Music:MIKO


 ★第一話★ 交渉制タクシーとの奮闘と偶然の再会

 午前十時二十分、関空発シンガポール航空便タイ・バンコク行きの機内は、毎回の如く満員であった。三人並びの通路側の席を希望した僕の内側の二席には、二十過ぎの若い女性が座っており、ちょっと話をすると初めてのタイ旅行だという。

 節約バックパッカーでもなくて、宿泊ホテルは三千円程度の所を予約しているらしく、また旅の期間も四日間だというので、それなら旅行代理店のパックツアーのほうが安くて安全だと思いますよと、分かったような偉そうなアドバイスをして満足をする。

 しかし僕はこの時点でも三十九度近い熱があり、フラフラの状態なのだった。ただ食欲だけは全く衰えがなく、出された機内食をスープの一滴まで平らげてしまい、横の女性に笑われる始末だった。

 現地時間で一時半頃にバンコク・ドムアン空港に着き、重いバックパックを背負って鉄道駅に行く。二十分ほど列車を待つが一向に来る気配がなく、体も重いのでタクシーで宿まで行くことに決め、空港のタクシー乗り場へ戻り乗車する。しかしこれがいけなかった。メータータクシーに乗ったつもりが、交渉制のタクシー乗り場だったのだ。

 発車してしばらく経ってから、「マーブンクロンまでいくらだ?」の僕の問いに、「三百五十バーツだ」と眠たいことをいうのだ。

 「お前クレイジーか?何をいうてんねん。二百バーツで行ったらんかい」と憤慨していうも、彼は首を横に振って言葉が分からない振りをしている。

 「ともかく降りる。BTS(スカイトレイン)の最寄の駅で降ろしてくれ」というとようやく頷き、それから十五分ばかり走ってモーチット駅近くで停車した。しかしここからが大変だった。僕がここまで六十バーツくらいやろうけど、メータータクシーと違うから百バーツ払う。それでいいか?といって、百バーツ紙幣を手渡そうとすると、「ノーノー」と首を振り困った顔をするのだった。

 相変わらず彼は三百バーツ以下の値段は譲らず、馬鹿げた価格に僕が次第に憤慨の度を増してきて、声も大きくなってきた。彼は要するに空港の担当者に五十バーツは手数料として持っていかれるので、三百バーツをもらっても取り分は二百五十バーツだというのだ。しかしそちらの都合なんぞ関係がない、ともかくクレイジープライスだ!と僕も絶対に引かない姿勢だ。

 結局、十数分の交渉のあと、彼も泣きべそをかいたような情けない顔をするので、人情味溢れた渡世の仁義を守る人生を送っている僕としては、メータータクシーに乗らなかったのは僕のミスであるので、ここは自分の非がある分を認め、二百バーツで手を打つといった。

 ところがである。それでも彼は仏像に題目を唱えるが如く、「三百バーツ!三百バーツ!なんまいだぁ」とホザクのである。

 僕は体がカッカと火照り、頭にも随分と血がのぼりつめているので、高熱があるに加えて高血圧の持病も持つ僕としては早くホテルで休みたい気持ちが強く、とうとう彼に屈服してしまったのだった。

 “二百七十バーツ” この値段はマーブンクロンまで行っていたら、ちょっと高い程度で済んだかもしれないが、BTSのモーチット駅で降りたわけだから、相場より200バーツほど多く支払った計算になる筈だ。

 僕は冷蔵庫のようによく冷えたBTSスカイトレインでサイアムに向かいながら、このトラブルは今回の旅の今後を暗示しているのではないかと、ちょっとモーレツかなり激烈弱気になっていたのだった。

 スカイトレインのサイアム駅で降りて、ジムトンプソンの家の近くに所在する安宿外に歩く。

 このサイアム駅周辺は、東京の渋谷駅や新宿駅周辺と遜色ない喧騒と雑踏である。
 僕は重いバックパックを背負いながら、三十八度以上の熱っぽい体を引きずるようにして、いつもちょっと贅沢する時に泊まるKri Thai Mansionのフロントに着いた。しかし僕の顔を見るや否や、中国系のフロント女性は満室ですというのだ。

 「明日は空きますか?」と僕は聞いてみたが、彼女は首を横に振りながら、「明日も今のところ空きそうにありません」というのだった。

 僕は心身ともにほぼ瀕死に近い状態になりながらそのホテルをあとにして、近くの宿を訪ね歩いた。二軒訪ねるも満室だ。連休だから何処も一杯じゃないかと二軒目のフロントの男性がいった。連休ってどういうことなんだろう。

 さらに奥に歩いて、「Bed & Breakfast」と看板のかかったちょっと小さめの宿を訪ねた。入ったところはレストランになっていて、その奥が事務所だ。

 ガラス張りに事務所に入って行くと、中年の女将さんが、「最後のシングルの部屋が空いてるよ。三百八十バーツ」というので、僕はとりあえず救われた気持ちになり、部屋を見せてくれというのも忘れてチェックインしたのだった。

 部屋はなかなか小奇麗で、シーツも清潔だ。シャワー室は結果的にお湯が出なくて水シャワーを浴びることとなったが、居心地はあまり悪くはなかった。ただ、エアコンが効きすぎていて、十分間つけて一時間ほど消すといったことを何度も繰り返さなくてはならず、熟睡ができなかった。

