行くぞ!ミャンマーの予定が、なぜか雲南


 第九話 ノンカイヘ その三


 
「長月」のMさんにラオスへ行くことにしたと告げて、おそらく10日後には戻ってくるので、またその時飲みましょうと言って別れた。

 今回の旅行は写真を撮ろうと思った。以前持っていたデジカメを盗難に遭ってから、カメラを持たない旅行が続いていたが、昨夜のクリスマスイブもその前日も、綺麗なクリスマスツリーやバンコク市内のあちらこちらで光輝くイルミネーションなどを見てそう思ったのだ。

 オンヌット駅前にあるテスコ・ロータスでは様々な商品のクリスマスセールが実施されていた。デジカメも少し機種の古いものが値引きされていた。

 オリンパス製のコンパクトなものが2500B程度(7000円弱か)で豪快にセールされていたので、思わず手に取っていたら店の女の子が微笑みながら勧めるようなしぐさをした。言葉は分からないがおそらく「これはお安くなっていますよ、お勧めです!」とおっしゃっているに違いない。

 微笑の国・タイといわれているが、そのいわれを裏切られるようなタイ女性の理解しがたい冷たさや厚かましさに、友人などは何度も遭っており、「長月」のMさんや親友のN君などはタイ女性に対する辛らつな批判を常々語っているので、このような心洗われる微笑を受けると、その概念もひっくり返されてしまう。

 彼女の微笑にあっけなく崩れた僕は、数分後購入カウンターで彼女から利用方法の説明をタイ語で簡単に受けていた。メモリーカードの挿入の仕方や様々な機能などを、本体を手にとって説明され、最後にバッテリーを装着してもらった。

 彼女のカーカーとカラスが鳴くようなタイ語は全く分からないが、心が溶けそうな微笑で一生懸命説明されると、ちょっと分かるような気がしてきた。そして結局購入したデジカメ本体の色は、なぜかピンクだった。

 「ヨーシ、今回は写真を撮りまくってやるぞ!」と、ようやく本来の旅行の意気が上がった僕は、一旦ゲストハウスに戻ってバックパックを整理し、階下のスタッフにラオスへ向かうことを告げ、年明けの1月6,7,8日の予約をして宿をあとにした。

 夕方のBTSオンヌット駅は、勤め帰りのサラリーマンやOLさんや女学生たちを吐き出していた。代わって、金曜日のナイトワークに出かけるスタイルのよい派手な女性や、クラクラするセクシードレスを身にまとったどう見てもオカマさんたちを改札口に吸い込んでいた。

 そして年季の入ったボロのバックパックを背負った怪しげなアジア人が一人、人ごみにぶつかり続けながらも改札へ突入して行った。考えれば、12月22日の深夜に到着して翌日から、毎日BTSに乗って、アソークで地下鉄に乗り換えて、終点のホアランポーンまで行っていることになる。いったい僕は何を
 しているのだ。ミャンマーへ行くはずではなかったのか、と心の片隅でもう一人の僕がつぶやいた。

 ホアランポーン駅の構内ではクリスマスのイベントが行われていた。恵まれない子供たちに何かチャリティーを行っているようで、僕が到着した時には女性歌手が即席舞台で歌っていた。

 18時の時刻を告げる少し前には、恒例のタイ国歌の序章が流れ始め、同刻の訪れと同時に駅構内の全員が起立し、改札口上部に掲げられた国王様の肖像に尊厳の念を示すのだ。すっかり見慣れた光景だが、毎回かすかに感動さえ覚える。

 オレンジ色の少し薄汚れた袈裟をまとったお坊さん数人が列車待ちをしている。前にも後ろにもリュックをぶら下げて、ペタペタとビーチサンダルの音を立ててだらしなく歩く欧米人カップル。真四角のトランクを大切そうに持った中国系の男性。首からスタッフカードをぶら下げた男女が、旅行者にチケットの案内をするために声を掛けては断られている。列車のチケットくらいは自分で購入できるのに、おせっかいなことである。

