トラベラーズロッジ Nanaホテルは、おそらくバックパッカーを自負している者にとっては無縁の宿だろう。 しかし僕は中年だし、そのような偏向性を感じる考え方は、心の小さい典型的日本人的思考だ。 言葉が分からなくても、画面の展開を見ているだけでストーリーは大体把握できるし、何しろタイ美女とタイのイケメン男とが演じているのだからそれだけでも興味がある。ただ、おそらくこのような物語は、タイの中流以上、いや金持層を舞台にしていると思うので、これが一般家庭の様子だと判断してはいけない。 ホテルを出てカオサンのメインストリートをお寺の方向に歩き、手持ちのお金が乏しいのでATMで三千バーツ引き出した。 一応どんな宿かちょっと寄ってみることにした。 「ベッドは空いていますか?」 「そうですね、今のところ四階と五階が一つずつ空いてます」 僕はそばの魅力にあっけなく陥落し、明日この宿に移動することにした。すぐにざるそばとビールを注文して、ここで夕食にしたことは言うまでもない。 |
翌日、僕はNanaホテルをチェックアウトして、前日「ざるそば」の魅力からベッドを予約していたトラベラーズロッジへ移動した。四階には二段ベッドが八床、全十六人を収容できる。僕は真ん中辺りの下段を与えられた。 シーツは清潔だしクッションも硬めでちょうど良い。ベッドの上にザックを置いてから、さて周りを見渡すと、ベッドの上に荷物を置いている者は出かけており、ベッドにいる者はいびきをかいて眠っていた。もうお昼近くだというのに、彼等は一体何時から眠り始めたのだろう。 暇だから映画でも見に行くことにした。大通りに出てバス停で待った。バンコクではバスをうまく乗ることができると随分と移動費が節約できる。いつも短期の旅なので、時間が勿体無いと、移動はもっぱらタクシーを利用しているが、今日は特に何も予定がないからバスに乗ってみることにしたのだ。 間もなく47番の赤いバスが到着した。乗り込むと、中年の車掌さんが空いている席を指差してくれた。アルミでできた丸い筒のような物をカラカラと鳴らしながら料金を集めに来た。いくらかと聞くと、何と3.5バーツだ。十円ほどのバス賃なのだから、勿論エアコンなど付いているはずはない。しかし僕は周りのバンコクの人々と同じように最も安いバスに乗っていることが、何だか嬉しい気持ちになってきた。 旅行者なのだから、現地の人の庶民の交通機関を利用しないで、タクシーやその他の手段で移動することを受け入れる国側は望むかもしれないが、それはお金のある旅行者に任せておけば良い。 我々のようにあまりお金を遣わずに、安宿に泊まり、安い交通機関を利用して移動する旅行者ばかりだと困るとは思うが、このような庶民の足を利用することで、少しはその国の日常に触れることが出来るような気がするのだ。 道路はそれほど混んでおらず、三十分もしないうちにマーブンクロンの辺りに到着した。エアコンのよく効いた建物に入り、エスカレーターで上がって行く。いつも思うのだが、このマーブンクロンの建築構造は、ちょっと危ないような気がする。エスカレーターのある部分の片側が吹き抜けなのだ。それに全体的に吹き抜け部分があまりにも多いような気がするのは僕だけではないと思うのだ。日本にこんな建造物はないだろう。大きな地震に見舞われたら大惨事になってしまう構造だと思う。 そんなことを考えながら映画のフロアに着いた。現在上映しているメニューを見ると、いくつかある中で僕は「メンインブラックU」(MIBU)を選んだ。この映画はウイル・スミス演じるMIBのエリート捜査官が、相棒と協力して地球を救うという、単純というか何というか、ともかくエンターテイメントとしてはハイレベルの作品である。 ここでは全席指定で、チケット料金が七十バーツである。