突撃!アンコールワットPart W

Backmusic:Royalcafe


 9.バプーンゲストハウス(Baphoon GH)

 

 僕達をポイペトから運んでくれたのは、バプーンゲストハウス(Baphoon GH)の息子さん達とその仲間ということだった。

 このGHはシェムリアップの北の方に位置しており、地球の歩き方には掲載されていないが(スタッフの話では来年版に載るとのことらしい)、ポイペトからシェムリアップに入り、国道6号線を東に走り、シェムリアップ川に架かる橋を渡って2つ目の交差点を左折して、100m程悪路を行ったところに所在している。

 すぐ近くには、サワッディ・フードガーデンというタイ料理レストランもあるが、周辺は随分と静かで、オールドマーケット周辺や、日本人がお馴染みのGHが集まっているところに比べると少し不便かもしれないが、シェムリアップの中心街まで歩いたって僅か10数分である。

 僕達は既にお世話になることを決めていたが、ともかく部屋を見せてもらうと、全部ツインルームの部屋はオープンして僅か3年程なのでまだまだ綺麗で、ドアや部屋の造りなどもしっかりしており、とりわけ気に入ったのはベッドのクッションが何ともいい感じで、シーツもすごく清潔そうという点だった。

 僕達5人は、Sさんは女性なので1人で一部屋を使い、あと二部屋を僕とM君が一部屋、K君とG青年が一部屋というふうに自然と部屋割りが決まった。

 交代でシャワーを浴びて(勿論水シャワーでお湯は出ません)、旅の埃を綺麗に洗い落としてスッキリしてから中庭に出ると、大きな長テーブルでは日本人の若者4人がTVを見ていた。

 『お疲れ様ッス』とそのうちのバンダナ長身若者が挨拶をするので、『やあ、初めまして、大変だったよ。 シャワーを浴びたらドロドロだった』と笑いながら答えて、僕も彼らの中に入った。

 しばらくして、Sさんやほかの3人もシャワーを浴びて出てきて、自己紹介はあとにして夕食を食べに行きましょうということとなった。

 ところでTVではCNN放送が、ワールドトレーディングセンタービルに旅客機が突っ込んで行くシーンを延々と流しており、僕達は【これは大変なことになってるよ】と口々に言いながらも、ともかく空腹なので夜のシェムリの街に繰り出した。

 僕達5人に、先に宿泊していた4人を加えた日本人9人は、ゾロゾロと暗い夜道を歩き、バイクが土埃を立てる道路を渡って、シェムリアップ川沿いに出ている屋台レストランに入った。

 屋台といっても勿論屋根があり、4人掛けのテーブルが10台程設置されている大きなレストランである。

 僕達9人はテーブルをくっつけて座り、とりあえずアンコールビールを9本注文し、この広い世界で偶然食事を共にすることができたことを祝って乾杯をした。 

 GHで一緒になった4人の日本人若者は、2人が大学生で、2人が社会人ということだったが、翌日にはこのうち3人が次の目的地に旅立ってしまい、この夕食の席だけでは個人的な事柄は殆ど分からなかった。(個人的なことを聞いたって仕方がないんだけど)

 ここでの料理は屋台なので、お決まりの各種フライドライス(要するにチャーハン)と各種ヌードルスープ(同じくラーメンやうどん)のほかには、肉入りの焼きそばや焼きうどん、フィッシュスープなどで、特にカンボジア料理というものはなかったが、僕が注文したポークフライドライスもまあまあ美味しかった。

 しかし各種果物を目の前で搾って、コンデンスミルクなどを入れたシェイクが、この後シェムリ滞在中は毎日病みつきになって飲むことになるのだが、それは日本にはないフレッシュで美味しいジュースだった。

 勿論僕は最年長であるが、それぞれが交代に自己紹介を行ったところ、僕の年齢を聞いて若く見えますねと、皆が口を揃えて言っていた。(本当です)

 最年少はW大学1年生のトモ君で、彼は僕の長男と同じ年齢であるが非常にしっかりしており、ラオスからベトナム南部に旅をする予定で、シェムリアップには既に3日滞在していると言っていた。

 また千葉大学3回生は、プノンペンからシェムリアップに入っており、明日はタイ国境のポイペトに向かうと言っていたので、僕達とは逆のルートを旅しているのである。

 彼はこれまでアジア数ヵ所とアフリカ北部などを旅したことがあると、なかなか若いのにすごいもんだと思ったが、そろそろ18ヶ月も旅を続けているキョーレツバックパッカーであるG青年の話を聞きたく思い、話の鉾先を彼に向けたのだった。

 『ところでGさん、これまでの旅での取って置きの話を聞かせてよ』

つづく・・・


 10.インド談義

 シェムリアップ到着の夜に、僕達が世話になることとなったバプーンGHに宿泊していた日本人バックパッカー4人を交えて、総勢9人でシェムリアップ川沿いの屋台レストランで食事をした。

