第十二話 内田有紀夫妻とその幼児二人、宮崎あおいと彼女の幼児、その他数名と僕を乗せたトゥクトゥクはビエンチャン市街へ突入し、見慣れた風景ホッとしていると、やがて車のクラクションやオートバイのエンジン音の喧騒が聞こえるようになると、終点のタラート・サオである。 約束どおり5000Kip(この時期45円程度)を支払い、ビエンチャン大学の留学生二人にサヨナラを言って歩き出す。勝手が分かったビエンチャンの街だから、バックパックの重さも全く感じない。 美味しいフランスパンサンドイッチを作ってくれる店も健在だ、その隣のフルーツ屋には既に欧米人客が生ジュースを求めて押しかけていた。そして驚くことに、道路の反対側にはコンビニができていた。セブンやファミリーマートなどのコンビにではなく、おそらく中国資本かタイ資本のコンビにではないか。 定宿になっているチャンターGHに到着したのが既に16時を過ぎていた。バンコクから前日「どんな部屋でも良いですからお願いします」とメールを送っておいたから、3階のファン、TVなし、共同シャワーのシングルの部屋をキープしてくれていた。 早速、汗まみれの体をシャワーで綺麗スッキリ落とし、半年振りにお会いしたS野さんに挨拶、相変わらず飄々とした風貌だが、お元気そうで何より。聞けば明後日28日から日本に帰国するのだとか。 さて、バスチケットが手に入れば明日にでも中国雲南方面へ向かいたい。バスターミナルまでブラブラと歩いて行った。夕方のビエンチャンの街は、ナンプ広場にも人はまばら、なぜか人々が隠れているかのように静かだった。 アメリカ大使館の裏道から大通りへ出て、タラート・サオを横に見て、バスターミナルへ向かう。途中、何ヶ所かの信号で、車の往来の多い道路を渡るのにいつも戸惑う。歩行者用の信号機がどうもおかしいのだ。 つまり自分の進みたい方向の車用の信号と、歩行者用の信号がどうも連動していない。だから日本の歩行者用信号を渡る感覚だとスムーズに渡れない。信号機が増設されるスピードも緩やかな国だから、性能の良い信号機が作れないのか、或いは操作の設定が間違っているのかもしれない。 せっかくシャワーを浴びたのに、すっかり汗だくになってチケット売り場の窓口にたどり着いた。窓口のオネエサンに「チャイナの昆明行きのバスチケットはどこで売ってますか?」と聞いてみたら、ここではなく北バスターミナルだと言う、仕方がないので再びゲストハウスに戻り、少し早めの夕食にすることにした。 チャンターGHは、毎度の旅行記にも書いているが、ゲストハウスとレストランを併設していて、S野さんはレストランの調理師兼店長兼ゲストハウスの支配人でもある。お好み焼きと肉野菜炒めとビアラオの大瓶を注文、ビアラオは変わらぬ喉越しの爽快なビールであり、料理もどちらも旨い。 (これで47000Kip、430円程度) 夕陽が一日の役割を終えて沈み始めた頃、気を取り直して北バスターミナルへ昆明行きバスチケットを買いに出た。宿の近くで客待ちをしているトゥクトゥクにいくらかを聞くと、60000Kip(540円程度)だという。 それはあまりに高すぎるというと、料金表の書かれた大きなカードを見せてきた。確かにその値段がプリントされていた。でも高いなぁ。 しっかりと断って、メコン川方面に少し歩くとレンタサイクルをしている雑貨屋があるので、ママチャリを借りた。料金は一日10000Kip、激安。 体力に自信のない僕なので、本当は楽なトゥクトゥクで行きたかったが、頑張ってキコキコこぎだした。さて、バスチケットは無事にゲットできるのか? |
---|
