突撃!アンコールワット・やっぱり年末年始は日本で過ごすべきかも編


バンコクへ 


 12月21日の深夜にバンコクインして、24日に国境の町・アランヤプラテートからタクシーをシェアしてシェムリアップに入り、三日間滞在した。

 26日は一日だけアンコールワットの観光に出て、早めにゲストハウスに戻ってくると、ちょうどメイとミッシェルがプノンペンに発つところだった。I君はお互いのメールアドレスを交換していた。

 「アイルランドに是非一度来てください。来る時は必ず連絡してね」

 二人は僕にも口をそろえて言っていた。挨拶代わりの言葉だとしても、アイルランドに行く機会があれば連絡しようかなと本気で思った。

 翌日は僕たちもバンコクに戻るので、カオサンまでのバスチケットをゲストハウスで購入した。朝迎えに来て、国境でタイ側のバスとバトンタッチしてカオサンまでの行程が12ドル、所要時間は11時間程度とある。

 どんなバスか分からないが、安いのが魅力だ。前回もこの方法で戻ったから勝手は分かっているつもりであった。

 シェムリアップ最後の夜となった26日の夕食は、メモによると一人6ドルとあるが、どこで何を食べたのか思い出せない。(笑)
 金額的に少し贅沢をしたはずなのだが・・・。

 ともかく翌日の朝早めに起きてパッキングを済ませてゲストハウス前に出た。チェンラーゲストハウスの前は広く、バスが止まるスペースが十分ある。どんなバスが迎えに来るのかと思っていたら、なんてことはない、かなり年季の入ったマイクロバスだった。

 バックパックを後部の狭いスペースに押し込んで乗り込んだ。バスはあちこちのゲストハウスを回るので、座席は殆ど残っていなくて、僕は一人席を確保したが、I君は後部の欧米人たちの狭間に座る破目になった。

 あとでI君は欧米人のおしゃべりに辟易したと言っていた。どうしてこう欧米人はペチャクチャペチャクチャとめどなく喋り続けるのだろう。僕も時々うるさく感じたものだ。

 バスはシェムリアップの町をあとにした。もう訪れる機会はないだろう。(と今は思っていますが)

 見覚えのある道をバスはドンドン走り、シソポンの郊外で往路食事に立ち寄ったところとは違う小さなレストランで休憩を取った。そして一気に国境の町・ポイペトへ。

 マイクロバスを降りてカンボジアからの出国手続きを行うが、これが長蛇の列。なかなか進まず、僕とI君は他の旅行者にかなり遅れてタイ側に入ったため、次に乗るバスがどこに待機しているのか分からなくなってしまった。


 バンコクへ その二

 バンコクからシェムリアップまで、ツーリストバスで行く場合は、国境での引き継ぎに注意を要する。勿論その逆も同じだ。

 僕とI君はタイ側に入ったものの、次にバンコクへ向かうバス乗り場がなかなか分からなかった。前回来た時にも同じようなことがあって、その時はメキシコ人と一緒に乗り場を探したことを思い出す。

 結局は以前鉄道のレールが残っていたところを越えた辺りに大きな駐車場があり、バンコク方面への大型バスやマイクロバスやワゴン車がたくさん止まっていた。レールあとはすっかりなくなってしまっていたので、ちょっと戸惑ってしまったのだ。

 見覚えのある欧米人が集まっているところへようやくたどり着き、チェンラーGHでもらったレシートを見せてOKとなった。そしてわれわれはワンボックスカーに九人が乗り、すぐに出発した。

 何度も書くが、タイの道路網は素晴らしい。高速道路でもないのに、まるでハイウェイのように整っている。車はビュンビュン飛ぶように走る。途中ガソスタで短時間休憩を取っただけで、あっという間にバンコク市内に入った。

 このミニバスはカオサンロードに向かっているが、僕とI君は今日27日から30日までスクンビット・オンヌットゲストハウスを予約していた。

 高速道路を降りて下道を走り出したところで運転手に無理を言って、BTSのパヤタイ駅近くで降ろしてもらった。そこからオンヌット駅まで重いバックパックを背負って移動する。冷凍庫のようなエアコンで一気に汗がひく。

 四日ぶりにゲストハウスに戻ると、オーナーの杉山氏が温かく迎えてくれた。この時期、満室だが、予約どおりエアコンドミをちゃんと2ベッド空けてくれていた。

 「ドミトリーは定員の半分の宿泊者数が快適なのですよね。年末なのでちょっと狭苦しく感じるかもしれませんが我慢してくださいね」

 杉山氏は気を遣ってこのようにおっしゃる。でもとても清潔で、エアコンも心地よく、ここのゲストハウスはお勧めです。

 さて、この夜はゲストハウスの一階のレストランで食事を済ませた。かなり疲れていたので、ビールを飲んだら猛烈な睡魔に襲われた。いよいよ今年も押し迫ってきたが、日本を離れているとそういう感慨はあまりない。

