Music:Hokago

 第二話

 しばらくしてミニバスの案内の青年が、「こっちだ」と僕達を駅の外に連れて行った。

 ラオ・カイ駅は正面から見るとそれなりの規模で、駅の近くには飲食店や屋台や露天などがたくさん出ていて、フランスパンや果物などの食べ物や日用雑貨なども売っている他、屋台ではフォーなどのちょっとした料理も食べさせている。駅前にはミニバスを始め、少し大きめのマイクロバスのような車両が十数台も並んでおり、いずれもサ・パへの旅行者を待っているのである。

 僕達は案内の青年に連れられて、助手席を加えると十二人乗り程度のワゴン車に乗って出発を待った。

 サ・パは車で約一時間半ほどの距離で、山道を登って標高約千六百メートルのところにあり、インドシナフランス領当時から避暑地として賑わったところで、一時は寂れていたがここ数年前から再びもとの活況を取り戻しつつあるらしい。おそらくあの人はサ・パのバス発着場付近で、午前十時過ぎくらいに僕を待ってくれているに違いない。そう思うと早く出発しないかと気持ちが堰くのだが、青年は定員一杯に客を集めるまでは出発しようとはしないのだ。

 八時半を過ぎた頃には殆どのバスが乗客を乗せて出発してしまい、僕達のミニバスは欧米人風の若い男性とアジア女性(日本人にも思えるのだが英語がとても流暢すぎるので違うと思われた)のカップルとベトナム人若者、そして日本人の五人グループがようやく集まり、ほぼラストに近い出発であった。(脳天気フランス娘達は別のバスに乗った)

 バスはラオ・カイの街中を颯爽と走り出し、一路サ・パへと向かった。

 窓からは道路の両側に建ち並ぶ古いレンガ造り風の民家や飲食店などが見えるが、ハノイでもそうだがここでも民家よりむしろComやBia hoiと書かれた大衆食堂のようなものが目立つ。実際は民家の方が多いのは当然であるが、ベトナム人は外食が習慣化しており、そのため食堂が多いらしく、これは冷蔵庫の普及率がまだまだ低いことも意味しているのではないかと思われた。

 バスは十五分も走れば山道になり、相変わらず時々擦れ違う車や道路を歩いている住民に対し、これでもかというくらい大きなクラクションを鳴らしながら登っていく。しかし道路はなかなか整備されていて、中央分離線などはないが、対向車と擦れ違っても十分余裕のある道幅である。

 このサ・パへの道は、昔フランス領インドシナの時代に、フランス人によって避暑地として開発された際に道路も整備されたもので(現場工事には勿論ベトナム人が従事したのであるが)、一時寂れていた期間はかなり荒れていたらしい道路も近年補修が行われ、また、崖側には所々で植林も見られ、ベトナム政府の長期的な計画が窺われる。

 僕は隣に座っているベトナムの若者にサ・パには何の用事で行くのか聞いたら、仕事が見つかったのだとのことで、ホテルでコックの見習をするのだと答えた。僕が日本人だと知ると、「ナカタ、ナナミは素晴らしい選手だ。そう思はないか?」と、さすがサッカー大好き国民だと思った。

 バスはやがてかなり急な勾配の道にさしかかり、それとともに窓からは遠くの山肌に何段ものライステラス(棚田に米作を行っているもの)が見えてきた。その所々には農業に携わっている少数民族(Minority)の粗末な木造の家々が見え、そこで暮らす人達はベトナムの波乱に満ちた歴史を潜り抜けて、今も昔と変わらぬ民族の生活を貫いているらしいのだ。

 ラオ・カイからサ・パまでは約一時間半余りで、その間景色は殆ど変わらず、山道を少しずつ登っていくのであるが、日本の山間部の道路とはやはり違った趣があり、緑がベトナムの方がやや濃いような気がするのは空気が綺麗だからかもしれない。

 バスの中では旅行者同志は余り会話をすることもなく、ずっと外を眺めているのであるが、景色は飽きがこない。ただ、車内は勿論冷房はなく、窓が開けっ放しなので、排ガスで息苦しく頭が痛くなりそうであった。

 サ・パが近づいて来たことを感じ始めたのは、少数民族の黒モン族が背中にいろんな手作りの雑貨を入れた籠を背負って、部落からサ・パへの道を歩いている姿を時々見かけた頃からである。道路を歩く黒モン族の人たちは殆どが女性で、十才を過ぎた程度の少女の姿も目立ち、後で分かったことであるが、男性は農業や他の力仕事などに従事しており、手作りの雑貨を市場などに売りに出かけるのは女性の仕事ということである。

