天国からのコーディネート


天国からのコーディネート

プロローグ

 

 記憶の遥か彼方に微かに思い起こせる古い話だ。大学を出てから、真っ当なファイナンス会社に四年間ほど勤めたあと、私は怪しげな市中金融会社、いわゆるヤクザの息がかかった街金会社に誤って飛び込んでしまった。おとなしく乗っていれば遥か彼方の終着駅には、穏やかに老いた妻と息子や娘、さらには賑やかな孫たちに囲まれながら次の世界へ安らかに旅立つ私の姿が見えていたのに、レールのポイント切り替えがある駅に列車が止まったとき、誤って列車を乗り換えてしまったのであった。私の人生の分岐点は、ここにあったと断言できる。

 大学時代の後輩だった多美子とは、訳あって一年遅れでようやく卒業してから、彼女の両親が出題した結婚試験に、大学時代と同様に何度か不合格になりながらも、最後は呆れ果てられて仕方なく合格通知を発行してもらい、やっとの思いで一緒になれた。

多美子とは、交際期間中に仕事帰りなどによく酒を飲んだ。深夜ふたりとも酔っ払って、大声で歌いながら駅から自宅までの道すがら、何度近所から「うるさい!」と苦情をもらったことだろう、今となっては懐かしい思い出である。結婚後、一旦は仕事を辞めた多美子だが、しばらくすると週に三日ほど銀行のロビー係のパートで働きはじめ、独身時代ほどではないにしても、ときどき馴染みのバーなどに足を運んだ。だが、彼女が貯蓄に興味を持ちはじめてからは一緒に飲みに行くこともなくなってしまった。

「ごめんね、こんな晩御飯で。少しずつお金を貯めて、小さくてもええから、あんたと子供と安心して暮らせる家が欲しいねん。子供が産まれるまでしかお金って貯まらへんのよ。そやから悪いけど我慢してね」

 仕事を終えてまっすぐ帰宅すると、多美子はたびたび詫びるように言ったが、私は彼女のこころがこもった料理には、たとえ一汁一菜であったとしても不満を感じたことがなかったし、ファイナンス会社時代はいつも薄い財布を気にしながら働いていたが、こころが綺麗だったような気がする。だが、ヤクザな街金業界に入ってからの私は、こころは泥のように濁り、独立後は客やスポンサーとの駆け引きで、身体はアルコールと贅沢な脂肪にまみれてしまった。街金業界に転職してからの私は、それまでとはまるで別人のようだと、深夜の枕元やトイレのドアの向こう側などで、多美子はことあるごとに嘆き、ときには泣いた。

「あんたは前の職場では、たまの接待さえ嫌や言うてたのに、今の仕事をするようになってから毎晩浴びるようにお酒を飲むんやね。立ち居振る舞いからして傲慢になってもうて、すっかり人が変わったみたいや。いったいどうしたん?」

 多美子の不満は連夜に及び、とどまるところがなかった。

「お金のやりくりをしているときのほうが幸せやった。たくさんお金を渡してもらっても、家にほとんどいてへんあんたには失望するわ。私ら夫婦よね?私、ひとり暮らしをしているみたいやわ」

 転職してから以前よりもはるかに多い収入を得るようになって、生活自体は確かに豊かになった。車も買い替えたし、家具や家電も贅沢なものを揃えた。私は何の疑問を持つこともなく、毎夜仕事が終わると「金を扱う気疲れを酒で麻痺させる」とうそぶいて、歓楽街を深夜まで徘徊し、無駄に散財していた。だが多美子との関係は、外見の豊かさに反して次第に朽ちていくのが実感として分かっていた。ふたりがつながっている「こころの橋」は日に日に老朽化し、ついにはひび割れて崩落寸前になっていた。全ては私の責任であることは分かっていた。私は金貸し連中がよく言う「命より大事な金」に関わる仕事で神経をすり減らし、その疲れをつかの間誤魔化すために逃避しているだけに過ぎなかった。毎夜、疲弊した神経を麻痺させなければ、翌日の仕事に対する闘争心が保てなくなっていたし、ときには妻以外の女の胸でひとときの安息を得ないと、こころをリセットできなくなっていたのだ。今思い起こせば、馬鹿げたことである。

「私、もう我慢の限界。昔のあんたはもっと純粋やった。何でそんなにお金に執着するの?あんたは前みたいに明るく笑うことがなくなったし、あんたが笑わへんから私も同じようになってしまうんやで。私、ここしばらくこころから笑ったことがないんよ。こんな生活のどこが楽しいの?それに、あんたにはちょっと前から女がいるやろ。分からへんと思ってたん?私を馬鹿にせんといてや!お願いやから、頼むから別れて。私と離婚して、その女のところにいけばええやないの」

