Music:Hokago


第八章、サヨナラハノイそして彼女

 第一話

 次に目が覚めたのは午前四時前だった。同じ部屋の他の五人はまだぐっすり寝ている。
 予定では午前四時頃にはハノイ駅に到着する筈だが、列車はかなり遅れているようだ。窓の外の風景は薄闇の中に田園が広がっていた。僕はドアを開けて通路に出た。

 デッキに立って外を見ると夜明けの気配はまだ感じられなかったが、空が少し青みを帯びてきており、遠くまで広がる田園風景との色彩が神秘的に思えた。あちこちのコンパートメントでは、そろそろ目が覚めた人が洗面に立ったり、ワゴン販売の女性からフランスパンやコーヒーなどを購入している様子が窺え、慌しい朝がまた始まる。

 やがて列車は大きな川の鉄橋に差し掛かかった。これはきっとホン川(紅河)に掛かっているロン・ビエン橋だと思われ、ハノイが近くなって来たことを意味している。

 部屋に戻ると、彼女達やアメリカ人たちも既に目が覚めており、荷物の整理や洗面に立って到着の準備をしていた。彼女は昨日からほぼスッピンの状態の顔を洗面に向かい、オレンジさんも後に続いた。

 僕は前述の通り、サ・パの宿に洗面道具一式と発毛剤まで置き忘れてしまったので、慌しく準備をする同室の五人の様子をポカンと眺めているだけだった。

 列車はハノイ駅の一つ手前のロン・ビエン駅に停車し、降車する人々が手に大きな荷物を持って出口に向っている様子が見えた。十分間ほど停車して、列車は相変らず爆音のようなファンファーレを発したあと再びゆっくり動き出し、間もなくハノイ駅に到着した。

 「じゃあ、よい旅を」

 僕達は同室のアメリカ人女性と男性に別れを言ってA駅から出た。
 
時刻は午前五時過ぎ、駅前にはバイクタクシーやシクロなどがたくさん客待ちをしていて、駅から出てきた人々に忙しく声をかけていた。
 僕達も何人かのシクロに声をかけられたが、それらを振り切り、彼女が大きなザックを背負ってやや前かがみになりながら無言で歩き出したので、僕とオレンジさんもそれに続いた。

 彼女は何か気に入らないことでもあったのか、それとも疲れているからなのか分からないが、無言のままリー・トゥーン・キエット通りを東へ歩き続け、数メートル後ろを行く僕が早足にならないと追いつかないくらいだった。

 早朝のハノイはさすがに静かで、道行く人は殆ど見当らず、時々シクロに乗って眠っているシクロマンを見かける程度であった。この静けさもあと二時間程経てば、バイクや車の騒音、露店や屋台で朝食を摂る人々で、一変してごった返すのだろう。

 おそらくロータストラベル・ゲストハウスに向っていると思うのだが、ハノイに到着してからの予定を僕達は打ち合わせをしていなかった。彼女の方も僕やオレンジさんが分かっているものと思っているのか、何も言わないでひたすら歩き続ける。僕とオレンジさんは午後一時頃のタイ国際航空のハノイ発バンコク行きに乗るので、午前十一時半頃にはミニバスで空港に着かなくてはならない。

 とりあえず、三人とも汗と埃で体が汚れており、髪の毛も洗ってスッキリしたいのは同じ気持ちだ。三人は参列縦隊になって早朝のハノイをひたすら歩いた。


 第二話

 早朝のハノイの街を二十分ほどひたすら歩き、僕達は懐かしいロータスツーリスト・ゲストハウスに着いた。たった五日しか経っていないが、随分以前に感じるのはなぜだろう?

 小さな入口には鍵がかけられ、ひっそりとしている。こんな時刻だから仕方がないが、彼女がドアを何度もノックした。しばらくしてドアが開き、僕が五日前に立ち寄った際にいた青年が眠たそうな目をこすりながら出てきた。

 「とりあえず部屋を借りたいんだけど、トイレとシャワー、エアコン付きの部屋は空いている?」

 彼女が訪ねた。

 「ツインで十二ドルの部屋が空いていますがいいですか?」

 僕とオレンジさんはあと数時間でハノイを発つ。今夜は彼女が泊まればいいのだし、三人で割ると負担も少ない。一応見せてもらったら二階の端の部屋で、窓からの日差しも心地良さそうなのでザックを降ろすことにした。

