17.プノン・バケン アンコールワット遺跡群めぐりの初日は、最後にアンコールワットの雄姿を拝み、その圧倒的な姿に打ちひしがれたような気持ちになり、午後2時半頃に宿に戻った時は、疲れが顔に出ていたのが皆に分かったようだ。 宿の中庭のテーブルでくつろいでいたSさんは、『ペロ吉さん、どうしたのですか? 暑さが応えましたか?』とニコニコしながら聞いてきた。 彼女はとても明るく屈託のないチャーミングな女性だ。 僕は彼女の笑顔に救われたような気持ちになり、『いやぁ、アンコールワットには恐れ入ったよ。 あんなに実物がすごいとは思わなかった。 理由なくショボンとなっちゃったんだよ』と答えた。 僕が日本で、比較的近場に所在する奈良の東大寺や、比叡山の延暦寺、さらに京都御所をはじめとする京都の寺院などを訪れても、歴史的観点からそれなりの感慨は持てたが、建築物そのものに特に感動は受けなかった。 勿論僕が建築技術というものに無知ということもあるが、アンコールワットは建築技術はもとより歴史的背景などの知識を持たなくとも、その存在自体が訪問者に理屈なく感動を与えるような気がするのだ。 どうして打ちひしがれたような気持ちになったかというと、それは様々な感慨が一気に僕の感情回路に攻め込んできたために、自分自身の地球上での存在を肯定する気力が、それらに抵抗し得なかったためと、僕は分析するのである。 ともかく宿に戻ると既に他のメンバーは帰って来ており、これから地雷博物館に立ち寄ってからサンセットを見に行くというので、休む間もなく午後3時頃に僕達4人はバイク4台で出発した。 地雷博物館はアンコールワットへの道の途中から東に折れ、田園地帯や民家の間を抜けて10分程走ったところにある。 ここはシェムリアップで地雷除去のボランティアを行っているアキー・ラー氏が、これまで除去した多種の地雷を、安全処理をした上で展示しているもので、その数は3000〜4000にものぼるという。 民営であるため、訪問者が購入するTシャツや民芸品などの売上収益が、運営の資金となっているとのことなので、僕も地雷撲滅が描かれたTシャツを1枚2ドルで2枚購入した。 博物館自体は、無数の地雷が無造作にドカッと展示され、壁には地雷の構造やその破壊力解説したものが、被害者の写真とともに掲示されているだけで、ざっと見学するのに30分もあれば十分だった。 M君なんかは、館内にいる猫と戯れており、地雷という人間殺傷兵器を展示している場所での、彼ののんびりとしたコントラストが、僕にはなんとも印象的だった。 僕達は無数の地雷に驚いたのもつかの間、午後4時を過ぎて、今度はサンセットを見るためにプノン・バケン(Phnom Bakheng)に向かった。 4台のバイクに分かれて僕達は向かう。 バイタクのスタッフは皆バプーンGHの身内だ。 スタッフは仕事とはいえとても親切でユーモアもあり、我々を楽しませてくれる。 彼等の人柄が、カンボジアの青年が皆共通して持つものだとすれば、カンボジア人とは何て性格の良い国民なんだろうと思ってしまう。 それ程滞在中、彼等の人柄の良さをつくづく感じられたものだった。 さて、夕日がクメールの地平線に沈んでいく様は、きっと旅人の心に焼き付くに違いなく、サンセットを見る場所として、プノン・バケンやアンコールワット、それにトンレサップ湖の畔にあるプノン・クロムが人気らしいのだが、このプノン・バケンは訪れる人が最も多いとのことである。 バイタクはプノン・バケン山の麓までで、ここから先は10分程急勾配の参道を登って行くと広場があり、さらにプノン・バケンはその奥に所在し、急な階段を登らなくてはいけない。 到着時はまだ明るく、西方向を眺めると、太陽は雲に隠れたりまた現れたりという状況で、真昼の快晴下の灼熱の日差しが嘘のようにどんよりとしていた。 僕達は登り切ったところの広場で日が陰るまで休憩してから、いよいよ急勾配の階段を、恐る恐る慎重に登って行った。 石段を上がった頂上にはプノン・バケンが中央に所在し、広い石畳から西方向を窺うと、広大な森の向こうに田園風景が続き、その遥か地平線にクメールの太陽が今沈もうとしていたが、残念ながら天候はますますどんよりして来て、その姿は雲によって隠れてしまったのだった。 |