 世話になった街金会社を辞めて独立すると多美子に打ち明けたとき、ついに彼女は泣きながら離婚を激しく迫った。多美子が指摘したとおり、私にはそのころ付き合い始めた女性が確かにいた。実際に離婚を突きつけられると、自分のやっていることを棚に上げて別れることをためらい、離婚届にすぐには判を押さなかった。だが、金融ブローカーとして独立後は多忙のため前にもまして家にまともに帰らなくなった私を、ついに多美子は見切りをつけて実家に帰ってしまった。そして数ヵ月後、私たちは離婚した。平成五年の二月のことであった。

 

 離婚の報告のために久しぶりに今治に帰省したときの親父の残念そうな表情が、今もときたま私の脳裏によみがえることがあり、そのたびに無意識にため息をつき、瞼を指で軽く押さえる。

「お前、もう三十半ばを過ぎて、これからどんしよんぞ?あの嫁さんはなかなかいい人だったがで、どして別れたんの?大学もどうにか卒業して、大きな会社に就職できたっちゅうのに辞めてしもうて、ほんで今度は離婚かえ、いったい何しよんぞ?」

「もうそれは言わんでくれ、親父。俺が悪かったんだから」

 顔を歪めて絞るような声で嘆く親父に、私はたったひとつの言い訳さえ持ち合わせておらず、ただ自分の非だけを詫びるように繰り返し伝えるだけであった。七年間ほど連れ添った多美子と別れたことはこころの傷となってしばらくは癒えなかったが、ふたりの間に子供がなかったことだけが救いと言えば救いだったのかも知れない。

「金融業とかをやっとるらしいが、金貸しっちゅうのはお前、七代祟るんじゃ。そんな商売、ワシは気に入らん」

「親父、金貸しは関係ないだろう。それって猫を殺せば七代祟るじゃないのか?」

 私はたいした意味もなく反論した。

「父ちゃんも兄ちゃんも何言いよんで。それは坊主を殺せば七代祟ると言うのよ」

 意味があるのかないのか分からないようなふたりのやり取りを見て、妹が横から口を挟んだ。親父は「ほうかん?」と納得顔をしたが、私は妹の意見は誤りだと思った。もし坊主で七代祟るとしたら、殺すじゃなくて騙すじゃなかったのか。でもそんなことはどうでもよかった。

「ともかく小さいけど自分の城を守っているんだから、黙って見ていてくれ」

 実家にはようやく年金を受給し始めた父と母、そしてまだ嫁に出ようとしない理屈っぽい妹が暮らし、弟はとうの昔に松山市内に家庭を築き、一男一女をもうけて両親を喜ばせていた。私は長男だというのに両親を安心させる材料が何もなかったが、正直な気持ちを言わせてもらえば、今さら親を安心させることに気を遣う必要などないだろうと思っていた。私は大学進学で今治を出て以来、実家には気が向いた時にヒョコッと帰る程度だったし、そんな人間はもはや故郷を捨てたも同然で、両親にしたって私には何の期待も望みも持っていなかったはずだ。

 平成三年の四月に私は「小野ビルトレード」の名称で金融ブローカーをはじめた。その年は一月からクウェート解放を目的とした湾岸戦争が勃発し、ハイテク技術を使った多国籍軍の攻撃の模様は世界中で報道され、当時流行りだしたテレビゲームを観ている感覚を人々に与えた。だが、私は湾岸戦争ひとつにしても詳細な中身を知らない。なぜなら当時は独立開業に向けての事務所探しからスポンサーとの打ち合わせなどで、年明けから休む間もなかったからだ。自宅でテレビニュースを観ることや新聞に目を通す時間など、カップラーメンにお湯を注いで待つ時間ほども手元になかったし、ましてやテレビゲームに興味を持つこころの余裕なんてただの一ミリさえも存在しなかった。

 実のところ、この話は湾岸戦争当時のことを思い出そうとしているのでもなく、妻に愛想をつかされて離婚に至った平成五年当時のことを振り返ろうとしているのでもない。ここで語ろうとしているのは、親父が七代祟ると言っていた金貸しで紆余曲折を経て、世の中がミレニアムと呼ばれた二千年、つまり平成十二年の春の連休明けから、その年の十一月までの約半年の間に起こった出来事なのである。今思い起こしてみると、「生きる必要性」を教えられたのではないかと振り返ることが出来るが、未解決のミステリアスな一時期としてこころの中に滞ったままで、もしかすれば今もまだ夢遊病状態なのかも知れないのだ。

 

 

