Music:Hokago

  第四話


 ちょうど先生は読書をしていた様子で、読みかけた本を置いて、急な来訪客 に嫌な顔一つせずに応対してくれた。
 彼女は先生に英語で何か質問をしたが、先生はあまり英語が堪能ではないようで、首を傾げたりしていたが、マイケ
 ル君がベトナム語で通訳をしてくれて、先生はハノイの高校を卒業して、去年からこの部落に赴任しているということ  が分かった。

 マイケル君の話では、ベトナムでは田舎の村落辺りの学校は、都市部の高校を卒業したら教師として十分務まるらしいということである。
 「それじゃぁ、先生は二十才にもなっていないの?」
 と驚いて僕がマイケル君に聞いたところ、彼女が横から、「女性に年令を聞いちゃ失礼だよ!」と咎めるのである。

 「しかし先生は天使のように綺麗だなぁ」
 僕は本当に心の底からそう思った。着ている衣服が白ということも、先生をよりいっそう若く純粋そうに見せていた。
 「ペロ吉は女性には本当に目がないんだから」
 と彼女は言う。

 【誰だってこんな綺麗な先生ならヨレヨレになるんじゃないか、僕だけが色ボケしているみたいに言わないでほしいな】と心の中で呟きながら、僕はずっと先生を見つめ続けていた。

 しばらくして外に出て学校の写真を撮っていたら、今度は彼女が僕に、「ペロ吉はここに残って先生と暮らしたらどうなの。ペロ吉ならきっとここでも生活ができるよ」とたたみかけるように嫌味を言うのだ。
 僕は先生の写真を撮ろうと思っていたが、彼女がそんなことをいうので結局
 諦めてしまった。

 少女のような先生の姿にグイグイと後ろ髪を引かれながらも、僕達はさらに部落を進み、一軒の民家にお邪魔した。時刻はちょうど昼頃だった。
 「この家で昼食にします」
 マイケル君は言った。

 中に入れば薄暗い土間に一人の青年とその母親らしき女性、それに五才くらいの女の子がいて、僕達を笑顔で歓迎してくれた。電話もないし、マイケル君があらかじめ連絡をしてくれていたとは思えないが、居間のような広い土間の隣の部屋には、土間を掘ったかまどに火が熾っていた。

 青年がその火に木をくべて、周りに小さな木の椅子を持って来て、僕達に座るように勧めてくれた。僕達は雨具を脱いで、ヤレヤレという感じで腰をおろし、僕は雨具の下に着ていたブルーのシャツが雨でびしょびしょになっているのに気が付き、それを脱いで軒下に干した。

 僕は彼女にもらったラオスの半パンツに白のタンクトップという冴えない格好で火の前に腰を下ろし、濡れた体を乾かした。彼女達も濡れた靴下を脱いで火の近くで乾かし、彼女はベトナム語辞典を小さなリュックから出して来て、囲炉裏の向こうで火をくべている青年(といってもよく見れば十五才くらいだった)にベトナム語で何か話しかけた。

 本当に僕は彼女のこういうところを尊敬してしまうのだ。
 この年(失礼)になってもまだまだ向学心に溢れ、ラオスではフランス語教室に二週間学び、ベトナムでは教室には行かないまでも、その国の言葉を覚えようという姿勢に感心してしまう。(去年はアフリカのモロッコに二ヶ月程滞在してフランス語を勉強したらしい)

 僕達が囲炉裏の周りでのんびりとしている間にも、マイケル君は昼食の準備に忙しく動き回っている。彼は僕達に手作りの昼食をご馳走してくれるというのである。

 彼は背中に小さなリュックを背負っていたが、その中から日本の厚揚げを小さくしたようなものと、緑黄野菜と牛肉を出して、居間の反対側の方にある台所で調理を始めた。

 御飯は飯盒を大きくしたようなもので炊き、かまどでは中華鍋にラードを入れて最初に厚揚げを入れて炒め、次に牛肉を細かく切ったものを強火で炒めて、それに野菜を入れてさらに炒め、味の素を加えて出来上がりである。

 僕達はその間、青年と母親を交えて雑談していたが、母親はまたしても自分の手織物やブレスレットなどの購入を勧めてきた。オレンジさんは優しい人柄なので手織りのショートパンツを一着購入したが、彼女は僕の方を指差して、「あのおじちゃんが買ってくれるよ!」などと無責任なことをいって僕の方に振るのだ。