 食事の時にI君に提案をした。

 「一応アンコールワットは案内したから、あとはI君の希望通りに動こうよ。僕はラオスに行きたいが、I君が一緒に行くならそれでもいいよ。どうする?」

 実は本心ではそろそろ一人行動を取りたかったのだ。大の男が(二人とも小柄だが)二週間も三週間も一緒に旅しているのはおかしいではないか。

 「そうですね、僕はバンコクをあちこち観光してみますよ。大晦日と元旦くらいは少し良いホテルに泊まって贅沢しますわ」

 彼の言葉に内心ホッとする僕であった。



ラオスへ その一


 2006年12月28日、日本ではあわただしい年末が近づき教師が街中を走っている中、こちらバンコクではそんな雰囲気は感じられない。まったく年末を感じない原因はこの暑さだと思うのだ。

 日本で生きてきた人間にとって、クリスマスや年末年始は寒いのが当然。だが、今回クリスマスイブを過ごしたシェムリアップのあるカンボジアでもこのタイでも、年がら年中「寒さ」というものとは無縁なので、年が押し迫っているという感覚はない。当然とはいえ、不思議なものだ。

 この日、差し当たりホアランポーン駅へラオスへの夜行列車のチケットを買いに向かった。三十日まではゲストハウスを予約しているから、大晦日のノンカイ行きチケットが欲しい。

 日本でも年末年始の新幹線などのチケットをゲットするのは大変なのに、このバンコクで簡単に手に入るとは思わなかったが、予想通り三十一日の夜行列車はノンエアコン寝台車もフルだった。

 チケットは何故かこのあとゲットすることができるのだが、この話はのちに。

 ともかくI君をバンコク市内観光にナビゲートした。地下鉄ホアランポーン駅から二駅戻るとシーロム駅。ここでBTSスカイトレインに乗り換えて、チャオプラヤ川方向への終点がサバーン・タクシン駅。駅を出
 ると目の前に水量豊富なチャオプラヤ川があり、船での移動ができる。

 10バーツで乗船券を買って乗り込む。船は水しぶきを上げながらドンドン走る。船から見る川沿いのバンコク市街の光景も様々で興味深い。

 岸に着いては乗客が降り、また新たな乗客が乗り込んでくる。風が心地よく暑さをやわらげてくれる。

 バンコクが初めてのI君には、先ずはワットポーを案内するのが定石だろう。船ガイド(って呼ぶのかな)の女性に「ワット・ポー」と言っておいたら、六つ目くらいの岸で降りろと言われた。

 岸に上がると庶民的な市場があり、そこを抜けるとお寺の外壁へ出た。ぐるりと回ってワット・ポーの正門へ出る。

 注意しなくてはいけないのは、この辺りに必ずと言ってよいほど「今日はワットは休館だ、セレモニーがあるので閉まっている、などの理由を並べて、他の寺院を案内してやる」という怪しげなトゥクトゥク野郎が出現するので気をつけたほうがいい。

 さて、二十バーツの入場料を支払って入る。ここに来るのはこれで三度目。ただ、これまで二度訪れた目的は、お参りではなくてタイ古式マッサージを受けるためだった。

 今回は不謹慎な気持ちではなく、キチンとお参りをしようと寝釈迦像のある建物に入った。するとそこには驚くべき光景が。(笑)


ラオスへ その二

 驚くべきはワット・ポーの寝釈迦像。その様は巨大で黄金に輝いており、目測 では少なくとも百メートル以上はあると思われたが、何故か足が異様に長い。

 仏様の体形はともかくとして、ゴロリと寝ていらっしゃる巨大仏像の前には陶 器でできた小さな壺がズラーリと並んでいた。この壺は108あるらしい。

 つまり日本の除夜の鐘の数と同じということで、この壺にコインをチャリンチ ャリンと入れて行き、最後の壺でちょうどコインがなくなったら幸運が訪れるらしいのだ。

 周囲の観光客たちと同じように、僕とI君は壺に入れるためのコインをたくさん購入し(アルミのお皿にたくさん入ったコインが確か10バーツか20バーツで売っていましたがいちいち記憶していません)、ひとつひとつの壺にチャリンチャリンとコインを入れていった。