 兎我野町の事務所に帰ったのが、午後六時をとっくに過ぎてしまっていた。事務を手伝ってもらっている幸子さんは、まだパソコンのディスプレイを睨んでいた。

「どうしたの?もう今日はいいよ。急ぎの客もひと通り片付いたからね」

「そうなんですけど、今のうちに先月までの誤差を見つけようと思って・・・」

「そんなの適当に合わせておいてくれていいんだよ。どうせきちんと申告するつもりはないんだからね」

「だめですよ、小野さん。ちゃんと帳簿はつけて、正しい申告をしないと。キチンと申告をしないというのは・・・そういうのって脱税って言うんじゃないんですか?それはいけないと思います」

「わ、分かったよ、幸ちゃん。ちゃんと申告するから、数字が合うまで調べてください」

 大阪では通称「キタ」と呼ばれる飲み屋街から少しだけ離れた、オフィス街と歓楽街との狭間にある小さなビルの一室が私の事務所である。僅かな資金と数人のスポンサーだけで独立して、これまでは大きなトラブルもなく、なんとか営業を続けてきた。

バブル経済が崩壊して虚構の好景気が一気に沈み、人々は異常な世の中に戸惑いながらも享楽生活を続けていたが、不動産や株価の急落によって大損を被り、街角から消えていった人も少なくなかった。次第に消えていったのではなく、一気にどこかに飛び散るように消え去ってしまったのだ。これは本当のことである。

偽りの好景気が終わり、尋常でない人々の姿が見えなくなるとともに、バブル経済の温床となった銀行が融資を引きにかかったことにより、中小企業はたちまち資金繰りに喘ぎはじめ、私のような小さな街金にも意外な恩恵が訪れた。真面目に商売を行っていると少しずつ顧客も増えて、今では毎月一億円近い取引高を計上するまでになった。扱い高が増えて忙しくなったが、開業当時から手伝ってくれていた女性が昨年秋に結婚で退職してしまうと、途端に事務処理まで手が回らなくなったので、今年の三月から幸子さんに来てもらっている。彼女は私の行きつけの小料理屋「安曇野」の娘さんで大学浪人生、今春は残念ながら不合格だった。

「あの子、結婚したの?しっかりした子だったから、辞めてしまったのならそれは大変ね。もし小野さんさえよければ、うちの娘をしばらく預かってくれないかしら?」

 長かった冬の終息を感じ始めた二月下旬のある日、安曇野で飲んでいるときに女将さんが言った。

「本当ですか。それは助かりますけど、俺とふたりだけの小さな事務所ですよ。幸ちゃんが嫌がらないですかね?」

「大丈夫よ。これまで甘やかしてきたから、少しはヤクザな世界も知っておかないとね。どうかしら、預かってくださる?小野さんなら安心だし、バイト料なんて小遣い程度でいいのよ」

「ヤクザな世界ではないんですけど・・・」

 ともかくそんな経緯があって、幸子さんは怪しげな高利貸しの事務員兼電話番となったわけである。

 この日、大型連休明けに不渡りを出したスポーツ用品卸業者の債権者集会に出たことは出たが、予想通り当人は現れず、代理人弁護士が淡々と書類を読み上げるだけに終わった。事務所に戻ると徒労の疲れがドッと出て、まるで操り人形の糸が切れたみたいにソファーにガクンと身体を落とした。用意周到の上で不渡りを出し、行き先不明の無期限逃避行を開始した代表者の狡猾そうな顔が脳裏に浮かんだ。この日の債権者集会のために持って行った数枚の不渡り手形を、汚れたボロ雑巾を捨てるようにテーブルの上に放り投げた。今回の不渡り手形の総額は一千五百万円ほど、これまで稼ぎ続けてきた利益からすると致命的な痛手ではないが、五月の連休明けにスポンサーや銀行からすべての手形を買い戻し、そして今日の債権者集会、やはり奴は出てこなかった。

「小野さん、もう十年近くも無事にやってらっしゃるのだから、無理をしてはいけないわよ。一件のお客さんに多額の融資は避けたほうが賢明じゃないかしら」

 スポンサーのひとりで、月に三千万円程度の手形の再割引を受けてくれている未亡人は、そう私にアドバイスしたが、そんなことは分かっている。自分では慎重に考えているつもりだが、大きな利益の出る取引には暴走してしまうのだ。サラリーマン時代は、オファーがあればそれを実行するか断るかは審査部の仕事だった。私の周りには同僚や部下がいたし、仕事で行き詰れば上司や社長に相談できた。トラブルになれば、社長はじめ社員が一丸となって解決するまで走り回った。小規模だったが、それが会社というものだ。独立してからは、仕事を取るのも自分、貸すか断るかを判断するのもすべて自分自身なのだ。暴走しないように気をつけてはいたのだが、今回はヘタを打ってしまった。存在価値が消滅して、紙くず同然になってしまった不渡り手形を睨みながら、私は深くため息を吐いた。

