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30.アンコール・トムの土産物売り女性 プリア・カンの回廊を歩いている時、しつこいカンボジアの少年のガイドに苛立ち、大きな声で怒鳴ると、彼はついて来るのをやめて引き返して行った。 いくら朝からのハードな遺跡めぐりと暑さで疲れているからといって、自分の感情的な言動にしばらくやりきれない気持ちになってしまった。 怒鳴った言葉は日本語とはいえ、少年には僕が怒っていることを十分察知した筈で、今頃落ち込んでいるかもしれないので、引き返して謝ろうかとも思った。 おそらく彼は寺院の説明をする代わりにいくばくかのガイド料を請求するつもりだった筈で、それを僕が断ったにもかかわらず、しつこくついてきて説明をやめなかったから、思わず感情的になってしまったのだ。 せいぜい1ドル程度を請求するのだろうから、気分よくガイド料として渡してやっても良かったのだが、こんな方法で簡単に金銭を手に入れることに慣れてしまうと、彼自身にとっては決して良い筈はないし、僕も気分的に蟠りが残るような気がする。 自分の大人げない行為を少し悔やんだが、彼も百戦錬磨かも知れないし、こちらが思うほど傷ついてなどはいないような気がしたので、僕は首を振って気分を改め、長男さんが待っている西門へ向かった。 西門の参道の両側に並んでいる仏像は、所々首がなくなっており、内戦の傷跡はこんなところにも窺えた。 10年に及び続いた内戦で、アンコールワット遺跡群はあちらこちらが無残に破壊され、放置されていたらしいのだ。 ポル・ポトが失脚したあと、修復のために必要な遺跡保存官は、内戦前に35人もいたのに、虐殺によって生き残ったのは僅か3人だったと聞く。 「次にアンコール・トムに行って欲しいんだ。 初日に約束した人がいるから」 僕は長男さんに、王宮内で土産物を売っている女性との約束を守らないといけないからと、初日に訪れたアンコール・トムにバイクを向けてもらうように言った。 初日に入った南大門とは反対側の北ゲートから入って行くと、間もなく見覚えのある王宮のテラスが右側に見えてきた。 階段の前でバイクから降りて、長男さんには土産物売り場近くで待ってもらうことにして、約束の場所である王宮内に入って行った。 彼女はピニアナカス近くの土産物や飲み物売り場辺りでいつもいると言っていた。 しばらく行くと土産物売り場が2軒並んでおり、一昨日と全く同じ光景が見えた。 近づくと彼女が両手にTシャツや本などを抱えて、何をするでもなく立っており、周りには観光客が殆どいなかった。 僕は近づき、「やあ、約束どおり来たよ」と声をかけた。 彼女は振り向いて僕の姿を見ると驚いたような顔をして、数秒後には満面に笑みを一杯にして、「コンニチワ、ウレシイデス」と日本語で言った。 「日本人は約束を守るんだ」と僕は言い、出店でコーラを2缶買って彼女に一つ手渡した。 プラスチックの椅子に座って、コーラを飲み干すと今日の疲れも少し消えて行くような気がした。 彼女は僕がコーラを飲んで、ヤレヤレという感じに落ち着いたのを見計らって、先ずはフィルムを勧めて来た。 「いや、フィルムはまだ36枚撮りが残っているんだよ。フィルムは要らない」と言うと、今度はTシャツである。 Tシャツは地雷博物館で買ったので要らないから、「他にどんなものがあるの?」と聞いた。 すると彼女は、英語で書かれたアンコールワット遺跡群の解説書を出してきて、「これはとても便利です。イラストや写真も多くて、とてもよく分かります」と勧めるのだった。 僕はこれなら買ってもいいかなと思い、値段を聞いてみると何と10ドルだと言うのだ。 「それは高いよ。半値の5ドルがいいところじゃないの」と値踏みにかかったが、彼女はなかなか譲らない。 きっと5ドルでもかなり利益があるに違いない。 【約束どおり買いに来たのに、随分しっかりした女性だなぁ】 僕は心の中で苦笑いをして、彼女が8ドルと言い張るのを、結局6ドルで競り落としたという勝利に終ったのだった。(いやきっと、6ドルでもかなり高く買ったような気がする) 双方お互いに勝利の気分を味わい、僕は約束を守ったことに満足し、彼女は変なオヤジが律儀に約束どおり買いに来てくれたことに、日本人を見直したに違いはなく、今後の両国の発展と親善のために僕は一役買って、長男さんの待つ場所へと急いだのだった。 |