二百円ほどでロードショーを鑑賞できるということだけでもバンコクに来る意義があるような気がしてしまう。ただ映画は当然英語で、字幕はタイ語だから、エンターテイメント以外の映画だとちょっとストーリーが分からないかもしれない。 南極のように(行ったことはないが)猛烈にエアコンが効いた館内で、冷凍状態になりながら映画を楽しんだあと、行きと同じノンエアコンのバスでカオサンへ戻った。映画はまあまあ面白くて満足した。 宿の自分のベッドに戻ると、僕のベッドの向かい側に、顔全体に髭を伸ばして長髪を後ろでくくった男性がいた。 お互いに挨拶を交わし、夕食をご一緒することになった。この男性があとで分かるのだが、ノンフィクション作家の大倉直(オオクラチョク)さんだった。 |
先ず大倉直氏について少し触れたいと思う。 彼は知る人ぞ知る、知らない人は全く知らない、かの「メキシコホテル」(サブタイトル:ペンションアミーゴの旅人たち、発行:旅行人、定価:1700円)の作者です。要するにバックパッカーは知っているが、旅に興味のない人は知らないということだね。 年令はおそらく三十六歳位(曖昧ですみません)、大卒後就職をせずにネパールなどを旅した話をまとめた「あてはないけど旅に出る」(近代文芸社)で出版デビューし、1996年に「メキシコホテル」、2001年に「暇な男は北で遊ぶー北海道移住記」(愛育社)と出版、現在、一年の海外の旅の取材を経て、新作を執筆中である。 その他にも、下川裕治さんを中心として出版された「沖縄ナンクル読本」や「アジア大バザール」などにも寄稿しており、人間を穏やかな視点で書く作家だと僕は思っている。(どうぞ一度お読みいただければと思います) さて、大倉直氏との出会いは僕にとって非常に大きなことだった。それはこれから述べるが、ドミトリーで出会った僕は、お互いベッドに腰をかけた形で、自己紹介から始めて様々な話をした。 といっても、彼はやはり人の話を聞くのが仕事なので、殆ど僕一人がペラペラ喋っていた。ノンフィクション作家は取材が基本なので、知らないうちに彼のペースに嵌ってしまっていたわけである。 僕の職業が探偵であると言うと、彼はベッドからお尻が落ちそうになるほど身を乗り出してきた。十年も探偵をやっていると言えば、何か面白いエピソードはなかったか、驚くような調査はなかったかなどを聞いてきた。 僕は調子乗りだから、興味深く聞かれれば立て板に水のごとく喋る。 「そりゃあ、いろいろな案件がありましたよ。感動的なものや、愕然としたものや、意外な方向に調査が発展することもありましたよ」 彼は、「それから?」「それで・・・」などと言葉を挟みながら、僕の話を食い入るように聞くのだった。 この時僕はいつか本を出したいと思っていた。しかし、メールマガジンを何誌か発行していたが、一体どういうものを最初に原稿としてまとめるべきか、そこまでは分からなかった。 旅行記を出版社に持ち込んでも、長期旅行で多くの国のドキュメントタッチを描いていたり、卓越した文章力があれば別だが、おそらくボツになるのは目に見えていた。 金融関係のものは、物語としてどういう方向にまとめれば良いか、この時はまだ決まっていなかった。そして探偵物は、様々な案件をメルマガで書いてきたが、どういうものを出版社が求めるかが分からなかったし、短編ばかりが本になるとはこの時思っていなかった。 そんな折、旅先での大倉直氏との出会い。彼は僕の話を一通り聞いてから、こう言った。 「もしよければ、そのお話を僕に書かせていただけませんか?」 |
