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第六章、バック・ハーからラオ・カイ

(第一話)

 翌八月二十日は日曜日で、僕はバック・ハーのサンデーマーケットツアーのため朝五時半に起きた。

 念のため熱を計ってみると体温計は三十六度のやや手前で止まっていた。これは完全復活だと僕もまだまだ体力があることを認識し、自己満足をしてシャワーを浴びた。新しいTシャツとジーンズに白のジャケットという服装に着替えて、いよいよサ・パともお別れなのでザックの中に荷物を整理しながら押し込んだ。

 日本にいる時に彼女から、「預かって欲しい荷物がたくさんあるから、大きなバッグでベトナムに来て」

というメールが届いていたので、僕は友人から大人の人間の死体でも十分運べそうなくらいのザックを借りてきていたのだ。しかし彼女は一体僕に何を預けるっていうのだろう。

 午前六時ちょうどくらいに彼女達がドアを叩く音がしたので、世話になった汗まみれの部屋をあとにした。しかしこの時慌ててしまい、忘れ物をした。

 一階のロビ-で僕達はツーリストからの迎えを待った。まもなくミニバスが宿の前に到着して、僕達は玄関まで見送りに来てくれた宿の娘さんに手を振った。

車は「工藤ちゃん」の経営するThanh sonツーリストオフィス前に一旦停まり、そこで同じツアー客を乗せて再び出発する。彼女達は「工藤ちゃん」と記念写真を撮るなど、早朝から元気にはしゃいでいた。同乗客は欧米人男女四人グループと、小太りジャーナリスト風中年日本人男性の五人に僕達三人の計八人で、それにドライバーと男性ガイドを加えて合計十人が乗車して出発だ。

 さよならサ・パ!素敵な街だった。

 バック・ハーという町はベトナムの北東部、中国国境近くに位置し、ラオ・カイより北東に約五十キロ、サ・パからは車でラオ・カイを通って約二時間半程のところである。同地も山間部に点在する集落で構成されていて、バック・ハー周辺には花モン族やマン族など、多くの少数民族が居住しているとある。

 街はサ・パよりもかなり小さく、道路も舗装されていないところが多くて観光地としては開発途上である。

 中心の街の広場では、毎日曜日の午前九時から午後一時頃までの間サンデー・マーケットが開かれる。そこでは美しい民族衣装や野菜・果物などの生鮮食料から日用品などが売られる他、馬や犬の競り市も開催され、大勢の人で賑わうらしい。

 車はラオ・カイまではずっと緩やかな下り道を走り、そこから今度は上りに転じた。好天に恵まれたのはよかったが、前を走る車や擦れ違う車からの排気ガスや砂埃などで喉が痛くなってしまう。僕は真中のシートの補助席に座っていて、彼女は僕の前の左端窓際に座っていた。見ると首に白いタオルを巻いて時々口を抑えている。ラオスからベトナムのダ・ナン(中部にある商業都市)までの二十時間の悪路バスを経験している彼女でも、やはり排気ガスには勝てないようだった。

 彼女の今日の服装は、白いシャツにカーキ色のパンツ、頭には例の扇子のような帽子を被り、サンダル履きにオレンジ色の小さなリュックを肩にかけ、黒のポシェットのようなものを腰に巻いているといった賑やかな格好だった。対するオレンジさんは逆に、白のTシャツにベージュのパンツ、頭にはハイキングハットを被り、ごく普通のおとなしい服装だ。

 外は三日前の朝に登って来た時に見たのと同じ景色だが、感傷的な気持ちが入っている分、何故かより一層ライステラスの緑が濃く見えた。所々に点在する農家や学校や教会などを眺めていると、そこで生活している人々がとてもいとおしく思えてくるのだった。


 第二話

 車はラオ・カイの町に入った。

 日曜日の早朝というのに既に屋台やカフェで朝食を摂っている人々でストリートは溢れていた。何をそんなに急いでいるのか知らないが、道路はバイクやリヤカーを引く人々など、大勢の人が行き交っていた。

