日和見的平和主義

BGM:turas song


 14/9/2]9月だ、もう年末が近いぞ!

 8月は10日間旅に出ていたこともあって、あっという間に終ってしまった。

 8月の次には9月が必ず来る。夏の次には秋が来ることになっている。

 不倫は必ず終わりが来ることになっている。それに逆らおうとすると、必ず悲劇的な結末が待っているのが世の摂理である。

 9月は一年の内で最も心寂しくなる季節だ。

 海水浴客で賑わった海辺を訪れると、多くの人達が残して行った幸せの欠片が一杯落ちている。それらは落とし主との一年後の再会を待っているものや、翌年の夏には違った欠片となって帰ってきたりもするので、欠片達は心配顔で寂しさとともに待っているのだ。

 寂しい海はやがて深緑に色が変り、誰も訪れることのなくなった浜辺に、寂しさの怒りを冷たい波としてやつ当たりのように叩きつけるのだ。

 そうして秋も深まり、海には渡り鳥が帰って来て水面に降り立ち、水草や藻をついばんでいる姿を見ると、やがて厳しい冬がやってきて、街角では山下達郎のクリスマスイブが流れ、年は慌しく暮れて行くのである。

 今年もこれから加速度を増して終ってしまうぞ。

 彼氏彼女のいない人は、大急ぎで探さないと、一人寂しくクリスマスソングを聴くことになる。

 借金を返していない人は、早く稼いで借金を清算して渡世の仁義を守らないと、年越しの借金は人間関係が破綻に至る。

 そして僕は、はやくしないと。          


 14/9/18]HPの運営について

 数日前にダイアリーで、今月一杯でHPを閉鎖しますと書きましたが、やはり継続することにしました

 ちょっとこのところ、僕の自由奔放身勝手自己中心的傲慢厚顔無恥酒色狂乱に対し、ある筋から非難、誹謗、中傷が続き、それに第三者も第四者も巻き込んでのちょっとしたトラブルとなったので、僕の特性である投げやりな部分が芽を出し、「はい、もうやめた。ご苦労さん」にしようかと思った訳です。

 このトラブルに巻き込まれた方には、本当に申し訳なく思っています。手の小指がまだ二本ありますので、落とし前をつけろと言われれば、痛みを堪えて切り落としてお詫びにお送りしたいと思います。

 でもまた初心に戻ってやっていきます。今までどおりヨロピクね。

 しかし今回はプライバシーの侵害というものを考えさせられました。その人と僕との人間関係で終わればいいものを、知らない第三者の人間関係にまで足を踏み入れるのはやはりいけないことだと思います。

 皆様も気をつけてください。


 やりきれない犯罪

 今日、日和見的平和主義のメールマガジン版を発行して、数号前にちょっと取り上げた死刑廃止論についての続編を記述しました。

 すると今日2カ所の拘置所で計2人の死刑囚の死刑が執行されたと法務省が明らかにしている。昨年12月の2人以来約9カ月ぶりの死刑執行である。
執行されたのは、87年9月、熊本県玉名市で起きた大学生誘拐殺人事件で死刑判決を受け、福岡拘置所に収監されていた春田(旧姓田本)竜也死刑囚(36)と、94年6月の岐阜県坂祝町での一家3人殺人事件で名古屋拘置所に収監されていた浜田美輝死刑囚だ。

 これらの事件は僕も記憶に残っているが、春田の方は大学生をコンクリートブロックで殴り殺して身代金を要求するという残虐な犯行だった。

 ともかく、死刑廃止には僕は反対の立場をとっている。しかし廃止論者が多いのも事実で、世界はその方向に向かっているようだ。

 この件について、僕の日和見的平和主義のメルマガ版の今号と第七号とその他にも、読者様の意見なども紹介しながら、議論を交わしていますので、是非見てください。

 それから、いうまでもありませんが、下記のような悲惨な事件もあり、日本が他国に比べて全般的に凶悪な犯罪や陰湿な犯罪がが急増してきているという事実を認識して欲しいと思います。

 少年の陰湿で短絡的な殺人事件があとを絶たない現状、生きていも仕方のないようなアホバカを鍛えるのは、もはや徴兵制を敷いて軍隊しかないのではと僕は思うわけです。

 このような状況で、メルマガ版では次に徴兵制について取り上げたく思っています。

 僕は下記の話を読んで怒りとともに涙が止まりませんでした。 よければ読んでみてください。

  ★かけぬけた青春★

 http://www.diana.dti.ne.jp/~tokinota/



 14/9/20]ハングリー     

 野田知佑さんの「旅へ」を数ヶ月ぶりに二度読みしている。

 この作品は旅で知り合った知人から教えてもらったのだが、いろいろと教えられる言わば哲学書のような部分がたくさん記述されている。

 一度目に読んだ時は気がつかなかったのだが、二度目に読んでみて、ある部分に昨夜は少し考えさせられた。

 それは、彼はかなり昔、三十年以上も前にヨーロッパをヒッチハイク中心の旅をしているのだが、北欧から南下してイタリア、ギリシャを経て地中海のクレタ島などを回って、再び北上してフランスのパリに入った頃には、手持ちのお金が底をついていた。

 彼は日本から持ってきていたギターで、たまたまパリの市街地で似顔絵を書くじいさんの横で、日本の子守唄や懐メロなどを歌ったのだが、これが幸いし、当時のお金で一日一万円以上にもなり、たちまち金持ちになってしまうのだ。

 それまではユースホステルで同じ様な貧乏旅行者と質素に暮らしていたのが、余裕ができると一日の食事の量も多くなり、見る風景も以前とは違って見えると述べている。

 彼はそれを次のように記述している。

 「金に余裕ができると、世の中の風景が違って見える。すきっ腹を抱えてミラボー橋を歩いていると、おりしも教会の鐘がなり、その鐘の音はしみじみと腹にこたえ身にしみた。腹をすかして異国の川の上に佇んでいると、秋の夜の鐘の音はひたぶるにうら哀しく、やるせないのであった。ところが少し金が入ると、カレーライスを二杯も食べ、橋を歩いても何も感じない。おっ、あそこに良い女がいるな、くらいのものである。人間の感性や理性は、程よく『欠乏状態』にある時、最も鋭敏になっていると思う」(野田知佑、「旅へ」より)

 この言葉はあらゆることに当てはまるのではないだろうか。

 特にたいした仕事もしていないのにある程度安定した収入を得ているサラリーマンが、毎夜毎夜居酒屋で愚にもつかない話を繰り返し、がぶ飲みをして価値も半減するウイスキーをあおりながら下手なカラオケを歌い、妻が家計をやり繰りしている家庭へと帰る。

 そこからは何も生まれないし、当人も何も感じないだろう。平面があるだけに違いない。

 文学や音楽など芸術に於いてでも、苦労して下積み生活を送っている時にこそ、素晴らしい作品が生まれがちだ。ヒットして売れて金銭的に裕福になると、見るものも変り感じるものも変り、傲慢さが加味されて、もはや芸術家としての能力は消失してしまう。

 勿論すべての人間がそうではないのだが、考えさせられた言葉だった。



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