第十三話 2009年12月26日、日本ではクリスマスという無心論者でも参加する大イベントが終わって、街が虚脱感に包まれているだろう頃、僕は遠くラオスという国の首都・ビエンチャンに於いて、チャリンコをキコキコ漕いで北バスターミナルへ向かっていた。 陽が落ちて薄暗くなったビエンチャンの街だが、昔と違って車やバイクが慌しく国道を往来している。早々とシャッターを閉め始める道路沿いの建材店や石細工店、仕事を追えた人々が家路を急ぐ。 平和な光景に、僕の心も穏やかな感情に包まれる。しかし暑い。 北バスターミナルは国道をヒョイと入ったところにあり、位置的には分かりにくい。チャリンコにしっかり鍵を掛けて、チケット売り場へ歩く。長方形の小屋のような建物がバス発着場の手前にあり、そこが売り場である。 中国方面の窓口は向かって一番右端であった。 「明後日の昆明までの夜行バスチケット1枚!」 汗を拭き拭き窓口のオッサンに叫ぶ。ラオス人ではなく、明らかにチャイナ顔の中年男。 だが、オッサンは首を振る。「明日の午前9時以降でないと発売しない」とのたまう。何で?と一応聞いてみたが同様の返答。このバンダナ日本人オヤジはウルせぇな、といった顔付きだ。 せっかく体中から汗を噴出しながらやってきたのに、この冷たい返答は何なのだ。憤慨しながらも仕方なく帰ることにした。チャリンコのべダルを漕ぐ足がなんとなく重い。すっかり日は落ちて、ビエンチャンの街は暗闇に包まれていた。 チャリンコを返し終わったら何もすることがない。ゲストハウスが多く存在する通りには、様々な飲食店が旅行者を呼んでいる。楽しそうに会話しながら、ピザ店に入っていく欧米人カップル。確かこの店は、2002年に国境で知り合って数日行動をともにしたR子さんと入ったことがある。 その時、この店は洋酒を主体に飲ませるカフェだったはずだ。僕はR子さんの美貌に酔いしれて、ウイスキーをガブガブ飲んで、文字通り酔っ払ってしまったことを思い出す。その店が今ではピザ屋に変っている。年月の経過は、様々な事象の変化を伴うのは当然であるが、ちょっと寂しい気がした。 ゲストハウスへ帰ってもTVのない部屋だし、本を読む気分でもない。ナンプ広場近くにある、毎回訪れるシーリーマッサージ店へ行くことにした。 ここはビエンチャンに来るたびに、滞在中何度かマッサージをしてもらうのだが、若い女性が多い割には丁寧な仕事をしてくれるので満足のいく店である。 今夜はどんな可愛い女性が僕の疲れた四肢をほぐしてくれるのだろうと、期待に胸膨らませて店のドアを開けると、入ってすぐ左にカウンターがあり、その向こうには妖艶なラオス美女が「サバイディー」と微笑みながら迎えてくれる・・・・そんな都合よく話が進むはずはない。 この夜、僕のマッサージを担当してくれたのは、体躯のガッシリとした、一見ホモっぽいたくましい若い男性だった。 |
---|
第十四話 2009年12月27日、前日の夜はナンプ広場近くにあるシーリーマッサージで、疲れた四肢をホモっぽい男性から受けて、すっかり元気になった僕は、フラスパンサンドイッチとラオコーヒーの朝食を済ませたあと、再びレンタバイク(ママチャリ)を10000Kip(この時期90円)で借りて、北バスターミナルへ心躍らせて出かけた。 用事は他でもない、中国南部の昆明行きのバスチケットを購入するためである。 この日も好天、朝のビエンチャンの街は既に動き始めていた。気温はそれほど高くないが、それでもおそらく25度は越えているように感じる。 午前九時過ぎに北バスターミナルに到着した時には、体中から汗が滴り落ちるくらいであった。早速昨日冷たくあしらわれた窓口へ。 「昆明まで、明日の夜行チケット1枚、頼む!」 「ウン? 明日のチケット? 明日のものは明日の朝9時から発売だがや」 そうか、そういうことなのか。つまり当日のバスチケットは当日しか売らない、前売りをしないということらしい。何て前近代的発売方法を採用しているのだ、クソ中国め。 それならこの夜の出発分を買えばいいんだな、「じゃあ今夜の分を!」