 きっと人々は一日一日単位で物事を考え、その日を精一杯慌しく、生きるために過ごしているのだろうと僕は思うのだ。そこには人生における余分な装飾は存在しない。長い戦火をくぐり抜けてきた彼等は目の前の生きる術だけを信じて暮らしているように見える。しかし、彼等の日々の生活姿勢を窺っていると、あまりにもサッパリと明るいので、ともすれば見逃してしまう部分ではないか。

 バック・ハーへの道路は、サ・パへのそれよりも傾斜が緩やかだ。平坦な道も多く、平地の水田が遠くまで続いている景色も見え、やはり農業国であることを感じる。
 ラオ・カイを離れて山岳道路に入っても、道路脇には時々民家が現れる。それはとっても粗末な造りなのだが、外に出ている子供達が僕達に手を振ってくれたりするのでホッとする。

 三十分ほど走ると民家の数が増えてきた。すると間もなく人々ごった返している市場が見えた。
 「ここで二十分程休憩しますから、買物をする人は市場を覗いてみて下さい」
 車を停まってガイドが言った。

 僕達は車から降りて、木を組んで板を通しただけの簡単な市場に入っていった。

 そこでは肉や生鮮食料から日用雑貨や衣類まで、あらゆるものが板の上にござを敷いて並べられており、人々は一週間分の食料や生活の必需品をここで購入するらしいのだ。ベトナムは冷蔵庫の普及が山村地域ではまだまだ低いことは既に述べたが、そのためあちこちでこのような市場が活況を帯びているというわけである。

 僕は商品別に販売されているコーナーが分けられていることに意外さを感じながら、彼女達と離れて一通り周ってみた。板の上で大きな塊のまま売られている肉類には本当に驚きだ。しばらくウロウロしたが、お土産として買えそうな物がほとんどなく、生活に必要なものばかりだったので、何も買わずにバスに戻った。

 バスの周りには地元の子供達が七、八人、もの珍しそうに立っていた。何をしているのかと近づいてみると、同乗の小太りジャーナリストさんが腰のポシェットから飴を取り出して子供たちに配っていた。

 どこかで見た光景だなと思ったら、少し前に見た「地雷を踏んだらサヨウナラ」という日本の映画で、主人公の一ノ瀬泰造さんを演じる浅野忠信さんが、カンボジアの子供達に日本のお土産として飴玉を配るシーンがあったことを思い出した。

 この村では飴玉一つがものめずらしいのか?

 さてバスは再び走り出し、四十分程山道を登ると山岳の素朴な街、バック・ハーに到着した。
 「午後一時頃にこの辺りで待っていますから、それまで買物や食事をして来て下さい」

 僕達は車から降りると、何とそこは現地の人々や周辺の少数民族と旅行者とでまたまた溢れ返っていた。僕は何度もあちこちで「溢れ返っている」と言っているようだが、本当にそうなんだ。

 僕達は人の流れの方向にぞろぞろと歩いて行き、カラフルな衣装を着た花モン族の女性が目に付く市場に着いた。

 よく考えてみると朝から何も食べていないので随分とお腹が空いていた。欧米人がサンドイッチなどをパクついているカフェの前を通った時もお腹がグーグー鳴っていたが、彼女達が何も言わないので我慢した。

 市場の入口でようやくオレンジさんがアイスクリームを食べたいといい出して、彼女の分と二つ買って幸せそうに食べ始めた。でも僕の欲しいのはアイスクリームじゃない。

 市場の前の広場では牛や馬の競り市が行われており、隅の方ではニワトリなどの鳥類、更に犬や猫も売りに出されていて、サ・パの街とはちょっと違った市場の雰囲気だ。
 僕達はあれこれ驚かされながら、一通り周辺の様子を見て回ったあと、綺麗な民芸品などがたくさん並べられている市場に入っていった。そこには手作りの絹製ショルダーバッグや財布・小物入れ・敷物をはじめ、ブレスレットや首輪などのアクセサリー類やTシャツなどの衣類まで売られていた。