 彼女は買物が決して嫌いでなく、むしろ大好きなのが後で分かるのであるが、自分の納得したものでないと簡単に購入しない人なのだ。
 ともかくせっかく昼食の場所を提供してくれているので、僕はなんだか悪い気がして、シルバーのブレスレットを一万ドンで一つ買った。それから食事のために台所のある部屋に行くと、小さなテーブルの上には御飯と、厚揚げにたれをかけたものと、牛肉と野菜の炒めたものという料理が既に並べられていた。

 こんなマイノリティー部落の家で、マイケル君の手作りの昼食を食べるなんて予測していなかった。心が豊かになるような彼の料理を僕たちはいただいた。



 第五話

 
少数民族の部落の民家で、しかもガイド君の手作り料理で昼食を食べることができるなんて思いもしなかったので、僕はとても感激してしまった。

 食器などは決して衛生的とはいえないが、そんなことはどうでもいいような気持ちになり、僕は心の底からマイケル君やこの家の人達と同じように食事をすることを喜んだのであった。実際食事を始めると彼の手料理はとても美味しく、御飯を二度もお代わりをしてしまったほどである。

 四人で食事をしながらいろんな話をした。
 「マイケル君はまだ独身なの?」と僕はさりげなく聞いた。
 すると彼は少しはにかんだ表情になって、「好きな人はいたけど、友達が同じ女性を好きになったので身を引いたんだ」と言った。

 何と殊勝なことをいうものだ。恋に遠慮はいらないのじゃないのか?

 彼は次に、逆に僕達にまだ独身かと聞いてきた。
 「勿論だ。でも僕には息子が二人いるんだ」

 と僕がいったら、彼はどうも理解していないのか、彼女に対して「彼は独身なのにどうして息子がいるんだろう?」と尋ねていたようだった。

 結婚して二人の息子をもうけたが離婚して、現在は独身であることをマイケル君に説明したようだが、彼は信じられないといった表情で笑うのだった。彼の民族では離婚が殆どないことや、結婚してからもし他の女性にドキドキするようなことがあっても、決して浮気をすることは許されず、辛いけど我慢するだなどと、彼は大きなゼスチャーを交えて話した。

 そしてマイケル君は彼女達の年令は幾つだと聞くので、幾つに見えるかと逆に尋ねたら、  「ウーン、二十五才くらい!」

 などと信じられない言葉が飛び出したのであった。(オイオイ・・・)

 彼女達は、それが例えマイケル君のお世辞であったとしてもとても気分がいいようであるが、いくら仕事といっても二十五才くらいはないんじゃないかマイケル君! ベトナム人は純粋なのが売り物の民族じゃなかったのか?

 確かに彼女が本当に若く見えることは認める。ベトナムの後訪問したカンボジアでは、日本人バックパッカー数人と途中から同行したらしいのだが、最後まで彼女の年令をあれこれ議論した結果、二十才ということに落ち着いたらしいのだ。

 彼女の場合、二十才といっても【フーン】と納得してしまうようなところが容貌にあるから、これはもう詐欺に等しいものである。

 彼は僕にも年令を聞くので、正直に四十六才であることや、今回の旅は短期間彼女にお供したのであることなどを話したら、「全然年令を感じさせない体力だ」といってくれた。トレッキングでは、途中でリアイアしてしまう中年以上の旅行者が結構多いとのことである。(実のところこの時点で既に体調を壊していたかもしれないのだけど)

 僕達は雨中のトレッキングのあとなので、かなりお腹が空いていたのかもしれないが、本当にマイケル君の料理を美味しくいただいたようで、おかずは全部平らげてしまい、三人とも御飯をお代わりした。

 食後のお茶を飲みながら、今年の夏はこんな素晴らしい経験が出来たことに何故か胸が一杯になってしまい、日本での仕事や私生活に自分が大げさに苦悩していることなんか、とてもちっぽけなことのように思えてしまった。

 ベトナム奥地のマイノリティーの部落での人々の生活に触れて、電話やガスや水道は勿論、日本では粗大ゴミに出されてしまうような家具さえもない彼等の不自由な生活様式は、考えてみれば決して不自由ではなく、知らない権利を頑なに通して、何千年も昔からの民族の生き方を貫いていることこそが、逆に自由といえるのではないかと思うのである。


 第六話

 僕達は昼食に立ち寄らせてもらったお礼を、青年とお母さんに丁寧に言ってからその家をあとにし、再びライスフィールドの中の畦道を歩き出した。雨はすっかり止んでいたが、空はまだどんより曇っていて、向こうの山の頂きは相変らずモヤが立ちこめて、とても神秘的な景色である。

