勝手分からず、しばらく中国人たちが忙しく動き回るのを眺めていたが、彼らがようやく席に落ち着いたのを見計らって、ご飯とおかずを2、3品指差して皿に入れてもらい、静かに晩御飯を食べた。 店主は中国語で運転手や乗務員と話していたから、おそらく中国人だろう。このような田舎町にまで、中国人が進出しているというわけである。 タイ人の公務員青年は英語が達者で、米国人男性と「こりゃ大変なバスだな」などと話をしていた。僕は横でウンウンと頷き、こんな粗末な食事に35000Kip(310円程度)も請求されて少々憤慨しながら食堂の外に出た。 灯りもほとんど見えない静かな田舎町に佇み、後三日で今年も終わることへの寂しさと、日本からはるか遠くに来て年を越すことへの後悔が、次第に心を支配し始めた。 |
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第十九話 昆明行きの長距離バスは、食事休憩が終わったあとは乗客が「オシッコ!」と叫ばない限りドンドン北上して行った。 ルアンパバーンの町をかすめた時は、少し見覚えのある町の夜景に懐かしさを覚えたが、停車することもなくラオス北部へ国道を走り続けた。国道といっても対向車とギリギリすれ違うことが可能か、或いはどちらか一方が路肩に寄せないと行き違えない程度の道路事情である。 バスの車内は消灯され、乗客は薄い布団を体に掛けて寝るしかない。僕の座席(寝台席)は二階の窓際である。山道に入るとカーブのたびに大きく揺れる。 エアコンが寒いくらいに効きすぎている。バックパックの中に伸縮自由なダウンジャケットが入っているが、取り出すこともできず、半そでのシャツでは寒さがこたえ、なかなか寝られるような状況ではない。 それでも睡魔に襲われ、揺れるバスが崖から落ちないように祈りながら眠りに落ちていた。時々バスが停車しているのを微かな意識の中で感じながら再び眠る。こんなシチュエイションで寝るのはおそらく最初で最後だろうと自分を納得させる。 外の明るさに不意に目が覚めた。時計を見ると既に午前5時を過ぎていた。道路は山道を下りに入っていた。バスは停車せずにグングン走り続ける。 お日様が山の木々の隙間から覗き、車内に陽が当たりはじめ、さらに山道をうねりながら下り続けたあと、平地の国道に変わった。どこだろうと思ったらルアンナムターという小さな町だった。 直線に伸びる国道は整備されていて、道路沿いには商店やゲストハウスが見えた。ここから中国国境まではあと二時間半程度と聞いていた。 再び山道を登り始め、途中トイレ休憩を適当に取りながらさらに走り続けると、午前十一時前にいきなりラオスのイミグレーションに到着した。広々とした荒地の中に、ブルーの色の粗末な小屋が建っていた。ここがパスポートコントロールらしい。乗客はわれ先に降りた。 荒地には大きなタイヤが二十個ほども付いている大型トラックやタンクローリー車がラオス出国を待っていた。 列など気にしない中国人が出国窓口に殺到している。僕やタイ人青年等もパスポートを握り締めて窓口に並ぶ。しかし窓口には四方八方から手が伸びていて、ラオス人の入国管理員は目の前に突き出されている手から適当にパスポートを取ってスタンプを押すのだ。 ここでは遠慮は意味がない。僕は日本語で「これを先にスタンプ押したらんかい!」と大声で怒鳴ってパスポートを突き出した。勢いに圧倒されて、僕のパスポートを手にした係員。ざまあみろ中国人どもめ。 こんな風にラオスをついに出国し、次に中国のイミグレーションへ臨む。 |
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第二十話 掘っ立て小屋風のラオスのイミグレーションを抜けて、5分程度歩くと今度は中国側のイミグレーションである。ところがこれが驚嘆ものだった。 「フフ、中国だろう。タカが知れているだろう」と馬鹿にしていた僕であったが、近代的な大きな建造物を見て驚いた。先ほど出国手続きをしたラオスのものとは対照的なデラックスなものであった。 一応バスから全員がスーツケースやバックパックなどの荷物を降ろして建物前の広場に並べ、それを警察犬のようなワンちゃん2匹がクンクンと匂いを嗅ぎ、問題ないと判断すると建物内のパスポートコントロールの窓口へ向かう。ワンちゃんたちが嗅いでいるのは麻薬の類である。 まだ建築されてそれほど年月が経っていないと思われる建物の中はガランとしており、係員が一人入国審査を行う。わずか一人だが、手続きが非常にテキパキしていて迅速であった。 一つの窓口だが、係員が兵士のような感じで毅然としており、いい加減な中国人たちもラオスでの窓口のように我先に殺到してあちこちから手を出すというようなことはなく、おとなしく並んでいた。 