 いずれも値札は付いてなくて値段は交渉制である。
 この交渉制で商品を買うことに、僕はとても難儀するのだった。


 第三話

 バック・ハーのサンデー・マーケットは旅行者にはお奨めのメニューに含まれている。それは何といってもカラフルな衣装をまとった少数民族の人々が、市場で民芸品などを販売しているところにその魅力があった。

 手作りのショルダーバッグや小物入れ・財布・衣類などなど、それらは原色を使った楽しいデザインで、購買意欲をそそられる。ただ値札が付いていないから、僕は気に入った商品を前に躊躇してしまうのだった。

 彼女とオレンジさんも物珍しさに目を輝かせて青空市場内を歩き回っている。欧米人を中心とした旅行者と現地の人々、それに民族衣装の大勢の女性達で、それこそ「ごった返している」という表現以外思いつかないほどの賑やかさだ。
 小太りの日本人ジャーナリストは買い物には用がないらしく、一眼レフカメラで民族衣装の綺麗な女性たちを撮りまくっていた。日本ならストーカーものだ。

 雲ひとつない好天で日差しもきついが、ここはやはり高地になるのでそれほど暑さは感じない。サ・パの市場のようにある程度整備された雰囲気ではなく、狭い市場内に大勢が押し合うように買い物を行っているので雑多な喧騒を感じるが、それはそれでなかなか楽しいものである。

 この地域の少数民族は花モン族で、その名の通りモン族の中でもピンクや赤など原色を使った派手な衣装を身にまとっている。黒モン族と元は同じ民族なので、彼女等は明るく人懐っこい。僕が布製のショルダーバッグに目が留まり、それを手に取って見ていると、「二万四千ドン!」と言う。

 「二つ買うから四万ドンでどう?」と値切ってみたが、頑なに首を横に振る。八千ドンを値切ったところで、日本円では六十二円ほどなのだが、値札がないから向こうの言い値で買うと損をした気分になるから不思議なものだ。

 ベトナム社会は曖昧なのではなくて、交渉力によって売り手と買い手がお互いに納得する商売が成立するという意味で、民主主義の基本ともいえる商取引が存在しているといえる。

 まあそんな固い考えはともかくとして、僕は彼女に笑われまいとして、僕なりに値段交渉をしてショルダーバッグや財布など数点を購入した。

 ここまででも、例えばハノイからの夜行列車で座席の案内を買って出た少年にチップを渡したことや、サ・パのゲストハウスで国際電話をかけるのに宿の主人の部屋で電話を借り、僅か二分ほど話しただけで面倒だから十ドル渡したことを、「そんなことをするから日本人はカモだと思われるんじゃないの!」と手厳しく言われているのだ。
 だから言い値で買ったりすると、あとでまた嫌味を言われるとかなわない。

 彼女のいうことは正しいと思うが、何しろ僕は日本でふやけた日常を送ってきた習慣が身についてしまっているわけで、毎年世界の発展途上国を緊張とともに旅している彼女とは、根本的に物事に対する姿勢が違うのはやむを得ないことだと思うのである。

 「またいい加減な買い方をする〜」と咎められるのが嫌なのだ。ヤレヤレ、気を遣うよ。


 第四話

 バック・ハーのサンデーマーケットは、現地の人々と外国人旅行者とで驚くほど賑やかだった。花モン族の原色を使った民族衣装が、その賑わいに拍車をかけるように鮮やに輝いていた。

 彼女は絹で織られたカラフルな色をしたショルダーバッグをいくつか買っていた。

 「ペロ吉、これ持ってよ!」

 僕が返事をする間もなく、有無を言わさず彼女は僕の肩から腰にかけてそれらをたすきに掛けた。さらにオレンジ色のミニリュックも反対側の肩に掛けられ、まるで僕はチンドン屋みたいな格好になってしまった。オレンジさんは僕の情けない格好を見て、笑いをこらえきれずお腹を抱えていた。

