◆この物語について◆

首都ハノイから中国国境へ、さらにサパ〜バックハーを訪問。僕の旅行記の出発点です



第一章、ハノイ&アイスコーヒー・ウイズ・ミルク

 第一話

 夕方の関空発、タイ国際航空バンコク行きの飛行機に僕は乗っていた。

 今回の旅は自分でも何を目的にしているのか分からない。いや分かっているのだが、それを最大の目的で行くのは、この年で恥ずかしい行為ではないかという後ろめたさを感じているのかもしれない。目的地はベトナムの首都ハノイから列車で約十時間のところにあるラオ・カイという中国国境の町から、さらにラオス方面に三十キロ程の距離にあるサ・パという山間部の小さな街である。

 インドシナ半島の東部を占めるベトナムは、正式国名をベトナム社会主義共和国と名称し、面積は約三十三万平方q、人口は推定七千七百万人とされ、国土は南北に長いS字型をしており、北部は中国、西部をラオスとカンボジアに接している。

第二次世界大戦が終わり、フランスのインドシナ支配による長年の抑圧からの開放もつかの間、国土は南と北とに分断されていたが、一九七五年四月にサイゴン陥落とともにベトナム戦争は終結し、翌一九七六年六月に悲願の南北統一が達成され、その後カンボジアや中国との紛争、経済破綻、難民の流出などを経て、ドイ・モイ政策(開放政策)により経済力をつけ始め、激しく変わろうとしている国である。

 バンコクへの機内で、ある日本人ビジネスマンと席が隣同士になった。その男性はなかなか気さくな人で、こちらが聞きもしないのに、『私は日本〇〇(一部上場の電装メーカー)に勤務するサラリーマンでしてね。 二年程前にタイ支社に単身赴任しまして、今年のお盆に四日間だけ日本に帰って、今タイに戻る途中なのですよ。 たった四日間ですよ、何ができるっていうのですか? 長男は来年高校受験でしてね。 それがあまり勉強しないのでカツを入れてやろうと思っていたのですが、いざ久しぶりに顔を合わせると可愛い息子ですからきついこともいえなくてね』などとプライベートな話をしてくれるからこちらも楽しくなってきた。

 僕にも大学受験を控えた息子が離れた所で暮らしているのだが、それには触れずに、『海外単身赴任は大変ですね。 でもカッコいいじゃないですか、息子さんもきっとジャパニーズ企業戦士のお父さんを尊敬していますよ』と、慰めて言ったものだ。

 『貴方はビジネスで行かれるのですか? それとも観光ですか?』

 ジーンズにバンダナを巻いた怪しげな中年男という感じのする僕の姿から、観光で行くのはほぼ間違いないと思っているはずなのだが、あえて気を遣って彼は問いかけた。

 『僕はタイには用事がないのです。 すぐにベトナムのハノイに飛んで、その日の夜行列車で中国国境近くまで行くのですが、一応観光ということになります』一応も二応もないのだが、僕はともかく説明した。

 『お盆休みなのですね。 お仕事は何をされているのですか?』
 彼はさらに聞いてくる。

 『ちょっと怪しげな仕事なのです。 しかし法に触れるようなことはしていません』
 僕は冗談交じりにその場を切り抜けた。(職業を正直にいうとそこからますます核心に至る質問をされるか、黙り込まれるかどちらかなのである)

 僕は四十六才の中年の冴えない探偵である。
 といっても、自分で事務所を構えているわけではなく、NTTのタウンページの目次では探偵興信所という項目に掲載されている大阪のある会社に勤めているのである。

 僕の勤務する会社は業界最大手らしいのだが、業界自体は未だ許認可制ではなく、届出制という形態であるため、調査業の社会的必要性など企業目的を明確に持たない胡散臭い調査会社や、依頼人とのトラブルを度々引き起こす悪質な業者が未だに生き残っており、業界のイメージを悪くしているのだ。まあそんなことは今回の旅に直接の関係はないので、最初にくどくど語っても仕方がない。

 『タイはすごいですよ。 勿論貧富の差は激しいですが、教育を受けることができる家庭に育った者はよく勉強をしていますよ。 私の会社にもタイ人の技術者や設計士がたくさんいますが、アメリカに留学経験のある者も多く、英語は堪能だし専門的な知識もすごいですよ。 それに比べれば日本人は駄目ですね。 ハングリー精神に欠けるというのでしょうか』

