チェンラゲストハウス シソポンで食事を終えて再びシェムリへ向かう。道路は相変わらず凸凹で砂塵が舞う。 道幅は広く取られており、対向車とのすれ違いに何等問題はない。真っ直ぐな道が続く道路では、等間隔にコンクリート電柱が並んでおり、数人の電力会社の人か工事会社の人が高い電柱に登って作業を行っていた。この辺り、カンボジアの電気事情が随分整ってきたであろうと推測される。 車はさらに走り、道路の両サイドに大きなため池があるところで停止した。ため池には地元の人々が腰をかがめて何かを取っている。タクシーの運転手は「さあ写真を撮れ」と言う。どうやら人々はため池に棲んでいる小さな魚を取っているようだった。 「こんな場面を写真に撮ってもなぁ」 僕とI君は躊躇した。でもメイとミッシェルは興味深いのか、しきりにデジカメを駆使して撮影していた。 再び車に乗り込み走る。田畑を抜け橋を渡り、小さな山を越え谷を抜けて、ドンドン進むとやがて道路わきに小さな店や民家が点在してきた。そろそろシェムリアップが近い。 やっぱりツアーバスなどと違ってタクシーだと随分早い。夕方四時過ぎにはシェムリアップの街に入った。 「メイたちはどこか宿を決めているの?」 「ノーアイデア」 「それならチェンラというGHはどうかな?宿泊客は日本人も欧米人も半々くらいのようだけど」 僕の提案に異論はなく、町の中心街に入って国道沿いに所在するチェンラGHが見えたので、運転手に「ここに入ってくれ!」と叫んだ。 宿の前で待たせて中に入る。フロントには年配の女生徒少し若い女性がいた。 部屋を見せてもらうと、奥の建物の二階にツイン、エアコン、トイレにTVがついて八ドルの部屋がちょうど三部屋空いており、メイとミッシェルは二人で一部屋、僕とI君とはそれぞれ一部屋ずつ泊まることに決定した。 長く待たせたタクシーの運転手に、無事に送ってくれた感謝の意味も込めて、一人一ドルの合計4ドルをお礼として渡した。わずかな金額かもしれないが、彼は大きな体を揺すって我々に礼を言って走り去った。どうか今夜は美味しいビールを飲んでくれ。 さて、よーく考えてみると今夜はクリスマスイブだ。 |
チェンラGHにチェックインをして、土ぼこりで汚れた体をホットシャワーで洗い流し、ヤレヤレとゲストハウスの玄関の横にある小さなレストランでコーヒーを飲んだ。このゲストハウスはバイタクの兄ちゃんがうるさくアンコールワットガイドを言ってこない。全く拍子抜けする。 I君はアンコールワット初訪問なので、差し当たりバイタクガイドが必要だ。僕は今回一日だけ回ろうと思っていたから、一緒にトゥクトゥクで回っても良いのだが、ずっと一緒なのでアンコールワットくらいは一人行動を取りたいと思った。 ちょうど宿の入り口辺りでたむろしていた若いバイタク男性がI君にガイドを申し出た。一日10ドルだという。前回僕が来た時は一日8ドルだったから、相場なのかもしれない。 時刻はまだ夕方五時、少し散歩に出た。I君はかなり疲れているらしく、すぐにボディマッサージを受けに行った。1時間五ドルとのことだ。 バンコクだとボディマッサージもフットマッサージも250バーツから300バーツ程度だから、シェムリアップでは少し安いと言う計算になる。I君と別れて僕は郵便局へ行き友人に絵葉書を書いて送った。ちゃんと届きますように。 さらに川沿いをどんどん歩くとオールドマーケットの入り口に着いた。シェムリアップの中心街はそれほど広くないから、これまでにどの訪問でだいたい街の地図は頭に入っている。 ずっとスニーカー歩きで足が蒸れていたので、オールドマーケットの中でサンダルを購入、3ドルだった。すぐに履き替えて歩くと、当たり前だが涼しくて快適である。 宿に戻るとI君がメイとミッシェルとロビーにいた。一緒に晩御飯を食べに行こうという話になったらしい。今日は12月24日、クリスマスイブだ。50歳を超えたご婦人お二人と、シェムリアップでクリスマスイブの夜を過ごすのも、先々思い出になるだろう。普通は経験したくともできないことだからなぁ。(笑) 我々はすっかり日が落ちたシェムリアップの街をオールドマーケット方向に向かって歩き、途中にあった小さなオープンレストランに入った。 |