 最後の壺の前でまだ手元に数枚のコインが残っていたが、これを一気に投入して幸運をつかむ権利を得た。(笑)

 寝釈迦像で功徳を積んでから奥へ奥へと行くと、タイ古式マッサージの学校が併設されたマッサージ施設がある。一時間二百バーツ程度なので、市内のいたるところにあるタイ古式マッサージ屋に比べても高くないが、今回はパス。しばらく寺院内をウロウロしてから出た。

 「日本では寒い年末なのに、暑くてたまりませんね」

 I君がこぼすほどタイはヤッパリ年中暑い。バスに乗ってサヤーム方面へ行くことにした。目的はI君の年末年始のホテルを予約するため。

 ナショナルスタジアム前で降りて目の前が、これまで何度も泊まったことのある「クリッタイマンション」。数年前までシングルが650バーツだった。

 日本に帰る前日は少し贅沢をしようと、このホテルを何度か利用した。2002年のラオス旅行や2003年の体調不良旅行の際にも、このホテルでN君やH嬢と帰国前に待ち合わせをしたものだ。懐かしいなぁ。

 ところがどっこい、2006年の年末、クリッタイマンションはシングルが850バーツになっていた。

 バーツ高、物価高の影響で当然といえば当然だが、カオサンの安宿街を避けて少しだけ贅沢な宿という位置づけだったこの界隈のホテルやゲストハウスは、この頃軒並み値上がりされていた。

 クリッタイマンションのHP ⇒ http://www.kritthaimansion.com/ 

 なんと!現在はダブルルーム(シングルとして利用)が980バーツになっています。これでは女性同伴でもない限り、もう利用できませんね。(涙)

 I君は大晦日と元旦の二日間、差し当たりこのホテルを予約した。まだ時刻は15時過ぎだったが、ビールが飲みたくなってきたので一等食堂へ向かったのだった。


 ラオスへ その三

 I君が年末は少し良い宿で過ごしたいとの要望で、クリッタイマンションを予約した十二月二十八日の時点では、カウントダウンはサヤームのパラゴンに行ってみようと思っていた。

 一等食堂のマスターは、大晦日はバンコクで越して、元旦にカンチャナブリへ行き、その先に温泉があるので、二三日ゆっくりする計画だとか。でも僕はまだラオス行きのチケットを諦めていなかった。

 翌二十九日はI君をアユタヤへ案内することにした。列車でゆっくり行こうとホアランポーン駅へ向かった。

 そしてアユタヤ行きのチケットを購入する際に、「三十一日のノンカイ行きは空いていませんか?」と聞いてみた。まあ可能性はほぼゼロだと思っていた。

 ところが窓口の女性は「エアコン寝台のアッパーなら一つだけ空いているよ」と言うのだ。

 「二枚空いていませんか?」

 一応I君の分も聞いてみた。なぜなら、まるで僕がI君と離れたがっているようだからね。

 「一枚だけです、どうしますか?早くしないと売れてしまいますよ」

 こう言ったかどうか分からないが、窓口の女性は急がせるような口調だったので、慌てて購入した。

 「ごめんね、I君」

 「いいですよ、僕は年末年始、贅沢にバンコクで遊びますから気にしないでください」

 こうして幸運にも(幸運かどうか分からないが)、大晦日のノンカイ行きチケットをゲットできたのだった。2006年から2007年への年越しは夜行列車の中という、悲劇的かロマンティックか分からない状態になるわけである。

 さて、アユタヤにはホアランポーン駅から二時間弱でアユタヤへ到着する。駅を出て通りを渡り、さらに歩くと川に突き当たる。十バーツを支払って対岸へ渡し舟で渡る。

 アユタヤは広大な遺跡群があり、当然歩いて回ることは不可能だ。2003年にここを訪れた時は、ゲストハウスから歩いて歩いて歩いて、さらに歩いて遺跡公園に着いたが、既に疲れきってしまって、暑さのあまりビールを飲みすぎてヨレヨレになってしまったことを思い出す。

 今回はレンタサイクルを利用することにした。レンタサイクル屋の前に、変速機など付いてはいないが、なかなか走りそうな綺麗な自転車が数台置かれていた。料金を聞くと一日五十バーツだという。