と不機嫌に叫ぶ僕。しかし返ってきた答えは「今夜の分はあいにく売り切れだがや」と、またしても意に反するものだった。 これは中国へ行くなと神の指図かもしれないな、と思いながら気持ちも萎えて、やむなく宿に戻った。明日、三度目のチケット購入アタックがダメだったら、素直に流れに従って、バンビエンかルアンパバーンへ向かおうかとも考えた。 ベッドでウトウトしていたら寝てしまい、目が覚めたら午後二時だった。三時間以上も昼寝をしたことになる。 海外に来て昼寝をすることが、僕にとっては至福である。日本の日常ではほとんど有り得ない時間の流れだ。メコンの夕陽を眺めながらビアラオを飲み、これまでの人生の失敗や、女性との失態を苦笑いするひと時と同じ位、幸せを感じる瞬間である。 シャワーを浴びて目を覚まさせ、鏡を見て驚いた。髪の毛の生え際を中心に、白髪が目立っていたのだ。しかも少し髪の毛も伸びている。 階下に降りてS野さんに、カットと毛染めをしてくれる理髪店をお聞きした。理髪店よりも美容室でよいのでは?ということになり、場所を教えていただいた。 教えてもらった美容室は、作家の黒田信一さんが以前営業していた「カフェ・ビエンチャン」の隣に位置していた。(詳細はカフェビエンチャン大作戦・本の雑誌社刊でどうぞ) 「ちわ!」と店内に飛び込むと、店には女性が3人暇そうにしていた。年末が近いのにこれではいけないだろう、さっ!仕事、仕事。ヘアカットと毛染め、出来る限りブラックに染めてねと注文をした。 もともと毛髪が少ないので、カットは簡単に調髪が終わり奥の席へ移動、仰向けに背もたれを大きく倒されて、後頭部の下に大きな洗面器が位置する形での毛染めが開始された。 日本の美容室や理髪店のように温かいお湯で髪をすすぐわけではない。すべて水で行うのだ。 これが当初は冷たくて違和感をかんじるが、慣れるとお湯より気持ちが良い。毛染めを担当してくれたのは、中山美穂似の美女だった。 彼女の細い指が、まるで腫れ物を扱うように、僕の髪の毛に触れるのだった。 |
---|
十五話 中山美穂の繊細な指が、枯葉のごとく色艶を無くした僕の毛髪を、先ずはカットそしていったん冷水でシャンプーをしたあと、今度は真っ黒な毛染め剤を施していく。 おかしな日本人客だから、指先が時々震えているようにも感じられ、前述のように、まるで腫れ物に触れるように慎重に仕事を続けていた。仰向けに寝かせられた僕はしばし夢見心地であった。 僕以外に来客もなく、一時間あまりもかけて仕上がった僕の頭髪部は見違えるほどの輝きを放っていた、ってなことはないが、白髪は一本も見えず恐ろしいほど真っ黒に染まっていた。(この毛染めは、帰国後三ヶ月以上も長持ちをした) 美容代は10万Kip(この時期900円)、激安。日本に於いて、中山美穂のような美女からを一時間あまりも美容を施された日には、おそらく福沢諭吉が一枚飛ぶであろうと思うと、宿へ戻る僕の口元も自然と緩むのであった。 夕食までに時間があるので、いつも必ず行くワット・ミーサイの裏側にある薬草サウナでくつろいだ。狭いサウナは下で焚かれる薬草の湯気で人の顔も分からない位だが、5分も座っていると汗が噴き出て気持ちが良い。 外に出て、冷シャワーを浴びる、そしてまた薬草サウナへ入る。これを三、四度も繰り返したら、体も心もリフレッシュを通り越して、緩んでフニャフニャになってしまうのだ。こんな感覚は日本では得られない。 さて、この夜の夕食は、日本人オーナーのレストラン「ブルースカイ」にした。2007年の元旦に、当時作家の黒田信一さんが営んでいた「カフェビエンチャン」で飲んだ時、ブルースカイのオーナーさんも来ていた。 お名前は忘れたが、恰幅の良い堂々とした方で、記憶が正しければ「指差しラオス語会話」などの書籍に寄稿されていたか、或いは出版に関与していらっしゃったと思う。 