「小野さん、どうしたんですか?」

 顔を上げると、幸子さんが不思議そうな表情で私を見おろしていた。

「いや、ちょっと考え事をしていただけだよ」

「それならいいんですけど、ジッと一点を見つめていましたから」

「うん、裁判所に行って来たんだけどね。あそこは正義の味方じゃないな」

 私は意識的に苦笑いをして言った。

「正義の味方ですか・・・?」

「いや、幸ちゃんは気にしなくていいんだ。それよりお母さんのお店に寄って、何か美味しいものでも食べようか」

「はい、ありがとうございます」

 幸子さんは屈託のない笑顔で答えた。幸子さんの笑顔は、こころの雲を一瞬で吹き飛ばす力を秘めていた。

 事務所を出て、私は幸子さんと一緒に阪急東通り商店街近くの雑居ビルの五階にある「安曇野」を覗いた。このところ蒸し暑い夜が続いていたため、店は常連客などで、十五ほどある席はほぼ埋まっていた。

「あら小野さん、来てくださったのね。こちらへどうぞ。幸子はちょっと中を手伝って」

 幸子さんは不服そうな顔をしながらカウンターの中に身体を入れた。私は唯一空いていたコの字のカウンター席の隅から二番目の位置に腰を落とした。隣の隅の席にはときどき見かける律ちゃんというOLがいたが、彼女はすでに酩酊気味で、壁側に身体を寄りかけて半ば眠っていた。

「幸子がいつもお世話になっています。ときどき銀行へ行く程度で、あとは電話番とパソコンへの入力だけだから、受験勉強がいっぱいできるって喜んでいるのよ」

 女将さんは「お通し」と、この日のおすすめ料理を出しながら、まんざら挨拶代わりとも思えない表情で礼を言った。

「お母さん、小野さんったらね、帳簿は適当でいいって言うのよ。それじゃ私がお手伝いする意味がないでしょ?」

「すみません、幸ちゃんに叱られてしまいました」

「ごめんなさいね、遠慮のない娘で」

「いえいえ、殺風景な狭い事務所で申し訳なく思っています。幸ちゃんがいてくれるので安心して外回りができますから、ずいぶんと助かっているんですよ」

 事務所を開いた当初から手伝ってくれていた女性が辞めてから、私は顧客やスポンサー先、銀行などを一日中動き回り、外から帰れば留守番電話の再生、そして翌日の段取りや顧客と電話での打ち合わせ、仕事以外のことを頭に浮かべるわずかな瞬間さえなかった。昼間は虫の息遣いさえもしない、暗く無表情な事務所にようやく夜になって戻ると、私は呻くようなため息を吐き、雑務を終えたあとは歓楽街に出て、酒で疲れを麻痺させる日々を送っていた。そんな暗鬱な事務所が幸子さんによって再起動され、すべての業務が再びスムーズに動き出し、彼女の屈託のない笑顔によって雰囲気が大きく変わった。スポンサーや顧客から電話が入っても無機質な留守番テープが流れるのではなく、彼女の明るい応対によって、以前のように顧客に安心感を与えられるようになったのだ。

「小野さん、相変わらず儲けてはりまっか?」

 よく見かける印刷屋のオヤジだ。

「いえいえ、青息吐息ですよ」

「ホンマでっか、メチャ儲けてはるんとちゃいますんか?」

 常連客が多い夜はかえって居心地が悪い。表向きは冗談を吹っかけくるが、皆が私に気遣っている様子が分かるのだ。街金なんかを張ってる奴とは、酒の数杯以上の関わりなど持ちたくない雰囲気が明らかに漂っていた。娘さんを預かっている手前、ときには店を覗くが、居心地は決してよくない。

「小野さん、幸ちゃんに手を出したらあきまへんで。私らいつも心配してまんのや」

「ホントですよ、小野さん。小さな事務所で幸ちゃんとふたりきりなんでしょう?そりゃあ心配だなあ」

 私と同年齢位の常連のサラリーマンふたりが、冗談を浴びせてきた。店の他の客たち誰もが冗談と分かるチャラけた言い方で、奥の小さな座敷席にいた常連客も「ハハハッ」と声を上げて笑っていたが、すべてが冗談とも受け取れない、本心の切れ端がふたりの言葉の裏に隠れているのが私には分かった。