 二台借りるのと、そんなに長時間借りないからと言って四十バーツにまけてもらった。早速遺跡公園に向かって出発した。

 天候は快晴、灼熱というほども暑くはなく、程よい暑さ。アユタヤの道路は広い。
 自転車はズンズン進んで行った。


 ラオスへ その四

 アユタヤの中心街と遺跡は川に囲まれている。バンコクへも流れるチャオブラヤ川やオールド・ロッブリー川などに囲まれ、一つの島となっている。

 僕とI君はレンタサイクルをグングン飛ばし、遺跡公園に入った。五年前に訪れた時はちょうど道路工事があちこちで行われていて、町はホコリっぽかったが、それらの工事が完成し、現在は幅の広い道路が縦横に走っていて、整備された印象を受ける。

 みどり豊富な遺跡公園を進むと、突き当りがワット・プラ・シー・サンペット。ビルマ軍によって破壊されつくしたが、比較的広い敷地内に三基の塔が残っている。

 ザーッと見物して隣のウィハーン・プラ・モンコン・ボピットという名称の大仏寺へ。靴を脱いで中に入り、神妙に仏様に手を合わせる。I君も訳分からずに手を合わせていた。

 涼しい寺院内から外へ出るとヤッパリ暑い。アイスクリームを10Bで買って食べる。

 そして再びレンタサイクルに乗って象の乗り場を見に行った。ここでは500B支払えば、象の背中に乗って公園内を散策できるが、I君も僕も興味がなく、象だけ見て終わった。

 飽きてきたので戻ることにした。レンタサイクルを返却して再び列車に。

 アユタヤという町は、遺跡公園を散歩したり、ゲストハウスで読書をしたり、のんびり過ごしたりする人には向いていると思うが、日帰りでも十分アユタヤという町を知ることが可能だと思う。

 もちろん遺跡に興味がある人は、二日、三日とかけて、遺跡公園のほか、島の外へ出ての寺院めぐりも意味があるだろう。

 さて、バンコクへ着いたらもう夕方だった。N君に連絡を取ってソイランナームのイサーン料理屋で合流することになった。BTSスカイトレインで戦勝記念塔駅へ。そこから歩いて七分程度で着く。

 知人が営む一等食堂のならびにあるイサーン料理屋は屋根がない。屋根もなければ店の名前もないおかしな店である。

 駐車場のような広いスペースに四人掛けテーブルを10卓程度設置し、入り口には様々な魚介類が入った大きなトレーがあり、カチ割り氷がぶっ掛けられているので、通りからも分かる。

 これまでN君と数回訪れているが、雨に遭遇したことがないので、雨が降ってきたらいったいどうするのだろうと不思議でならない。幸いに今は乾季である。

 僕とI君は先に食べ始めることにした。英語が全く通じない店と聞いていたので、指差し注文だ。ただし、「チムチム」だけは通じる。正しくは「チムティム」らしいのだが、これはタイのイサーン地方で食べられているシャブシャブ料理。

 小さな底の深い土鍋に海老や貝と野菜類を入れて食べる。スープがとても美味しいのだ。シンハビールを注文して僕たちは飲み始めた。


 ラオスへ その五

 2006年12月29日、日帰りアユタヤ訪問のあと、ソイランナームの野外イサーン料理店でチムティムを食べて満足したあと、三軒隣の一等食堂に昨夜に続いて訪れた。
 間もなくN君も仕事を終えて現れた。再びビールを飲み始めた。

 話題は大晦日と新年をどう過ごすかということ。僕は大晦日のノンカイ行き夜行寝台列車のチケットをゲットしているから、他の三人がどう過ごすかという話になった。

 一等食堂のマスターは、当初カンチャナブリの少し先に温泉があるようなので、二、三日ゆっくりしてこようかと言っていたが、N君は予定がないし、I君も不安顔になっていたので、「大晦日は三人でパラゴンのカウントダウンへ行きましょうか」と提案した。

 I君を置いてラオスへ行くのは少し気がかりだったが、彼らが一緒に年を越してくれるとなると僕も安心である。

 さて、翌日はI君を「ジム・トンプソンの家」に案内した。僕は二度目だったが、松本清張さんの「熱い絹」を読破したあとだったから、大変興味深く見物することができた。

 ジム・トンプソンは既に九十歳を越えているが、三十年以上もマレーシアのキャメロンハイランドを彷徨しているのだろうか?(そんなはずはないだろうが)

 そして昼食はMBK(マーブンクロン)の七階の「MK」へ行った。MKといってもタクシー会社ではない。タイスキのチェーン店なのだ。

 読者様は、僕がかなり贅沢をしているように感じられると思うが、タイスキはあれこれ具を頼んで、ビールを二本程度飲んでも、二人で700バーツ程度(2500円くらいかな)である。

