Music:hokago ongaku


 カンチャナブリ その二

 

 GHから通りに出た角に小さな食堂があった。覗くと中年のオバちゃんが一人で店番をしていた。午後三時過ぎという中途半端な時間なので、客は一人もいない。

 カオパッドとビア・シンを注文して腰を下ろした。すると店内には、「この食堂の味は最高でオバちゃんは親切です」と日本人旅行者が書いた紙が数枚壁に貼られていた。それなら味は期待してよさそうだ。

 間もなく運ばれてきた普通のカオパッド(焼き飯です)は、濃厚な味ではあるが辛さも適度で、日本人が美味しいと絶賛するだけの味ではあった。ビールの大瓶を一本空けて満足して店を出た。

 さて、することもないので「戦場に架ける橋」を見に行くことにした。ここからの距離は、ガイドブックによれば歩いて三十分以上かかりそうだ。トゥクトゥクも走っているが、ここは頑張って街歩きをかねて歩くことにした。

 十数分歩いたところで汗がドッと噴出してきた。ヤッパリ猛暑のタイではあまり長く歩くものではない。倒れそうになったが、今更トゥクトゥクやサムローを捕まえて楽をするのも癪だ。何度も「戦場に架ける橋」と口の中でブツブツ唱えながら歩き続けた。
 緩やかなカーブを歩き終わると、視界に大勢の観光客らしい人達が見えてきた。

 ここで一応「戦場に架ける橋」について簡単に紹介したい。

 「戦場に架ける橋」(クゥエー川鉄橋)は第二次世界大戦中、日本軍が本土周辺を放ったらかして、インドシナ半島、中国南部からビルマまで攻め入った時に造られた。戦局が不利になってビルマへの海上輸送路を閉ざされてしまった日本軍は、友好関係にあったタイから泰緬鉄道の建設許可を得た。この工事には連合軍の捕虜や周辺国民を含む多くの労働者が動員され、飢えと過酷な労働、酷暑、マラリアなどの伝染病から多くの犠牲者を出したのだった。

 このような経緯があるので、カンチャナブリの人々は昔、日本人を良く思っていなかったのは無理のないことだ。日本軍は無茶なことを占領地各所で行ってきたのだ。僕は戦前の日本を考えると、いつも思想・教育というものの重要性・危険性を痛感する。

 大勢の人がたむろしているところに着くと、左側に鉄橋が見えた。鉄橋だから鉄製だが、それを囲んでいるものは木製だ。

 この鉄橋を通る列車は数時間に一本なので、観光客は鉄橋を渡って途中で写真撮影などを行い、何とものどかな雰囲気だ。しかし、ここからの眺めは本当に素晴らしい。川の向こうには豊富な森林が形成され、川べりから突き出た水上レストランが洒落ていて、大勢の観光客でにぎわっていた。

 僕も高所恐怖症であることを忘れて、鉄橋を渡って四分の一ほど歩いてみた。下を見るとヤッパリ足がすくむ。枕木の隙間から落ちると一巻の終わりだろう。よく皆怖くないものだなと感心するが、急いで引き返した。

 「戦場に架ける橋」とそこからの景色は素晴らしかった。でも、それだけのような気がした。近くに戦争博物館や犠牲者の霊を祭った碑があるらしいが、僕はもう十分な気持ちになって宿に向かって再び歩き出した。


 カンチャナブリ その三

 

 「戦場に架ける橋」に納得してから、来た道を再び歩いて三十分以上もかけて宿に戻った。すぐに水シャワーで汗を流してさっぱりした。ところがさて、何もすることがない。夕刻だがまだ晩御飯には早過ぎるし、お腹も空いていない。

 やむなく再び散歩に出た。

 通りを少し市街地方面に戻ると一軒のネットカフェがあった。入るとエアコンが強烈に効いていてすこぶる快適だ。おそらく外との温度差は十度以上あるだろう。

 メールをチェックして自分のHPを見ると、アレレ?キチンと表示されない。なぜだろうと思ったら、インターネット・エクスプローラーではなくネットスケープだからだ。

 再び外に出てウロウロするが、のんびりした街並みでサムローやトゥクトゥクも誰も話しかけてこず、アユタヤと随分違いがあることに拍子抜けする。そこそこ大きな町なのだが、人々はあまり観光客に擦れていないのかもしれない。