 そんな光景をしばらく眺めていたが、20時の列車出発時刻までにはまだまだ時間がある。一旦外に出て、対面に並んでいる屋台で腹ごしらえをすることにした。商店街入り口角にある屋台食堂は通称「テッチャン」と呼ばれている愉快なオヤジさんがいる。

 奥の席に座りバックパックをおろした僕に注文をとりに来たてテッチャンに、「大田さんは?(大田周二さんのことです)」と聞いてみた。するとテッチャンは「大田さんはここにくるよ」と言う。この食堂から近いファミリーゲストハウスに大田さんがいた頃は、テッチャンの店にも時々来ていたことは知っている。

 「今、大田さんはどこにいるの?」とさらに聞いてみた。

 するとテッチャンは「大田さんは向こうの方にいる。ここにもくるよ」と笑ってしまうような不確かな言葉を繰り返すのだった。


 第十話  ノンカイへ その四


 
2009年12月25日の20:00発の夜行列車でラオスとの国境の町・ノンカイへ向かう僕は、駅前の「テッチャン」が営む屋台食堂でビアリオ(タイの比較的格安のビール銘柄)とバミーナーム(ラーメン)と豚肉入りチャーハンを食べた。しめて130Bなり。(330円位)

 バンコクに滞在する大田周二さんについて、テッチャンは「ここに大田さん来るよ、向こうに住んでいる」とアバウトで不明確なことを言っていたが、この近くにいらっしゃることは間違いない。

 あちこち回ってバンコクへ戻ってきたら、もう一度周辺のゲストハウスなどを聞きまわってみようと思う。きっと大田さんに会えるに違いないと確信を持った。

 夜になっても生暖かい風がホアランポーン駅のコンコースを巡りまわっており、ジッとしていても背中に汗がにじみ出る。サンダルを脱いでタイル張りのコンコースへ素足を落とすと冷やりと心地良い。

 たった一本のビールしか飲んでいないのに少し睡魔が訪れた。バンコクに着いてからこの三日間、毎日暑い日差しの中、考えてみればかなり歩き回ったので疲れが出たのか。

 このまま眠ってしまっては乗り遅れるので、早めに改札をくぐり右端のホームへ行くとノンカイ行きの列車が既に到着していた。重厚な鋼鉄の車体が逞しく、ガーガーとジーゼル機関の音が、まるで乗客たちに早く乗れと文句を言っているようだった。

 予測と反して20時ちょうどに突然列車が動き出した。僕の前の席は空いたままだ。通路の反対側の席は年配の欧米人カップル、その隣はこれも年配の欧米人男性だがお相手はアジア女性(おそらくタイ人)、チョイと周りを見渡しても日本人らしき旅行者はいない。肌が浅黒く髪の毛がベチャっと額に流しているアジア人はあちこちで見かけるが、この人たちはタイ人かラオス人か或いはチャイナか?

 十年前頃は必ず一つの車両に数人の日本人旅行者がいたものだが、ノンカイ行きの夜行列車は、車体自体はおそらく十年前のものと変わりがないが、乗せる乗客のお国柄はずいぶんと変わったものだ。

 夜行列車は走ってしまえばつまらない。しばらくはバンコク市内の夜の営みを眺められるが、間もなく暗闇の中に時々走る車やバイクの姿以外は見えなくなってしまう。

 さらに走ると全くの暗闇。原野を貫いて東北部への列車は走り続け、田舎の町や村の民家のかすかな明かりだけが寂しく光る。そしてその頃に列車の乗務員がベッドメイクにやってくるのだ。