無事に初の中国入国スタンプを押してもらって館外へ出ると、そこには両替の女性たちが数名たむろしていた。ラオスKipと中国元の両替である。 僕にも一人の中国人女性が両替を迫ってついて来る。ウザいがよく考えてみるとここは中国だから「元」が必要なのだ。しばらく無視していたが、じゃあ頼むよと10万Kipを両替してもらった。(900円程度) 国境の町・モーハンは、中国がラオスへ侵食するに伴って人工的に作られた町である。従って、イミグレーションオフィスからでた町並みは、一本の広い道路の両側に、様々な商店や宿や食堂などが並んでいた。 道の両サイドには規則正しく街路樹が植えられ、淡いピンクやベージュの建物が並んでいる光景と合わせると、オーバーに言えば日本の長崎にある「ハウステンポス」風にも思える。 さて、中国側へ入ったものの、バスはすぐに出発しない。バス発着場に止まったまま、乗務員たちは乗客に何の説明もなく、適当に食事などに散って行った。 中国人乗客ばかりなので、もしかしたら何時に出発だと説明したかもしれないが、われわれ旅行者三人は出発時刻が分からない。 ともかくすぐ近くで食事をしようということになり、小奇麗な小さな食堂へ入った。三人ともかなりお腹が空いていて、アメリカ人はチキンライス風のものとスープを注文、タイ人青年はご飯にいろんな野菜を乗せたものとスープ、僕は普通にラーメンを頼んだ。 ところがこの一品一品の量が半端ではなかった。アメリカ人はかなりマッチョな青年で、食欲もあったようだが、「ヘビー!」と言って三分の一を残してギブアップ、スープも残した。 タイ人青年も米の多さに驚きながらも黙々と食べていたが、途中で僕やアメリカ人に「手伝ってくれ」と言う始末(笑)、僕は僕でラーメンを完食するのが精一杯、やっぱり中国は食の国だからなのか。味は中国だけに美味しいのだが・・・。 ※ 中国に悪意はありません。念のため |
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第二十一話 2009年12月29日、初の中国の土地を踏み入れた僕は、昆明行きのバスがいつ出発するかもわからない状態に苛立ちながらも、僕を含めて僅か3人の旅行者であるタイ人青年と南米系アメリカ人とで、遅めの朝食兼早目の昼食をバス発着場近くのこぎれいなレストランで摂った。 満腹になったあとは、バス発着場から余り離れない辺りをタイ人の青年と二人で散策した。彼は流暢な英語を話し、僕のぎこちない英語とでコミュニケーションをとる。 三十代前半の彼は、プーケットの生まれで、バンコク市内の大学を卒後後、国家公務員となり、タイの官庁に勤めているのだとか。物静かな語り口調で、僕がこれまで接したことのあるタイ人に比べて、品位を感じる好青年であった。 彼は今年の仕事を終えて、僅か5日程度の休みを利用して、バンコクからウドンタニーを経てビエンチャンへ入り、このバスに35時間程度乗って明日の早朝、昆明に到着、昆明で2泊程滞在したあと飛行機でバンコクへ帰るという旅程。大変だなと思う。 二人で国境の町・モーハンの綺麗な街並みを背景に写真を撮りあったり、しばらく散策した。バンコクで再会したら楽しいかな、と思ったりもしたが、彼から何も言ってこないのでプライベートな部分は突っ込んで聞かなかった。 さて、バスは午後一時を過ぎてようやく再出発した。この国境の町・モーハンは、ラオスとの国境が整備されるようになってから、にわかにできた町といえる。 ここから昆明まではまだ十時間程度かかるとか言っているが、本当は何時間かかるのか分からない。僕が降りる予定の景洪(ジンホン)までは3時間程度とのこと。 小さなモーハンの町を抜けると、すぐに高速道路に乗った。かなり整備された高速道路だが、車自体はあまり走っていない。以前仕事でよく走った近畿地方の舞鶴自動車同程度のガラガラ度とフト感じる。 好天の中、大型バスはグングンとスピードを上げて走る。窓からは小さな山に囲まれた集落が所々に見える。なかなかのどかな風景にホッとする。ラオスの山道と違って快適である。このまま予定通りに景洪(ジンホン)に着けば、宿を探す時間は十分あると、少し気持ちにもゆとりが生まれた。 ところが、このまま中国は僕を素直に目的地・景洪(ジンホン)へは連れて行 ってはくれなかったのだった。 |
