Music:Hokago


 第七話

 皆から随分と遅れてしまった僕と彼女は、緩やかな山道を登りきったあたりでようやく追いついた。ガイドと同じトレッキングのグループが休憩して待ってくれていたのだった。ここからの景色はなかなかのものだった。

 日本の田舎で見られる山間部の集落の景色と変わらない。しかしその集落における戸数そのものが極めて少ないのだ。その分田畑が多く、また空気も透き通っているので爽やかさは格別なものを感じる。

 再び僕達は一塊になって、山道を一旦下ってまた登り、馬や牛を引いた現地の人々や、マーケットから帰ってきた綺麗な衣装の女性達や子供達と時々擦れ違いながら、再びある一軒の民家にお邪魔した。

 そこはトレッキングツアーの立ち寄り先として予め話が出来ているお宅のようで、僕達が居間に通されると、小さな椅子が並べられ皆が車座になり、ガイドがベトナムの歴史について語り始めた。

 彼は特にベトナム戦争終結後の中越戦争の際、中国国境にあたるこの辺りの状況などを中心に話しを進めていたようだ。ガイドの英語は僕達アジア人にとっては聞き取りやすく、リスニングが大の苦手な僕でも大体何をいっているかは分かるような気がするのだが、どうしても分からない時はやはり彼女から説明を受けることになる。

 中越戦争というのは、前にも述べたことを詳しく話すと、一九七五年四月にベトナム戦争が終結後、隣国カンボジアではポル・ポト派が政権を掌握した。この独裁者ポル・ポトは住民の強制移住や虐殺を行い、ベトナム領へも侵犯してきたため、一九七八年暮れにポル・ポト派に反抗するカンボジア人勢力とともに反撃し、プノンペンに親ベトナム政権を樹立したことがきっかけとなった。
 これに対してポル・ポト派を支援する中国は、翌一九七九年二月にベトナム国境より攻め込み、結果的にはベトナム軍の激しい抵抗により、同年三月に中国軍は撤退した。この戦いで、国境近くのラオ・カイやドン・ダン、ラン・ソンなどの町が壊滅状態になり、バック・ハーやサ・パなどのマイノリティー部落も教会や橋などが破壊され、多くの犠牲者が出たといわれるものである。

 ガイドは淡々とした語り口調で聞くものを引きつけ、欧米人グループは特に神妙に耳を傾けている様子であった。

 しばらくして家の主人がベトナム茶を振舞ってくれて、僕達はティーカップを順番に回していき、暫しのブレイク・タイムとなった。
 「貴方はとても英語が流暢ですね。何処で習いましたか?」

 欧米人の一人の女性がガイドに問いかけた。
 「私も少数民族に生まれましたが、父は同じ民族の女性とは結婚をしなくて(基本的に少数民族は他の民族の人との結婚は行わないらしい)、別の民族の女性と恋愛結婚をしたのです。それで部落を出て、ハノイほどは大きくない都市で暮らし、父が教師だったので私も教育を受ける環境に恵まれたというわけです。その後旅行代理店に勤務して、これまで何度か英語圏の国にガイドで仕事に出たことがあります。今はサ・パのツーリストでガイドをしていますが、海外からの旅行者が増えてきたのはここ数年なので、忙しくなったのは最近のことです」
 ガイドは少し恥ずかしそうにしながら淡々と答えた。

 彼は外見的にはちょっと顔つきが南米系のようにも見えるが、とても物静かで理知的な印象を受け、好感が持てるのだ。(因みに年令は三十二才らしい)

 僕達が招かれている居間を観察すると、広い部屋には四人掛けテーブルが置かれ、隅にはベッドが一つ、またベッドの傍に置かれているテレビの下にはなんとビデオデッキがあった。

 ベトナムのテレビ事情は、朝六時ごろから午後十一時か十二時のニュースを最後に放送が終わるのだが、その間連続して番組があるわけではないとのことだ。また、日本人のようにとりあえずテレビをつけておくという無駄なことはせず、見たい番組がないときは消しており、ビデオで香港や中国、アメリカ映画などの吹き替え版を見ることも最近は多くなっていると聞かれる。(ハノイなどの大都市ではレンタルビデオ屋まであるらしい)

 このように、部屋の中の調度や電化製品などを見ても、黒モン族の集落とはかなり経済的な面は差異があるようにも感じるが、男性は農業を中心とした力仕事に従事し、女性は家事と育児の他、民芸品の製作から市場での販売までを担当するといった生活様式は同じである。

 ガイドはさらに続けた。



 第八話

 「ベトナムでは女性が本当によく働きます。朝五時から夜十一時まで働き通しと言っても過言ではないくらいです。男性は農繁期や部落内で結婚がある時などはよく働きますが(部落内で若者の結婚があれば、周りの男性が大勢で協力して二日間程で簡単な住居を建ててしまうらしい)、それ以外は時にはアヘンを吸ってだらしなく過ごしている者もいます」