シェムリアップでのクリスマスイブ その二 バンコクからアランヤプラテートへの列車の中で知り合ったアイルランドからの旅行者、メイとミッシェル。 メイはやや太り気味だが足が軽く、ついでに口も滑らかで饒舌。ミッシェルは欧米人の中年女性にしてはスタイルがよく、口数の少ないインテリマダムという感じ。二人ともタバコを吸わないので僕は好感を持った。 屋台風レストランでアンコールビールを四人で六本ほど飲み、かなりいい気分になったところで次にパブに行こうと二人が言い出した。僕もI君も小柄で、イケメンとは程遠いジャパニオヤジなのだが、彼女達は僕たちに対してフレンドリーで積極的に行動を共にしたがる。 どこかの旅行者ブログなどで欧米人は「日本人男性は『猿』、自分たち白人以外には人種差別を根底には持っている」と書いているが、彼女たちからそんな態度は微塵も感じない。 僕たちはオールドマーケット近くの歓楽街へ出た。この辺りは最初にシェムリアップを訪れた頃とは随分と変わっていて、今や欧米人好みのパブやレストランやディスコに至るまで軒を連ねている。 カンボジアにとってはこのアンコールワット遺跡群が外貨収入の唯一の手段と言っても過言ではないので、シェムリアップに欧米人好みの宿や飲食店、バーなどが増えるのは当然である。 さて、我々四人はカントリーウエスタン風の二階建てパブへ入った。二階席の道路側のオープンスペース席に案内された。通りを見下ろすとクリスマスイブの夜を楽しむ人々で溢れていた。大部分が欧米人と地元の人か。中国系はあまりこのような場所では飲食をしないようだ。 すぐにメガネをかけた日本の癒しカフェ系コスチュームの女性が注文を取りに来た。陽気なメイが「メリークリスマス!」と言うと彼女も笑いながら応えた。 我々はワインを一本と、おなかが一杯だがポテトフライを注文した。そして自国のアイルランドでのことや、様々なこれまでの人生についてメイとミッシェルは語り始めた。勿論僕もこれまでの滅茶苦茶な人生について下手な英語をI君にフォローしてもらいながら話した。 旅の四日目。クリスマスイブの夜をアンコールワット遺跡群の街で、遠くアイルランドから来た二人のご夫人と人生などについて語り合う。これだから旅は面白い。 |
メイはアイルランドの首都・ダブリンで生まれ育ち、今も同市内で暮らしている。夫との間に一人の娘さんがいるが、既に結婚して家を出ており、娘さんの結婚を待って夫と離婚、現在一人暮らしだという。職業は旅行代理店に勤務するオフィスクラーク、今回の旅行の航空券もご自身で手配したとか。 ミッシェルはフランスの生まれで、何がきっかけかはっきりと聞き取れなかったが、もう随分前にアイルランドに移住し、ダブリン市内で一人暮らし。フランス居住時は教師を務めていたが、退職してアイルランドに移住した。そして現在は保険会社に勤めているというが、婚姻歴はないようだ。 何がきっかけでこの二人が友人になったのか分からないが、時々このように二人で短期の旅行に出るとのことだ。家族というものを持たない自由の身を楽しんでいる雰囲気が窺える。 長年探偵調査業に関わっている僕は、職業柄彼女達の話ばかりを聞いていた。女性はお喋りだし、彼女達も例にもれずよく喋った。 ワインを半分程度飲んだあたりで、今度は二人がI君と僕の日本での状況を聞いていた。I君は独身で、東京都内でご両親と暮らしている、以前はアメリカのロサンジェルスで十年余り暮らしていたと話すと、「それで英語が上手なのね」と納得していた。 僕は「職業はディテクティブだが、食えないので他の仕事もやっている。現在収入の柱はテレフォンカンパニーでの仕事だ。妻との間に息子が二人居るがもう大人だ。しかも家から追い出されて一人暮らしだ」と冗談をまじえて語った。 メイとミッシェルは偶然にも僕と同年齢、I君はまだ四十歳程度だが、話は自然とこの先の人生についてとなった。 「長年サラリーマン暮らしだったので、もうかれこれ30年近くも厚生年金を支払っているから、老後は細々と年金受給暮らしだ。