 バスはウエルカム・サ・パの標識を過ぎて洋風の建物も見え始め、いよいよ到着だ。予定では町の中心辺りにあるサッカー場近くのバス発着場に着く筈であるから、そこであの人はきっと待っていてくれているのだろう。バスは町の中心部に入り、ゲストハウスや商店などの前を通り、競技場(サッカー場)の近くを右に曲がって、山道を再び登り始めた。

【あれっ?バス発着場は過ぎてしまったのじゃないのか?】僕は地図を眺めながら、ハノイでのいい加減な空港バスのことが頭をよぎった。


第三話 

 ミニバスは発着場を通り過ぎて山道を登り始め、すぐにカーブしたと思ったら一軒の小さなホテルの前に停まった。
 ここはあのサッカー大好き若者がコックとして就職が決まったホテルとのことで、彼はバスを降りると僕に軽く手を振ってからホテルに入って行った。
 ミニバスの運転手はバスから降りて戸惑っている僕達に対し、「泊まる所は決っているのか?このホテルはどうだ?」と問いかけてきた。

 【ベトナム人よ、君達が商売熱心なのは十分理解したから、頼むから予定の場所に連れて行ってくれよ】僕は少し呆れてしまったが、あの人が待ってくれているはずのバス発着場に戻ろうと歩き始めた。
 すると日本人の五人グループ(男性四人、女性一人のおかしなグループで、きっと旅行中に知り合って同行しているのだろう)の中のメガネをかけた青年が僕に、「貴方はどうされるのですか?」と聞いてきた。

 「僕は友人が街の中心部のゲストハウスにいるから、そこに泊まる予定なんだ」
 僕は少し不安を感じながらもそういってから、同じバスで来た旅人たちの動向を見守っていた。
 するとさっきから僕達の周りをウロウロとしている年齢不詳の小さな女性が、名刺を差し出しながら何やらベトナム語で話しかけてきた。
 「僕はPhuong Nam GHに行きたいんだけど、ここから遠いの?」と片言の英語で聞いてみた。
 すると彼女が差し出した名刺を見ると、何とそこには僕が目的とするGHの名前が書かれていたのだ。

 「君のゲストハウスに昨日から日本人の女性二人が泊まっていない?」と僕はさらに聞いた。しかし彼女は僕のいうことを分かっていない様子で困ったような顔をしていたが、ともかくバスを彼女のゲストハウスに向かわせてくれないかと運転手にいって再び乗り込み、5人の日本人若者達も僕に同行することとなった。

 Phuong Nam GHはサ・パの中心からサ・パ市場を通って西方向に二百メートル程のところに位置しており、ちょっとはずれにある静かなゲストハウスである。到着後、五人の日本人若者達は部屋を見せてもらうために中に入っていった。僕はあの人が迎えに来てくれていることなどすっかり忘れてしまっていたが、昨日の電話で、予定の時刻に来なかったらゲストハウスに帰っているからとあの人がいっていたのを思い出し、ザックを下ろして玄関で待つことにした。

 ゲストハウスの前にたたずんでいると、黒モン族の少女達が僕を囲んで、手縫いの敷物やシルバーのブレスレットなどを、「Buy for me!」といって勧めてくる。
 僕は一人の少女にシルバーのブレスレットはいくらか聞くと、一万ドン(七十七円程度)というので、すぐに一つだけ買ってしまった。するとそれを見ていたほかの黒モン族の少女達が、「買って、買って!」とうるさくいい寄ってきて離れない。確かに彼女たちは可愛くて憎めないのだが、ホトホト困惑してしまった。
 そんな事をしながら何気なく市場の方を見ると、あの人が遠くの方から歩いてくるのが見えた。

 僕は彼女とは一度きりしか会ったことがないし、しかも今日はオレンジに模様の入ったベトナム風巻きスカートに白のシャツ、首にはブルーの模様入りスカーフをして、さらに頭にはベトナム人が被っている三角帽子(ノンっていうんだね)に足にはサンダルといった、ベトナム人民有閑マダム的風貌で、予測のつかない格好であったが、一目で彼女と確信したのであった。

 きっと東京の渋谷駅前辺りの雑踏でも、彼女がどんな服装でどんな格好をしていても、僕は大勢の人の中から確実に彼女を見つけ出す自信があるのだ。(仕事柄1度会った人は忘れないのだ。特に若い女性は)

 僕は黒モン族の少女の手を解きながらゆっくりと彼女の方に歩いて行って、「やあ!Nice to meet you」といった。


 第四話

 彼女はちょっと疲れたような顔をして、「ペロ吉、どうしたの?バスが着いても全然降りてこないから、今夜の便か明日の便に変更したのかと思ったよ」と言った。

 僕は、ミニバスがバス発着場に予定通りに連れて行ってくれず、あるゲストハウスに着いたが、そこで偶然にもこのゲストハウスの女性がいたことなどを説明した。彼女にずっとバス発着場で待ってくれていたのと聞くと、発着場が見えるカフェでヨーグルトを食べていたとのことで、しかも一人ではなく、彼女の隣にニコニコして立っているオレンジさんと一緒に待っていてくれたということだ。