 アンコールビールを飲みながら、ここにたどり着くまでの経路や、これまでの旅の経験談などをそれぞれが任意に話し始めた。

 ベトナムの話になると僕も少しだけ首を突っ込んで、北部の中国国境近くの少数民族の町の話や、ベトナムの夜行列車のハードベッドは板にゴザを敷いているだけのものであること、国境で写真を撮ろうとしたら撃たれそうになったことなどをオーバーに話したが、まだまだ旅の初心者である僕が最年長だからといって、話のイニシャチブを取る訳には当然行かなかった。

 やはり皆、18ヶ月も旅を続けているG青年には一目置いているような節があり、彼の話に耳を傾けるのだが、G青年は少しも自慢気ではなく、むしろ恥ずかしそうに聞かれた範囲を答えるという感じで、なかなか好感が持てた。

 彼はヨーローッパを北から南に旅するのにレンタカーを利用したといっていたが、国を跨ってのレンタカー使用も可能なのだと、思いがけない情報を得た。

 彼がトルコから南に下り、エジプトからケニアに入り、スキューバーダイビングなどのマリンスポーツを楽しんだ話をすると、千葉大の青年が、
 『僕もケニアで遊びましたよ。 日本人がよく行く※×という所の○△という人が、現地で有名な日本人ダイバーなのですけど知ってますか?』
 と言うと、
G青年もその人を知っていたことなどから話が盛り上がったりした。

 彼はケニアから再びトルコに戻り、イラン・パキスタン・を経てインドに入り、ネパール・ミャンマーなどを周って、タイのバンコクから僕たちと同様の経路で来たのである。

 話はG青年が、
 『今回の旅はたくさんの国を周りましたけど、インドだけはもう結構ですね』
 と言ったことからインドの話となり、紅一点の
Sさんが、
 『私は一ヶ月ほどインドに行きましたけど、よかったですよ。 もう一度行きたいくらいですよ』と言い、『インドのどういうところが参りましたか』と
G青年に聞いた。

 確かにインドという国は、訪問者の間でさまざまな感想があるようで、虜になる旅行者もいれば、二度と御免だという話も聞く。 時には、『インドが呼んでいる』などと、非科学的な思い込みに陥って訪れる者もいるのは事実らしい。

 それほどまでにインドという国は、旅行者にとっては一種独特の国に指定されているようなのだが、行ったことのない僕は何の見解も言えないまま、皆の話を聞いていた。

 G青年が参ってしまったというのは、列車移動のハードさや路上生活者の多いこと、或いは集団乞食に圧倒されたことなどとは違い、余りにも非衛生的なことと、ガンジスというものに対するインド人の考え方にあるようだった。

 『何でもかんでもガンジス川なんですよ。 死者を葬るのも洗濯も沐浴も祈りも・・・』と彼は苦笑いを浮かべながら言うのであった。

 『でも何かひきつけられる物があるのは、私にも少し分かるような気がします』とSさんは、体躯に相応して謙虚そうに述べ、『インドの人って、人間本来の姿のまま生きているという感じなんです』とも言った。

 インドではあらゆるものが土に返るらしい。 チャイというインド紅茶は素焼きのカップで飲んだ後、そのまま地面に捨てて土に返す。 歯を磨く木の枝は、使用後勿論土に戻って行く。 路上に脱糞されたものは、それを処理することなく当然のように土に混ぜられる。

 僕はいつかインドを訪問する機会もあるだろうが、人の話や書物やインターネットの情報などから、若干そのハードさ、ディープさは窺い知ることができるような気がした。

 このように旅談義、インド談義でシェムリアップ初日の夜は更けて行ったのだが、途中僕のテーブルの横にドロドロのTシャツを着たストリートチルドレンが身を屈めて近づき、両手を合わせて物乞いをして来た。

 またしても僕は少しだけ躊躇したが、半パンのポケットに残っていたバーツの小銭を数枚取り出して、その少年にそっと手渡した。
 するとその光景を少し離れた所で見ていた
2人のストリートチルドレンも、僕のすぐ横にやって来て、同じように両手を合わせるのだ。

 僕はすっかり困ってしまい、どうしたら良いものか分からないままいると、レストランの従業員の女性が、クメール語で何やら叫びながら追い払ってしまった。

 何ともいえない感情に見舞われたが、僕が抱くこのような気持ちは、今度時間のある時にゆっくりと分析してみる必要があると思った。

 インドもカンボジアも程度の差異はあっても、極度に貧しい国であることには変わりはない。

僕は少し後味悪く感じながら、そろそろ引き上げましょうかという声に我に返り、すっかり暗闇になってしまった悪路を、9人の日本人とともに宿に向かって歩き出した。

つづく・・・

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