 タイの夜行列車のベッドメイクは、「世界の車窓」からでも紹介されたことがあるようだが、その手際よさは見事の一言に尽きる。下手なマジシャンよりも感服するほどである。
 
 二、三分で清潔なシーツに枕カバー、タオルケットがセットされ、次の席のメイクへ移る。一つの車両すべての作業が終わるのに、三十分も要していないような気がするくらいだ。

 ベッドメイクが終わると列車はグングン暗闇を押しのけて走り続ける。時折駅に停車しても、ベトナムの列車のように、発車の際に大爆撃音を発することもないので安心して寝られる。

 僕は車両が消灯される前に、一気に深い眠りに落ちた。ガタンゴトンと規則正しいリズムが夢の中だ。


 第十話 T氏との再会


 
タイ東北部のラオス国境の町・ノンカイへの列車は、なぜか到着が四時間も遅れた。

 天候が悪かったわけでもなく、遅れた理由は不明だが、途中で少し苛々した。ノンカイのゲストハウスに滞在中であったT氏には、前日メールで12月25日の夜行列車で向かいますと伝えていたので、もしかしたら出迎えに来てくれていたら悪いと思ったからである。

 しかしその心配は杞憂であった。T氏は数日前から体調を崩しており、昼過ぎにようやくノンカイ駅に着いて、すぐに駅前のゲストハウスにT氏を訪ねたところ、ベッドに丸くなって寝込んでいたのだ。

 11月初旬に日本を出て、毎年のルートである神戸港からフェリーで上海〜陸路で中国を下って行きベトナムへ〜ハノイから国際バスでラオスのビエンチャン〜タイのノンカイと旅して来られる。

 今年はビエンチャン滞在中にミャンマービザの取得待ちで数日を要し、その時に体調を崩されたようだ。70歳を少し過ぎられているので、十分な注意が必要である。

 約2年ぶりの再会の挨拶のあとT氏は体を起こし、「前のリゾートホテルのカフェでコーヒーを飲みましょう」と僕を誘った。T氏の体調を気にしながらも、「昨日も病院へ行きましたし、まあ随分良くなってきましたから大丈夫。少し歩いたほうが良いのです」と仰るので、彼の提案に従った。

 ノンカイ駅前で「表面張力」というゲストハウスを営む松本氏も心配そうだったが、気分転換に良いかも知れず、リゾートホテルのカフェのゆったりした席に座って、二時間近くも話をした。(ここのコーヒーは20B(50円程度)と良心的で、お茶もついていて、お茶は飲み放題です)

 カフェのウエイトレスの屈託のない笑顔と、オープンカフェの横のプールの目の覚める青い水を眺めていると、長い列車の旅の疲れも一気に消え去るような気がした。
 そして、この季節は風も少しひんやりとしており、顔を撫ぜて通ると心地良い。

 T氏との会話は、今後の日本の高齢者の生き方と、太平洋戦争で亡くなった軍人以外の現地で散った悲劇の人々の慰霊についてなどだった。こういう話題を異国の地で、そこはかとなく語り合えば、コーヒーの濃厚さのように思いも深く満足感も深い。

 この時の話の内容は極めて先々のビジネスにもつながる可能性が高く、ここでは述べることはできないが、病床の身でありながら、このようなディープなテーマでご意見を熱心に語られるT氏に、僕は尊敬の念と少しの気後れと大きな希望を感じたのであった。

 さて、この日のうちにラオスの首都ビエンチャンへ入りたい僕は、一週間余りのちに再度ノンカイへ戻って来ますとT氏に告げ、ノンカイをあとにした。

 T氏は僕の制止もお聞きにならず、ボーダーまでのトゥクトゥクの料金が安くなる方法があると、駅前にたむろするトゥクトゥクの連中を無視して、少しはなれたところまで僕を誘導して1台のトゥクトゥクを止めてくれた。(20B)

 「それではまた後日」と別れを告げ、国境に向かう僕と、お馴染みの手製の杖を手にして、反対側の手で僕を見送るT氏。暑い日差しはT氏の日焼けした顔をさらに焦がす。どうか体調が早く回復しますようにと、心で強く祈る僕。