 『そうですよね、日本の学生はあまり勉強していないようですからね。 勿論一部の人は学生本来の姿で勉学に励んでいるものもいるでしょうが、何しろ日本は情報過多で、しかも娯楽が多すぎますから、もはやワンダーランド化されていますよね』
 そんな話をして少しウトウトとしたあと、午後十時頃に飛行機はタイのバンコク・ドムアン空港に着いた。

 『ではお元気で。 くれぐれも生水は飲まないように注意して楽しんでください』
 とアドバイスをいただき、僕はそのビジネスマンと握手をして空港内で別れた。

 ここでは僕はトランジットビザで空港から出てもいいのだが、翌日の八時半発のハノイ行きに乗るので、空港内で夜を明かすことにした。

 ドムアン空港は大都市の玄関だけあって成田空港や関空並みの巨大な空港であった。僕は三階の出発ロビーのあちこちに並べられている椅子で仮眠をしたが、空港内は夜中まで到着する旅行者や出発する旅行者でごった返していた。

 しかし午前一時を過ぎるとようやく辺りも静かになり、近くには僕と同じような旅行者数十人が朝を待って仮眠をしていた。

 僕はそれこそ嬉しがりみたいに、出発ロビーの端から端まで(ゆっくり歩いて20分くらいかかるんだ)を何往復も歩き回り、初めてのバンコク国際空港に胸躍らせていたのだった。



 第二話

 結局、バンコク・ドムアン空港内で仮眠をするも、殆ど寝ないまま夜が明けてしまった。

 ピカピカのトイレで洗面を済ませて、午前5時頃に営業をはじめた小さなカフェでホットドッグと熱いコーヒーで朝食を摂り、次第に増え始めた旅行客の動きの中に入っていった。

 午前八時半発のタイ国際航空ハノイ便の機内では日本人は殆ど見かけず、僕の隣の席には昨日とはうって変わってちょっと厳つい男性が座り、何処の国の人かも分からないので話しかけないままいつのまにか眠ってしまい、午前十時二十分にハノイのノイ・バイ空港に到着した。

 ノイ・バイ空港はこれが一国の首都の空港とは思えないほど小さなもので、北海道の中標津空港のほうがはるかに立派に思ったくらいである。機内では出入国カードが配られたが、ベトナム語なので記入方法が全く要領を得ず、ともかく自分の名前を記入する箇所は分かるので、それ以外は何か不備があれば問いかけてくるだろうと思って空白のままにしておいた。

 ベトナムは社会主義国だから、入国に関しては結構厳しい部分があると書物にも書いていたので、空白部分に対して何かいってくるかなと思っていたが、僕は十ヶ所ほどあるイミグレーションの女性の入国審査官の列に並んで順番がくると、その女性審査官はあっけなくスタンプをポンポンと押してパスポートを投げるように返してきた。

 税関はあっという間に抜けて、外に出たらそこはもう空港前のごった返した風景で、早速僕の周りをバイクタクシーやミニバスの誘いの男性が七〜八人も取り囲んだ。これは予測したことなので何とか振り切って、正規の()市内のベトナム航空オフィス前行きミニバスチケットを購入し、ついでに三千円分をベトナム通貨貨幣であるドンに両替した。(日本円も両替出来た。 因みにレートは百円が一万三千ドン程で、三千円が約三十九万ドンになった)

 ミニバスは要するに日本のワンボックスカーにあたり、定員が九名程で、僕の乗ったバスには白人のカップルとアジア系男性五人が一緒であった。空港から市内までは約四十分で料金は三USドル、近年開通した高速道路を走るのであるが、これがものすごい運転でヒヤヒヤものなのだ。

ハノイの中心街に入って最初に驚いたことは、バイクが道路を占有しているかのように異常に多く、車も結構走ってはいるがバイクに完全に圧倒されており、シクロや自転車はその間隙を縫って抜け目なく走っているという印象だ。

 バスは大通りから狭い道に入ってもスピードを少しも落とさずに、何をそんなに急いでいるのか、バイクや自転車を道路脇に蹴散らしながら荒っぽくビュンビュン飛ばして走り、これでは事故にならないのが不思議に思うのであるが、運転手は得意顔だ。

間もなくバスはホアン・キエム湖近くのアイン・シンカフェというゲストハウスの前に停まって、運転手は白人カップルを中に連れて入っていった。十分ほどしてから運転手が戻ってきて、次にベトナム航空オフィス前に行くのかと思いきや、なんと「今日のホテルは決っているのか?」といきなり聞いてきた。