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二十二話 2009年12月29日、僕の乗る大型デラックスバスは、ガラ空きの高速道路をガンガン飛ばし、一路昆明を目指していた。 僕はその途中の洪景(ジンホン)までのチケットを持っていた。乗務員も知っているはずなので、洪景のバスターミナル到着まで二階ベッドで仰臥して窓外の景色を眺めていた。 時刻は午後4時を過ぎた。田舎の田園風景が続く高速道路、いつになったら着くのか、宿も探さないといけないので、少し気持ちが焦る。と、その時突然バスは高速道路の路肩で停車した。 「○△■※×△!」 上方お笑い芸人の中川家の弟そっくりな乗務員が何やら僕に叫ぶ。窓際の上段ベッドで顔を上げて「何だ?」と聞くと、「ここが洪景だ」という。 「な、な、何だって?ここが洪景って、高速道路の路肩なんだけど・・・。」 仕方なくバックパックを担いで下車すると、中川家弟は「向こうの反対側の道路に渡ってバスが来るのを待って洪景まで行け」と言うのだ。(おそらくそういう風なことを言っているはず) 僕が躊躇していると、一緒に渡ってやると言う。 車が来ていないことをしっかり確かめてから、まずは中央分離帯へ急ぎ足で渡る。今度は反対側から車が来ていないことを再度確かめてから反対車線の路肩へ急ぎ渡った。 重いバックパックを背負って、ヨイショヨイショと渡りながら、「僕はいったい何をしているのだ?」と自問自答するのだった。 中国雲南の田舎町に似つかわしくない高速道路の路肩で、汚れたバックパックを背負って佇む一人の中年日本人。自分の姿を客観的に観察し、自嘲に似た苦笑いが自然に出た。 中川家弟は「それじゃ気をつけて!ここで向こうから来るバスに手を振って止めて、洪景のバスターミナルまで行けばいいよ!」ってなことを、いとも簡単にできるように言ってから、彼は再び駆け足で中央分離帯から昆明行きのバスに戻った。 佇む僕にバスの乗客たちは手を振る。タイ人青年も南米系アメリカ人も窓から僕に向かって「良い旅を!」とでも言っているのか、手を振るのであった。 バスは走り去った。高速道路の路肩に残された僕。既に陽は傾き始めている。不安が心を支配し始めた。 しかし不安がってばかりいても仕方がない。向かってくるバスに手を振らなければ行けない。洪景まで何とか行かないと、高速道路の路肩の周辺には民家など見えないのだ。 1台、また1台とバスが通過する。大型バスもあればマイクロバスも通る。しかし日本の高速道路のように頻繁に通るわけではない。うかうかしていたら日が暮れる。 そして僕は視界に入った1台の白いマイクロバスに向かって手を大きく振った。 |
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二十三話 2009年12月29日の宵闇迫る頃、僕は日本からはるか遠く、中国は雲南省の洪景(ジンホン)という町に向かっていた。 ラオスの首都・ビエンチャンを前日の夕方経ったバスは、無事に中国国境を越えて昆明に向かう途中、僕が訪ねる洪景(ジンホン)のバスターミナルへ立ち寄ってくれるものと思っていたが、なんと洪景(ジンホン)の近くの高速道路の路肩に僕を降ろしてあっという間に立ち去ったのだ。 残された僕は、反対車線の路肩に立ち、走行してくるバスやマイクロバスに手を振るという、空しいやら悲しいやらの行為を余儀なくされた。 何台かのバスに無視されたあと、1台の白いマイクロバスが僕の大きく振る手に応えてくれて止まった。運転席のドアが空いた。 「洪景(ジンホン)!」 僕は堰を切ったような声で叫んだ。 まだ若そうな運転手は、僕の必死の形相に圧倒されたのか、手をバスの中に招き入れるように動かしながら、何か中国語で言った。 その言葉が終わらないうちに、僕はすでにバスに体を乗り入れていた。大きな汚いバックパックを背にして、空いている席までヨタヨタと歩いて座った。大勢の視線が僕に注がれているのを感じた。 バックバックを窓側の席に降ろし、通路側の席に座った僕は、自然と苦笑いになっていくのを感じた。通路の向こう側の中年の女性が笑いながら何か言った。 言葉がわからないので、微笑返しをしながらうなづく僕。ともかくは洪景(ジンホン)市街へ行けそうである。 バスは十五分程すると高速道路から降りて一般道路を走った。しばらくすると山に囲まれた町が見えた。その町を裂くように大きな川が流れていて、川の両側にはたくさんの家やビルが建っていた。 小さな町と思っていたが、それなりの都市のようだ。そしてなんとこの川はメコン川なのだった。ラオスからベトナムのメコンデルタへ流れるメコン川の上流は、ここ洪景(ジンホン)にも流れていた。僕は少しばかりの感動を覚えた。 市街地に入ると、紫色の大きな建物の壁に「西双版納(シーサンパンナ)自治区」と書かれていた。 