突撃!アンコールワットPart V

Backmusic:Royalcafe

7.ピックアップトラック・その2

 ポイペトの町を出発した時は小雨がまだ降っていたが、町を抜けて水田の中を貫いている道路を走り出した頃には雨も上がり、薄っすらと青空も見えてきた。

 道路は舗装されていないが、殆どデコボコがないくらい丁寧に赤土で修復がされているようで、雨上がりでもあるので土埃が舞うこともなく、思ったより快適なドライブである。

 勿論僕達日本人バックパッカ-はピックアップトラックが初めてで、ザックを尻に敷いて向かい合わせになり、走り始めて少しすると、『話に聞いていたよりハードじゃないねぇ』と口々に言うのだった。

 皆でこれまでの旅話や、ここに来るまでの経緯などを引き続き話し始め、出発直前に知り合った赤Tシャツ青年G君も自己紹介を始めた。

 何と彼は、旅を始めて約18ヶ月も経っているらしく、旅の起点はヨーロッパのベルギーだと言っていた。(と思う。 記憶違いかもしれないが、ともかくヨーロッパ)

 ヨーロッパを下りギリシャからトルコを経て、一旦アフリカのエジプトに渡り、しばらく滞在してから再びトルコに戻って、イランからパキスタンを通ってインドに入り、ネパール・ラオス・タイと来て、バンコクから列車でアランヤプラテートに昨夜到着し、一泊してから今日の午後僕達と一緒になったという行程で、僕は旅のツワモノと巡りあったことで、【これは今夜いろいろと情報が聞けるぞ】と胸躍らせたのだった。

 なんとしても彼と同じ宿に泊まって、彼が嫌と言ってもこれまでの訪問国の話を聞こうと思ったのだった。【絶対に逃がさないぞ()

 G青年は32才。 横浜の高校を卒業後、寿司職人見習に従事し、数年間修業を積んでから渡米、ニューヨークの日本人経営の寿司屋で働いて、英語の勉強とお金をコツコツ貯めて、晴れて去年(平成12)1月に、先程述べたようにヨーロッパからバックパッカ-として旅をスタートさせたのである。【しかし何故ヨーロッパスタートなんだろう】

 明るく人懐っこい笑顔で、それだけで人間性の良さが窺える人だと感じられ、本当に今回の旅も、性格の良いバックパッカーと知り合えたことに、神に感謝しなければならないと思うのだった。

 午後2時頃出発した僕達は、あれこれ賑やかに会話をしながら、トラックの荷台での初体験のドライブを楽しんだ。 紅一点のSさんは、ローマの休日の主演女優であるオードリー・ヘップバーンにとてもよく似た可愛い女性で、土埃を避けるため顔にチーフを巻いている素振りがすごく魅力的に思うのだった。

 僕達をシェムリアップまで導いてくれるGHのスタッフはとても陽気で、最初国境でタイ側の青年からバトンタッチした青年は、これから僕達が行くGHの次男とのことで、かなり日本語も堪能で、いろいろと話し掛けてきて楽しい。

 僕達は彼のあだ名を“若旦那”とつけることに全員一致で合意し、若旦那の意味を彼に教えるのだが、理解しているのかどうかキョトンとした顔で笑っているだけであった。
綺麗に舗装された道路が途中続く
 道路は途中から完全に舗装道路に変わり、ガイドブックやインターネットで得た情報とは随分と異なっており、短期間で道路事情がこれほど良くなっているということは、カンボジアの発展は加速度をつけ始めたのではないかとさえ思うのだった。

 1時間余りのドライビングの後、トラックはシソポン(Sisophon)というおかしな名前の街に到着し、ここで食事休憩を取ることとなった。 そういえば昼食はまだだったのだが、国境越え以後慌しくて、食事のことを考える余裕などなかったような気がした。

 シソポンはポイペトから40数キロの距離にあり、以前は軍事上の重要な町だったらしいが、今では特に見るべきもののない小さな町で、少し郊外に行くとまだまだ地雷が残っているらしい。

 街中にはホテルやGH4,5軒所在しているが、今やこのように道路事情がかなり良くなったとなれば、ポイペトから一気にシェムリアップまで行くのが短期の旅では効率が良いだろう。

 さて僕達は一軒の広いレストランに入り、中途半端な時刻なので他に客は全くいなかったが、遅めの昼食としてそれぞれが簡単な料理を注文し、名刺代わりのアンコールビールで少しだけ乾杯をした。

 5人でビール2本と、各自がフライドライスやヌードルなどを食べて、一人1ドル少しのお勘定だから、やはり物価は相当安いと感じた。

 40分程休憩をしてトラックは再びシェムリアップに向かって走り始め、相変わらず舗装道路をかなりのスピードで突っ走る。

 しかしこの舗装道路もしばらくすると土煙が立つ道路と変わり、しばらく走って今度は子供達が裸足で走り回っているのが見える、ある小さな村落で止まった。

 僕達は“若旦那”に『何の休憩なんだ?』と聞くと、彼は『ちょっと疲れたでしょ。 少しだけ休憩します』と言い、『道路は去年から今年にかけて修復しましたから、前ほど無理をしなくても早くシェムリアップに着きます』とも流暢な日本語で言うのだった。
僕達のピックアップトラックに集まった村の人達

 たちまち僕たちのトラックの周りには、村の子供達が集まって来て、何やらそれぞれ叫んでいるのだが、一度にガヤガヤ言うので何をいっているのかサッパリ分からない。

 バナナやお菓子類などを売りに大人の女性も数人がトラックを囲み、たった一台のトラックの到着は暫らく蜂の巣をつついたような感じとなった。(ちょっとオーバーだけど)