でも大した金額じゃないだろうから、このような旅に出られるかどうか分からない」と言った。(この時点ではまだ日本で年金問題が発覚していませんでした) すると彼女達は年金で暮らせないとなると、それでは年金の意味がないではないかと不思議そうに言う。アイルランドでは、現役時に給与所得などから毎月支払う年金額は収入の25パーセントにもなるが、老後の年金受給金額は十分暮らせるものらしいし、医療費は無料とのことだ。 「だから老後のことはあまり心配していないし、それよりも先のことは普段そんなに気にしないわ。今この時をどうエンジョイするかよ」 二人との口をそろえておっしゃるのだった。 I君も「基本的にアメリカ滞在中もそうでしたが、日本人のように若い頃から老後のことなんか考えている欧米人なんていませんよ。みんな今を生きているのですよ」と言うのだった。確かにその通りだと思う。とくに僕のような出たとこ勝負人生の男にとっては。 クリスマスイブの夜は更け行く。我々四人はすっかり良い気持ちになって、深夜まで人々で溢れているシェムリアップの街を宿に向かってフラフラと歩いた。 |
ワインあたり? クリスマスイブのシェムリアップの街は遅くまで賑わっていた。我々四人は宿 に戻ると、少し酔いもあってすぐにおやすみを言って各自が部屋に入った。 僕の部屋はエアコン、ホットシャワーにTV(日本のNHKも映ります)があるツインルームだが、この時期エアコンの必要はなく窓は開けていたので、GH前の大通り方面から、深夜までバイクの音や人々が騒ぐ声が聞こえてきた。 思えば最初にシェムリアップを訪れた頃は、夜中にこんなに騒がしいことはなかった。かえって夜はひっそりとしていたように記憶する。 訪れる観光客の増加や、次々とできた欧米人向けのバーやディスコなど、シェムリアップは明らかに変わった。安いメシを食べさせてくれる川沿いやあちこちに見られた屋台群も、随分と少なくなってしまった。 シャワーを浴びてベッドに横になりTVをつけた。何十チャンネルものなかから音楽番組を選び、旅のメモを取ろうとしたら少しからだが熱っぽい。どうやら体調を壊しかけているようだ。 今日はあまり無理をしていないし、夕方までは超元気だったのに。(涙) 原因として思い当たるフシは、さっき飲んだワインが少し僕には合わなかったかもしれない。物価の安いカンボジアでは、飲んだワインが安ワインなのか普通のワインなのか分からない。きっと安ワインだったのだろう。 寒気がするので薄い毛布を体に巻いてすぐに寝た。夜中に何度も目が覚めた。Tシャツは汗でベトベトになっていたので、体を拭いて二回も着替えた。僕は旅先で時々こういう風に発熱する。ただ、汗を出すと熱が下がるので、我慢をして毛布をかぶる。 翌朝、八時前に部屋をノックする音に目が覚めた。ドアを開けるとI君が立っていた。彼は昨日バイタクの青年に、アンコールワット遺跡群の観光案内を依頼していたのだった。 今回は一日だけ遺跡群を見に行こうと思っているが、今日の体調では無理なのでI君に「一日ゆっくりしているよ」と言って再び寝た。 次に目が覚めたのは午前十時を過ぎていた。体調は一気に回復し、熱っぽさは全くなく、逆に超快適な感じ。やっぱり単にワインあたりだったのか。 シャワーを浴びてGHのレストランでトースト&オムレツとコーヒーの朝食を摂った。これで2ドルは少し高いようにも感じるが、美味しかったので良しとする。 いったん部屋に戻ってNHKの放送や地元の音楽番組を見た。音楽番組は見ていて全然飽きない。午後から郵便局へ。カンカン照りのバカバカしい暑さで、にもかかわらずバンダナだけ巻いてフラフラと歩いている僕に、「バイタク!ワンダラー!」と次々に声がかかる。 何がワンダラーだ。(笑) 郵便局で友人にエアメールを出したあと、郵便局前の川沿いの日陰を歩いた。すると昨夜訪れたオールドマーケットの入り口に着く。ここで遅めの昼ごはんにすることにした。のんびりとしている自分に満足。 |
