突撃!アンコールワットPartU

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 4.タイ・カンボジア国境に到着・その2

 

 列車はほぼ定刻の午前11:40頃にアランヤプラテート駅に到着した。

 アランヤプラテートはカンボジアとの国境の町というだけで、特にこれといって見るべきものもないらしいのだが、カンボジア内紛時代は難民キャンプやボランティア団体の施設などがあったとのことである。

 数年前まで、カンボジアにまだポルポト勢力が存在していた頃は、ここから陸路でカンボジアに入り、シェムリアップを目指すなんてことは、命知らずの無謀な行為といわれていたらしいのだ。

 しかし19983月にこのルートが解放されて以後、カンボジアに入る手段としては最も格安で入れるし、首都・プノンペンに魅力を感じなくてアンコールワットを旅の目的とする旅行者には最適である。 ただかなりハードであることは覚悟しないといけないけど。

 さて列車が駅に到着し、ザックを背負って列車のタラップから降りると、目の前にトゥクトゥクの男性が早くも立っていて、『トゥクトゥク! ボーダー?』と早速声をかけてきた。

 タイのノーン・カーイでもそうだったが、列車の到着をプラットホームで待って、いち早く客を確保する目的なのだ。

 日本では歓楽街での怪しげな呼び込みはあっても、タクシーなどは客の呼び込み行為なんかは思いもつかないし、アジアに旅をして当初は、到着するごとにトゥクトゥクやシクロ(ベトナム)やバイタクのしつこい誘いがうっとうしく思ったものだが、彼等の立場になってみると当たり前のことで、むしろ仕事熱心なことに感心する。

 ここから国境までは2キロ程あり、歩いて行っても別段構わないが、ともかく暑いしこれからシェムリアップまでのドライビングが、ともすれば過酷なものになる可能性も考えられるので、バスかモトサイかトゥクトゥクを利用した方が賢明である。

 僕はいくらで行くのかとトゥクトゥク男性に聞いてみると、彼は50Bと言うのだが、ガイドブックで相場が40Bとあったので、『フォーティーバーツ、Ok?』と言ったら、すぐにOkと拍子抜けするように値下げしてきた。

 でも出来たらシェアをしたいし、ともかく改札口などないような駅から出て、誰か日本人か欧米人がいないかなと人込みの中をグルリンと見渡すと、ちょうど駅から出てきたザックを背負った小さな女の子を見つけた。 

 すると向こうのほうも僕を見て近づいてきて、『あのう日本の方ですよね?』 『そうですよ』 『ここから国境までどのように行くのですか?』 『そりゃあ、トゥクトゥクで行った方が良いでしょう』と話をしていると、もう一人学生っぽい精悍な日本人男性近づいてきて、『こんにちは、この時間から今日中にシェムリアップまで行けるのでしょうか?』と聞いてきた。

 僕は旅の初心者の部類だが、出発前には訪問する国の情報を、本やインターネットで一応予備知識として取り込んでいるので、『大丈夫ですよ。 今日中にシェムリアップに行けますよ』と答えた。

 彼はさらに『今日ここに一泊しなくても大丈夫でしょうか?』と聞いてくるので、僕は自信を持って『間違いないですよ』と重ねて答え、それじゃあ3人でトゥクトゥクをシェアしましょうということになった。

 僕は列車の中では、今回はもしかすれば一人で国境を越えて、シェムリアップまで行かないといけないかもしれないと若干危惧していたのだが、彼等と一緒になることができて心の中でホッとしたのであった。

 ボーダーまでトゥクトゥクで約10分くらいだったか、道路は綺麗に舗装をされていて、途中大きな市場を通り過ぎ、イミグレーションの手前に到着した。

 
アランヤプラテートの国境近くの風景
 僕が40B3人でシェアしたのでちょっと気を利かせて、『イーチ、フィフティーン。 トータルフォーティーファイブバーツ、Ok?』と5ドルはチップだという意味で言ったのだが、何を勘違いしたのかトゥクトゥク男性はそれぞれ40Bくれと言うのだ。

 僕は一応最年長でもあるし、(当たり前だけど)40Bという約束で乗ったのだから、40Bでもいいのだけど、中途半端だから5Bは気持ちだ。 分かる?』と伝わっているのかどうか分からないがちょっと語気を荒げて言って、相手の男性はちょっと不満そうだったが、ともかく3人合計で45Bを支払ってその場を離れた。

