Music:hokago ongaku


 遺跡めぐり

 ワット・ロカヤスタは寝釈迦像である。

 宿の近くからトゥクトゥクに乗って、距離的には四キロメートル程の位置に所在している。到着した所は普通の住宅街を抜けたところで、いきなり腕を顔にあてて寝ている大きな仏像が現れた。

 僕は予定通り四十バーツを支払ったが、トゥクトゥクのオヤジさんはその金額には不満を示さなかったものの、このあと別の寺院にも連れて行ってやるというのだ。僕は歩いて回るからとそれを丁寧に断り、ようやく彼は納得して帰って行った。

 ワット・ロカヤスタ自体は何てことのない寺院だ。寝仏像の写真を数枚撮って、すぐに引き揚げた。

 次にワット・プラ・シーサンペットに行こうと思って、地図を見て南方向に歩き始めた。すぐに住宅街に入った。この住宅街は、日本でも昔あちこちにあった平家造りの公営住宅のような印象を受けた。

 住宅街をどんどん歩くが、目的とする寺院らしき建物が見えてこない。住宅は日本のように塀で囲まれているものは殆どなく、外から家の庭などがよく見える。バンダナ頭の僕の姿を見て、一瞬怪訝そうな顔をするが、すぐにやや微笑んだような顔に変わって行く。旅行者にとっては危険を全然感じない町である。

 ところがどんどん歩いても一向に寺院が見えない。ちょうどよろず屋のような店があったので中に入ってみると、中年の女性が店番をしていた。

 「ワット・プラ・シーサンペットはどの方向ですか?」と僕は聞いてみた。

 しかし彼女は英語が分からないようだった。寺院の名前もタイ語ではきっとかなり発音が違うのだろう。「ワット・プラ・シーサンペット!」と何度か言ってみたが分からないようだった。礼を言って店を出た。

 今度は来た道を少し戻って右に折れてみた。するとしばらくして舗装工事中の比較的広い通りに出た。注意をしながら歩いた。十分程歩くと右側に公園が見えてきた。それに大きな池もある。

 近づいてみるとそこはエレファント・キャンプだった。七、八頭の象がいてその背中に乗って公園を一周してくれるのだ。勿論一人で乗るのではなく、象使いが同乗してくれるから安全だ。

 バスで乗り入れて来たツアー客がたくさん順番待ちをしていた。日本人も混じっている。

 僕はしばらくその光景を眺めていたが、象に乗る気はなく、寺院の方向に公園内を歩いた。

 池を渡るとヴィハーン・プラ・モンコン・ポピットという、タイ最大の青銅仏の一つが安置されている寺院にぶつかった。本堂もかなり立派だが、これもビルマ(ミャンマー)軍に破壊されたあと、一九五六年に復元されたものらしい。

 この寺院の隣がワット・プラ・シーサンペットである。

 入り口で二十バーツを支払って中に入った。しかし中は昨日訪れたワット・ラーチャプラナと同じように、破壊された建造物が大規模に並んでいるだけだった。よくまあこれだけ破壊し尽くしたものだと思う。

 三十分程回ってからそこを出て宿の方向に歩き出した。暑くてかなりグロッキー状態だ。ビールが飲みたくなってきた。

 宿への直線道路にかかる角に一軒のカフェがあり、看板に何とアサヒスーパードライの写真が掛かっていた。躊躇なくその店に飛び込んだ。

 そこはちょっと洒落たオープンレストランになっていた。テーブルに着くとすぐに青年が注文を聞きに来た。

 「アサヒスーパードライ冷えているかな?」と英語で聞いてみたら、その青年は日本語で「勿論よく冷えてますよ」と答えるのだった。

 僕はサラダとカオパッドを注文し、すぐに運ばれてきたアサヒスーパードライをグラスに注いで一気に飲んだ。日本のものとは少しだけ味が違うような気がしたが、なかなか美味しい。ラベルが銀色ではなくて緑色だったが、聞けばこのビールはタイ国内のアサヒビールの工場で製造されているとのことだ。

 青年は気さくに僕に日本語で話しかけてきた。

 「日本語が上手だね」と言うと、「ありがとうございます。僕の彼女は日本人です。大阪に住んでいます。百貨店に勤めているらしいです。来月またアユタヤに来る予定です。もうかりまっか、あきまへん、ぼちぼちでんな」と一気に言うのだ。