 ともかくザックを降ろして少し横になり、疲れ取れたような気がしてからコンビニへ買い物に出た。今夜は食欲もないから、飲み物とクッキーでも食べて早く寝ようと思った。

 通りに出て右に曲がった所にあるセブンイレブンに入った。店の奥のほうに進もうと思ったその時、「Fさん!」と背後で大きな声がした。しかもその声は女性のものだった。

 【ん?ここはバンコクだ。どうして僕の名前を呼ぶ人がいるのだろう】と不思議に思いながら恐る恐る振り向くと、何とそこには去年のラオス旅行で知り合って、数日一緒に移動したHさんが立っているではないか。

 何とまあ、偶然とは恐ろしいものだ。


 ★第二話★ 約束

 Hさんとは五月の旅の際にも、僕が帰国する日の朝彼女がラオスからバンコクに着いて、N君とともにほんの数時間だけ過ごしたことがあるが、会うのはそれ以来である。

 首にブルーのスカーフを巻いた彼女は、相変わらず女優の小林聡美さんによく似た可愛い人だったが、少し疲れが顔に出ていた。

 「どうしてここにいるの?」と僕は言葉が出なくてバカみたいなことを聞いた。

 「明日着く予定を一日早くして、プノンペンから飛行機で今日戻ってきたのです。カンボジアは疲れました。今夜は全然食欲がないので、飲み物だけ買って早く寝ようと思っているのです」

 あっそうか、僕は彼女とN君と三人で、明日の夕方Kri Thai Mansionのロビーで会う約束をしていたのだった。N君は直前になって、仕事の都合で来れなくなったのだけど。僕は約束をしていたことを、発熱のためかすっかり忘れていたのだ。

 だから彼女が一日早く着いたとしても、近くのコンビニで会う可能性もあったわけだ。でも偶然だな。

 「僕も体調が悪いから、クッキーでも食べて今夜は寝ようと思ってね」

 HさんもKri Thai Mansionが空いてなかったので、僕の宿の近くのA-One Inホテルに泊まっているとのことで、コンビニを出て宿の方向へブラブラと歩きながら少し話をした。

 結局彼女は、明日は特に予定がないとのことで、僕がバンコク郊外のワット・ファウロンワというおかしな寺を訪ねたい言うと、一緒に行ってよいかというので、「勿論大歓迎です。盆正月が一緒に来たような気分です」と言って、明朝七時に彼女の宿の前で会う約束をして、この夜はあっけなく別れた。
 そうなれば早く寝て、体調を整えないといけないぞ。僕は風邪薬を四錠も飲んですぐに寝た。

 

 翌日は少し熱も下がっていたようだった。
 水シャワーを浴びて髭を剃り、午前七時にHさんのGHの前に行くと、彼女がちょうど出てきた。
 「先ず朝ごはんにしましょう」ということになり、通りに出てすぐの屋台レストランに入った。

 まだ早いのでメニューは殆どできないらしく、僕は朝からカオパッドを食べたかったが、仕方なく二人とも極細麺のヌードルスープを注文した。
 このヌードルスープは味がとても薄くて、いろいろ調味料を加えてみたがあまり味の変化が生まれず、全部食べるには食べたがちょっと不満だった。それはHさんも同じだったようだ。(20B)

 彼女がKri Thai Mamsionに部屋を予約しているので、一旦彼女の荷物を取りに宿に戻ってからホテルを訪れた。

 僕達がフロントに行った時には、ロビーやレストランには大勢の旅行者が溢れていたが、大部分の人はこれから帰国するようだった。フロントの女性があと三十分ほど待ってくれれば部屋が空くとのことで、僕も念のためもう一部屋空きませんかと聞いてみたところ、同じ時刻頃に空くというので、僕も早速荷物を取りに宿に戻った。このホテルは少しだけ値段が高目だが、すごく快適なのだ。

 BedBreakfast GHの女将さんに、「ごめんなさい急きょラオスに行きます。チェックアウトを」と嘘をついて宿をあとにした。(他のホテルに移るとは言えないよね。こういうのを嘘も方便というのだな)

 Kri Thai Mansionに無事部屋を確保し、バックパックを降ろしてから僕達は予定通りバンコク郊外にあるという“ワット・ファウロンワ”という寺院を目指した。

 出発時刻は既に九時半を過ぎていた。ホテルの向こう側のバス停で南バスターミナル(サーイ・ターイ)方面行きのバスを待った。バンコクのバスは乗り慣れればとても便利で安いのだが、縦横無尽に張り巡らされたバスルートを把握するのは非常に困難である。

 「何番のバスに乗ればいいのですか」
 「ガイドブックではいくつかあるのだけど、八番とか五十一番とか。エーイ次に来たバスに乗ってしまおう」

 次にバス停に滑り込んできたバスは、ノンエアコンのバスで何番だったかは今となっては憶えていないが、「サーイ・ターイ!」と宣言すると、車掌が「ホイホイ」と頷いたようなので着席した。

 しばらくして後ろのおばちゃんがタイ語で何やらHさんに話しかけてきた。

 「サーイ・ターイ?」とHさんはおばちゃんに聞いていたが、おばちゃんはどうやらこのバスでは行かないと身振り手振りで表現しているようだった。するともう一人の中年女性が、「これでは行きまへん。乗り換えなはれ」という感じのことを同じく身振り手振りで言っているような気がするのだった。

 ようやく何とかおばちゃん達と車掌が、乗換えが必要だと言っていることを理解し、あるバス停で停車したところ、反対側のバスに乗るように指で指示をしてくれたので、僕達は急いで下車して道路を横断した。

 【ヤレヤレ、バンコクのバスを乗りこなすのは大変だ】

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