 交代でシャワーを浴びようということになり、彼女は階下のシャワー室に降りていき、僕は部屋のシャワーを使った。汚れた体を石鹸で洗うとお湯が茶色に変わった。バンダナを外して髪の毛をシャンプーすると、二度目でようやく泡だったほど汚れていた。

 シャワー室から出ると、部屋はエアコンがよく効いていて快適な気分になった。暫くして彼女がシャワーを終えて戻って来て、交代にオレンジさんがシャワー室に降りていったので、そのあと十五分程、彼女と僕は部屋に二人にきりになった。

 僕はあと数時間でお別れになってしまうので、彼女に何か気の利いた言葉を言おうと思った。しかし、考えても考えても、気の利いた言葉が出てこなかった。そんな風に部屋に突っ立って難しい顔をしていた僕に、彼女はいきなり思いがけない言葉を言ってきた。

 「ペロ吉ィ、悪いけどこれ持って帰ってね。私が日本に帰ってから取りに行くか、ペロ吉がまた関東方面に出張があったら持ってきて!」

 何かと思うと、白い頑丈そうな布袋を一つ僕に手渡すのだ。手に取ってみるとそれは五キロほどもあるかと思うくらい重かった。中はラオスやベトナムで購入した民芸品や衣類のようだった。

 「これはオレンジさんに持って帰ってもらうものなんだ」

 彼女は僕が預かったものと同じくらいの大きさの布袋をベッドの上に置いて言った。いつの間にこんなにたくさんの買い物をしたのだろう。しかし、これを僕に預けるということは、日本に帰っていずれ再会が約束されたということなのだ。

 僕は手渡された布袋をザックの空いたスペースに入れた。そしてザックの底に眠っていた小さな和英辞典を取り出した。結局、この旅行ではこの辞書を開くことはなかった。

 「見て、この和英辞典。コンパクトでいいだろ?」

 僕はそれを彼女に見せた。心の中では何か気の利いたことが言えないのかと、自分が嫌になってきた。

 「ウーン、なかなか小さくていいね。でもほらこれ、英和と和英の両方入ってるいんだよ」

 彼女は自分のザックをガサゴソとかき回してから、かなり使い込んでいる古い辞書を僕に見せた。

 彼女くらい英語が流暢に話せても、辞書を持ち歩いているものなのだと不思議に思った。そして僕は、日本に帰ったら英和と和英の両方が載っている辞書を絶対買おうと、馬鹿みたいに思ったのだった。

 「この本前からお奨めって言ってたものだけど、私はもう読んじゃったからペロ吉にあげるよ。帰りの飛行機の中ででも読んだら?」

 彼女が僕に手渡した文庫本は、江戸川乱歩賞と直木賞を受賞した藤原伊織さんの「テロリストのパラソル」だった。なぜ彼女が前からこの本を僕に勧めていたのか、その理由を聞きたかったが、「ありがとう」と受け取り、それを大切にザックに仕舞った。

 そして振り向きざま、ザックを整理している彼女のその手を掴んで引き寄せ、細い体を抱きしめた。殆ど無意識の行動で、お互いに驚いた感じだったが、微かにレモンの香りがする彼女の体は不思議なくらい細かった。


 第三話

 「痛い!どうしたのよ。そんなことするなんて嫌いだよ!」

 彼女は僕の体から離れようと、両手に力を入れて僕の胸を押しのけようとした。僕は構わず、彼女の唇に顔を近づけようとした。

 「ペロ吉、 歯を磨いていないから駄目!」

 そうだ、僕は歯を磨いていなかったのだ。サ・パの宿に洗面道具一式を忘れてきたのをすっかり忘れていた。その言葉で一気に現実に引き戻されて抱いていた力を弱めると、彼女はするりと腕から抜けた。

 ちょうどその時オレンジさんがシャワーを浴びて戻って来た。

 「どうしたの?二人とも突っ立ったままで」

 部屋で立ったままでいる僕と彼女を見て、オレンジさんは不思議そうに聞いた。

 「いや、何でもないよ。彼女が重い荷物を持って帰ってほしいと言うから、ちょっと興奮していたんだ」

 自分でも何を言っているのかわけが分からなかった。

 「二人とも何か変だよ・・・」

 オレンジさんはどうも納得がいかない様子であったが、ベッドに置かれた荷物を見て、「ええっ?これを持って帰らなきゃいけないの?」とその大きさに驚いた。

 ともかくどうにかことなきを得て、それから僕達はそれぞれの荷物をもう一度整理をして、暫くベッドに腰を掛けて雑談をした。
 
「二人とも帰れるからいいなぁ。私はどうしようかな?ハノイはもういいしね。ニャチャンまで行くのに列車も少しウンザリだし、バスも二十時間以上かかるからきついしね。あ〜あ、帰りた〜い」