大倉直さんは僕が話した調査の案件ネタをよければ書かせて欲しいという。そればかりではない、実は、この頃僕はある女性に自分の将来をナビゲートされていたのだが、このことも彼の巧妙な話の引き出し術によってペラペラ喋っていて、それも興味があるから僕が書かなかったら書きたいと言った。 勿論、その時の成り行きでそう言ったのかも知れないが、僕は彼に「そんなに面白いネタですか?じゃあ、僕が書いてみて、どうしても本になりそうになかったらお願いします」ということで落ち着いた。 その後ネットカフェで時間を潰し、夜になったので直さんと食事に出た。数日前に立ち寄ったバーではちょっとした料理も出してくれるし、一応メコンウイスキーのボトルがまだ残っているのでそこでも良いかと聞いてきたが、勿論異論はない。 僕達はワット・チャナソンクラムの境内を抜けて、チャオプラヤ川との間にある通りに出た。この辺りにもたくさんの安宿や飲食店があり、カオサンのメインストリートに比べて随分と静かである。通りには欧米風レストランが多く、僕達はその中で小さな入口のバーに入った。すぐに店員が愛想良く奥のテーブル席に案内した。 「ここは昨夜一人で飲みに来たのですよ。彼らにも少しお酒を飲ませたので愛想が良いのでしょう」 大倉さんはこの年の五月に日本を出て、一年間の予定で海外に住む日本人の生活を取材しているということで、中国からインドシナを経て一週間ほど前にバンコクに着いたらしい。この先インドからトルコを経てヨーロッパ、さらにアメリカからメキシコ、最後は南米のアルゼンチンと取材旅行を続ける予定と語っていた。カオサンではインドヴィザを申請している関係で、もう少し滞在することになったとか。 彼はこのトラベラーズロッジに長期滞在している連中のことも、それぞれに話を聞いてみると興味深い旅行者もいると、やはり作家らしく大きな心で観察をしていた。 僕達は野菜炒めのようなものとトムヤンクン、そしてナッツを注文してメコンウイスキーを飲んだ。彼は穏やかな人柄で、自分のことをあまり語らず、かといって黙るわけではなく相手の話をよく聞くから、きっと友人知人が多いのではないかと推測する。 彼が昨夜残していたメコンウイスキーのボトルを空にして、さらにもう一本追加して水割りで飲んだ。僕はこのカオサンで彼と出会ったことがとても嬉しくなってきた。 昨年春のラオス旅行では、山岳の田舎町・ワンヴィエンで旅行作家の岡崎大五氏とGHの部屋が隣り合わせになり、多くを語り酒を飲んだ。そして今年はバックパッカーのメッカといわれるカオサンで大倉直氏とこのように話をする機会を得た。 これは偶然だろうか? 二人はいずれも、「僕はいつか本を出したいと思っています。どうすれば出せますか?」との僕の問いに対し、「出版は運とコネですね」と言っていた。 「でも諦めずに原稿を出版社に送ってみることです」ともアドバイスをくれた。 そしてこの大倉直氏との出会いから僅か半年余り後に、僕は「探偵手帳」というわけの分からない怪しげな本を幸運にも出版することができたのだった。 |
大倉直さんと深夜まで飲み、かなり酔っ払ってその夜はゲストハウスのベッドに倒れこんだ。 相変わらずカオサンは明け方三時頃までドンチャンドンチャン音楽が鳴り響き、酩酊の僕でも朝まで何度も目が覚めた。隣のベッドを見ると、大倉さんも背中を丸めて寝苦しそうに唸っていた。 翌日九時過ぎに目が覚めると、大倉さんはベッドにいなかった。そういえば今日はタイで有名なチェラロンコーン大学を卒業して、現地の人と結婚した日本人女性の取材の予定があると言っていた。 少し頭痛のする重い体を何とか起こして、ドミトリーの隅にある洗面所で歯を磨いていたら、上階から宿泊客が降りてきた。どこかで見た憶えのある顔だなと思っていたら、「あ、どうもPeroさん」と彼が言った。(僕は旅関係の友人知人からはPeroと呼ばれているのです) 小柄で人懐っこいその顔はS君だった。旅関係のオフ会で何度か話をしたことがある三十過ぎの青年である。 