「何を馬鹿なことを言ってるの」と女将さんが窘め、幸ちゃんも屈託のないいつもの笑顔で「小野さんは安全パイ」などと、おとなびた言葉で応え、そして私は「昼間はほとんど事務所にいませんからね」と、唇の端をわずかに曲げて苦笑いした。

 ところが場がザワザワとほぐれていたそのとき、隣の席で文字通り泥のような酔いに沈んでいた律ちゃんが、いきなり首を上げて大声を出した。

「そんなの、小野さんが幸ちゃんに手を出したりするはずないじゃない!あんたたち、ちょっと頭がおかしいんじゃないの?」

 右手の人差し指を頭の横でクルクルと回しながら、カラスのひと鳴きのような律ちゃんのいきなりの言葉に、あちこちで聞こえていた話し声や笑い声が切断され、五秒間ほど音源が途絶えたように止まった。それくらい彼女の声はインパクトが強く、まるでヤクザが啖呵を切っているようだった。驚いて律ちゃんを見ると、さっきのふたりのほうを睨みつけている目は完全に据わり、その目が次第に遠くを見ているように細くなって、もうひと声叫びそうに見えた。

「律ちゃん、ワシら本気で言うてへんがな。なんも心配なんかしてへんって」

「そうそう、ジョークだよ、律ちゃん。そんな怖い顔で睨まないでくれよ」

 さっきのサラリーマンふたりがバツの悪そうな顔で言い訳をした。

「冗談よ、律ちゃん。でもあんた、ちょっと飲みすぎよ。いい加減にしなさい」

 女将さんが彼女を窘めた。

「いいのよ、明日は休みにしたんだから。もう一杯ちょうだい」

 律ちゃんは短大生のころ「安曇野」にバイトに来ていたのがきっかけで、今春卒業して大阪市内の温水器会社に就職してからも、ときどき店に顔を出していた。スタイルのよい現代っ子で、きっと男性に人気があるはずだが、いつもひとりで店に来ているおかしな子だった。

「小野さん、今夜はまだまだこれからでしょ。律子をほかの店に連れて行って」

「律ちゃん、そんなこと言っちゃだめでしょ。小野さんだって疲れているんだから」

 女将さんの窘めも気にせず律ちゃんはコップ酒をあおるように飲み、ついには私の右肩に頭を乗せて笑い出した。

「よし律ちゃん、今夜は飲もう。俺も久しぶりにムシャクシャしてるからな」

 律ちゃんを連れて店を出た。背後で常連客たちの「は行」のため息が聞こえたが、私は気にせず彼女の腰を抱きかかえ、中通りから東通りをぶち抜いて曽根崎通りへ歩いた。裁判所は正義の味方ではない。酒の酔いとともに、この日の苛立ちが唸りを伴うようにして再び蘇えってきた。私は奴に「嘘つきの腰抜け野郎!」とだけ浴びせたかったのだ。大型連休前に決済資金が足りないからと助けを求めてきて、休み明けの五月十日期日の先付け小切手を担保に百万円だけ融通してやったが、その金を逃走資金と弁護士費用の一部にして消えやがった。「盗っ人に追い銭」を絵に描いたように演じてしまった甘い自分自身にも腹が立ったが、馬鹿にしやがったあいつは許せない。あんな奴を匿うなんて、弁護士も裁判所も決して正義の味方などではない。正義の味方ではなく弱者の味方なのだ。弱者の味方になることが正義であるなどと、司法は大きな勘違いをしている。

「律ちゃん、この世の中に正義の味方なんていないぞ。自分のことは自分で守るしかないんだ!」

 私は夜空に向かって叫んだ。すれ違うサラリーマンやOLが、空に向かって叫んでいる私を見て笑っているのが視界に入った。

「小野さんって、変な人」

 律ちゃんは馬鹿にしたように笑った。曽根崎通りからお初天神あたりまで歩いたところで、ついに記憶が薄れていくのを感じた。右手には律ちゃんの温かい手がつながっていた。

 

 

 翌日、目を覚ますと隣に若い女性が寝ていた。律ちゃんであることはすぐに分かったが、なぜ彼女が私と一緒に寝ているのかが皆目見当がつかなかった。窓から見えるJR大阪環状線福島駅のホームのラッシュアワーはすでに終わっており、時計を見ると午前十時を過ぎたところだった。

「おはよう、小野さん」

 私がベッドに身体を起こした振動で律ちゃんが目を覚ました。

「どうして律ちゃんが横に寝てるんだ?」

「どうしてって、昨日の夜、安曇野を出て曽根崎通りのショットバーへ入ったでしょ。それから小野さんが酔っ払ってしまったから、律子がタクシーで送って来たんだよ。もう重くて大変だったんだから。男の道とか渡世の仁義とか意味不明なことばかり叫んでいたし、本当に手に負えなかったんだからね。覚えてないの?」