結局、プノン・バケンのサンセットは、日が沈む直前に雲に隠れてしまい、ロマンティックな夕陽を拝むことはできなかった。 辺りは一気に暗くなって来たので、僕達4人は急いで注意深く階段を降りて、真っ暗な坂道を転げるように帰って行った。 下にはバイタクが数十台も待機しており、その中から僕達が世話になっているバプーンGHのスタッフを探すのは難しいと思ったが、スタッフの方が僕達を簡単に見つけ出し、あっという間にバイクを麓に回して、それぞれが跨り、GHに帰って来た。 彼等は本当にすごいと思う。 おそらく200人はいただろうと思われるサンセット見物客の中から、僕達4人の姿を簡単に探し出したのだ。 さて今夜の食事も前日と同じ、シェムリアップ川沿いの屋台レストランにしようということになり、僕達4人とW大学のトモ君との5人で午後7時頃にゾロゾロと歩いて行った。 シェムリの街は夜でもバイクのエンジン音が鳴り響き、たくさんの観光客向けのレストランが通りで営業を行い、相変わらず賑やかである。 信号のない道路を向こう側に渡るのに、ちょっとタイミングを逸すると危ないが、ベトナムのようにバイクレースを行っているような強引さはなく、台数もまだまだ多くはない。 屋台レストランでは昨夜と同じ場所に座り、アンコールビールとそれぞれが勝手に料理を注文だ。 僕はこの夜ヌードルスープを食べながら、何とアンコールビールの大瓶を2本も空けてしまい、さらにはまってしまったシェイクもお代わりをしてしまった。 シェイクは僕だけでなく、皆がすっかりファンになってしまい、マンゴやパパイヤやパイナップル・りんご・バナナ・・・など、見たこともない果物までをいろいろとトッピングをしていた。 作り方をちょっと覗いてみると、客が注文した果物をミキサーに入れて、コンデンスミルクとたっぷりの砂糖を加えて氷とともにシェイクするのであるが、この美味しさはやっぱり果物の新鮮さに他ならないと思われた。 食事の途中、前日一緒にピックアップトラックでシェムリに来たG青年が、今日から泊まっているGHのバイタクに乗ってやって来た。 彼が加わり、今夜も日本人旅行者6人で、旅行談義を中心とした楽しい夕食となった。 何度も言うようだが、共通の趣味を持つ者が集まっての食事は話が弾み、この夜も午後9時を過ぎる頃まで話題が尽きることがなく続き、シェムリアップの2日目の夜は更けて行った。 宿に帰り、各自が部屋に戻ってシャワーを浴びてから、中庭で再びミーティングをしようということになった。 僕と同室のM君はなかなか性格の良い青年ということは述べたが、シャワーの順番にしても僕が、『遠慮なく先に使っていいよ』と何度も言っても、『いえ、僕はあとでいいです』と遠慮して、絶対に僕より先にシャワーを浴びないのだ。 彼にとっては、オヤジさんと同じ位年令が離れている僕なんかと部屋をシェアしたことが不運と言えば不運だが、人生経験が豊富な僕からいろいろと話が聞けるのだから、まあいいだろう。 中庭に出てテーブルを囲んでのミーティングが始まった。 TVでは昨日から、ニューヨークでの同時多発テロの映像と各国の反応が繰り返し放映されており、きっと日本ではこの話で持ち切りで、僕達の旅行を知っている人達の中で、僕達の帰国を案じている人もいるのではないかと思った。 しかし僕達はミネラルウオーターを飲みながら、日本でのそれぞれの生活を、まるで遠い国の別の人の話のように語っているのであった。 このように旅の3日目、シェムリアップ2日目の夜は穏やかだった。 僕は日本のことをすべて忘れてしまっていた。 |