つづく・・・


 8.シェムリアップに到着

 

 シェムリアップへ向かう途中2度目に休憩したところは、地図で見るとプノン・リエブ(Phnum Lieb)という町(村という感じだった)であると思われた。

 道路の反対側には粗末な店舗が数軒並んでおり、そこに行けばトイレを貸してくれるらしく、案内の若旦那やスタッフは一軒の店に入って行ったが、僕達はトラックに集まる子供達や物売りの女性の相手をした。

 美味しそうな果物や日本の“カリントウ”のようなものも売っていて、勿論値段はモーレツに安いのだが、皆疲れていたのか誰もそれらを買おうとはしなかった。

 僕はピックアップトラックの周りに集まった子供達の中に、フランス人形のような顔をしたとても可愛い少女を見つけた。

 彼女は僕と視線が合うと、『ペン! ペン!』と手を差し出しながら叫んできた。
 僕は【ここではペンが大切なのか? そうか、それが分かっていたら10ダースくらいは持ってきていたのに】と今更ながら自分の予備知識のなさと、旅を自分だけのものとしてしか考えていないことに、腹立ちと後悔を感じるのだった。

 発展途上国への旅先では、このようなことは当然予測するべきなんだ。 

 僕は何も彼女に差し上げるものがなく困惑したが、バンコクのコンビニで買ったガムが、そのままミニバッグに入っていたのに気がつき、それを他の子供達に気付かれないようにそっと手渡した。(つもりだった)

 彼女はとても嬉しそうな顔をして何か言葉を僕に言ったが、それを見ていた近くにいたもう一人の少女がそれに気付き、手を口元に何度も持って行って、【私にも頂戴!】という感じで僕に訴えるのだ。

 僕はもう何も持っていないしホトホト困ってしまったが、そういえば列車の中で少しだけ食べた、日本から持ってきたキシリトール入りのガムが残っていたことを思い出した。

 バッグの中をゴソゴソと捜して、半分あまり残っていたそれを見つけ出し、今度こそ他の誰にも気付かれないタイミングでその少女にそっと手渡した。

 彼女達2人は嬉しそうな顔をして僕達のトラックから離れて行ったが、それから出発したあと僕は何故か空しい気持ちになってしまった。

 僕の行なったことは、大げさに言えば戦後日本に乗り込んできたアメリカの進駐軍が、日本の子供達に対して、チョコレートやガムを車の上から投げ与えたことと同じじゃないのか。

 僕は引き続きピックアップトラックの荷台に揺られながら、何故か貧しさというものについてふと思いを巡らした。

 日本にも貧しい人々は大勢いる。(僕もその一人だ)

 バブル経済崩壊後、景気の加速度的な後退とともに、町の公園などには路上生活者が増え、僕が住んでいる町の近くの公園にも、青いビニールテントでの生活を余儀なくされている人は多い。

 毎年年末が近づいてくると、厳寒の中、テントでの暮らしで年を越さなければならない人々の実態がTVなどで報じられており、自分の生活がそれに比べるとまだマシなのだと、安堵と同情に似た気持ちを持ってしまう。

 僕が訪れたカンボジアは、波乱に満ちた歴史を経て、現在はようやく落ち着きを取り戻し、少しずつ経済も上昇しているが、国民の80%は農業に従事しており、都市部から離れた田舎では殆どが水稲耕作で生計を立てており、貧しさは変わらないらしい。

 カンボジアの経済事情については、僕が無責任なことを記述できないので省略するが、米やゴムが輸出産業であることには変わりなく、それ以外の殆どを輸入に頼っている貧しい国で、やはりこれから訪れるアンコールワットを全面にした観光収入はこの国の発展には不可欠なものなのである。

 話は横道に逸れたが、日本の路上生活者などの貧しい人々に比べて、カンボジアの田舎の貧しい農民は、同じ貧しさでも決定的に違うのは、路上生活者は生まれた時から路上生活者ではなく、人生を自らの手でそのような状況に至らしめたというのに対し、カンボジアの人々は元々貧しい国で生きて来ており、貧しい村の子供達は、生まれた瞬間からの運命的な極貧ということなのだ。

 そんなことを考えながら、僕達を乗せたピックアップトラックは、舗装道路と赤土道路とが交互に来る国道6号線をドンドン走って行き、日もとっぷりと暮れた頃にようやく道路の両側に時々建物が見え始め、やがてシェムリアップ市内に入って行った。

 明るいネオンサインが見え、大きなホテルや商店が並び、街中は決して明るくはなく少し離れると真っ暗になってしまうが、道路では夥しい数のバイクが、土埃を舞い上げながら走り回っている。

 僕達のトラックはシェムリアップ川を渡って左折し、午後7時過ぎに、デコボコ道を少し走ったところにあるバプーンゲストハウス(Baphoon GH)に到着した。
 
バプーンGH

 5時間余りのドライビングで、僕の着ていた白のTシャツやブルーのチェックのシャツは、土埃で知らない内にすっかり茶色に変わっていたが、皆でいろいろと話をしながらの楽しい道中だった。

 日本を発つ前には、ネットで知り合った人が泊まったことがあるというお奨めのGHにしようと思っていたが、僕達が泊まってくれることをあてにして、ここまで安い料金で運んでくれたここのGHスタッフに悪いし、それにもう一刻も早くシャワーを浴びたい気持ちだったので、皆が一致してこのGHにザックを降ろすことにした。

 (ヤレヤレだね)
 つづく・・・

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