 律ちゃんはベッドに肘をついて頭を乗せ、私を見上げて言った。黒のスリップの胸元から少しだけ覗いた膨らみが、寝起きの朦朧とした頭の私をギョッとさせた。

「律ちゃん、俺・・・何もおかしなことはしなかっただろうな」

「おかしなことって?」

「だから、つまり、エッチとか」

「凄かったわ、まるで猛獣。明け方まで三度だよ。私もうクタクタ。憶えていないの?」

「マジかよ、有り得ん」

「マジだよ、有り得ないなんて失礼なこと言わないでよ」

 まったく記憶になかったばかりか、身体にも余韻のようなものは残っていなかった。律ちゃんは誰が見ても美人だし、安曇野には彼女と会える可能性を求めて店にくる客も多い。そんな彼女との幸運を得たにもかかわらず、まったく覚えがないことに、私はしばらく自己嫌悪に陥ってしまった。

「嘘よ」

 瞼を指で押さえて絶句している私に、律ちゃんは笑いながら言った。

「えっ?」

「小野さん、ベッドに倒れこんですぐに寝てしまうんだもの。スーツを脱がせるのがひと苦労だったんだよ。こんな美女とエッチできるチャンスだったのに、信じられない人」

 律ちゃんは口を尖らせて言った。私は過ちを犯していないと分かってホッとした。

「ともかく、出かけないといけない。携帯はどこかな?」

「エッチしないの?」

「ごめん、今日は法務局へ寄ってから、大事なスポンサーと会わないといけないんだ」

「そんなの駄目だよ」

 律ちゃんが身体と唇をぶつけてきた。ウオーミングアップのような軽くてぎこちないキスだった。

「律ちゃん、今日は時間がない。ごめん」

 彼女の腕を解いてベッドから降りた。

「小野さんの馬鹿。女が思い切って誘っているのに、絶対に許さない」

 律ちゃんはベッドに座ったまま不貞腐れた顔をしていたが、無視をして急いでバスルームに飛び込んだ。シャワーを浴びて出ると彼女はまだフテ寝をしていたがわざと無視をした。

「律ちゃん、俺、出かけるからな。ここにいてもいいけど、どうする?」

「もう本当に失礼な人。安曇野のママに、小野さんに無理やり連れ込まれたって言ってやるからね」

「好きに言えばいいよ」

 律ちゃんの言葉に内心はビビったが、平静を装ってコーヒーを淹れ始めると、ようやく諦めてバスルームへほぼ全裸で飛び込んでいった。出てきたときには、リビングに置いている小さなテーブルに熱いコーヒーを用意してやった。

「このコーヒー、美味しい」

「律ちゃん、早く服を着てくれないかな。目のやり場に困るから」

「じゃあ今から抱いて」

「抱いてってそんなに簡単に言うなよ。俺だって男だから、本当は我慢してるんだぞ。でもな、今日は急ぎの仕事が待っているんだ。商売をしていると仕事を放っておけないからな、仕方がないんだよ」

「だったらやろうよ、エッチ。仕事とかエッチなんて、そんなに深く考えなくていいじゃない。心配しなくたって、律子はあとでグダグダ言うような面倒くさい女じゃないからね」

「律ちゃん、どうしてそんなに投げやりな言い方をするんだ?そんな言い方は良くないぞ。俺が悪い奴だったら抱くだけ抱いてそれで終わりなんだぞ。そんなのでいいのか?俺はやり逃げみたいなセックスは嫌だな。律ちゃんは前からいい子だと思っていたよ。でもまだ男女の関係に突入するわけにはいかない。あらゆる物事には順序があるからな」

 私は普段の無責任な自分の生き様を棚に上げて、まるで説得力のないことを言っていると思った。

「朝から何言ってるの、変な人。あらゆる物事には・・・なんて、そんな難しい言い方しないでよ。でも小野さんの言うことも分かる気がするよ。じゃあ順序どおりに約束して」

「分かったよ、順序を経てからな」

 この出来事がきっかけで、律ちゃんからたびたび電話がかかってくるようになった。ときには深夜の寝入りばなを襲われることもあったが、そんなとき彼女はいつも酔っていた。

「律子です。ごめんなさいこんな夜中に」

「かまわないけど、どうしたの?」

「どうもしないけど、眠れないから」

「また飲んでるの?」

「飲んじゃいけないって法律、あるの?」

「明日も仕事なんだろ?体調に気をつけないといけないよ」

「そんな説教みたいなことばっか」

「えっ?」

「もういい、おやすみなさい」

 少し不機嫌になって彼女は電話を切るのだ。

「今夜飲みたい」といきなり誘ってくることも何度かあった。二回に一回は応じて、特別な関係でないことを示すためにも「安曇野」にふたりで顔を出すようにはしていたが、いったい彼女の私生活はどうなっているのだろうかと、気にしないわけにはいかなかった。