 降ろされた場所はごちゃごちゃした感じの街並みであったが、国境はすぐそこに見えており、3人でイミグレーションの方向に歩き始めると、突然一人のタイ青年(タイ人かどうかは分からないけど)が声をかけてきた。

 歩きながら僕達についてきて、執拗に英語で話を続ける内容は、『シェムリに行くのか? 行くのならビザの手配のサポートとシェムリまで6ドルで行ってやる』というものだった。

 2人は『どうしますか?』と聞いてきたので、僕は『自分でビザを取れるはずだからとりあえずイミグレに行こうか』と歩行を進めた。

 ところが青年は諦めずに粘って、さらに6ドルから4ドルに値下げをしてきたので、ガイドブックやネットの情報では、ピックアップトラックのアウトサイド(荷台)で、相場が200B250B(ドルに換算すると4,5ドル〜5,5ドル)の筈なので、若干安いから、『本当にシェムリまで4ドルで行くんだね』と念を押して、彼に従ってみることにした。(ちょっとセコイ考えかな)

 さて青年はイミグレーション近くのレストランに僕達を案内し、手に持っていた書類入れから、タイの出国書類、カンボジアヴィザ申請書類、入国書類などを取り出し、テーブルの上にそれぞれ並べて記入方法の説明を始めた。

 そのレストランの他のテーブルには、日本人旅行者や欧米人旅行者が10人あまりいて、僕達と同様に入国関係書類に記入していた。

 僕は近くのテーブルで書類を書いている日本人女性に、『貴方たちはどこからこの国境に来られたのですか?』と聞いてみた。

 『私達はカオサンの旅行社からのツアーでここまで来ました。 ここからバスを乗り換えてシェムリアップまで行くらしいのです』と彼女は言い、カオサンからのツアーはヴィザの申請代行もしてくれるから楽だと語っていた。

 この人達は、僕がラオスで知り合って以来友人になったN君が、先月アンコールワットを旅したルートと同じ手段で来ているのだと分かった。

 ここからカンボジアに入るルートは、前述の通り19983月から解放されており、今やカンボジア国内の安定化に伴い、唯一の観光資源であるアンコールワットを目指す旅行者のために、随分と便宜が図られているようで、この青年のようにカンボジア側と提携しているガイドが、この国境には多くいるようだった。

 僕達は彼の指示に従って各書類を記入し、ヴィザ申請用紙には写真を一枚貼り付け、彼の誘導に基づいて1000Bを用意してイミグレーションに向かった。

 結構簡単なものなんだね。


 5.カンボジア入国

 僕はアランヤプラテートの駅を出た所で知り合った小柄な女性と、精悍な顔つきの青年と日本人3人で、国境近くで声をかけてきた現地の青年のナビゲートに従い、出入国書類を書き終えてボーダーに向かった。

 タイ出国オフィスはすぐ近くにあり、窓口でパスポートと出国カードを渡して簡単に手続きを終え、ゲートをくぐると短い橋があり、渡り終えたところの右側にカンボジアのビザ発給所がある。

 ここでは申請書に写真を一枚貼り、パスポートと1000B(2,800円程)を添えて提出すると、僅か1分程でスタンプが押されて返ってきた。 全く形だけのもののような気がした。

 次にカンボジアイミグレーションオフィスに行く前に、僕達3人はアンコールワットを描いた入国ゲートの前で記念写真を撮ろうということになった。

 この時点ではビザも手にしていたし、日本人同士で入国できるということもあって、3人とも精神的にやや余裕が生まれていたのかもしれない。

 入国ゲート辺りの幅の広い道路は綺麗に舗装されており、物資を運ぶトラックやリヤカーを引く現地人などが往来し、さらに国境を行き来する地元住民で溢れていた。
 カンボジアに入りました
 僕は近くにたむろしていた現地男性にカメラを渡して、『すみません、シャッターを押してくれませんか』と英語で言うと、その男性は微笑んで快く引き受けてくれ、僕達3人のカメラを交互に撮影してくれたのあった。