シェムリアップ到着の翌日、僕は前日の夜飲んだワインが体に合わなかったようで、アンコールワット遺跡群の観光には行かず、市内を散歩したりホテルでテレビを見たりしてのんびり過ごした。 昼食をオールドマーケット内の食堂で食べて、ブラブラと川沿いをゲストハウスに向かって戻る。すると、ゆでた卵を一杯入れた竹篭を持った卵売りの若い女の子がいた。僕は二つ買ってみた。 ナイロン袋に卵とちぎった野菜と塩を入れてもらって、値段を聞くと答えない。面倒くさいのと、可愛い娘さんだったから1ドルも払ってしまった。(笑)おそらく二個で2000リエル程度で売っているのだろうけど。 「ここで食べて行くか」と言われたが、宿に戻って食べることにした。でもこれが大間違い。 部屋に戻って、ゆで卵をコツコツとヒビを入れて開けてみると、な、なんと雛になっていた。カンボジアではこのような孵化(ふ化)した雛の卵をゆでて売っている。美味しいそうだが僕は視覚的に食べられなかった。買ってすぐに娘さんに卵をむいてもらっていたら、おそらく食べられたような気がする。 夕方になってI君が戻ってきた。一日中遺跡を回って疲れた様子だった。 「いやぁ、疲れましたよ。あちこち回りました。すごいものですねぇ。明日はちょっと離れたバウンティアスレイというところに行こうとバイタクの奴が言うんですが、15ドル要求してきましたよ。相場ですかね?」 バウンティアスレイには最初にアンコールワット遺跡群を訪れた2001年に行ったが、その時は16ドルだったような気がするのだが、まあ15ドルだったら良いのではないかとI君に言った。 晩御飯はまたまた昨夜のバーの辺りに出向き、メキシコ料理店に入った。単に店頭に置かれていたメニューにあったタコスが美味しそうだったから。 いわゆるカンボジア料理というものは確かに存在するが、われわれバックパッカーが立ち寄るレストランではチャーハン類や麺類やせいぜい野菜炒めのような物しかない。カンボジア人たちも、ボールに入った山盛りのご飯に具入りスープでお終い、という感じの食事なのだ。 だから、タイやベトナムに比べると、食事の選択肢が少なく、このようなメキシコ料理店に入ったりすることになる。この日はアンコールビールとタコスで一人3ドルだった。 さて翌日、朝早くからI君はバウンティアスレイ遺跡に出た。僕は昨日と同様に遅い朝食を摂り、さて今日はどうするかと思案。するとゲストハウスの前に、二人乗りの小さなトゥクトゥクが止まっていた。 一日いくらだと聞くと10ドルだという。バイタクよりずっと快適そうなので、トゥクトゥクで行くことにした。 「用意をしてくるからここでしばらく待っていてくれ」と言い残し、僕は三度目のアンコールワットを拝むために部屋に戻って着替えた。 |
二人乗りのトゥクトゥクに一人で乗るのは当然快適で、しかも運転の男性は非常におとなしい控えめな人柄だし、さらに好天。この日はなかなか運が良い。 ゲートでアンコールワット遺跡群の入場料を購入し(今回は一日券。でも20ドル。因みにご存知の方も多いと思いますが、三日券が40ドル、1週間券が50ドルです)、森の中をドンドン進んで行った。 入場券の料金については、最初の「突撃!アンコールワット」(2001年訪問時)にも書いたことがあるが、この国の公務員の月収が二十ドルあまりといわれることから比べると、随分な高額である。 ただ、カンボジアは農業国で特に産業も資源もない。このアンコールワット遺跡群を訪れる観光客からの収入が唯一の外貨獲得手段で、カンボジアの経済の大きな部分を占めている現実からやむを得ない料金設定だと思う。 遺跡観光のコースというものがあるが、僕はトゥクトゥクの男性に「今回で三度目だから、アンコールワットとバイヨンだけを見たい」と言った。 アンコールトムはアンコールワットの北に位置していて、五キロ四方の広大な面積の中に様々な遺跡群が所在する。まずバイヨン(Bayon、現地の人はバヨンと発音しますね)を見る。 人面像はやはり圧巻である。アンコールワット遺跡群観光に行かれる方は、必ずこのバイヨンを見られることをお勧めします。