 僕はこてこての大阪弁を聞いて、飲んでいたビールを吹き出してしまった。


 たくましい日本人女性

 アサヒスーパードライの看板に誘われて立ち寄ったカフェのウエイターは、日本人のガールフレンドがいるというだけあって、日本語がとても上手だった。

 彼は僕に料理を運んできたあとも、店内には他に一組の欧米人カップルがいるだけだったので、僕のテーブル近くをずっと離れずに話を続けていた。

 聞くと、その日本人ガールフレンドは二十五才で、大阪で一人暮らしを送り、年に三回程度はアユタヤへ彼に会いに来るらしい。滞在期間中は彼の家でその女性は過ごすらしい。

 彼は小柄な細身の体躯で、ズボンのベルトや手首にアクセサリーをたくさん身につけて、どう見ても二十代半ばなのだが、何と三十六才だという。

 この年まで独身でいることは結構好き勝手な生き方をしてきたに違いないが、確かに愛想が良く容貌もまあまあハンサムな部類に入るだろう。それに僕に対してもこのような物腰なのだから、女性に対してははるかに親切で下僕のごとく接していると思われる。

 ともかくここでも日本人女性が海外で大活躍をしていらっしゃることが窺えた。

 旅先で日本人女性はいたるところでチヤホヤされるらしいので、日本では殆ど男性の目にかからないような方でも、その絶大なるエスコート振りに感激し、何度も海外を訪れ、現地の男性と恋仲になることは自然なことかもしれない。

 この数日後、バンコクのカオサンでマッサージに訪れた際、僕を担当してくれた十九才の男性が、「僕には日本人のガールフレンドがいます。もうすぐ休みを取ってこちらに来てくれます」と聞いた時には、どういうわけか少し気分が悪くなってしまった。

 僕の場合、いつも日本人女性が旅先の現地男性とよろしくやっていらっしゃる話を聞くと、我が国が戦争で負けたような気分になってしまう。勿論実際に経験はないのだが、どう説明すれば適当かというと、他国の男に我が国の女性を寝取られたという感覚に近いものかもしれない。

 それは心の狭い、グローバルな現代に会っては嘲笑されるような感情だとは思うが、何故かそう感じてしまうのだった。

 さて、お腹も一杯になり、昼間から大瓶一本のビールを飲んだことで、ホロ酔い加減で店を出た。相変わらず日差しが強烈で、さっき飲んだばかりのビールが体中の毛穴から噴出してきたような気がした。僅か一キロメートル程の宿までの距離が非常に遠く感じた。

 汗びっしょりになって宿に帰ると、中島みゆきさんがフロントにいた。

 「お帰りなさい。どうしたのですか?顔が真っ赤ですよ」

 彼女は僕のよれよれの姿を見て少し驚いた様子で言った。ビールを飲んだからなのか、それとも日焼けで顔が赤いのか分からないが、確かに体中が熱を帯びているようだった。

 「中島さんの顔を見て興奮しているのです」

 僕はわけの分からない言葉を彼女に残し、部屋に戻ってシャワーを浴び、ベッドに倒れこんでしまった。

 天井のファンが心地良い中で、僕はうつ伏せのままいつの間にか眠りにおちていた。ベランダの下ではタイ人の会話が聞こえた。それはカラスの鳴き声のように「カー、カー!」と、遠ざかる意識の向こうで響くのだった。

 


 カンチャナブリへ

 アユタヤ二日目の夜は宿の食堂で簡単に食事を済ませたあと、フロント前のソファーでくつろいでいた。

 すると、松葉杖日本人青年が、今夜宿の他の日本人宿泊客数人とディスコへ行くので一緒にどうかと誘ってきたが、ディスコはどうも行く気がしなかったので断った。しかし彼は松葉杖でどうやって踊るというのだろう。

 フロントにいた中島みゆきさんに、カンチャナブリへのバス発着場を教えてもらった。しばらく彼女と旅についてや、日本の高齢化社会についてなどで激論を交わした。アユタヤまで来て日本の高齢化社会を議論するなんて、どうも僕の今回の旅はおかしい。しかも相手は綺麗な日本人女性だ。

 彼女は独特のけだるい表情が素敵である。きっとこの表情と持ち前の美貌とで、この先も世界中の男性を魅了し、幸せな人生を送ることだろう。いや、美貌に恵まれているからといって、幸せになるとは限りません、念のため申し添えたいと思います。