 市場を出てメインストリート(と言っても舗装などはされていません)を戻り、少し歩いて僕達は一軒のフォー屋に入った。普通の平家の民家のような店である。

 もっと綺麗な屋台やフォー屋はそこの店に入るまで何軒もあったのだが、彼女はその一軒一軒にツカツカと中に入って、自分に合った店を選んでいるようなのである。これにはオレンジさんも彼女のあとをついて行くだけで、全面的に信頼しているようだった。

 そのフォー屋は店の前で米粉を蒸して自家製麺を作っていた。丸い桶のようなものに平たく伸ばした麺ができると、それを棒でヒョイと引っ掛けて出来上がりだ。何とも見事な手さばきである。

 店に入ると中には長いテーブルが二台あり、その周りに低い椅子が十席ほど無造作に置かれていた。決して衛生状態が良いとはいえない店に感じたが、あっという間に運ばれてきたフォーは鮮やかな白の出来たてほやほやの麺で、とても美味しそうだった。これに香草を加えてライム果汁を絞って食べると、何度も言うようだが最高に美味しいのだ。

 三人で六千ドンを支払い(約四十六円)、店のご主人が入れてくれたベトナム茶を飲んだあと、僕達は店を出て、まだ少し時間があるのでコーヒーを飲もうと一軒のカフェに入った。

 二人ともアイスコーヒー・ウイズ・ミルクを注文し、僕はコーラを頼んで椅子に座り、足を投げ出すようにしてくつろいだ。

 「ヤッパリアイスコーヒーはハノイのロータスだねぇ。ハノイに戻ったらもう一度飲みたいね」

 オレンジさんもロータスツーリスト・ゲストハウスのアイスコーヒーはお気に入りのようであった。

 店の中にあるTVは、サ・パで見た国営放送ばかりの番組ではなくて、洗剤や食品のコマーシャルまで流れていた。ここはかなり中国国境に近いし、サ・パほど高地ではないから、他の放送局からの電波や衛星放送などが受信可能なのだろう。

 三十分ほどカフェでゆっくりしてから、そろそろ時間なのでバス発着場に戻った。

 バスが到着した辺りに行くと、同乗していた旅行者が既に集まっていた。

 「これから二時間程のミニトレッキングに行ったあと、ラオ・カイ駅までお送りします。参加は自由ですが他のバスの方達と一緒になります」
 ガイドはトレッキングの説明をしたあと、近くのHoang vuゲストハウスの前で待つように言った。

 サンデーマーケットツアーに来ている旅行者の中には、結構日本人バックパッカーも多かった。彼等はベトナムのこんな奥地で日本人同士が一緒にいることに、同郷の親しみを持って気さくに話しかけてきた。

 「トレッキングって、マイノリティーの集落を訪ねるのでしょ?」

 二十代と思われるゲゲゲの鬼太郎に似た日本人青年聞いてきた。

 またトレッキングか?


 第五話

 日本人の青年がトレッキングに行くのをためらっていたので、僕もサ・パで雨の中少数民族の村を訪ねて十分満足していたから、どうしようかと迷っていた。

 「僕達はサ・パで既に五時間くらいのトレッキングに行ったのだけど、僕は体調を壊してね。昨日の夜やっと熱が下がったところなんだよ。だから今日はどうしょうかなぁ」

 「僕も体調がもうひとつなんですが、行かないとその間カフェでのんびりするのも退屈でしょうしね」

 その青年は同じ仲間とともに行くかどうかを迷っている様子であった。

 彼女達ももう少し買物や街を歩きたいという気持ちがあるようで、ちょっと気が進まない感じにも思えたが、ガイドが他のバスの旅行者とともに現れて「さあ行きましょうか!」というと、ゾロゾロと歩き出した。