 この辺りの土壌は赤土で、粘土質であるため雨でかなりぬかるんでくると、ちょっと傾斜のきつい道ではなかなかスムーズに登れない。彼女はマイケル君の後ろを歩いているので、マイケル君が先に登ると彼女に手を貸すという形が生まれるため、僕はそれを見て少しジェラシーを感じてしまうのだった。

 僕はオレンジさんが滑りそうになると後ろからお尻を押すわけにはいかないので、もし滑って落ちてきたら受け止める体制を作りながら登って行くのだが、これはとても足腰が疲れる。

 そんな風に悪路を歩いて棚田の中腹くらいのところまで登り、ある一軒の民家を訪ねた。

 その家には子供の数が多いのか、それとも近所から集まってきたのか、三才くらいから十二才くらいまでと思われる十人以上もの子供達が、黒モン族の民族衣装に身を纏って僕達の周りを取り囲んだ。

 別に急な来訪客を物珍しがっているわけでもなく、気軽に何か喋って来るのだが、やはりベトナム語なので僕達に伝えようとしていることが残念ながら分からない。僕達は家の中には入らなかったが、軒下でその家の母親と思われる女性が機織をして見せてくれるのをしばらく眺めていた。

 その機織機は、日本では平安時代にでも使ったのではないかと思われるような粗末なものであったが、母親は黙々と敷物のような物を上手に織っていく。僕等はしばらくその芸術的な機織を眺めながら、マイケル君の説明を聞いた。

 彼によればこの辺りの男性は農業には従事するが、農閑期には殆ど働かないで、時にはアヘンを吸ってダラダラ過ごす人もいるらしい。女性は農繁期を男性とともに働き、その合間には年中機織に従事し、また時には出来上がったものをサパの市場に売りに出るなど、とてもよく働く。

 また、結婚は同じ民族間以外とは決して行わず、男女関係に於いても民族の慣習を頑なに守り通しているとのことであった。

 しばらくの間、機織から出来上がった織物を紺色に染める植物【なんという植物だったか忘れてしまった】の説明などを聞いたが、今になって思い起こせば大勢のモン族の人が集まってくれたのに、僕は敷物一つ買わなかった。

 小雨が降る中、機織の実演をしてくれたお母さんに対して、お礼の意味を込めていくつかの民芸品を買えばよかったと今になって後悔している。三百円のお金がここでは、数人の家族が一日食べることができる筈なのだから、何の躊躇いもなく一枚くらい買えばよかったのだ。人によれば、このような気持は安っぽいヒューマニズムと揶揄する者もいるかもしれないが、現地に来てみればそんな理屈は飛んでしまうと思う。

 ともかく僕達は再び丁寧にお礼をいってさらに歩き始めた。

 棚田の畦道を少し下って小さな川を渡ると民家の外観が少し変わり、今度はザオ族という部落に入った。

 ザオ族は民族衣装があるのかないのかは分からないが、普段はモン族とは違って自由な服装である。民家も比較的隣接しており、主な仕事はモン族と同様に農業であるが、頑固に民族の慣習を守り通しているモン族とは異なり、服装や住居などに順応性が窺えた。

 坂を上がった所にある一軒の民家に僕達はお邪魔した。

 そこは玄関に漢字で文字が書かれていたので、この辺りは中国の影響を受けた地域かもしれない。黒モン族の粗末な住居よりは家屋の造りや庭の感じなども少しだけ立派である。

 玄関は閉まっていたのだが、マイケル君が遠慮なしに開けて中に入ると、左手の部屋のベッドに男性が音楽を聴きながら寝ており(その男性が聞いていた音楽はなんとジャズであった)、右手の部屋には二人の青年が何をするでもなくのんびりしていて、僕達の突然の来訪にも特に途惑った様子はなかった。
 庭にはコンクリートで地面を固めた洗濯場のようなところがあり、物干し竿には男物の衣類のみが干されていた。

 僕達は入口の敷居に腰を下ろして、彼女達が持参してきたベトナム茶を飲みながら(お茶はペットボトルに入れてきたもので、この際全員回し飲みだ)、この家の住民達と少し言葉を交わしたのだが、黒モン族のように僕達に売るべきものもなく(ザオ族は民芸品などは作っていないのだと思われる)、あまり積極的には話して来ない。

 突然マイケル君が、「この辺りは中越戦争の際、中国の人民軍が大挙攻めて来て多くのベトナム人を殺戮し、家屋や教会などを破壊し尽くしたのだけど、今は中国ともフレンドリーな関係なんだ」と機関銃を撃つジェスチャーをしながら言った。

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