アンコール遺跡群観光3日目は、午前4時に起きてサンライズのあと少しだけ休憩して、トンレサップ湖、プノンクロム山、アンコール・トム周辺の遺跡回りと、かなりちょっと猛烈ハードな動きであったが、長男さんの仕事熱心さに脱帽するとともに、満足感を味わいながら午後3時頃に宿に戻ってきた。 シャワーを浴びてから、心地よい疲れにベッドに横になっているといつの間にか寝てしまった。 午後5時半頃に目が覚め、中庭に出てみると誰もいないので、ネットカフェでも行くことにした。 僕が歩いて行こうとすると、宿の若者スタッフの一人がバイクで送って行くというので、彼の親切に甘えることにした。 これくらいの送り迎えは宿のサービスのようだが、目的の場所でバイクを降りた時に、僅かばかりでも渡さないといけないかどうかを少し迷ってしまう。 「1時間くらいかかるから、先に帰ってくれていいよ」と彼に言って、結局何も渡さないで帰ってもらったが、カンボジア人は概して控えめな性格を随所に感じる。 たまたま泊まったバプーンGHのスタッフの人柄が良かっただけなのかも知れないが、屋台レストランの人々やフランスパン売りの男性なども穏やかだったし、町歩きやマーケットの中を覗いていても、それ程うるさく声がかかってこない。 1時間程ネットカフェで過ごして、オールドマーケットの東側の両替所で3000円紙幣をドルに換えた。 明日の午後宿代を清算するのだが、帰路の空港税がいくら必要か分からないし、少し余裕が欲しかったので両替したのである。 カンボジアではリエル、バーツ、ドル、円というふうに問題なく両替ができるが、おそらくラオスのKipは駄目だろう。 シェムリアップ川沿いをブラブラ歩いて、午後7時前に宿に帰ったら、ちょうど皆が帰って来ていて、最後の晩餐に出ようというところだった。 明日の早朝に同室のM君とK君が、来た時と同じピックアップトラックでタイの国境方面に向かう。 トモ君は今朝プノンペンに発った。 G青年はバプーンGHに一泊して、知人が泊まっているGHに行ってしまったので、結局明日は僕とSさんだけになってしまう。 その僕も明日の午後バンコクに帰る。 何度も何度も旅行記などで言っているが、旅は出会いと別れである。 人生も出会いと別れである。 従って人生は旅と同じなのだ。 かの松尾芭蕉が、「月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老いをむかうるものは、日々旅にして旅を栖とする」と詠ったとおり、行きかう年も旅人なりである。 一体僕は何を言いたいのか、自分でも分からない部分がないとは言えないが、要するに人は生涯で多くの人と出会い、そして別れる。 そして死を迎える時には、それらの人々との楽しい思い出や嫌な思い出などをすべて懐かしみ、たった一人でこの世を去って行くのである。 いつもの屋台にM君、K君、Sさんと4人でゾロゾロと向かいながら、僕はこのようなとりとめのない空しい気分に襲われていた。 体調はすっかり戻ったので、この夜は野菜炒めとごはんを注文し、思い切ってアンコールビールも1本飲んだ。 アンコールビールは決して美味しいとはいえないが、僕の好みで言えばタイガービールや最近売れているらしいチャンビールよりも飲みやすくコクもあるように感じた。 最後の夜にG青年が来なくて、彼の知り合いというP青年が宿のバイクに送られてやってきた。 彼は この夜も新たに知り合ったP青年の旅話を聞きながら、シェムリアップ最後晩餐は盛り上がり、最後には何とシェイクを2回も飲んでしまったのだった。 しかしカンボジアのシェイク、ラオスのフランスパンサンドイッチにビアラオ、ベトナムのゴイクン(生春巻き)にフォー、タイのガイヤーンにカオパット・・・アジアの食べ物や飲み物は本当に美味しい。 |