 しばらくハノイでゆっくりすればいいと思うのだが、彼女くらいのベテランバックパッカーになれば、一ヶ所に沈没するのは本意ではないようだ。次の土地に旅をすることが当然の如く、からだが自然に動くのではないだろうか。これからベトナムを南へ南へと下って、ホー・チ・ミン市(サイゴン)を経てカンボジアに入り、プノンペンからアンコールワットを目指す予定らしいのだが、僕はこのまま日本に帰るのをやめて、彼女と一緒に旅を続けようかと本気に思ったくらいなのである。

 午前七時半頃になったので、僕達はハノイでの最後の朝食をとろうと一階のカフェに降りて行った。カフェには既に何人かの欧米人宿泊客が朝食を摂っていた。

 「余ったドンを遣い切らなきゃいけないから朝から贅沢しよう」

 僕はフランスパンのハム野菜サンドとスクランブルエッグに生春巻きを注文し、彼女は春巻きとフォー、オレンジさんはベトナムラーメンと春巻きを注文した。そして飲み物は勿論、アイスコーヒー・ウイズ・ミルクである。このゲストハウスのアイスコーヒーは最高だ。

 カフェの窓から外を眺めると、いつの間にかバイクや車や人でストリートは溢れ、クラクションや人々の喧騒と変わっており、またハノイの一日が始まっていた。


 第四話

 ロータスツーリスト・ゲストハウスでの朝食は、昨夜のラオ・カイでの夕食と同様に、三人とも特に言葉を交わすこともなくあっという間に平らげてしまった。

 「最後だから僕がご馳走するよ」
 僕だって出す時はドーンと気前良く出すのだとチェックをしてもらうと、三人でこれだけ朝から食べて五万ドンほど(385円位)なのだから、あらためてベトナムの物価の安さに驚く。

 部屋に戻り、空港までのバスの時刻まであと少し、僕達三人は言葉少なくなった。それは僕とオレンジさんとは帰路につくが、彼女はまだまだこれから旅を続けるから、別れを惜しんでいる心境だと思うのだ。

 「私は二人が帰ったあと夕方までひたすら寝るから、少しでも寝たらどう?」
 彼女は気遣う。しかし今度会えるのはいつになるか分からない。オレンジさんは友達だし同じ関東圏だからいつでも会えるだろう。僕は大阪だ。
 彼女は冗談で「ベトナムに来れるなら来てみろ」なんて言ったつもりが、本当に僕が来てしまったのだから、きっと内心迷惑しているのじゃないか?

 オレンジさんだってこの四、五日の様子から【探偵さん、彼女のこと好きなんだ】と思って当然なのじゃないか。もしかしたら彼女はオレンジさんに対して、二人の時に【本当に来ちゃったよ〜】と迷惑そうに言っていたかもしれないのだ。その証拠に彼女は僕にとても冷たく、サ・パで体調を壊した時はさすがに少し優しかったが、終始僕を肯定するような言動は見受けられなかった。

 そんなことにも気がつかないで、さっきは彼女を強引に抱き寄せてしまったのだ。僕は旅の最後の方になって、今更ながらそんな風に弱気に思ってしまった。

 「ペロ吉、ハンカチ持ってない?」
 僕がポカンと物思いに耽っていると彼女が言った。
 僕はザックの底から黄色に赤のペイズリー模様のバンダナを取り出し、彼女に手渡した。

 「これ洗ってあるの?」
 失礼なことを聞く。
 
「それ買ってからまだ一度も使っていないんだよ」
 ムキになって僕は言った。
 【よかった、いつもの彼女のペースに戻っているよ】
 そして僕は少しばかり残ったドン紙幣を彼女にプレゼントして、一人分の部屋代四ドルを彼女に渡し、出発の準備が整った。

 十時を少し過ぎたので、そろそろ行かなくちゃと僕とオレンジさんは腰を上げて、彼女からの預かり物で一気に重くなったザックを背負い、階下に降りて行った。彼女はミニバスの発着場であるベトナム航空オフィス前まで見送ってくれるというので、僕達三人はロータスツーリスト・ゲストハウスを出た。