「ブルースカイ」はチャンターゲストハウスから100Mほど先へ歩いたところに所在している。三階建てのレストランビルで、この年(2009年)の夏に職場仲間4人とラオスを訪れた時は、2階の座敷席でのんびりくつろいで夕食を囲んだことを思い出した。 ここのレストランは、味はもちろんのこと、ラオス人の従業員の教育も行き届いており、店に入ってもなかなか注文を取りに来なかったり、料理ができるまで時間がかかるというようなことは決してない。 この夜は、ビーフのラープ(ひき肉とレモングラスや唐辛子などを混ぜ合わせてレモン汁を振ったラオス料理)とカオニャオ、それと揚げ春巻きを注文、そしてもちろんビアラオ、最高だ。 だが、平和なビエンチャンの夜の風景を、一階のオープン部分の席で眺めているうちに、たった一人の食事に少し寂しさを感じてしまった。 でも旅はいつも一人が基本だしなぁ、とあきらめる。こんな風にして2009年12月27日は過ぎ行くのだった。 |
---|
第十六話 翌12月28日は健康的に自然と7時半ごろ目が覚めた。 前夜はブルースカイでビーフラープ、カオニャオ、揚げ春巻き、ビアラオ2本で55000Kip(この時期約500円)、味も値段にも満足したあと、メコン川沿いの土手を散歩、屋台の生ジュース屋でマンゴージュースを飲んだ。 宿に戻る途中、綺麗なオカマさんたちに路上で声を掛けられながらも、おとなしく帰ってすぐに寝たので、八時間半程度も睡眠が取れて体もシャキッとしていた。 さて、朝食をいつもの店でフランスパンサンドイッチのハーブバケットと、激甘ラオコーヒーですませて、一旦宿に戻ろうと歩いていたら、ノンカイのゲストハウス・表面張力のMさんに呼び止められた。 「あれ?Mさんどうしてここにいるのですか?」 「実は昨日からビエンチャンに来ているのですよ。私はビザの関係の用事ですが、ご老公と若い衆2人はカウントダウンをバンビエンで迎えるというのです」 いつものように飄々とした独特の物腰で言うMさん。ご老公とは、今回僕と一緒にミャンマーへ行く計画をしていたT氏のことである。 「ご老公は相変わらず体調が良くなくて、あそこのゲストハウスで寝ています。若い衆と一緒行動しようとこちらに来たのは良いのですが、あの状態では無理かもしれません。私と一緒にノンカイへ戻ることになると思います」 指差したゲストハウスは昨日訪れた美容室の斜め前に所在するMOゲストハウスであった。中国系のオーナーが少し前にオープンした新しいゲストハウスだとか。 しかしビエンチャンはラオスの首都である。わずか60万人程度の人口だとしても、一応首都だ。いくら旅行者が泊まる宿が集まっている所だといっても、M氏と道端で偶然会ったのは何か神の意図があるのではないかとさえ感じるのだった。 M氏はビザの用事で大使館へ行くところで、11時ごろにゲストハウスのロビーに若い衆たちも来ることになっているので、T氏も起きて部屋から降りてくるでしょうとのこと。 それならそれまでに中国行きのバスチケットを買っておこうと、再びレンタチャリンコを借りて北バスターミナルへキコキコと向かった。この日もビエンチャンはバカ陽気、強い日差しがバンダナを突き抜けて地肌をジリジリと焦がす。街は、新しい年を数日後に迎える雰囲気など全く感じられず、人々がのんびりと動いている。 昨日も一昨日も二日も続けてチャリンコで北バスターミナルまで出張している僕だから、道は空覚えしているくらいだ。雲ひとつない青空を眺めて鼻歌を歌いながらペダルを漕いでいたらアッという間に着いた。 俳優の高橋幸治に似た中国人が窓口に偉そうに座っていた。昆明までいくらだと聞くと「60万Kipだ」と冷たく言う。60万Kipとはこの時期5400円程度だ。ちょっと高い。 それに昆明は500万人くらい人口がいる大都市というではないか。ラオスの田舎町が好きな僕にとって、500万人もの人口の都市を訪れることにあまり興味はない。 窓口には洪景(ジンホン)まで36万Kipと表示があった。これなら3000円ちょっとだ。所要時間も28時間程度だという。 え?28時間?・・・それでも28時間もバスに乗るのか? チケット窓口でしばし躊躇する僕であった。 |