 観光客自体が多くないし、日本人旅行者にいたっては一人も見かけない。日本ではお盆が終わったので、バンコクに近いこの観光地は繁忙期を過ぎたのだろう。

 どうも僕には少し違和感を覚える町で、ここに二泊する予定をしていたがちょっと気持ちが変わってきた。

 一時間ほど街歩きをして宿に戻った。時刻は午後七時前だ。バンガローにも宵闇が迫ってきて、カンチャナブリの夜が始まった。

 本当に何もすることがないので、川に突き出ている宿の桟敷レストランで食事をすることにした。最も川側の席につくとすぐに宿の女の子が注文を聞きにきた。

 この宿は欧米人の宿泊客が多いようで、料理のメニューはバラエティーに富んでいた。昼食にチャーハンを食べたのでヌードルスープウイズポークとイタリアンサラダ、それにシンハビールを注文した。

 運ばれてきたイタリアンサラダは大きな皿に一杯盛り付けられていた。食べきれないくらいの野菜だが、数日前に体調が悪かったことを考えるとちょうど良い。

 クゥエー川を見ながら食事をしていると、どうも心寂しくなってきた。周りを窺うと一人で食事をしている欧米人はいない。若いカップル、中年夫婦、女性同士など、会話をしながら食事を楽しんでいた。

 これまでの旅で、たった一人で夕食を摂るのは初めての経験だ。朝食や昼食を簡単に一人で済ませることはあっても、一人の夕食は本当に初めてだと気がついた。

 しかし旅は基本的に一人であると、僕はこれまで何度も言ってきたはずだ。そういう考えであっても、たまたまこれまでは偶然滞在先で日本人旅行者と知り合い、夕食を一緒に食べ続けていただけなのだ。今更基本に戻ったのに心寂しいとは、自分自身の弱気に腹が立ってきた。

 僕は何かに挑戦するように大盛りサラダを一気に食べ切り、ヌードルスープのスープまで全部飲み干して部屋に戻った。今夜は早く寝て明日から気持ちを切り替えよう。

 蚊帳の中に入ってしばらく本を読んでいたら、満腹感もあって急に睡魔が襲ってきた。知らないうちに電気をつけたまま眠ってしまった。目が覚めるとまだ午後十時過ぎだった。窓からレストランを覗くと、まだ欧米人数人がビールを飲みながら楽しそうに話していた。

 僕は電気を消して再び寝た。明日は移動しよう。


 カンチャナブリ その四

 旅の七日目。朝早く起きてチェックアウトする前にもう一度カンチャナブリの街歩きに出た。

 市の中心部方向へ歩いて行くと、大勢の人が集まって何やら賑やかそうだと思って近づくと朝市だった。これぞアジアのごった返し。どこの町で必ず見かける風景。

 人々をかき分けて市場を抜けると大通りに出た。向こうにバスターミナルに通じる道が見えた。昨日は感じなかったが、かなり大きな町のようだ。銀行や商店、オフィスビルが立ち並び、全面道路は片側二車線の広いものだ。

 通りを向こうに渡ったところで前から歩いてきた女性にTATの場所を聞いた。彼女は普通のOL風で、僕のへたくそ英語を理解したのか、この道を少し歩いて左側に見えると教えてくれた。要するにバスターミナルからはすぐのところに所在していたのだった。

 しっかりした門構えをくぐりTATに入って行くと、カウンターの向こうに若い女性が座っていた。

 「地図をください」と言うと、ニコリと微笑んですぐに手渡してくれた。他に何か質問はないかと言うので、「あなたはボーイフレンドがいますか?」と聞きたかったが、グッとその気持ちをこらえて丁寧に礼を言って外に出た。

 しかし日差しが強烈になってきた。どうして僕の旅の期間はこのように快晴が続くのだろう。

 せっかくもらったカンチャナブリの案内地図を利用する気持ちになれずに、足は自然と宿の方向へと戻ってしまった。どうも今回の旅は積極性に欠ける。

 Hさんとバンコクで会って、ワットファウロンワという怪しげな寺院を訪問し、ヒッチハイクも経験、さらにタイマッサージを受けてから夜遅くまで飲食したことで、今回のエネルギーは使ってしまったのか?