「律ちゃんと最近よく会っていますね。母のところでバイトをしていたころは、あんなにお酒を飲まなかったらしいの。今年の春ごろから酔って店に来るようになったって」

 幸子さんは事務所でそう言っていたが、それ以上のことは分からないらしい。一緒に飲んだときも、「いつ約束を果たしてくれるの」と言って、私をたびたび追い込んできた。

「まだ環境が整っていないから無理」

 毎回そう言って深い関係への突入を回避していた。そのたびに律ちゃんは「どういうこと?」と怪訝そうに言葉の意味を質問してきたが、それには答えずに逃げ回っていた。

「小野さんって、ときどき意味分かんないことを言う。ひどい酔っ払い」

 律ちゃんはいつも不服そうな顔をしたが、べつに酔っ払っているわけでもないし、いちいち説明する気もなかった。私は妻と離婚して以来、女性との真剣な関係を誤魔化し続けている卑怯者だ。

 

 

 七月に月が替わって最初の週の月曜日、私は梅田地下街を事務所に向かって気だるい足を引きずっていた。この日も五月に不渡りを出したあと破産手続きに踏み切ったスポーツ用品卸業者の二度目の債権者集会に顔を出し、その帰りだった。当たり前のことなのだが、今回も代理人弁護士が出席していただけで当人の姿は見えなかった。債権者は実際の商取引業者が数人、僅かな期待を抱いて顔を見せていたが、もはや金融業者は私以外にただのひとりも来ていなかった。破産者の債権者集会なんて出るだけ時間の無駄と分かっているのだろう。私は別に未練たらしいのではなく、独立後、初の大口の不渡りだっただけに、この倒産劇の末路を見ておきたかったのだ。今回も徒労に終わったが、結局債務者は破産という法律によってあらゆる弁済義務から解放され、相反して債権者にとってはクソくらえという感情が湧き出るだけで、債権者集会とは形だけの茶番に過ぎないものだと分かった。他人事のように淡々と事務的に閉廷を述べる裁判官の顔を思い出し、私は苛立ちの感情が再び湧き出てきた。

 そのとき視界にモスグリーンのサマースーツの女が映った。偶然ではなく、目に見えない必然の強い力で引き寄せられたのだ。女は気だるそうな雰囲気を身体全体から発し、まるで夢遊病者のようにフラつきながら歩いていた。手にしたバッグを振り回すようにしながら、倒れそうで倒れず、強烈な倦怠感を漂わせていた。大げさに言えば茫然自失の状態にも見えた。まったくそれは、二ヶ月前に予期せぬ不渡り手形を掴んだときの私の姿と同様だった。

「どうかされましたか?」

 女に声をかけた理由については説明の仕様もない。その女に吸い込まれるようだったのだ。私は女と向き合った。周りの人々がまるで映像世界のように見え、私と女だけがそこから抜け出して、異世界で向かい合っている気がした。

「あなたこそ、どうして私に?」

 女は寝起きのようなふやけた声で訊き返してきた。声が声でなく、水中で無理にしゃべっているときの発声に聴こえた。

「どうしてだろう・・・分からない」

 行き交う人々が、ドラッグストアの前で佇んでいる私たちを横目で見て通り過ぎた。

「おかしな人ね」

 女は視線を外して歩き出した。私は女と肩を並べ、どちらが誘うともなく、そのまま泉の広場の角のコーヒーショップに入った。店内はかなり混み合っていて、客たちの会話が、まるで砂浜に寄せては戻っていく波の音のように聞こえた。

「いつもこうして女の人に声をかけるの?」

 女はコーヒーカップを持ち、意地悪そうに唇の端を少し歪めて言った。

「生涯初の行動ですよ」

「生涯って・・・あなたお幾つなの?」

「少なくとも人生の辛苦をかなり味わった歳だな」

「気障なこと言うのね」

 女は笑った。そして「生きる意味って何なのでしょうね」と突然呟いた。目尻に幾筋かの皺が生まれたが、言葉のあとそれは消えた。生きる意味?