 外はバカみたいに良い天気で、髪の毛を焦がすほど強烈な日差しのもと、思いザックのせいもあって、少し歩いただけでみるみる背中が汗びっしょりになってしまった。

 ベトナム航空オフィスまでは歩いて三〜四分のところで、オフィスの東側にミニバス発着場があり、何台かのバスが待機していた。僕とオレンジさんはザックをバスの後部の荷台に置いて、一人三ドルを支払い、彼女と別れを惜しんで暫く立ち話をした。
 
「そろそろ乗ったほうがいいんじゃない」
 「
じゃあ、気を付けて。今度は日本でね」
 
僕は手を差し出した。彼女も手を差し出したので、【二人はきつく握手をして別れた】なんていうのが映画などではドラマティックな場面になるのだが、僕が彼女の手を握ると、彼女は僕の力加減に任せているといった感じで、握り返してはこなかった。

 しかし僕は、彼女の手に触れることが出来たというだけで満足した。意を決っしてオレンジさんとともにバスに乗り込んだ。
 ところが、後部の席に座って彼女の方向を見るとそこには既に姿はなく、辺りを見渡すと、クアン・チュン通りを北方向に急ぎ足で歩いて行く彼女のうしろ姿が見えた。


 第五話

 彼女は白のシャツにカーキ色のパンツ、頭には例の扇子を広げたような帽子を被り、サンダル履きの姿で、ややうつむき加減に早足で歩き、どんどん僕の視界から遠ざかって行った。
 
「彼女は別れの雰囲気が苦手なのかな。ねえオレンジさん、彼女はいつもこんな風にサヨナラの前に消えてしまうの?」
 
「そんなことはないんだけどね。一体どうしたのかなぁ・・・」

 バスの出発直前に何も言わず行ってしまったことに、オレンジさんも少し意外だという感じで首を傾げていた。僕は彼女の意外な一面を見たことよりも、バスが出発するまで見送ってくれなかったことにちょっと残念に思った。しかし一体何処へ行ったのだろう?

 宿は反対の方向だし、航空チケットの件ならベトナム航空オフィスはすぐ目の前だし、僕はあれこれ可能な限り頭の中で忙しく考えた。僕とオレンジさんは黙り込んだままで、オレンジさんも彼女が何処にいったのかを考え続けていたようだった。

 すると突然、ミニバスの側面のドアが開き、彼女が堰を切ったように現れた。
 
「ペロ吉、はいこれ!」

 そう言いながら僕に一本の歯ブラシを手渡した。
 それはピンク色で、透明ケースにはベトナム語でなにやら文字が書かれていて、裏側の紙の部分にはベトナム文字で使用上の説明か注意書きが書かれているのだと思うのだが、そんなことはどうでもよく、それは紛れもない一本の歯ブラシだった。

 僕は意外な出来事に五秒間程口をポカンと開けたまま、またしても頭の中を光が地球を七回半ほど周るくらいのスピードでいろんな思いが駆け巡った。そして口から出た言葉は、「ありがとう・・・」だけだった。

 何故かミニバスは彼女が僕に歯ブラシを買いに行ったのを知っていたかのように、彼女が戻って来て僕が歯ブラシを受け取るとすぐに、「出発です」と言うのだった。

 バスは彼女を残して出発した。

 僕とオレンジさんは後ろを向いて彼女に手を振った。

 彼女も僕達に手を振っていた。

 しかしその顔は笑っているように見えて、何故か力なく感じられた。

 僕は心配でバスからすぐ降りて駆けつけたい気持ちになってしまった。

 バスはすぐに最初の交差点で赤信号のために停まった。

 彼女は小走りに手を振りながら僕達のバスを追いかけて来た。

 【もういいよ!危ないよ!日本の道路じゃないんだ。ここはハノイなんだ。洪水のようにバイクや車が走っている道路なんだから、もう追って来なくていいよ!】

 ぼくは心の中で叫びながら彼女に手を振り続けた。

 バスは青信号に変わって再び発車した。

 一旦縮まった距離がみるみる開き、大きく手を振り続ける彼女の姿がどんどん小さくなっていった。

 僕はそれでもずっと手を振り続け、彼女も手を振り続けているようだった。

 僕の頭の中は真っ白だった。何も考える能力がないような状態だった。そして彼女の姿はハノイの雑踏の中に見えなくなってしまった。

 僕は見えなくなった後もしばらく手を振り続けたが、諦めて前を向いて座り、大きな虚脱感のようなものに包まれながら、隣にオレンジさんが座っていることも忘れて、頭の中を交叉する多くのことを整理しなくちゃと思いながら、手にしっかり握られたピンクの歯ブラシをじっと見ていた。

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