「僕はとりあえずロータストラベル・ゲストハウスに行かなくちゃ駄目なんだ。 だから早くベトナム航空オフィス前に行ってくれよ!」と苛つきながらいった。
 しかし僕の英語が通じないのか、運転手は他のアジア系四人に、「ホテルが決まっていないならこのゲストハウスはどうだ? 部屋を見てみるか?」と交渉を始める始末だ。

 「じゃあちょっとみて見ようよ。 それでいくらなの? えっ六ドル? それって部屋の値段? 一人の値段?」

 【なんだ、バスの中では黙りこくっていたのに、結局日本人のグループだったんだ】

そんなやりとりのあと、結局日本人グループもそのゲストハウスにとりあえず入っていくので、僕は運転手に、「ともかくベトナム航空オフィス前まで行ってくれよ」と重ねていうのだが、知って知らん振りをしているようで全く要領を得ない。

「このゲストハウスじゃ駄目か?」と相変わらず同じことをいってくる彼を無視して、僕はもういい加減ラチがあかないと思い、ザックを背負って車から降りた。

 ともかくヤッパリ書店に並んでいる旅行記や、インターネットのホームページに紹介されているような途惑うベトナムの出迎えであったが、あまり腹も立たずにホアンキエム湖近くの道を南に歩いた。

 地図によれば確か五〇〇メートルほど歩くと目印となるベトナム航空オフィスがあるはずだが、そこにいくまでの間にシクロやバイクタクシーの兄ちゃんをはじめ、屋台のおばちゃんまでもがあちこちから気軽に声をかけてくる。狭い道路ではバイクや車がクラクションをがんがん鳴らしながら走るし、交差点では信号が変わるとバイクが一斉にヨーイドンした感じでぶっ飛ばしてくるから、ボヤッと歩いていると危なくて仕方がない。

 三十度を超えた暑さと多湿とで、僅か五〇〇メートルほどを歩いただけなのに体中が汗びっしょりになり、何も分からないハノイの街中で、僕の体は既に疲れ始めていた。

 ベトナム航空オフィスは、あくまでも目的とするロータストラベル・ゲストハウスへの目印であって、そこから地図によると、二本下った通りを左折したらすぐに左側に小さな入口があると、出発前にあの人からのアドバイスメールが届いていたのである。



 第三話

 【ベトナム航空オフィスより二本南に下ったリー・トゥーン・キエット通りを左折するとすぐに、ロータストラベル・ゲストハウスとかかれた小さな扉があるから注意するように】と、あの人がアドバイスしてくれた通りに、気をつけないと本当に通り過ぎてしまいそうなところに、その入口はあった。

 ロータストラベルはツアーオフィスの多い旧市街からは離れたハノイ市の中心部にあり、一階がカフェと小さなフロント、上階にはゲストハウス(四ドル〜十二ドル程)を併設しており、各種ツアーやビザの手配なども行っている。中に入るとカフェには長テーブルと四人掛けの小さなテーブルが一つあり、欧米人の男女数人がコーヒーなどを飲んでリラックスしている。

「すみません僕はFといいますが、日本の女性が僕宛にメッセージか何か預かり物を置いていないでしょうか?」と聞いた。
 最初は僕の問いかけがはっきり分かっていない様子でちょっと首をかしげていたが、「ジャバニーズスーパーレディ、イエスタディ、リーブヒア、フォーラオ・カイ!」と大げさにいうと、「ああ、分かったよ。これだね」といって、カウンターの引出しから一通の封筒を出して僕に渡してくれた。

 封筒の表には僕の名前がやや乱暴なローマ字で書かれていた。 早速ザックを下ろして椅子に座り中を開けてみた。

 中には本日夜十時ハノイ発ラオ・カイ行き列車のハードベッド席のチケットと、ラオスの少数民族の絵ハガキが入っていて(あの人は七月からインドシナを旅していて、タイから陸路でラオスに入り、ベトナムにも陸路で入って数日前に中部の古都・フエから首都・ハノイに到着したのだ)、「See you in Sapa. ここの Ice coffee with milk は最高であるから是非飲むように。ハノイでの数時間をエンジョイしなさい。Can I leave mybackpack? といえば荷物を置かせてくれる。帰ってきて汗でべとべとになり、シャワーを浴びたかったら Can I take shower? といいなさい。そして How much can I pay for it? って丁寧に聞きなさい。そうすればどんなに高くとも一ドル以下で入らせてくれるでしょう」などと書かれていた。

 僕は20年以上も昔なら、それこそ英語に関しては誰にも負けないぞ、というくらいの自信があったのだが、長年の歳月は僕の記憶から数千語以上の単語を消し去ってしまい、いまでは英会話など全く自信がない。