 結局その青年たちと別れて、僕は旅行者たちの最後尾を仕方なく歩き始めた。

 ベン・ビエンという村に住む花モン族の集落を訪問するトレッキングには、欧米人八人程と日本人の男女二人に僕達三人の総勢十三人で、同じバスの中年小太りジャーナリスト風日本人男性は来なかった。村への道は数日前の雨でかなりぬかるんでおり、所々には大きな水溜りも出来ていてなかなか歩き辛い。

 サ・パでは田園やライステラスなどを歩いたが、ここでは本格的な山道で、水田はサ・パほど多くなく、その代わりにとうもろこしや果物などの栽培が行われているようであった。

 しばらく行くと小さな川に出たが、雨によって橋が川水で覆い隠されており、僕達は履物を脱いでそこを渡らなければならなかった。彼女達は靴下を脱いでサンダルで渡ったが、僕は茶のスニーカーともいえないヨレヨレの靴を履いていたので、靴下を脱いで両手に靴を持って裸足で渡った。

 それも依然として、彼女が買ったカラフルな模様のショルダーバッグを二つも肩から腰にタスキ掛けにして、反対側の肩にはオレンジミニリュックを掛けて、どう見てもチンドン屋のような冴えない格好だったので、きっと欧米人達も変な中年日本人と思っているに違いない。

 

 川を渡ってからは靴下を脱いだまま靴を履いた。やっぱりアジアではサンダルが最も適した履物だ。

 小さな山に囲まれた村をどんどん奥に進んで行き、やがて僕達は一軒の民家に入った。そこはサ・パから訪れた村の家と殆ど中が同じような造りだった。

 入ったところの広い土間の壁には例の如くホー・チ・ミンの肖像画が掛けられており、低いテーブルと椅子が置かれ、一応居間になっているようだ。

 男性のガイドは低い声の独特の英語で、欧米人や日本人男女に花モン族のことやベトナムのマイノリティー政策などのついて話しているようだが、僕達は黒モン族を訪れた時にマイケル君から大方の説明を受けていたから、所々で耳を傾ける程度であった。

 ベトナムでは少数民族に対しては配慮した政策が執られているらしく、それはインドシナ戦争中、ベトナム軍は北部山岳地帯で最後の戦いを勝ち(有名なディエン・ビェン・フーの戦い)、独立を得たし、ベトナム戦争でもホー・チ・ミン率いるべトミンが、少数民族の住む地域を根拠にして戦っていたことなどが大きな要因となっているらしい。つまり少数民族の助けなしには、なし得なかったということである。

 隣の部屋は子供部屋で、簡単な木組みのベッドが並び、五〜六才の男の子が手に何かの幼虫を持っていた。

 「向こうにたくさんあるんだ」と子供が指す方向を見ると、お菓子か何かの空き缶の中にたくさんの幼虫が蠢いていた。さすがに僕達は驚いたが、これは結構この村では蛋白源になっているのかもしれない。

 ところで花モン族の集落に来ているのに、綺麗な民族衣装を纏った女性が一人も見当らない。よく考えてみると今の時間はまだマーケットにいる頃で、家族が手織りした刺繍入りの雑貨などを売っているのだろう。女性がよく働くのはベトナム人だけではなく、少数民族の人々も同じようだ。

 十五分程その民家にお邪魔したあと、緩やかな道を登って丘に出た。景色を窺うと、そこは山と山に挟まれた平地に延々と続くかの如く水田と畑が見え、黒モン族の集落とはまた違った趣の田園風景であった。

 僕達がしばらく佇んでいると、村の子供たち数人が近づいてきた。


 第六話

 道を歩いていると時々子供達に出会うが、彼等は本当に屈託がなく、写真を撮ってとせがんだりあとをついて来たりする。僕達は子供達と写真を撮ったり、彼女が用意してきた衣類を渡したりするのに少し時間が経ってしまって、ガイドや他の旅行者達と随分距離を開けられてしまった。