 どうでもよいことを考えながら部屋に戻り、カンチャナブリのガイドブックを何度も読んだ。

 「戦場にかける橋」という映画に描かれた町ということで、第二次世界大戦中は、当時破竹の勢いを維持していた日本軍が隣国ミャンマー(ビルマ)への鉄道を架設するため、何万人もの現地人や連合軍の捕虜を酷使したという歴史がある。

 今回の旅は最初から体調が優れず、あまり遠くへ行くことを躊躇ったことから、アユタヤの次はカンチャナブリを選んだ。しかし近場といっても、ここからバスで五、六時間はかかるらしい。

 昨夜と同じようにファンの心地よい風と穏やかな外の気配に抱かれながら、アユタヤ二日目の夜は過ぎて行った。

 翌日は午前八時に起きてパッキングを済ませてから下に降りた。
 まだ一人の宿泊客も降りていない食堂で、オムレツとトーストの簡単な朝食を摂った。ここの食事は大変美味しい。アユタヤに旅するならこの
P.Uゲストハウスを是非お奨めします。南こうせつさん似のご主人がいます。中島みゆきさん似のバックパッカーが、今もバイトをしているか否かは分かりません。いくらなんでも、もう旅立っていると思います。

 さて、用意ができたのでザックを背負ってチェックアウトだ。中島みゆきさんが電卓でトントンと料金をはじき出した。一泊三百バーツの宿だけに、僕としてはちょっとだけ贅沢な二日間だった。しかし僕の部屋はこのゲストハウスの中でも高い方で、勿論安いドミトリーもあり、シングルで二百バーツまでの部屋もあるらしい。

 皆さんに手を振って宿を出ると、変わらず好天で日差しが強烈である。

 ちょっとお金が心もとないので、バス発着場の近くのATMから五千バーツをおろした。タイは便利である。都市のあちこちにこのATMが設置されており、シティバンクからの引き出しやヴィザカードでのキャッシングか可能だ。

 カンチャナブリまでのバスはエアコンなどという代物はなく、窓を開けっ放しのガタピシバスであった。

 一番後ろの広い席にザックを置いてゆっくり座ったが、出発前になると満員になってきた。やむなくザックを床に下ろし、ぎゅうぎゅう詰めとなり、暑い中隣の人の体温まで伝わってきて、ますます汗が噴出すバス移動となった。これはダイエットにもってこいだ。

 バスはアユタヤの町を出るとまもなく田園風景となった。


 カンチャナブリヘ その二

 カンチャナブリへの道路は整備されていた。日本の高速道路のように高架道路はないが、道幅が広く快適なハイウエイのようだった。

 バンコクはバス網が発達している。バンコクを起点としているだけでなく、地方の都市間のバス移動もとても便利だ。この辺り、周辺国と全く事情が異なることを一つとっても、タイが東南アジアで大国であることが証明されている。

 さて、カンチャナブリへの道中は殆どが田園風景である。

 途中、大きな町を二ヶ所通過する。ナコーンパトム(Nakhon Pathom)という比較的大きな町を経て、スパンブリ(Suphanburi)に入り、ここでバスを降りて乗り換える必要がある。

 アユタヤから乗って、最初から最後尾の席に座っていた僕に、前の席にいた十才位の男の子が興味を示したようだ。

 僕が日本人ということに興味を持ったのか、それとも怪しげなバンダナが気になったのかは不明であるが、何度も、いや何十回も僕の方を振り返って見るのだ。彼は母親と妹とでアユタヤからカンチャナブリまで、僕と同じ目的地までのバスの旅だった。

 彼が五〜六回目位に振り返った時に、僕は右手を耳の辺りでヒラヒラさせて、「やあ!」という感じで笑ってみた。するとこのフレンドリーな態度に安心したのか、彼はその後十分に一度は振り返ってニヤッとするのだった。

 さすがにその光景を見ていた母親が、「やめなさい!」という感じでたしなめていたが、僕としては全然気にならなかった。

 

 バスはスパンブリに到着し、乗り換えのために降りた僕は、運転手から聞いていた方向とは違った方へ歩いていたようだった。僕が重いザックを背負ってヨタヨタ歩いていたら、先ほどの少年が駆け寄ってきて、「バスはこっちだよ!」と言うのだ。(状況から判断して多分そう言ったのだと思う)

