Music:Hokago
第七話 マイケル君のおどけた態度に気を許すことはなく、僕は「二十数年しか経っていないのに、そんな悲惨な出来事の恨みを忘れてしまうのか?」と聞いた。 「済んだことは気にしないんだ」 ベトナムはフランスによる長年のインドシナ支配を経て、フランスがドイツに降伏したと同時に日本軍に侵略され、さらに日本の降伏とともにホー・チ・ミンが独立宣言を行ったのもつかの間、今度は国が南北に分かれることを余儀なくされ、ベトナム戦争から後は周知の経緯であるが、このような波乱の歴史を潜り抜けているにもかかわらず、ベトナム人は明るくしたたかなのである。いや逆に、度重なる戦火を潜り抜けているからこそしたたかなのかもしれない。 マイケル君自身が訪問したお宅の人達とはあまり懇意でない様子であったので、早々にその家をあとにして、部落を通り抜けて再び田園に出て、両側に水田が続く比較的幅の広い畦道を、今度は朝下ってきた道路の方へ向かって歩いた。いよいよトレッキングも終わりだ。 途中でトレッキング中の欧米人数人と擦れ違った。 ライスフィールドが途切れて小さな川を渡り、道路が走っている土手の上までの畦道の辺りはトウモロコシ畑が少し続いていた。しかしそのとうもろこし畑は既に収穫期が済んでいたようで、実が刈り取られたたくさんの茎が色褪せて倒れていた。 時刻は午後二時半頃で、少し前からすっかり雨は上がっていたが、相変らずどんよりとした天候で、時々霧のような小雨が僕達の体を湿らせた。道路に上った場所は、朝トレッキングを開始した場所からかなり下っており、僅か四時間足らずのマイノリティー部落の訪問ではあったが、距離的には五〜六キロ程は歩いているのではないだろうか。 僕達は待機してくれていた朝の三人のバイクに乗って、サ・パの街に向かって走り出した。 朝方は僕のバイクが先頭を走っていたのでそれほど気にはならなかったが、彼女のバイクにはマイケル君も乗って三人乗りなので、彼女は運転手とマイケル君とにサンドイッチ状態なのだ。これはマイケル君が羨ましいといった感情よりも、何故か滑稽に思ってしまった。 ともかく僕達は三時過ぎ頃に宿に着いた。 宿の一階の椅子に疲れた体を投げ出して、マイケル君に彼女が二十ドルを渡そうとしたら、最初はガソリン代を別に欲しいと言い出して、ちょっと彼女と揉め始めた。勿論、険悪な雰囲気ではなくて、お互いに微笑を浮かべながらの交渉なのだが、彼女は早口の英語で、「最初からガソリン代とガイド料と運転手込みで二十ドルという約束だったじゃない!」とおっしゃっている様子だった。 「一人四ドルに僕のガイド料が八ドルで、ガソリン代は別ですよ」 僕は二人の交渉を眺めながら、何気なく財布をポケットから取り出したところ、突然彼女が大声で僕に「財布を見せちゃ駄目!」と厳しい顔で言うのだ。 僕は驚いて反射的に財布をポケットに戻したのだが、何をそんなに神経質になっているのだろう、と思った。 僕としては楽しいトレッキングだったし、少しくらい彼等にチップをあげたってかまわないじゃないか、などと思ったが、そんなことは言える筈もなく、彼女に任せておくことにした。 結局、二十ドル分もドンの持ち合わせはないし、そちらでドルを両替したらいいでしょ、ということで話がつき、僕達はマイケル君と握手をして、お互いに気持ちよく別れた。 「きっと彼はバイクの人たちにはせいぜい三ドルね。それもガソリン代込みで。彼は十ドルは手に入っている筈だよ。しっかりしてるよ」 |
第一話 マイケル君たちが帰って行ったあと、宿の娘さんが帰って来た。 「姉ちゃん! ここのコーヒーはネスカフェ?」と彼女が聞いた。 彼女はきっとハノイのロータスツーリスト・ゲストハウスの、例のアイスコーヒー・ウイズ・ミルク≠フようなものを飲みたいんだなと思ったが、やはり世界のネッスルなんだな。 「じゃあそれでいいから三つお願いね」と諦めて注文し、部屋に持って来てくれるように頼んだ。 僕達はシャワーを浴びてから少し散歩に行こうということになり、濡れた服を着替えるためにそれぞれの部屋に戻った。雨に濡れ続けた体にホットシャワーがありがたい。シャワーのあと僕は黒のTシャツに茶の綿パンを身につけて、バンダナは外してようやく普通の格好で彼女達の部屋を訪ねた。 「ペロ吉〜、さっき宿のお姉ちゃんに頼んだコーヒーまだ来ないから見て来てよ」 「やあ! トレッキングはなかなか良かったよ。ちょっと雨できつかったけどね」 彼がノートに何か書いているので尋ねてみると、何とベトナム語の勉強をしているとのことであった。 「君は熱心だねぇ。ベトナム語って難しいのじゃないか?」 「難しいですよ。発音が微妙に異なる言葉が多くて。実は正直にいいますが、サイゴン(ホーチミンシティー)に滞在していた時に、ホテルの従業員の女の子に一目惚れしてしまったのですよ。一週間程サイゴンにいたのですが、思い切って食事に誘ったら、これが以外にも喜んで来てくれたのです。とても綺麗な女性で、翌日また食事に誘ったら、今度も来てくれたのですよ。僕は嬉しくなってしまって、彼女を前から知っているような錯覚に陥っていろんな話をしました。名前と住所を聞いて、僕の日本の住所なども紙に書いて渡したのですが、心配でサイゴンから離れたくなくなりました。仲間との旅の日程もありますから恋を取るか仲間を取るか随分迷ったのですが、結局仲間と予定通り行動をともにしているというわけです。でもサイゴンに戻りたくって・・・。毎日頭の中は彼女のことばかりなんですよ。どうすればいいでしょうか?」 僕は笑いを辛うじて堪えながら紳士的に「君達のこれからの予定はどうなの?」と聞いた。【こりゃ相当重症だな】 「君!あとでまた来るから、ここでずっとベトナム語の勉強をしてろよ」 彼女達の部屋に入ると、ちょうど彼女がシャワー室から出てきてベッドに腰をかけながら髪の毛を拭いているところだった。ちょっと透けて見えるシャツをひっかけているだけの格好で、なんとも眼のやり場に困ったが、僕達はアイスコーヒーを飲みながらくつろいだ。 「ねえ、さっき一階のロビーで、例の日本人若者五人組の一人がベトナム語を勉強してるんだよ。熱心だねっていったら、実はサイゴンで恋をして彼女のことが頭から離れないので、ともかくベトナム語くらい勉強しておこうということらしいんだ。旅を続けるかベトナムに戻って告白するか迷っているらしいんだが、何かアドバイスをしてやってよ」 僕は恐る恐る話した。 「いるんだよねぇ、そういう若いのが。でもいいことじゃない、サイゴンに戻ったらいいじゃん!」 「一階でしばらく勉強してろって待たせているんだ。恋の達人からアドバイスをしてもらおうと思ってね。よろしく頼むよ彼は相当重症そうだったよ」 「何でよ、ペロ吉のほうが私より何十倍も恋愛経験があるのじゃない?知らないよ」 ともかく僕達はアイスコーヒーを飲み終えて、散歩に出かけるため一階に降りていった。 ロビーでは相変らず熱心に机に向かっている青年の姿があった。 「よう!色男。ちょっと適切なアドバイスをしてもらおうと思って、お姉さん達を連れてきたよ」と僕は軽い気持ちで言った。 |