彼の旅はいつも何かテーマがあって、訪問国の一般的な観光地を訪れるのではなく、そのテーマに沿った場所を旅する。従って、今回もカンボジアを訪問したのだが、アンコールワットのあるシェムリアップには行かずに、西端に位置するパイリンという町を旅したのだった。 パイリンはタイとの国境に近く、かつてはポル・ポトの最大拠点だった。ルビーが埋蔵されていることでも有名で、二十年続いた内戦後は、カンボジアの各地からこのルビーを採掘するために多くの人がやって来るという。 いずれも一攫千金を求めてルビー掘りに来るわけで、シドニーシェルダンの「ゲームの達人」を思い起こすようなことが、このパイリンで行われているらしい。南アフリカとカンボジア、ダイヤモンドとルビーの違いこそあれ、新天地に夢を求めるという点では同じだ。 歯を磨いていた僕は慌てて口をすすぎ、「あれ?S君、いつカンボジアから帰ってきたの?」と聞いた。 「昨夜着いたのです。雨でかなり道路が悪かったですよ。Peroさんはいつからカオサンにいるのですか?」 僕は今回の体調不良からのだらしない旅を少し説明し、そして大倉直さんと昨夜飲んだことを話した。すると彼は大倉さんの作品は読んだことがあるという。「ペンションアミーゴ・メキシコホテル」は旅行者の間で結構有名らしい。 「U君も今日デリーから到着するはずだけどね」 このS君ともう一人U君といって、同じ旅関係の知り合いで、今回ラダックをチャリンコで駆け巡るというエキサイティングでハードランディングな旅を敢行した若者がいるのだ。 |
トラベラーズロッジで会ったS君も、この日インドからバンコク入りしてこの宿に来る予定のU君も、僕と同じ大阪に住んでいる。S君はこの日の夜便で帰国するとのことで、昼は土産物などの買い物に出かけると言う。 この日は土曜日で、ウイークエンドマーケットが開かれているので僕もたまには土産物らしいものを買おうと思って出かけた。バスでBTSの最寄りの駅まで行き、モーチット駅で下車、徒歩五分あまりのところにこの広大な市場は所在している。 余談ですが、今年の七月に完結した僕のメルマガで、前年のゴールデンウイークにラオスなどへ旅した「灼熱ラオスちょこっとタイランド」というのがあり、ラストシーンにこのウイークエンドマーケットが出てきます。そこではラオス旅行以来の付き合いがあるN君とHさんとで、このウイークエンドマーケットに買い物に来ていたのだが、あいにくの大雨で、もう一泊する二人にサヨナラをして寂しくタクシーで空港に向かう感動的な僕の姿が描かれていましたね。(笑) → 「N君、Hさん。雨はやみそうにないし、僕は早めに空港へ行くよ。また日本で会いましょう」 「そうですね。じゃあまた」 二人の言葉を背に受けて、僕は降り続く雨の中を視界に写っている青いタクシーめがけて走ったのだった。 ※ ウイークエンドマーケット(こんなところです。リンクフリーサイトからお借りしました) → http://thai.cside.tv/gallery/list.php?catid=weekendmarket&pid=1 今回はその時と打って変わってのカンカン照りで、できるだけ屋外に出ないように迷路のような広大な市場内を歩き回った。二時間ほどで土産物のお決まりのTシャツ数枚とタイシルク布などを買い、市場内のレストランで激辛カレーを食べてビールを飲み、カッカカッカと体を火照らせながら午後三時過ぎに宿に戻った。 四階のドミトリーに上がろうと思ったら、三階のミーティングルームのようなところにU君がへたり込んでいた。数ヶ月前に大阪で会った時に比べて顔が半分くらいに細くなっており、目は落ち窪み、半パンから覗いた足はところどころ傷だらけで赤チンが痛々しく、さらに顔と体全体がインド人のように真っ黒だ。