第七話　バンコクの夜

　僕とHさんがタイ式マッサージを受けたところは、「カノクウェート」エカマイ店で、エカマイ駅のすぐ近くに所在しており、目の不自由な人の自立を目的に作られたマッサージ店である。

　Hさんは以前に一度来店しており、要領も分かっているため、「一時間お願いします」と言って奥に入って行った。僕は元来肩こりとは全く無縁のおかしな体質なので、三十分でも十分だったのだが、せっかく目の見えない方がマッサージを施してくれるのだからと、同じく一時間お願いした。

　今日は朝からワットファウロンワめぐりのドタバタ劇で、かなり汗をかいている筈なのだが、着ている服は南極のような急冷房にすぐにサラサラになった。

　僕の担当してくれたマッサージの女性は、小柄でやや小太りの中年の人だった。店の指定の水色のパジャマに着替えてベッドに仰向けになった。マッサージは足の指先から念入りにゆっくりと施される。今日一日の疲れがどっと出てきて、それが徐々にほぐされて行くのが体感できるほど、彼女のマッサージはとても上手だった。

　ベッド間にはカーテンが引かれており、隣の様子は分からないが、時々いくつか隣では、「アー、イテテ」「ウー、オー」などと呻き声が聞こえるから、かなりハードなマッサージもメニューの中にはあるようだ。

　心地よいまどろみの中一時間はあっという間に過ぎた。最後の方で運動会の組み体操のような形をして、体をギクギク折り曲げられたり捻じ曲げられたりしたが、僕は特に痛いという感覚はなく、概して気持ちの良いマッサージだった。

　Hさんもマッサージが終わった時の顔つきは、まるで寝ぼけ眼のようだったが、それ程気持ちが良かったということなんだろう。

　代金は一時間が二百バーツ、二時間だと三百バーツで、日本でサウナのあとマッサージを受けると、この十倍近くはかかるから、これはバンコクを訪れた方にはお奨めである。

　さて、時刻は既に午後七時頃となり、前から是非行こうといっていた、シーフードレストラン「ソンブーン」に向った。エカマイ駅からスカイトレインでサイアムで乗り換え、二つ目の駅Ssla Daeng(何と読むのだろう)で降りた。降り立った辺りは東京の新宿駅周辺のような賑わいで、人込みで溢れかえっていた。

　食事の前にHさんが義理の妹さんに口紅を頼まれているとかで、すぐ近くのロビンソンの化粧品売り場に立寄った。僕はかなり遠目で、彼女が口紅を二本選ぶのを十五分ばかり眺めていたのだが、この時は彼女の女性的魅力を随分と感じたものだった。やはり女性は化粧品売り場で、ひときわセクシーに映るものかもしれない。

　ロビンソンを出て、タニヤ通りを横切り、スリウォン通りに出てしばらく歩くと大きなシーフードレストラン「ソンブーン」が見えてくる。このレストランにはこれまで一度だけ、ラオスで知り合って以来の友人であるN君と来たことがあり、生牡蠣の美味しさに舌鼓を打って、ウイスキーをしこたま飲んでフラフラになってしまい、それでもさらにトップレスゴーゴーバーで遊んでクラクラになったことがある。
　しかし今夜はHさんである。紳士的に振舞って、決して酔いつぶれることのないようにしたいと思っていた。

　第八話　酩酊の二人       

　シーフードレストラン「ソンブーン」は二度目である。

　スリフォン通りに面しており、すぐ店は探せた。ちょうど夕食時の真っ只中だけあって、一階は満席で人が入口まで溢れていた。従業員に名前を継げて十分も待たないうちに席が空き、二階の奥のほうのテーブルに案内された。

　店内は以前来た時と同様に、中年以上の日本人男性と若くてセクシーなタイ人女性とのカップルが、テーブルの半分以上を占め、あとは日本人のグループやタイ人のカップルやグループが僅かという割合である。日本では若い女性と食事もできない男性が、金に物を言わせてタイ人女性を前に鼻の下を伸ばしている構図は不変である。

　僕達二人を見て、従業員や他のお客さんはどういう関係と思うのだろう。僕は自分では若いと思っているが、既に五十才前であり、彼女は何と行っても小林聡美さん似の可愛い人だから、残念だがどう見ても親子以外には思わないだろう。

　そんなことを考えながらちょっとガックリしていると、従業員が飲み物の注文に来たのでとりあえず生ビールを二つ頼み、さらに待望の生牡蠣を三個ずつと、蟹料理に野菜と肉の炒め物などを注文した。

　ビールで乾杯後運ばれてきた生牡蠣をあっという間に平らげ、蟹料理はクリーム煮を少し辛く味付けしたもので、これもなかなかいける。ビールが進むが、ここで僕はメコンウイスキーのボトル(ボトルといっても大きいものではありません)を注文、水割りにして飲み始めた。

　この夜は共通の友人であるN君の話やカンボジアの話などで盛り上がり、二人ともあまり体調が良くないにしては酒が進み、メコンウイスキーは半分ほど残してしまったが、ほぼ酔っ払いになってしまった。

　時刻は午後九時を回り、さてトップレスゴーゴーバーでも行きたいが、何しろ今夜はHさん同伴である。ここは涙を飲んで諦めた。

　しばらく人の波に紛れながら出店を覗いたり、パッポンの夜の街をだらだらと歩いていたが、Hさんは明日の早朝便で成田に向けて帰国するから、午前五時には起きなければならないので、今夜はこれくらいにしましょうということでタクシーを拾ってホテルに帰った。

　ホテルの近くで僕達はタクシーから降りたが、僕はかなりフラフラで足取りがぎこちないし、よく観察するとＨさんも相当酩酊気味で、今にもヘタリそうな感じだった。

　僕の部屋と彼女の部屋は斜め向かいなので、ともかく「おやすみなさい。明日大丈夫ですか？僕がドアをノックしてみますから」といい加減なことを言って部屋に入ると、僕は一分もしないうちに寝入ってしまった。

　次に目が覚めると既に午前九時前だった。

　Hさんを午前五時過ぎに起こさなければならないのに、完全にダウンしていたのだ。フロントに電話をしてHさんがチェックアウトしたかどうかを聞くと、無事に午前六時前にはホテルを出たとのことだった。

　ホッとして再び眠りに入った。体調は一旦戻りかけていたが、再びバンコクに到着した一昨日の状態に近くなっていた。

　次に目が覚めると既に午後二時を過ぎており、随分と睡眠を取ったものだが、体は熱っぽくだるい。今夜の寝台列車でラオス国境まで行こうかどうか十数秒間だけ考えたが、あっけなくその考えは消えた。

　部屋のTVのスイッチを入れると、ニュースでタイの東北部が大雨でメコン川が冠水し、ノーン・カーイの川べりの市場が水浸しの映像が流れていた。　

　さて、ラオスには行けなくなった。旅はまだ三日目である。まだ一週間も残っているが、何処に行こうか全く頭に浮かばなかった。