---|
十七話 洪景(ジンホン)という都市は、中国雲南地方、西双版納(シーサンパンナ)自治区にあり人口約40万、少数民族が6割以上を占め、その中でもタイ族が占める割合が多いとされるが、近年は漢族がハバを利かせているとか。 夏が長く冬が短い地域で、年間平均気温が37.1度とあるが、これが本当ならあまり快適な都市とはいえないと感じる。でもまあともかく行ってみるか。 35万Kip(3000円少々)を支払いチケットを購入、一旦宿に戻りバックパックを整理する。バスは午後二時には出発するらしい。 二日分の宿代16万Kipを支払い、T氏の泊まるMOゲストハウスへ、一階のソファーにてしばらく待つが誰も来ない。フロントの人にひげの長老の部屋はどこかを尋ねるとすぐに教えてくれた。 二階のT氏の部屋をノックした。しばらく待つが反応がない。さらにコンコンコンとノックをすると、ようやく返答がありドアが開き、一昨日ノンカイで一旦お別れしたT氏が疲れきった表情で立っていた。 部屋に招き入れられてベッド横の椅子を勧められた。ツインの部屋にM氏と泊まっているとのことであった。 「やはり体調がすぐれないですか?」 「ああ、これは藤井さん、今度はちょっと風邪気味でしてね。今回は中国からラオスに入った頃からずっと調子が悪いですわ」 いつもは長身の背筋をピンと張り、シャキッとされているT氏であるが、やはりよほど体調がお悪いのだろう、顔色も良くなく心なしか一昨日よりもやつれたように感じる。 「若い人たちがバンビエンで年越しするというものだから、ノンカイでジッとしててもつまらんですから出てきたのじゃが、ちょっと無理かもしれんです」 語り口調はしっかりしているが、目に元気がない。僕が雲南方面に行くことを話すと、同行に少し心が動いた様子だったが、無理をせずノンカイのM氏のゲストハウスで療養して、病院で診てもらったほうが良いと感じた。 階下に集まることになっていたのでT氏と降りてみると、既にM氏と若い男女がソファーに座っていた。 男性の方は二十代前半、若いが礼儀正しい印象。女性の方はA子さん、三十代半ばになるが、数年働いてお金を貯めて長期旅行に出るというスタイルを繰り返しているという。 アジアンアクセサリーを手や首に装い、大変魅力的な女性である。T氏とは前から旅先での知り合いらしく、しきりにT氏の体調を気遣っていた。 「バンビエンには行かないほうがいいよ、無理したらダメだよ。ノンカイに戻って病院で診てもらおうよ。体調が悪い原因が分かってから決めた方がいいからさぁ」 A子さんとM氏にも同様の意見を浴びたT氏はようやく気持ちを決めたようで、「それじゃノンカイでじっくり体調を整えましょうかな」と今後のことがまとまった。 さて、昆明行きのバスが出る時刻が近づいた。僕は皆さんにお別れを告げ、T氏に再度「年明けの4日位にはノンカイに戻りますから、無理をせずに療養してください。病院へも必ず行ってくださいね」と言葉を残した。 北バスターミナルへは片道3万Kip(270円程度)のトゥクトゥックしか手段はない。重いバックパックを荷台に投げ入れた。 これまでルアンパバーンからビエンチャンの12時間バスや、サワナケートからフエの16時間バスは経験しているが、28時間のバスは初めてである。しかも中国のバスだ。不安が少しずつ広がっていった。 |
---|