やはりインド帰りはこういうふうに痛めつけられるのだろうか? 彼の場合はインドといっても北部のラダックからチベット間の旅行だったのだが、詳しい内容はともかくとして、死ぬか生きるかのハードなチャリンコの旅だったそうな・・・。 U君が発行しているメールマガジンは下記から登録してください。タイトルは「ラダック〜チャリンコ記〜」です。 http://www.mag2.com/m/0000108253.htm 「U君、どうしたの?その顔」 「ああ、Peroさん、さっき着いたのですわ。ドミのベッドがまだ空かないので、ここで待機しているのですよ」 そう言った彼だが、目は五分の四ほど閉じており、明らかに睡眠不足か極度の疲労のようだった。 「ともかく疲れているようだからちょっと寝たらいいよ」 そう言って四階の自分のベッドに買ってきたものを置き、僕も少し体を休めた。大倉直さんはまだ帰ってきていなかった。 |
目が覚めると辺りは少し薄暗くなっていた。大倉さんはまだ戻ってきておらず、U君がようやくインドの疲れが少し取れたようで自分のベッドに座っていた。今夜はS君が帰国するので、三人で少し早い時間に夕食を食べることとなった。 寺院の中を抜けて、昨夜大倉さんと飲んだバーの辺りの小さなレストランに入った。窓際のテーブル席に座り三人のカオサンミニオフ会という感じだ。 適当に辛い系の野菜炒めやチャーハン類を、そしてやはりトムヤンクンを注文した。S君はなんでもすることが早く、カオサンに入った時に今回訪れたカンボジアのパイリンなどで写したフィルムを現像に出していて、それが先ほどでき上がったのでみせてもらいながらビールを飲んだ。 短期の旅も終わりになると、少しホッとするような帰りたくないような気持ちが交差する。長期旅行の経験がない僕は、長期だと普段どういう気持ちで旅をするのか分からない。分からないから一度経験してみたいのだが、種々事情で一向に実現ができないでいる。 二ヶ月ほどのんびりと中国からベトナムに下り、カンボジアから一旦タイに入り、バンコクで少し休憩してから再び北上してラオス、ラオスをグングン北に上がり、少数民族を訪ねて満足して再び下り、メコンを渡ってタイに戻り、チェンマイで旅の残りを過ごす、という現在の僕の旅力(こういうものの計測が可能かどうか分からないが)からすれば最適の経路なのだが、果たしていつ実現できるのだろう。 そしてその二ヶ月間の旅の途中、僕はどのようなことを考え、どのような精神状態になるのだろう。これは興味深い。こんどN君と会ったら是非聞いてみよう。彼は今夏、インド〜ネパールを一ヵ月半くらい旅しているから。 世界の三大スープと賞味されるトムヤンクンは、「トムヤム」はスープという意味で、そこに「クン」が入るわけである。「クン」とはえびということだが、「クン」はさておき、僕はこのトムヤンクンのスープには参っている。甘い、辛い(関東の人はしょっぱいというのかな)、酸っぱい、苦い、という味覚のなかで、辛くて酸っぱいという味覚が最も酒にあうと思うから、特にビールにトムヤンクンは僕としてはなかなか幸せな気分になる。 僕はあまり食べ物の美味しい不味いの差がなくて、よっぽどひどい味でない限りは「うまいうまい」と言って何でも美味しく食べてしまうという、料理人にとっては存在してほしくない人間なのである。これはおそらく団塊世代とまではいかなくとも、その少しあとで生まれたことで、味よりも何でも腹いっぱい食べられたら幸せという食生活で成育したことに大きな原因があると思われるが、いまさらそれをどうのこうの言っても仕方がない。 さて、S君やU君とはアジアオフ会という怪しげな集まで知り合ったのだが、このように三人で顔をつき合わせて酒を飲むというスタイルは初めてで、しかも日本を離れてバックパッカーのメッカといわれるカオサンで酒を飲んでいるのだから、やはりこのあと帰国してからグッと親しい関係になり、おっさんの僕としては彼らのような若者から得るところも多く、そういう意味ではとても有意義だった。(長い文章だな(^_^;)) それぞれが旅の報告をしながら飲む酒もまた楽しい。自然とビールの本数も増えていった。 |