 彼には失礼だが、【うまく写してくれているかなぁ】と、その時心配に思ったのであるが、帰国後の綺麗な写真を見て、この時の自分の気持ちを恥ずかしく思った。

 それから僕達は入国審査手続きのため、ゲート横にあるイミグレーションオフィスに並んだ。

 このオフィスは、入国と出国窓口がそれぞれ一ヶ所ずつしかなく、僕達が並んだ時には前に5人程が並んでいただけであったが、その後長蛇の列となり、カンボジア政府の策のなさをちょっと感じた。
 カンボジアイミグレーション(長蛇の列)
 僕達が並んでいると、タレントでウド鈴木(キャイーンってする人ね)に似た日本人の青年が、『あのう、日本の方ですよね。 よければご一緒させていただけませんか?』と話しかけて来たので、勿論多い方がこの先心強いというか、楽しくなるので、一緒に行きましょうということになった。

 この時出国審査側の窓口に並んでいた欧米人が英字新聞を読んでいて、チラッと覗いてみると、“Kamikaze Horror”と大きな見出しが書かれており、高層ビルに旅客機が突っ込んでいく写真が載っていた。

 『神風ホラーだよ、どういうことなんだろうね』と、僕が後ろに並んでいた精悍青年に呟くように言うと、『何でしょうね。 特攻隊でしょうか?』と、訳の分からない返答が返ってきたが、この時は入国審査のことが気になっていたため、アメリカでの同時多発テロ事件で、世界が驚愕していたなんてことは知るべくもなかったのであった。

 4人が入国審査を終えると、タイ側から僕達をナビゲートしてくれた青年から、小柄でまだ幼さが僅かに残っている青年にバトンタッチされて、僕達は彼に従って歩いて行った。

 少し歩いただけでイミグレーション辺りの綺麗な舗装道路は、穴ぼこが所々にあいている道路と変わり、ゴミだらけの清潔とはいえない溝は、このところの雨で悪臭を放っていた。

 それに反して道路の左右には派手な建物が新築されており、これが噂に聞くカジノだと分かったのだが、国境の町であるここポイペトは、国境近くは市場やナイトクラブなどもあって賑やかだが、シェムリアップへの国道5号線を国境から離れるほどに、次第に貧しい街並みと変わって行くのだった。

 さて僕達は新たな青年の案内で、あるゲストハウスに着き、ロビーに設置された高級そうなテーブルを囲んで一息ついた。

 青年は僕達に割と流暢な日本語で、『ここで少し待ってください。 間もなくトラックが来ますので、それでシェムリアップまで4時間程で行きますから』と言った。

 ピックアップトラックは、人数がまとまるまでは出発をしないと聞いていたので、ロビーにいた欧米人のやや年輩の夫婦は、僕達より早くから待機しているのだった。 

 さてトラックを待っている間4人がそれぞれ自己紹介をした。 

 最初に言葉を交わした小さな可愛い女の子はSさんといい、兵庫県在住のK大学の4回生で、精悍な青年は静岡県のM君、ウド鈴木似の青年は神奈川県在住のK君といい、彼等もいずれも大学4回生とのことである。

 3人とも既に就職が内定していて、今回は夏休みを利用しての一人旅の途中ということで、K君だけがバンコクからバスでアランヤプラテートに到着したのであった。

 僕も自己紹介をして短期の一人旅であると話すと、年令の割には若く見えますよと、彼等は口を揃えて言うので、なかなか正直で性格のよい大学生と知り合ったものだと、自分の幸運を喜んだのであった。

つづく・・・


  6.ピックアップトラック

 カンボジア側国境の町ポイペトに入り、青年に案内されたGHのロビーで、僕達4人と欧米人夫婦はピックアップトラックの到着を待っていた。

 アランヤプラテートに到着した時は好天だったが、いつの間にかシトシトと雨が降っていた。

 この時期カンボジアはまだ雨季で(カンボジアの雨季は5月下旬〜10月下旬)、雨量は後半の2ヶ月が最も多いとされており、今回の旅が雨続きかもしれないことは十分覚悟していた。