洪景(ジンホン)は日本読みだと「景洪市(けいこうし)」とされ、ウィキペディアには「中華人民共和国雲南省シーサンパンナ・タイ族自治州に位置する県級市、同州の首府の所在地である。古来より中国タイ族(ルー族)の中心地として栄え、近年東南アジア諸国との国境貿易でも発展している」とある。 人口も36万人とのことで、つまりそれなりの都市であるわけだ。 さて、僕を拾い上げてくれた素敵なマイクロバスは、洪景(ジンホン)市内をぐるりと一回りした感じだったが、ようやく大きなバスターミナルに到着した。 バスターミナルは広い敷地内にたくさんのミニバス(つまりワゴン車)やマイクロバスが止まっており、運転席の上に行き先が表示されていた。 「大理」や「麗江」といった聞いたことのある行き先もあったが、「?罕」や「?海」など、まったく読めない行き先も表示されていた。 僕は運転手にポケットに入れてあったメモ帳に「料金?」と書いて見せた。すると彼は手のひらをパーにして何やら言った。つまり5元のようだ。この時期1元は13円だから65円である。 両替していた元の紙幣から5元を取り出して渡した。実は国境の食堂では何故かバーツで支払ったので、元を使うのは初めてだった。 さて、もう夜が近い。宿を探さなければ行けない。マイクロバスの運転手に再びメモ帳に「宿 格安」と書いて見せた。 |
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二十四話 2009年12月29日、あと三日で年も明けるというのに、僕は中国の雲南地方にある小都市・洪景(ジンホン)にのバスターミナルに佇んでいた。 洪景のバスターミナル 高速道路で荷物のように降ろされた僕を拾ってくれた素敵なマイクロバスの運転手に、急いでメモ帳に書いた「宿 格安」という文字を見せた。 すると運転手は右斜め後方を指差して何やら言った。その指差し方向に目をやると、「平安宴館」と大きく書かれた3階建てのホテルが見えた。 平安宴館 こりゃ高そうだな・・と思いながらもすぐ近くなので行ってみることにした。 運転手に別れを告げた。 「平安宴館」は大きなホテルに見えたが、フロントは小さく、若い男性従業員が一人いるだけだった。「いくら?」と言っても分かるはずもないだろうから、試しに「Do you have a single room?」と聞いてもやっぱり分からないようだった。 途中のバスの窓から眺めていても、欧米人の姿は一人も見かけなかったし、もちろん日本人らしき旅行者の姿も見なかったから、めったに外人は泊まらないのかもしれない。 この時もメモ帳に「1泊 料金?」とすばやく書いて見せた。すると彼は自分の手元の紙に50元と書いた。650円程度だ。 これは意外に安いので部屋を見せて欲しいと言うと、2階の窓から静かな公園が見える部屋に案内された。広い部屋にダブルベッドが置かれ、大きなTVまであり、バスタブこそないが、トイレと兼用の広いバスルームは「熱湯」と注意書きが書かれていたので、当然ホットシャワーも出る。 50元(650円の部屋)-快適でした シャワーを浴びたものがボットントイレへ流れるのは不思議な感覚 フロントに下りてチェックインをした。デポジットとしてもう50元預けたが、これは翌日のチェックアウト時に、ミネラルウオーター1本の料金2元を引かれて48元きっちり戻ってきた。(ミネラルウオーターが26円ってことだね) 部屋に戻り、シャワーを浴びることにした。もう時刻は夜6時を過ぎていた。気温は15度程度だろうか?或いは20度近くか、僕はTシャツに綿のジャケットを引っ掛けているだけだが、少し肌寒い。 シャワーはすぐに熱湯が出て、少し調節しないと火傷をするくらいだったが、熱いお湯が石鹸の泡とともに、しゃがみ式のトイレの穴から流れ落ちていく光景は、ちょっとなんとも表現しがたい気持ちになった。 穴を覗くと、かなり下方ではあるが、排泄物がたまっている様子が窺え、そこにシャボンのお湯が流れ落ちていく。排泄物の臭さは解消されるかもしれないが、おかしな納得し難い気分であった。 さて、体もきれいサッパリとして食事と街歩きに出た。国境近くで遅めの朝食兼早目の昼食を摂ってから何も口にしていなかったので、かなり空腹になっていたのだが、高速道路の路肩で降ろされたことからそれさえも忘れてしまっていた。 ホテルから出てバスターミナルの並びを少し歩くと、店の前で大きな鍋で料理をしている小さな食堂があった。周りを見渡すと、大勢の人々が夕食を求めてさ迷い歩いているかのように感じた。 僕は足の向くまま躊躇なく、その食堂に飛び込んだ。 |
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