 近くのチェラロンコーン大学の学生さんとみられるグループや家族連れも多く、タイの人々にとっても特に贅沢な食事でもないようだ。

 夜はN君と一等食堂のマスターと店の常連の日本人客であるMさんと四人で、スクンビット・ソイ33にある「田舎っぺ」へ繰り出すことにした。

 田舎っぺ  ⇒ http://www.thainavi.net/glme/sukhumvit/inakappe.html

 タクシーを捕まえて15分程度で着いたが、さすがに人気店だけあって超満員、やむなく田舎っぺに通じる路地の角にある「雪月花」に入ることになった。

 ところがこの「雪月花」が外れだった。大して美味しくもないのに非常に高い。早めに店をあとにしてNANAへと繰り出したのでありました。(以下略)

 翌日は大晦日、僕とI君は昼前にオンヌットGHをチェックアウトした。フォアランポーン駅でバックパックを夜八時ごろまで預けて(30バーツ)、次にナショナルスタジアム駅前のクリッタイマンションにI君がチェックインした。

 大晦日のパラゴン周辺は人々で早くもごった返していた。この日夕刻と深夜にバンコク市内数箇所で爆発テロ騒ぎが起こり、この近くのセントラルワールド前の公衆電話でもカウントダウン後に爆発が起きたのだが、
 その頃僕はラオス国境の町・ノンカイ行きの列車中だった。


 ラオスへ その六

 2006年12月31日の大晦日、僕はノンカイ行きの夜行列車に乗っていた。

 この日、僕とI君は再び一等食堂のマスターとN君と合流し、ランナム通りのシーフードレストランで夕食を囲んだ。

 20時半発のノンカイ行き夜行列車に間に合うギリギリの時刻まで、彼らとともに大晦日の夜を過ごしたあと、タクシーを飛ばしてホアランポーン駅に向かった。カウントダウンを控えたバンコク市内の夜は、どこもかしこも大勢の人々で溢れていた。

 この年の九月には三年余りぶりに海外へ出ることが出来たが、僅か1週間程度のバンコク滞在だっただけに(この話は「ワットファウロンワへの道」でいつか書きたいのですが)、今回の三週間程度の旅行を得られたことに満足をしていた。

 そしてそのことだけでも、今年は良い年だったと感じる単純な僕であった。

 さて、ほぼ定刻通りに走りはじめた列車は、最初ガタリゴトリと極めてゆっくりと、それはまるで大晦日のバンコク市内の様子を、乗客たちの目に焼きつけさせるかのように動いた。

 バンコクには、タイの田舎町から働きに出てきている人々で町の機能が成り立っていると言っても過言ではないほど、その数は計り知れない。この大晦日の列車は、それらの人々の今年最後の帰省列車なのである。

 僕は窓から見えるイルミネーションや、車や人々の往来を眺めながら、少し感傷的な気分に浸っていた。すると僕の斜め前にいた中年女性が突然英語で話しかけてきた。会話の取っ掛かりはほぼ同じである。どこの国から来て、どこへ行くのかと聞いてきた。

 「日本から来てラオスへ行くんです」と答えると、女性は「私はウドンタニーへ帰るの」と言った。

 ウドンタニーとはうどんで有名な町ではない。ガイドブックには「ウドーン・ターニー」とあり(ノンカイもガイドブックではノーン・カーイと書かれている)、その歴史は興味的である。

 世界遺産にも登録されている遺跡もあれば、ベトナム戦争時はアメリカ空軍の基地の町として賑わった。

 この女性は英語がペラペラで、僕の方が何度も聞きなおしながら会話が成り立った。

 一時間程度話したところによれば、彼女の娘さん二人がウドンタニーからバンコクに働きに出てきていて、コスメ関係に勤めている関係などで彼女たちが帰省できないから、私がバンコクへ年末行ったのだ、両親が家で待っているから娘さんたちとバンコクで過ごすわけにはいかないので、この列車で帰るのだと言った。(長いセンテンスだなぁ)

 列車の乗務員がベッドを作りに来たので会話は終結してしまったが、そのあと彼女の携帯に何度か電話が入り、英語で喋っている声が深夜まで聞こえた。ベトナム戦争時にアメリカ兵と交際があって、英語が喋れるようになったのかも知れないなと、ふと無責任に思ったのだった。

 様々なことを考えているうちに、いつしか年は2006年から2007年へと変わっていた。カウントダウンや除夜の鐘など何の関係もない列車の中で、新しい年がやって来ていた。

 車窓からは暗闇の中に、所々に民家の灯りが見えた。その灯りの下ではそれぞれの越年の生活が営まれている。

 「何か寂しいなぁ」と思いながら寝てしまった。

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