 彼に導かれ無事に正しいバス停に着くと、母親と妹が、「よかったよかった」というふうに笑っていた。

 この状況を言葉で表現することはとても難しいのだが、タイの人はやっぱり親切で、微笑を絶やさないものだなぁと、この時改めて思ったものだ。

 やがて到着したバスに乗り込み、こんどこそカンチャナブリヘ向かった。

 天候に恵まれ、午前十時過ぎにアユタヤを出たバスは、午後三時前にはカンチャナブリのバスターミナルに到着した。バスを降りてウロウロしていたら少年と母親達が心配そうに僕をじっと見ていた。

 僕は軽く手を振って微笑み、「大丈夫だから」という感じでその場を離れた。

 少し歩くと、自転車の横に座席を取り付けた乗り物が近づいてきた。これは何という乗り物なのだろう?リクシャーというのかな、ともかくそれを運転しているまだ若い男性に声をかけられ、三十バーツというので乗ってみた。三十バーツは高いかもしれないと思ったが、これは一度乗ってみたかったからだ。

 彼は細い腕に細い足なのに、六十五キロもある僕と十二キロはあるだろうバックパックを乗せているにもかかわらず、喧騒の市内へペダルを漕ぎ出したのだった。


 カンチャナブリ

 カンチャナブリに着いた僕はバンコク銀行でドルからバーツへ両替を済ませたあと、サムローアニイに導かれて宿を探すこととなった。賑やかな町並みをギコギコとチャリンコを漕ぐ彼は、時々道行く人々から声をかけられたりかけたり、ちょっとした有名人のようだった。

 ガイドブックによればこのようなリサムローは複数人いるように書かれていたが、今回はあとにも先にもこのアニイ以外は一人も見かけなかった。

 しばらく進むと街の喧騒がなくなり、クウェー川沿いの道路に出た。この通りに安宿や食堂などが並んでいる。

 気の毒なくらい細い足で漕ぎながら、僕を乗せたサムローは一軒のゲストハウスに到着した。そこは川に桟敷を浮かべてバンガローとしていて、景色は絶好の宿だった。

 サムローのアニイは既に僕がここに泊まるものと勝手に決めつけたのか、重いザックを降ろしはじめた。ともかく値段を聞いてみるとシングルが250バーツだという。この綺麗な景色に少し心が動いたが、なんといっても250バーツは高すぎるような気がしたので僕は断った。それに川の上に浮かんで寝るというのは、ちょっと落ち着かないような気もしたのだ。

 サムローアニイはちょっと残念そうだったが、次の宿へと再び僕を乗せて漕ぎ出した。

 来た道を少し戻って路地に入り、それを突き当たると今度はかなり大きなバンガロー風ゲストハウスに着いた。敷地の中央が庭になっていて、綺麗に芝が刈り込まれていた。その庭を囲むように部屋が並んでいるが、建物自体はかなり古そうだった。

 案内の女性に部屋を見せてもらうと、蚊帳つきのベッドにシャワーとトイレ付きだった。シーツが少し湿気ているような気がしたが、150バーツというので、面倒なのでここに決めた。サムローアニイはホッとした表情で、GHのスタッフからバックマージンを受け取って帰って行った。

 ザックを部屋に置き、早速シャワーで汗を流した。水シャワーは問題なく出る。トイレは和式で、終わったあと横の水槽の水を桶でザーと流す形式のものだ。窓の網戸もところどころ破けていて、これで蚊帳がなければ夜は眠れないだろう。決して快適とはいえないゲストハウスだった。

 

 ここでカンチャナブリについて少し書いておくと、カンチャナブリ県はタイの中西部に位置し、バンコクからは約百三十キロの距離になる。人口は約七十七万だが、県都のあるムアン地区には十六万人ほどが居住しているらしい。

 十六万人といえばたいした人口ではないと思うが、クウェー川沿いにあるここの町は周囲を山林に囲まれており、平地自体はそれほど広くないので、町としてはかなり活況を感じる。

 観光ポイントといえば、やはり映画「戦場にかける橋」で有名なクウェー川鉄橋と泰緬鉄道ということになる。郊外には国定公園もあり、さらに県を北西部に進むとサンクラブリーというミャンマーとの国境の町に突き当たる。

 さて、すっきりして早速街歩きに出た。

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