シェムリアップ最後の夜、いつもの屋台レストランで、入国時から一緒の僕達4人とP青年との5人は、いつものとおり旅話で盛り上がり、最後には屋台をバックに記念写真を撮ってオヒラキとした。 P青年は宿泊先のGHスタッフが、バイクで送ってきてくれてくれたのであるが、我々が食事をしている約2時間の間、そのスタッフの男性が屋台内の少しはなれた席でずっと待ってくれていたことに、最後の最後まで気がつかなくて、さて写真でも撮りましょうという段になって始めて彼がいることに気がつき、感激すると同時に申し訳ないという気持ちになったようだ。 カンボジア人のこういった姿勢は、一体それを国民性と理解してよいものなのかどうか、それは分からないが、確かにアンコールワット遺跡群めぐりでも、バイタクの男性達は我々を遺跡に運び、観光中は休憩所のようなところでずっと待ち続ける訳だから、それを仕事といってしまえばそれまでである。 P青年は彼に恐縮しながら、「それじゃあ、皆さん良い旅を。またどこかでお会いしましょう」と僕達に言い残して、暗闇のシェムリアップの町に消えてしまった。 僕達4人は宿に帰り、それぞれが部屋に戻ってシャワーを浴びるなどしたあとで、誰ともなく中庭に出てきて、結局4人が集まり、最後の夜だからということでもないが、自然と日本でのそれぞれの状況などを語り合ったのだった。 今となってはどのような会話を楽しんだのか、詳細には憶えていないが、共通しているのは3人とも大学4回生であるから、来年春に社会人になることに対する楽しみと不安とが交差したような、歯切れの悪い語り口調だった。 【大学生でずっといたいだろうが、そういう訳には行かないものな】 僕は彼らの考え方が本当に真面目で、いずれもそれなりに経済的に恵まれた家庭に育っているにもかかわらず、アルバイトは4年間ずっと続けているらしく、自分のことは出来るだけ自分で賄っていると聞いて、大学生に対する見方を考え直す必要があると思ったものだ。 特にK君なんかは、横浜の公務員家庭で育っており、話の内容からは随分とお金持ちのようだが、4年間ずっと中華街のある有名店で働いているとのことで、働きすぎて単位がぜんぜん足りなくなり、この後帰国すれば大学での地獄の勉強と教授へのゴマスリが待っていると、楽しそうに嘆いていた。 話はいつからか僕の恋愛話となり、「こんな中年オヤジに恋愛も何もあるもんか」と僕が言っても、彼等は納得せずに、M君は、「ペロ吉さんは、きっと誰かいるよね。だってバンテアイ・スレイで関西の女子大生に声をかけて、晩御飯に誘っていたじゃないですか。みんなそう思わない?」などと失礼なことを平気で言うのだった。 彼ら3人はいずれも彼氏彼女がいるということは、既に述べたが、世間では若者のコンビニ恋愛が盛んな時勢に、彼らは恋愛についても真面目に取り組んでおり、やはり類は友を呼ぶということで、僕の今回の旅は本当に恵まれたと再認識をした。 午後11時を過ぎて、宿のゲートが閉められ、中庭の電気も消してスタッフが就寝するので、僕達は部屋の前の広い廊下に移動して、ミネラルウオーターを飲みながら、深夜まで取り留めのない話を続けた。 宿の他の部屋には宿泊客は一組だけで、広い廊下には僕達4人の呟くような話し声が、いつまでもいつまでも続いた。 シェムリアップの最後の夜はこのように更けて行った。 旅はいよいよ明日一日となってしまった。 |