S君は旅の土産のひとつに「三角枕」を買った。僕もこの三角枕はラオスのドミトリーのミーティングルームに置いてあったのを使ったことがあり、前からほしいと思っている代物である。 三角枕 → http://laurier.55web.jp/makura3.php (タイで買えばずいぶん安いです) ただこの枕をお土産に持って帰ることが面倒なんだ。かなり大きいものなのでバックパックに入らない。手持ちするには恥ずかしい。さりとて何か袋に入れて手荷物というのも、その形状的に持ちにくい、などの理由からこれまで買って帰らなかった。 しかしS君は僕が抱いていた懸念などあざ笑うかのように「ちょっと三角枕買ってきます」とすんなり言って、そしてすんなり大きなビニール袋に入れてもらって買ってきた。彼もそうだが同様にU君もラダックを駆け巡ったチャリンコを日本から運び、帰国の際は関空で受け取って、朝の通勤ラッシュアワーにそのチャリンコを電車に持ち込んで家に帰った、というツワモノである。 共通することは周りのことにくだらない気遣いをしていないということなんだ。人間はくだらない気遣いをしすぎる。僕は去年それであれこれ悩んだものだ。こちらが悩むほど相手は気にもしていないのが現実なんだよ。 まあ話はかなり脱線してしまったが、S君は僕たちと食事のあとその三角枕の入ったゴミ袋のようなビニールを手に持ち、「それじゃあ、また」と言って、日本に向かって帰って行った。僕とU君とはその夜遅くまでネットカフェにいたが、彼は旅の疲労が激しく、キーボードを叩きながら寝てしまうという状態だった。 翌日は僕の帰国日だ。朝起きる大倉さんがすでに起きていてベッドに座っていた。昨夜は初めて旅に出てカオサンに来ていた大学生を飲みに連れて行ったとのことだった。彼の分け隔てない優しさがここにも窺えた。 屋台でのカオマンガイの朝食のあと、U君とマッサージに行った。マルコポーロGHの隣にあるマッサージ屋で、なかなか老舗の店らしいが今は改築されて階上のGHとともにきれいになっているらしい。 最後の日はあっという間に過ぎた。夕食は宿の並びにあるイスラエル料理店に行こうということになり、U君と大倉さんと僕の三人で少し早めの時間に入った。 店内は四人がけテーブルが八卓ほどで、早くも欧米人でほぼ満員状態だった。メニューを見たが、さてどんな料理かさっぱり分からない。「レッドライス」というのがあったので注文、そしてサラダにサンドイッチなどを頼みビールを飲んだ。 イスラエル料理は意外にもトマトをたくさん使った料理だった。レッドライスは「赤」の印象とは違ってあまり辛くはなかった。三人で旅の話を淡々と交わし、楽しい夕食だった。 宿に戻ってパッキングをすませて、大倉さんとUさんに見送られ、「それじゃあ、また」と僕も言ってタクシーに乗り込んだ。 今回の旅は本当に意外なことが多かった。初日に国立競技場のコンビニで、ラオス以来の付き合いがあるHサンと遭遇。普通なら一週間以上通院しなければならない男だけの病を、バンコクに来て自力で三日で治した。アユタヤのGHで中島みゆきさんと遭遇、宿のご主人・南こうせつさんにも親切にしてもらった。カンチャナブリへのバスで僕を気遣ってくれた少年。そして大倉直氏との出会い。 短期であれ長期であれ、これだからやっぱり旅は面白い。 - 完 - |