(といってもバイタクなどの案内コースに入っているが) いったん回り始めるとバイヨンだけでは勿体なく感じてきたので、続いてBaphuon(バプーオン)、Phimeanakas(ピミアナカス)を回る。バプーオンはすっかり修復ができていたが、ピミアナカスと同様に登らずに見るだけにした。(もう年だからね)三度目だからこの辺りはスムーズに次々と移動できる。 王のテラスや像のテラスと見て回るが、猛烈に暑い。そういえば最初にアンコールワット遺跡群を訪れた時は、遺跡に感動して暑さも気にならず、何時間も休憩なしで回り続けたため、その夜は熱射病でぶっ倒れたことを思い出す。 今回は前にも述べたが、中国人や韓国人の団体がことのほか目立つ。日本人は本当に少ない。それともう一点、前二回に比べて観光客が少ない。ガラガラに近いと言っても過言ではない。いったいどうなっているのだろうと思いながら、一時間ほど見て回ってトゥクの男性が休憩している思われる辺りに歩いて行った。 土産物屋台が並んでいるバイタクやトゥクトゥクの溜まり場に近づくと、僕の姿を確認したトゥク男性がヒョイと現れた。なかなか真面目な奴だ。 さて、いよいよアンコールワット。正面の入り口への長い通路前で係員に入場券を見せ、ゆっくり歩いて行く。 アンコールワットは、寺院の中の回廊に彫られた様々なレリーフも素晴らしいが、遠くから見る姿が最も感動的だ。周囲を池で囲まれ、まるで浮かんでいるように見える大きな寺院。 最初の長い通路を歩いて門をくぐると、そこからまた長い通路がある。この位置からようやくアンコールワットのシンボルともいえる三つの尖塔が見え、やはりこの景観が最高である。 さらに進む。 |
そう思うとじっくりとこの目に留めておこうと気合を入れて見ようとも思ったが、年を取ったらボケ老人になってせっかく脳裏に焼き付けたはずの記憶が消え去ってしまうだろうということに気がついた。そうなるとデジカメの出番、寺院内部や外からのアンコールワットを撮り続けた。 このあと、巨大な樹木が寺院を押しつぶしているかのように見えることで有名な「タ・プローム」や、王の浴室と称される大きなため池の「スラ・スラン」や「タ・ソム」なども見所があるが、二度見ているので行かなかった。 今のこのメルマガを書いていて思い起こすと、やはりアンコールワット遺跡群は広大で、見所のある遺跡がたくさん所在していて、そのひとつひとつが「ウーン」と唸ってしまうので、もう一度じっくり見て回る機会を死ぬまでに作りたいと思い始めた。(四度も行くのかよ!と突っ込みを入れないように) いわゆる「大回り」コースや少し離れたところに所在する「バンテアイ・スレイ」、トンレサップ湖近くの「プノンクロム」、さらには西バライやサンライズサンセットを拝む「プノンバケン」等々、アンコールワット遺跡群はやはり素晴らしいので、まだ訪れたことのない読者様は是非一度訪ねてください。 さて、この日の僕はアンコールワットを出たあと、あっさりと遺跡群と別れて「アキーラの地雷博物館」へ向かった。ここには最初にシェムリアップを訪れた時にじっくり見ているが、もう一度見てみたくなったのだ。 この博物館は「アキラ」さんという名前の日本人が運営しているものではありません、念のため。アキーラさんというカンボジア人(アキーラーと地元では呼んでいるように思います)が、カンボジア国内で撤去された様々な地雷や、地雷で手足がなくなった人たちの写真などを展示し、戦争の悲惨さを訴えているもので、政府の援助なく個人で運営されている。 詳細は「アキーラ地雷博物館」のキーワードでネット検索してご覧いただければと思いますが、アンコールワットを訪れたら是非行ってみて下さい。Tシャツなどの衣類や小物が館内で販売されていますので、寄付をする意味でも購入されたらよろしいかと思います。(勿論館内に寄付箱はありますが) 石ころだらけの悪路をトゥクトゥクに揺られながら、シェムリアップ郊外の民家を抜けると博物館が見えた。以前と変わっていない。中に入ると、アレレ? I君がいた。彼は今日、「バンテアイ・スレイ」を見に行ったのではなかったのか? |