 ともかく僕は女将さんに、「Ice coffee with milk Please.」と大きな声でいって、なんだか嬉しくなってきて、やっとハノイに来たのだなぁと、体の力が抜けていくような気がしたのである。

 ここのIce coffeeは今まで味わったことのない濃厚なもので、しかし決して苦くなく、ミルクがちょうどいい程度に加えられていて、本当に最高であった。

 僕は三十分程も物思いに耽っていた時に、フロントの電話が鳴り、従業員か息子さんか分からない二十才そこそこの青年が応対していたが、僕に向かって「電話がかかっていますよ」というのである。
 電話の相手は無論あの人であることは間違いがない。なぜってここはベトナムのハノイなんだから、知り合いなど他にいるはずがない。

僕が受話器を受けて「hello!」と出ると、「ハロー、ペロ吉。 無事に着いたんだね」(僕達はお互いに名前も完全には知らない。 あの人は僕をこう呼ぶのである)

 「チケット受け取ってくれた?明日サ・パのバス停に私が今日着いた時刻頃に迎えに行くよ。もし三十分してもペロ吉が来なかったらPhuong Namゲストハウスで待っているからね。それからお願いがあるんだけど、近くのツーリストでハノイからニャチャン行きの飛行機便の予約状況とタイムテーブルを聞いておいて欲しいんだけど」

 彼女は今ベトナム北部の避暑地であるサ・パにいるのだが、受話器の向こうの大きな声に、僕には彼女がすぐ近くにいそうな気がした。

 「わかったよ。ニャチャン行きの飛行機の状況だね。すぐに調べるから」 僕は無意識にニヤニヤしながら電話を切り、青年に「ここのゲストハウスは最高だな」といった。【本当にグッドタイミングの電話だった】

 その後彼女がメモに書いてくれていた通りの英語を話すと、女将さんは「ホイ、こっちに荷物を持ってきな」といってくれたので、ザックを預けてとりあえず市内をブラブラしようと思い、暑さと騒音に頭が痛くなるハノイの街に出た。

 ガイドブックの地図を見ると、近くに革命博物館や歴史博物館などが徒歩十分内外の所にあるので、僕はせっかくベトナムに来たのだからチョックラ立寄ることにした。

 僕が歩いた所はハノイのほぼ中心部で、商工会議所や旅行代理店、高級ホテル、高級レストランなどが並んでいるが、その所々の細い路地を一歩入ると、そこはComという看板の出た大衆食堂や様々な店が並んだ下町の雰囲気を感じるところでもあり、首都といっても他の先進国のそれとは全く様相が異なっているように思われた。
 しかし社会主義国にしては町には活気があり、あらゆる商店が並んでおり、野菜や肉、魚といった生鮮食料品から、衣類、電気製品に至るまで豊富で、市場には物が溢れている。又、ハノイの街並みは、僕が歩いた辺りは中心街であったからかもしれないが、道路は少なくとも二車線以上の広さがあり、しかもほぼ碁盤の目になっていて、南北の通りにはそれぞれ名称が書かれており、初めての旅行者が歩くのにも分かりやすい町と思われた。

 相変わらずストリートを歩くとバイクタクシーやシクロの兄ちゃんが頻繁に声をかけてくる。 それらをいちいち「歩くからいいよ」と丁寧に断りながら10分あまりも歩くと、間もなく歴史博物館に着いた。

 門を入ったら左側に受付があったが、男性二人が休憩中で、「入場料はいくら?」の問いかけに、「今は昼休みで、一時間ちょっとしてからまた来てください」というのだ。 僕は仕方なく時間つぶしに近くの公園をぶらぶらすることにしたが、その間もあちこちから何やら声がかかる。確かにベトナム人の気さくさを感じるのであるが、言葉がはっきり聞き取れないので、何をいっているのかさっぱり分からない。

 しかし暑い! 気温はおそらく三十度程度で日本の夏の方が高いかもしれないが、湿度が高くてじっとしていても汗がどんどん流れ出してくるのである。

【アオザイガールなんてどこにもいないじゃないか、ひらひらとしたスリットを期待して来たのに一体どうなってるんだ?】

 そのような不謹慎なことを考えながら歩いていると、“ハノイツーリスト”と書かれた一軒のツーリストオフィスの前を通りかかった。

 大きな建物の中に僕は入っていった。あの人から頼まれたハノイ〜ニャチャン間の航空チケット状況を聞くためである。



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