 ガイドは苦笑いしをながら淡々と話した。

 こののち訪問したラオスでもカンボジアでもそうだが、東南アジアの女性は本当に良く働く。ダメ亭主を養っている逞しい女性が多いのは、日本とは全く違った傾向である。

 僕達はベトナムティーのお代わりをいただいたあとその民家を出て、再び傾斜になっている道を登って少し歩くと、往路に歩いた見覚えのあるややぬかるんだ道に出た。僅か二時間足らずのトレッキングではあったが、起伏のある道を歩いて汗を一杯かいたので少しグロッキー気味だ。しかし、ガイドの男性がとても良かったので、僕達は満足をして出発点に戻って来た。

 元の場所には日本人青年が何をするではなく待機していた。時間をもてあそんでいたのなら、ミニトレッキングに来ればよかったのに。

 「これから君達もラオ・カイからハノイに行くの?」
 「いえ、僕達は反対方向に行くのですよ。とりあえず中国の昆明に出て、北京まで行ってビザを取得してから今度は西へ行く予定です」
 何だ、どこかで聞いたような経路だぞ。
 そうだ、あのサイゴン娘狂いと肝炎に怯えていた青白い青年などの五人組日本人若者も、北京からシルクロードを通ってトルコとかいっていたのだ。ベトナムを北上して旅をする人と、南下してカンボジアからタイという経路で旅をする人とがいるようだ。

 「じゃあ元気で!」
 僕はその日本人青年と別れを惜しんで言葉を交わした。

 「人生は旅」と古くは松尾芭蕉が「奥の細道」で語っていたし、人生は出会いと別れというが、旅も出会いと別れであるから、【本当にその通りだな】と僕は一瞬感傷的な気持ちになった。

 

 間もなくガイドが帰路の案内を始めた。
 「今からラオ・カイまでお送り致します。途中、中国国境を見て四時過ぎには到着する予定です」
 僕達は元の同乗者達とバスに乗り込み、来た道をラオ・カイ方面に向って下っていった。

 【さよならバック・ハー。活気に溢れた小さな街だった】

 

 バスは終始緩やかな下り道を快調に走り続け、四十分程で平坦な道に変わり、しばらく両側の水田風景を眺めていたら、あっという間にラオ・カイの町に入って行った。

 「国境で十分ほど時間を取りますが、写真撮影は禁止です」
 ガイドが重要な注意を行い、バスは紅河の支流であるナムティー川に掛かるキエウ橋近くにバスは停車した。せっかくのベトナムと中国との国境なのに、僅か十分間なんて残念だ。

 撮影禁止の注意を受けたが僕はカメラを持って降り、橋の手前にある国境の衛兵の監視場あたりから、川向こうの中国側国境の町・河口(フーコウ)の街並みを写真に取ろうとカメラを構えた。

 しかしその時、衛兵が顔色を変えて走って来た。腰には拳銃をぶら下げている。

 


 第九話

 衛兵は「※▲☆○※□×!」と、何やら早口で僕を咎めた。

 おそらく写真撮影をするなと言っているのだろう。僕は腰の拳銃に目を奪われ、慌てて「sorry!」といって、カメラをジャケットのポケットに隠した。

 【ハノイからの列車で一緒だった真田広之に似たあの青年がここに勤務している筈なのだが】と一瞬思い、衛兵やイミグレーションオフィスの中を窓から覗いたりしたが、見つかる筈もなかった。

 そんなに怒らなくたっていいと思うのだが、やはり社会主義国は国境付近には神経質になっているのだろうか。

 日本には国境というものがないので、実感が沸かないと思われるが、川の向うはもう中国なのだ。

 その橋は僅か三百〜四百メートル程の距離にしか見えず、中国側の川沿いにはレンガ造りの家やビルなどが建ち並んでおり、向うとこちらでは民族や政治をはじめ、言語や慣習まであらゆる面で異なった人々の生活が営まれているとは、僕は何故か不思議な気がするのだった。

 僅かの間しか国境付近にいることが出来なかったが、国境というものの緊張した雰囲気を少し感じたような気がした。

 アジアを旅するバックパッカーの話などでは、田舎町の国境付近ではいとも簡単に隣国の人々が出入りしているところもあるらしく、タイとミャンマーとの小さな川を隔てた国境付近ではミャンマーの人々がタイに毎日出稼ぎに往来しているらしい。

 ベトナムはラオスとカンボジアと中国とに隣接しており、現在、中国とは三ヵ所、ラオスとは二ヵ所、カンボジアとは一ヵ所、陸路による国境が開けている。カンボジアとの国境などは広大な水田が広がっているだけでフェンスのようなものもなく、アイスクリームの行商人などが国境をまたにかけて商売を行っているというのどかな雰囲気と、あるバックパッカーの著書にも紹介されている。