 ところがT氏とこの先、思いがけないところで再会したのであった。


第十一話 内田有紀と宮崎あおいとのトゥクトゥク


 
2009年12月26日、タイ東北部の国境の町・ノンカイで、ミャンマーへ同行予定だったT氏と二年ぶりの再会を果たし、その日のうちにラオスの首都・ビエンチャンへ向かった。

 T氏が体調を崩したことと、バンコクでのミャンマー行きエアチケット取得困難などで、今回の旅行は、実際のところミャンマー行きは断念していた。それではこの後どこへ行こうか考えていたところ、T氏から中国はいかがかとの提案を受けていたのだった。

 T氏がビエンチャンで知り合った男性の話だと、ビエンチャンと中国の昆明までの国際バスが出ていて、中国側に入れば高速道路も整っているので、一気に行けること、さらには座席もリクライニングなんていうケチなものではなく、寝台バスだというのである

 それでは今回、一度も足を踏み入れたことのない中国へ行ってみようと考えた。ただ、日程的にも、中国は中国でも、いわゆる雲南と呼ばれる地域へチョイと立ち寄る程度しか無理なのだが、ともかくビエンチャンで昆明行きのバスチケットを購入する必要がある。

 さて、もう何度目になるだろう、タイとラオスの国境越え。2007年の元旦の朝に訪れた時には、ラオスノービザ元年の年で、おそらく僕が一番乗りだったはず。

 出入国も体の自然な動きに任せるままスムーズに終え、ラオスに入国すれば早速トゥクトゥクやタクシーの呼び込みが寄ってきた。

 道路の向こう側にはローカルバスのバス発着場がある。重いバックパックを背負って行ってみると、たった今発車したところだとか。

 日射が厳しい。みるみるうちに汗が体全体から吹き出る。のどが渇く。やっぱりこの季節でもタイやラオスは暑いことを改めて実感する。

 ふと、二人のアジア人女性が話しかけてきた。「このトゥクトゥクはタラート・サオまで5000Kipで行くわよ」と言う。それならと、彼女たちとトゥクトゥクへ躊躇なく乗り込んだ。

 聞けば彼女たちはタイからラオスのビエンチャン大学へ留学しているのだとか。そしてこの日はノンカイへ買い物に来て、これから帰るとのこと、タイ人がラオスへ留学することもあるのだと、少し不思議に思う。

 今回の旅行は、ビエンチャン大学で学ぶ女性と、この先でも知り合う機会があるのだが、いずれもバスに関わる救いの手であった。

 トゥクトゥクにはこのあと、中年のオバさん2人と青年1人、その青年の妻・内田有紀と幼児二人が乗り込んできて、さらに宮崎あおいと彼女の子供も、既にギュウギュウ詰め状態にもかかわらず乗ってきた。

 これがむさ苦しい男ばかりだと苦痛であるが、留学生たちや内田有紀や宮崎あおいに囲まれているのだから、いわば天国である。自然と口元もほころぶのが自分でも分かるのであった。

 大勢の人生と命を積んだトゥクトゥクは、後部を膨らませたまま走り出した。

 幼児が3人乗っているのだから、トゥクトゥク野郎に「安全運転をしろ」と、彼の背中に大声で叫ぶ。分かっのか分かっていないのか分からないが、彼は右手を上げた。

 半年振りのビエンチャンの町並みは、わずか半年でも新しい建物や、建築中のビルや家屋が目についたり、変化が見受けられた。最初に訪れた2001年のころは、ビエンチャン市街へたどり着くまでの道程、ほぼ田畑に水牛だけしか見かけなかったのが、今となってはまるで?のようであった。


 ※ 文中の、内田有紀および宮崎あおいは、もちろんご本人ではなく、彼女たち
   に似ている女性であったということです。(当たり前だが)



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