 「はいこれ、お母ちゃんにちゃんと渡すのよ

 彼女がさりげなく衣類の入ったビニール袋を手渡した時は、僕は一体何をしているのだろうと不思議に思った。彼女はこの村をトレッキングする前から、自分の不要な衣類を村の人に渡そうと用意していたのだった。市場で買ったショルダーやミニリュックを僕に持たせた彼女は、ずっと白の大きなビニール袋を持ち歩いていたのだが、その理由が今分かったというわけだ。

 オレンジさんは何とか前のグループに追いつこうと早足で歩き出したが、僕と彼女は子供達が後ろをついてくるのでそれに合わせてゆっくりと歩いていた。こんな風にオレンジさん抜きで彼女と二人で肩を並べて歩くなんて、ベトナムに来て初めてじゃないか。僕は少し緊張した。

 「ねえ、ペロ吉、子供に対しての親の自覚って、いつ頃何をきっかけに持ったの?」

 いきなり彼女は全く予期しない内容の質問をしてきた。

 「な、なぜ急にそんなことを聞くの?」

 「う〜ん、ただなんとなくだけどね」

 きっと彼女は僕達の後ろをついてくる子供達を見て何気なく聞いてきたのだろうと思った。

 「そうだなぁ。親としての自覚を持ったのは正確には覚えていないけど、確か長男が小学校六年生くらいだったような気がするよ。その時僕は既に離婚していたんだが、前妻がある時に「長男がこの前ベランダからずっと下を見ていて、何故か寂しそうな顔をしていると思ったら、下で近所のお父さんと息子さんがキャッチボールをしていたの。お父さんがいないから寂しいの?って聞いたら、別に・・・と言って部屋にもどったけど・・・」と僕に連絡をしてきたんだ。それを聞いた時、僕はなんともいえない罪深い気持ちになってしまったよ。夫婦の離婚は子供にとって大きなことなんだ、ということに気が付いていなかった僕が、本当に情けなくなったよ。例えば僕が両親を尊敬していたかといえば(僕の両親は既に亡くなっている)、正直いって尊敬していたとは決していえない。母親は僕に、彼女ができる精一杯の事をしてくれたような気もするから、尊敬というよりも感謝の気持ちはあるよ。でも父親には・・・自分勝手な人だったからね。人間というのはね、非の打ちどころのない人っていないわけでね。子供にとって親の嫌いな面がたくさんあって当たり前なんだ。それでもどこか一つでも立派だなと思うところがあれば、子供というのは親を尊敬するものじゃないかな?だから僕は前妻からその話を聞いてから、離婚してしまったものは仕方がないが、絶対に彼等が尊敬できるところを一つでも持っておこうと考えたんだ。それが親の自覚といえば自覚になるような気がするよ」

 僕は少し考えてから一気に喋った。

 きっと彼女はまた僕のことをいろいろ非難して、「息子さんたちはペロ吉のことを恨んではいても尊敬はしないよ!」なんて言葉が出るのを、何故か期待するような気持ちで待っていた。なぜなら真面目な話をした時には、必ずと言っていいほどはぐらかす彼女なのだから。

 ところがこの時は違った。

 「ペロ吉のいう通りだね。私も両親は尊敬しているものね。そりゃあ、いろいろ嫌いなところはあるよ。でも、こんな親不孝娘にいろいろと心配してくれて、頑張っているものね。子供にみっともない姿を見せたくないとか、子供のために頑張るとかいうのは既に親の自覚なんだものね」

 このように妙におとなしく頷きながらいうのである。

 「でも、子供は親が思うほど向こうは親のことを思っていないからね。結局大人になれば別々の人生なんだよ。そんなものなんだよ」

 僕は彼女がこのような真面目な話を引き落とす前に、先制攻撃のように半ば茶化して言った。

 こんな風にオレンジさんや他の旅行者達に随分遅れながら、僕と彼女はベトナム北部の集落を、汗を一杯かきながら、ミネラルウォーターを片手に歩くのだった。

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