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 アユタヤ その3

 アユタヤの遺跡は世界文化遺産に登録されているが、遺跡といっても寺院の廃墟が点在しており、それらを広大な公園が包んでいるといった感じのものなので、僕としてはすぐに飽きてしまった。

 ここを訪れる多くの人はどんな感慨を持つのだろうと思うのだが、僕は首のない仏像や瓦礫ばかりを見るのに疲れてしまった。勿論、三十五度以上はあると思われる炎天下で、バンダナを巻いただけの中年オヤジが乗り物を使わずに歩き回るのだから、肉体的疲れもあることは間違いない。

 僕は友人に絵葉書を出そうと思い、地図を見ながら郵便局に行った。ところが郵便局には絵葉書が置いてなくて、官製葉書しかないという。とりあえず五枚を購入して、その場で書いて出そうと思って、局内の椅子に座って書き始めた。しばらく文章を考えながら少しずつペンを進めていると、男性局員の一人が「どこから来たのですか?」と聞いてきた。

 日本からですと応えながらはがきに目を置いて文を考えていると、「アユタヤは初めてですか?」とさらに聞いてくるので、僕はここで書き上げて投函するのを諦めた。

 「アユタヤは初めてです。タイには何度も来ていますが、いつも通過してしまうのですよ」と、おそらく通じているであろう英語で語った。

 すると彼は、ちょっと待てと言う風な素振りを僕に見せてからカウンター内に入り、少ししてからアユタヤ市内の折りたたみ地図を持ってきてくれた。どうやら僕にプレゼントをしてくれるということだ。

 その地図を目の前で広げてみると、タイ語で書かれているので、説明は全く読めないが、記号などでどこに何があるかは大体分かりそうだ。僕は彼に丁寧に例を述べて郵便局をあとにした。

 ここから宿までは地図によると2.5キロメートルも距離があるが、トゥクトゥクも走っていないし、歩いて帰ることにした。

 アユタヤ市内は所々で道路工事が行われていた。確かに車も結構走っているので、砂埃などを考えると舗装したほうが良いだろうが、未舗装の道路が、遺跡の周りの雰囲気に合っているような気もする。きっと観光客が年々増えているからの措置に違いない。

 暑さと疲労に瀕死に近い状態になってようやく宿に帰った。シャワーを浴びてスッキリし、気持ちの良いベッドに仰向けになっていると、知らないうちに眠ってしまった。

 夕方近くに目が覚め、階下に降りて行くと、ロビーには日本人の青年が松葉杖で座っていた。挨拶をして話を聞くと、彼は千葉県に住む大学生で、数日前にアユタヤに来てレンタルバイクで遺跡回りをしたが、その帰り道交通事故に遭い、片足を骨折したとのことだった。

 どちらに非があるかは警察がまだ調べているらしいが、ともかく旅を続けられないので、しばらくこの宿で厄介になるつもりと聞く。おかげで宿の家族と親しくなり、小学生や中学生くらいの娘さんの相手をして過ごしていた。

 この宿は日本人旅行者と欧米人旅行者が半々程度で、食堂のメニューもタイ料理に加えて、欧米人が好みそうなハンバーグやオムレツなど、洋風のものもたくさん用意されていた。

 宿のご主人は僕より少し年令が下に見える日本人で、奥さんとはどのような経緯で一緒になって宿の経営に関わったのかは知らないが、よく見るとフォークシンガーの南こうせつさんにそっくりな風貌だった。

 アユタヤで南こうせつさんに会うとは思っても見なかった。

 僕はこの宿の居心地のよさをさらに感じた。


 深夜特急

 南こうせつさんにそっくりな宿のご主人は、一階の食堂の調理から宿泊客の相手までしてくれる。

 決して口数は多くないが、穏やかな物腰で旅人をホッとさせてくれる雰囲気を持っている。奥さんのグリコさんとの夫婦仲も極めて円満そうで、どちらかと言えば奥さんの尻に敷かれているという感がしなくはないが、見ていて微笑ましいご夫婦だ。

 居心地の良い宿なので、何度も何度も訪れる旅人がいるようで、僕が滞在した二日間でも、「また来ました」といった旅人が数人見受けられた。宿が繁盛するから儲けた資金で、昨年新たに全面的に建て替えたらしく、一階の食堂は以前に比べて随分広くてなったらしく、食堂に繋がっているロビーはゲストハウスにしては高価そうなソファーが二セットも設置されており、また、今年になってようやく導入したというパソコンもフロント横に一台だけだが置かれており、本当にハード面もソフト面も満足する宿だ。

 しばらくロビーで旅行者と雑談をしたが、若者ばかりで、どうも世間話以上の話題が出ない。それに女性の宿泊客も何人かいて、いずれも一人旅のようだったが、食堂で一人で食事をしている席に近づいて話しかけるような雰囲気ではなく、ちょっと陰気そうな感じだったのでやめた。

 一人でオムレツとサラダにシンハビールという夕食を終え、食堂の本棚を眺めていると、そこに沢木耕太郎氏の「深夜特急」の文庫本を見つけた。しかしそれは全部揃っていなくて、タイ・マレーシア・シンガポール編とイラン・アフガニスタンからトルコ編あたりがあり、この旅行記は確か全六巻だったと思うが、最初と真ん中と最後がなかった。

 彼の旅行記を読んで影響を受け、長期の旅に出るきっかけとなった旅人が多いと聞くが、僕はいままで読んだことがなく、何故か食わず嫌いのような感じもあったので、ちょっと読んでみることにした。