 それとも体調が今ひとつで、ようやくアユタヤに移動してカンチャナブリへ来たものの、一緒に食事をする相手に恵まれなかったことが少なからず影響しているのかもしれない。簡単に言うと気持ちが腑抜けてしまっているということだ。

 しかしこんな状態でも食欲は衰えない。宿に戻って朝食をとることにした。桟敷レストランでは既に欧米人が数組食事をしていた。

 ホットコーヒーとアメリカンブレックファーストを注文した。運ばれてきたものは、目玉焼きが二つとベーコン、少しのサラダに小さなトーストが二枚だ。

 今日はこれからバンコクへバスで戻ろう。バンコクでやっぱりのんびりと過ごして体調を整えよう。

 このような意気消沈に近い旅が続いていたが、ここから先がこの旅行記のテーマとなる「意外展開」が待っているのでした。

 まあ、ワットファウロンワへ行くのに、おかしな寺院でおろされてヒッチハイクを経験したのも意外だったけど、僕としてはこれからが思いがけないことがあった。


 カオサンへ 

 今回の旅は実はある事情で出発前から体調が悪かった。この事情は残念ながら述べることはできないが、ちょっとした僕の不注意からもらったものだった。

 もらったと言っても何か品物をいただいたわけではない。勘の良い男性なら、もう気がついていらっしゃるからもいつと思うが、それはそれは大変だった。

 ところが、両親から生来の強靭な体をもらった僕は、これを医者にかかることなく治してしまったのだ。バンコクに到着してヨレヨレだったが、Hさんと偶然会ったことで歩き方もシャンとした。そして翌日にはバンコク郊外までわけの分からないお寺を見に行って、挙句はヒッチハイクまで経験してしまったのだった。

 Hさんと過ごした間の極度の緊張は、病原菌を一時的に追っ払ったようだった。ところがHさんが帰国するや否や、またもや歩くこともママならない状態に陥り、もう一日バンコクのホテルで倒れこんでいたのは、この旅行記の最初の辺りをお読みいただければお分かりと思う。

 考えれば、Hさんと酩酊するほど酒を飲んだこともいけなかった。この病気というかこの厄介なものはアルコールがダメなのだ。アルコールを飲むと治りかけているものもぶり返す。

 それでも翌日、まあ何とかアユタヤにたどり着いた時には俄然体調が良くなり、炎天下の中を歩き回ったものだ。ところがカンチャナブリは僕をまた落ち込ませた。肉体的には問題がなくなったが、精神的にどうも一人でずっといたことがいけなかったようだ。(情けないなぁ)

 ともかくカンチャナブリをあとにしてバンコクにバスで向かった。カンチャナブリは何年か後にもう一度ゆっくり訪ねてみようと思った。

 バンコクまではエアコンバスで約二時間あまりだ。スイスイと平坦道路をバスは飛ばし、午後二時過ぎには南バスターミナルに到着した。

 サーヤム辺りの宿はやめて、カオサンであとの三日間を過ごそうと思ってタクシーで行くことにした。重いザックを背にタクシー乗り場に行こうとすると男性が近づいてきて、「どこまで行くのか?チープタクシーだ」などと言う。

 いくらだと聞くと二百バーツだと言う。無視して青いメータータクシーの方へ行き、キチンとメーターを倒すのを確認して出発だ。くれぐれもメータータクシー以外のタクシーに乗ってはいけないと念のため申し添えたい。

 メータータクシーは二十分も走るとバックパッカーの交差点、カオサンロードに到着した。ここでは、このクソ暑いのにインドの北部からチベット辺りをチャリンコで走っている旅仲間と会うことになっていて、彼は「トラベラーズロッジ」というドミトリーに泊まると言っていたが、僕はさしあたりエアコン付きのNanaホテルにチェックインをした。(一泊四百バーツ)

 シャワーを浴びてカオサン散策だ。

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