 僕達は自転車で商売をしているジュース売りのお姉ちゃんからサトウキビジュースを買って飲んだ。懐かしい甘味に心が落ち着く。

 国境を警備する衛兵と、そのすぐ横で商売をするジュース売りの女性。おかしなコントラストである。

 さて、再びバスに乗り込み、五分程走ってラオ・カイ駅に到着した。ガイドは僕達に列車のチケットを渡して、「じゃあよい旅を!」と言ってあっけなく別れた。

 駅前の広場は到着客目当ての十数台のミニバスや食料品などの露店がたくさん出ており、大勢の人々でまたしても溢れていた。

 時刻は午後四時過ぎで、僕達は午後六時発の列車に乗る。出発まではまだ二時間程あるので早めの夕御飯にしようということになり、今回は屋台はやめてちょっと贅沢をしようと、彼女が駅舎の並びに数軒並んでいる飲食店を偵察に入って行った。

 駅舎の最も近くの小さなレストランに決めて、僕達は店の中を通って裏口から外に出たところのテーブル席に案内された。

 フェンスで仕切られた向こうには既に列車が止まっており、そこは駅とレストランとの間の野外テーブル席で、僕達はザックを降ろしてヤレヤレといった感じで体を休めた。

 彼女は茶のサングラスを外して腰を下ろし、かなり疲れ気味のその顔は全く化粧っ気がなく、髪の毛も乱れていた。しかし、肌は春巻きのライスペーパーのように光り輝き(笑)、どことなくセクシーな雰囲気を感じさせるのだった。


 第十話

 ラオカイ駅に停車している列車を眺めながら、僕たち三人は夕食を楽しんだ。

 丸テーブルに置かれたメニューから僕達は、チャーゾーという揚げ春巻きとゴイクォンという生春巻き(えびや豚肉や生野菜をライスペーパーで巻いて味噌だれで食べるもので、これは最高)、シーフードチャーハン、フォー、それに野菜サラダなどを注文し、飲み物は、彼女達は例の如く果物のシェイク、僕はコーラにした。

 ビールは飲まないのかと彼女が聞いてきたが、病み上がりだからやめておくと言った。

 しばらくして料理が運ばれて来た。それを三人は猛烈な食欲で、特に会話もないままにあっという間に平らげてしまった。

 「食後はヨーグルトだねぇ」
 さらにオレンジさんが提案し、ヨーグルトを三つ注文した。運ばれてきたのはサ・パで食べたような自家製ではなくて、市販されているものだったので少しがっかりした。

 その時ガヤガヤと六〜七人のベトナム人グループが入ってきて、僕らの隣の大きなテーブル席に座った。

 そのグループは年配の男女と、三十代〜四十代くらいの男性と二十代くらいの若い男女だったので、一つの家族かなと思って眺めていたら、その内の一人が僕達のほうに来て煙草を勧めるのだ。僕と彼女とは煙草は吸わないのでオレンジさんに勧めたが、彼女は丁寧に遠慮した。

 その男性がさっきから誰かにそっくりだなと思っていたら、そうだあのラストエンペラー≠ノ主演したジョン・ローンだった。

 「一杯どうです?」
 今度はビールとグラスを一つ持って僕の横に来て勧めた。
 僕はグラスを手に持って彼にビールを注いでもらった。彼はテーブルからもう一つのグラスを持ってきたので、今度は僕が注いでグラスを合わせて乾杯をした。

 このようにベトナム人は本当に社交的というか、全然物怖じしないというか、このジョン・ローンさんなんかはとても物静かな人なのに、積極的に話しかけてくるのは、単に国民性というだけで片付けられない何かを感じた。

 彼は自分達のテーブルに戻って食事を始めたが、僕は【これは日越親善だな】と立ちあがり、店の中に入っていって女将さんにビアホイを一本あけてもらった。
 (ビアホイは前にも述べたように、ベトナムの庶民のビールで、街のあちこちにComと書かれた看板の安食堂には必ずBia hoiも書かれており、プラスチック製のボトルに入り、一リットルが三千ドン〜四千ドンで売られている。三十円くらいかな)

 「またペロ吉は調子に乗るんだから〜」
 彼女は呆れた顔で睨んでいるようだったが、僕はテーブルの全員のグラスに日越親善のビールを注いで回った。

 しばらくしてジョン・ローンが僕達の近くまで椅子を持ってきて、ゆっくりとした英語で話しかけてきた。
 「どこからですか?」
 「日本からですよ。あなたはベトナム人ですよね」
 「そうです。ハノイの近くの町から週末にここに来ました。今夜の列車で帰ります」

 彼はあまり英語が堪能でないのか、ところどころでつまって考えるが、ベトナム語を交えながらゆっくりと静かに話す。
 聞き得た範囲では彼は二十五才で、職業は医者ということだ。

 「医者にしては若すぎるよね。英語があまり分かっていない感じもするから、実際はどうなんだろう」

 僕は彼が日本語を分からないのをいいことに、自分が英語力のないことを棚に上げてコソコソと彼女達に話した。

 「分かんないよ〜。だってさぁ、ペロ吉が鼻の下を伸ばしていたサ・パの黒モン族の部落にいた学校の先生だって十九才じゃなかったっけ。ベトナムの教育事情は日本と随分違うのかも知れないよ」
 といわれてみれば納得するようなことをいうのであった。

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