 この「深夜特急」をこれまで読まなかったのは、以前何かの雑誌で、確かこの旅行記の半分以上がフィクションだと書いていたのを読んだからということもあるし、旅をしてから十数年経って旅行記にまとめたという点も、僕としてはちょっと食指を躊躇った理由である。

 まあ、良い機会だから部屋に戻って、ベッドに寝転びながら読んだ。

 何とはない旅行記だが、文章のうまさはなるほどだし、主人公が遭遇するアクシデントや感動的な場面などの描写もさすがだ。この本が売れるわけが分かったような気がした。

 この本を読んだら、訪問国で次から次へと様々な出来事に合い、多くの現地人や旅行者と出会い、日本での気だるい日常生活から解脱したかのような世界の存在を頭に描いてしまい、自分もこのような経験を求めて旅に出ようとすることも無理ないことだと思った。

 確かに、日本で社会の歯車のひとつとして、毎日身を削るようにギアを合わせて生きていることから考えると、自由気侭な旅へと自分自身を置いてみることは、何て素敵なのだろうと思うだろう。旅先でどんな困難やアクシデントがあったとしても、自由という自分の存在は変わらない。

 ただ、それを実感として感じるのは、一度でも社会に飛び込んで、体制の中に自分の身を泳がせてからではないだろうか。学生のうちにこのようは本をバイブルのように読み漁り、裏を知ることなく裏道を歩くがごとくに、自由気侭な旅を経験してしまうことに、僕は異論を述べたいと思うのだ。

 しかし現実には学生が旅を謳歌している。何故なら日本では最も勉強しない種族が、何と学生だからなのだ。これは悲しむべき現実の姿として誰もが認めていることだ。

 旅先で出会う日本人で、現役社会人或いは社会人を経験したことのある人と、学生の旅人との歯ごたえの違いはそんなところにあると僕は思う。勿論歯ごたえのないのは後者である。


 中島みゆきとの遭遇

 旅の四日目、アユタヤ初日の夜はベッドで沢木耕太郎氏の「深夜特急」を読んでいるうちに、いつの間にか寝てしまっていた。気温は高いが部屋の天井のファンからの風やベランダからの空気が心地よく、快適な睡眠が取れた。

 翌日は午前中だけアユタヤを見たら移動しようと思っていたが、朝食を摂りに階下に降りて行った時に、急遽予定を変更することに決めた。オムレツとトーストにコーヒーという食事を終えてフロント前のソファーに座ると、フロントには若い女性がいた。挨拶を交わすと日本人だった。この女性が何と若い頃の中島みゆきさんとそっくりなのだ。

 「中島みゆきさんじゃありませんか?」と僕はとぼけて聞いた。

 「何言ってるんですか、やめてくださいよ」と彼女は笑いながら言った。そうかもしれない、中島みゆきは今や五十才を過ぎているのだからな。

 「いや、彼女の若い頃によく似ているから。若い頃は凄く綺麗だったのですよ」

 僕はフォローしながら、彼女にアユタヤに何泊する予定かを聞いてみた。すると彼女は「もう五十泊くらいしていますよ」と訳の分からないことをおっしゃる。

 聞けば彼女は九州は福岡、博多の女性で、数年間勤めた会社をめでたく退職し、五月頃にアジアの旅に出た。シンガポールを旅の始点とし、マレー鉄道でマレーシアをゆっくり上り、タイに入った。タイの南部をあちこち回りながらバンコクを経てアユタヤに七月の上旬に着き、この宿に泊まったが、大変居心地が良いし宿のご夫婦も「忙しいから良ければちょっと手伝ってくれないか」と言うので、宿泊代無料食事付という条件で宿のフロント業務や掃除などを手伝っているとのことだった。

 ちょうど話をしている時に欧米人の男女がチェックアウトし、宿代や食事代の計算をテキパキと行って、計算書を示して英語で会話をしていたから、かなり仕事には慣れているようだし、金銭を扱う仕事も任されているということは、随分信頼されているのだろう。

 「これからどうするの?」と聞くと、「ずっとここにいても先に進まないし、行きたいところはたくさんあるのですけどね。ここが凄く居心地が良いし、ご夫婦も助かると言ってくれますから・・・」と優柔不断なことを言っていた。

 このように旅の途中で理由は様々でも、いわゆる「沈没」という旅用語があるが、そうなってしまう旅人がいるのは当然だ。それほどアジアの旅はのんびりと時間が過ぎて行く。

 彼女が宿を手伝っている女性だと聞いて、残り六日の旅日程はずっとこの宿で過ごそうかとも考えたが、アユタヤはバンコクと違って二日も滞在すれば十分な町だし、もう一泊だけすることに決めた。

 そうとなれば今日もゆっくり遺跡観光としよう。僕は彼女に「じゃあまたあとで」と言って、アユタヤ遺跡めぐり二日目に出て行った。

 宿を出て、昨日と同じように歩いて行こうと思っていたが、間もなく一台のトゥクトゥクが近づいてきて、「アユタヤ市内観光、五ヶ所回って三百バーツ」と言うのだ。

 僕は手を振って「要らない」と示して歩き続けたが、彼はゆっくり走らせながらついて来る。

 「二百五十バーツ、二百バーツ!」と値段を下げてきた。いい加減にしろよと思って立ち止まると、かなり年配のオヤジさんだった。人が良さそうなので僕は、「ワット・ロカヤスタまで片道だけでいいからいくらだ?」と聞いてみた。

 すると彼は五十バーツと言う。僕が「四十バーツ」を宣言したら、オヤジさんはともかく乗れと言うので、とりあえず乗ることにした。【四十バーツ以上は絶対に払わないぞ】

 トゥクトゥクはけたたましいエンジン音を出して市内へ突入して行った。

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