 僕達4人は初対面でも旅という共通の話題があり、今まで行ったことのある国の話や、今回の旅の経路などを一人一人が話していると、待っている時間は全然退屈しなかった。

 むしろ僕なんかは、彼等大学生の旅の姿勢にいろいろと勉強になる話も窺え、非常に興味深く有意義な時間に思った。

 例えば、僕は一応ポリシーとしてできる限り陸路で移動したいと思っており、それは彼等も同じなのだが、僕は万が一体調が悪化したり、ちょっとしたアクシデントがあれば、いつでも飛行機でビュンと飛んでもいいか、という安易な妥協の気持ちが心のどこかにあるため、それなりのお金も用意をしており、切羽詰ったものがない。

 しかし彼等の話を聞いていると、バイトで貯めたお金で最小限に費用を抑えて、できるだけ旅を続けたいという姿勢が窺え、どうにかなるさという旅に対する考えではなく、綿密な計画により旅に出ているようだった。

 今や日本の大学はワンダーランドと化している傾向がある中、彼等のようにシビアな金銭感覚を持っていることが、ちょっと嬉しく思ったりするのだった。

 何故なら僕が大学生の頃は、周りは本当に貧乏な奴が多く、バイトをしながら100円、200円を心配しながら生きていたものだから、今の大学生が社会人よりリッチだという話を、マスコミなどから聞くと、時代の移り変わりとはいえ、本当におかしな社会だと思っていたからなのだ。

 因みにK君は、大学の講義以外は横浜の中華街で、殆どバイトに明け暮れているとのことで、Sさんも自宅近くのスーパーでレジの仕事を、大学のある日以外は大体働いていると言うのである。

 又、M君なんかはサッカーが得意なので(さすが静岡県だね)、内定している企業のサッカー部から、まだ正式に入社もしていないというのに、既に宿題のようなものを与えられていて、それなりに収入になったりすると語っていた。

 彼等は大学生らしくない大学生が多い中でも、きちんとした考えをもっている良識のある学生に思えるのは、きっと育てられたご両親が常識のある方で、決して甘やかせた家庭環境を与えていないと僕は感じるのだ。

 知り合って短時間で、このような決め付けた考えをもつのは短絡的と思われるかもしれないが、僕は仕事柄的確な人物判断をする自信があるのだ。

 僕は彼等の話にウンウンと頷きながら興味深く聞いていたのだが、3人が一応話し終えたところで、『ところでぺロ吉さんは、一体どんなお仕事をされているのですか?』と聞いてきた。

 僕はいつも旅の途中で職業を聞かれると、ウッと詰まったような感覚になってしまう。

 それは僕が自分の職業を恥ずかしく思っている訳ではなく、やはり探偵という仕事は若者にとっては誤った認識を持たれている傾向があり、ラオスのヴィエンチャンでもそうだったが、矢継ぎ早に質問攻めにあったりするから、ちょっと躊躇してしまうのである。

 『いやぁ、ちょっと怪しげな仕事をしているんだよ』とはぐらかし、『トラックまだかなぁ』と立ち上がって、僕は外の降り続く雨を眺めた。

 結局、1時間半程待ってようやくトラックが到着したらしく、僕達4人と欧米人夫婦の6人は、雨でぬかるんでいる道を注意深く歩き、GH近くの駐車場に停まっている茶色のピックアップトラックのところに案内された。

 先ず全員のバックパックを仰向けに荷台に並べ、欧米人夫婦はインサイド(運転席の後ろ)、僕達4人とこの場所で一緒になった赤いTシャツの日本人青年との5人がアウトサイド(要するに荷台)に乗り込んだ。

 荷台には僕達日本人旅行者5人だけではなく、案内してくれた青年とその仲間の現地人3人の合計8人が、バックパックの上に尻を乗せるという不安定な形でともかく座り、小雨降る中シェムリアップに向かって出発をした。

 これから国道6号線を東に向かい、案内の青年の話だと約4時間程で、アンコールワットの町・シェムリアップに到着する予定だ。

 荷台の8人は、トラックに乗車時に知り合った赤のTシャツ青年・G君とM君と僕とが、進行方向とは反対を向いて座り、進行方向に向かってSさんとK君と、それに案内の青年達3人が座るという形で(ちょっと分かりにくい説明かもしれないが)、要するにギュウギュウ詰状態なのだ。

 しばらく所々に大きな水溜りのある道路を走り、十数分でようやくポイペトの町を抜けて、両側が水田という景色をたった一本の国道が貫いており、ようやく僕達はアンコールワットへ突撃を開始したのであった。

つづく・・・


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