 このオレンジさんと彼女とは中学生時代からの友人で、三日前にハノイで合流して、翌日の夜行列車でラオ・カイに到着、サ・パには昨日の今頃の時刻に到着したらしい。オレンジさんは勿論女性で、東京で0Lをしているらしいのだが、夏休みを利用して少しだけ彼女の旅のお邪魔をしているというわけである。

 ここまで我慢して、僕のこの旅行記を読んでくださった方達の期待を大きく裏切ったのではないかと申しわけなく思うのであるが、つまり僕は出発日が異なった航空チケットをいくつかキャンセル待ちしていて、彼女が八月十二日頃にハノイに到着する便が取れないかプッシュしなさいといってくれていたのに、結局、十五日発のチケットしか取れなかったというわけで、オレンジさんがハノイに着く前に彼女と会って、僅か二日間でも二人で過ごすチャンスをみすみす逃したという結果になってしまったのだ。
 今から思えば、仮に何も色めいたことがなかったにしても、二人だけのハノイを過ごせるという、大げさにいえばハレー彗星や月食や日食の如く、人生で何度もめぐってこない絶好のチャンスを、自分自身の不注意によって逸したということなのだ。

 【あーあ、後悔しても始まらないが、野球でいえば痛恨の一打を浴びたという感覚かもしれない】

彼女は七月初旬に日本を脱出してタイからラオスに滞在中の頃、僕がメールで、「仕事の都合がうまくつけば、十日から十五日の間で出発できそうだ。もし予定通り仕事がはかどらない場合は、八月の終わり頃になりそうだよ」と送ったら、彼女は、「メールや、場合によっては国際電話で連絡を取れている限り、私はいつでもペロ吉を迎えに行くことができる」と返事が届いていたから、その辺じっくり吟味検討の末、八月末頃に彼女の滞在先に旅する計画に変更してもよかったのだ。
 つくづく僕って要領の悪い男だと思ってしまうのだが、まあそんなことを今更いっても仕方のないことだ。

 「やあ!はじめまして、会えて嬉しいです」
 僕はオレンジさんに丁寧に、ぎこちなく挨拶をした。
 「あっ、噂の探偵さんだ。無事に着いてよかったね」
 オレンジさんは典型的な日本人女性というふっくらした体躯を揺すりながら、ニコニコと嬉しそうに笑うのであった。

 とりあえず彼女達が僕のために予約してくれていた部屋に案内してもらってザックを下ろし、僕の部屋でベトナムティーでも飲んで無事の再会を祝おうということになった。

 Phuong Nam GHは二棟の建物を階段でつないで構成されていて、一階にフロントとロビーのある建物は二階建てで(フロントといっても小さなカウンターと四人掛けのテーブルが三脚設置してあるだけなのだが)、一、二階はドミトリー風の部屋になっているようで、階段を昇った別館の建物は、地下一階が経営者の住居、一階〜三階が客室になっており、部屋数は十室程度と思われた。

 僕の部屋は階段を上がって最初の部屋で、中には大きなベッドと縦長のタンス、テーブルと小さな椅子が二つ置かれていて、トイレと兼用のシャワー室はお湯が出る。(一泊四ドル)

 窓からはサ・パの洋風建物やその向こうには霧に曇った山々が見え、ちょっとメルヘンチックな景色である。僕をここまで案内してくれたゲストハウスの娘さんは、早速ポットにお湯を入れて持って来てくれたのだが、彼女は身長が百五十センチに満たないし、不二家のペコちゃんのような顔で、本当に中学生くらいにしか見えなかった。僕達はベトナムティーを小さなティーカップ(ベトナム人はお茶をマグカップのような小さなものでいただくようだ)に注いで、「乾杯!よかったねぇ」と再会を祝ったのであった。(ヤレヤレである)
 僕がノイ・バイ空港からハノイまでのミニバスのことや、夜行列車で一緒になったベトナム青年、脳天気なフランス娘達などの話をして彼女達に笑われたり、ロータストラベル・ゲストハウスのアイスコーヒー・ウイズ・ミルクは最高だったねなどと、久しぶりにリラックスした気分になって三人で暫し談笑した。

 「ねえ、考えたら僕は朝から何も食べていないんだよ」
 朝からではなくて、昨日のバンコクからハノイまでの機内食以後は水分以外、何も摂っていなかったのだが、何故か恥ずかしくて本当のことをいえなかった。僕達は昼食にサ・パの市場の方に出かけることにした。【ヤレヤレようやく何か食べられるよ

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