「人間って、何のためにこの世に生まれてきたのでしょうね。長生きする人や生まれてすぐに亡くなってしまう赤ちゃんや、ようやく手がかからなくなって、親にとっては少しホッとした時期に突然消えるように死んでしまったり・・・。いろいろと不思議ね」

 女はコーヒーカップをテーブルに戻し、両手を膝に揃えるようにしてから大きくため息を吐いた。両肩がおそらく五センチほど上下した深いため息だった。

「何があったんです?」

「何もないのよ」

 女は再びコーヒーカップを手にして言った。しなやかな長い上品な指には、エメラルドグリーンの指輪が右手の薬指に輝いていた。

「何のために生まれてきたかって、それは少なくともあんたのような綺麗な人と、こうしてコーヒーを飲めたりする喜びがあるからじゃないかな」

「おかしな人ね」

「あんただっておかしな人だ。いわゆるナンパした俺に、いきなり『何のために生まれてきたのか』なんてことを言い出すのだからな」

 ついさっき知り合ったばかりの男女の会話としては、あまりに哲学的すぎる。

「逆にまったく知らない人だから言えるのよ。いいじゃないの、私みたいな女もいて」

 女は自嘲するように「フフっ」と笑った。

「それより私に声をかけて、これからどうしたいの?」

「えっ?」

「だから、私をどうしたいのって訊いているのよ。夕方までしか時間がないの」

「どうしたんです、あんたのその投げやりな言葉は?何か恐ろしく嫌な出来事があったとしか俺には思えないんだけど」

「どうして?」

「さっき俺の前を歩いていたあんたは、まるで夢遊病者みたいだったよ。気品のある服装のご婦人らしくない歩き方だった。バッグを振り回すようにしていたしね」

「そんな、振り回すだなんて、馬鹿みたいじゃないの」

「何があったんです?」

「何でもないのよ。じゃ、行きましょうか」

 そう言って女は立ち上がった。私は何者かに嵌められているような、或いは女に騙されているような気がしながらも、モスグリーンのスーツのうしろ姿に続いた。

 泉の広場を上がり、新御堂筋を一呼吸だけ下って左に折れると太融寺町のホテル街、女はためらいも見せずに私を引き込むように最も近いホテルに身体を滑らせた。世の中が全力で様々な生産的な作業に励んでいるに違いない時間帯だが、意外に空室は数えるほどしか残っておらず、「どの部屋にする?」との女の問いかけに答える代わりに、目の前に表示された空き部屋の中で手の届くボタンを強く押した。女と私はすでに行きずりの情事の序章に入っているのだろうと頭では思っていても、エレベータの中でも何の接触行為にも及ぶことができず、部屋に入って靴を脱ぎ、ドアをロックしてから初めて私は女の腰に手を回した。

「私、誰とでもこんなことするわけじゃないのよ。別に信じなくてもいいけど」

 ホテルを出る前に女が言った。

「あんたはどういう女なんだ?」

「私?残念ながら高級コールガールよ。一時間十万円。ホテルの前に私を仕切る組織のヤクザが見張っているわ。あなた、うまく私に引っかかったわね。今度から気をつけなさいよ」

「は?」

「でも、少し安くしておいてあげるわよ。あなた感じいい人だから」

「冗談だろ」

「さあ、どうかしら?」

「ヤクザはひとりだけなのか?」

「そうよ」

「それなら好勝負できそうだな」

「どうでしょう?あなたって正直な人ね。さっき、眼球が一瞬だけ一センチくらい飛び出したわよ」

 女はフフっと笑った。ホテルを出て梅新の交差点で別れた。別れ際に女の携帯電話の番号と名前を訊いた。

「なぜ?行きずりの関係じゃなかったの?」

「でもさっきあんた、俺の腕の中で『離さないで』って叫んでいたじゃないか」

 女は数秒考えてから「馬鹿」と言って私の胸を叩き、矢田玲子と名乗った。「また会えるかな?」と訊いてみたが「さあ、どうでしょう」と笑った。だが女の笑顔は心の底からのものではなく、目には感情が映っていなかった。女は「それじゃ」と唇だけ動かしてからタクシーを止め、あっという間に行ってしまった。まるで疾風が吹き抜けたようだった。

 

 

 梅雨明け宣言がようやく出されたころ、私は相変わらず危なっかしい顧客への繋ぎ資金を融通し、生きるか飛ぶかの動向に始終気を抜かず、神経を遣う日々を送っていた。大型連休明けの一千五百万円の不渡り事故以来、一件への貸付は二百万円以下に抑えていたし、情を挟んだ無理な融資は控えていた。上限金利の低下とともに、この業界も旨味がなくなり、廃業や転業をする金融業者も目立ち始めたが、無理をしなくとも、一ヶ月の利益から私と幸子さんの給与と事務所経費を差し引いても十分な金が残った。だが、この仕事をいつまでも続ける気持ちはなく、キリのよいところで廃業するつもりだった。

 七月下旬の金曜日、律ちゃんから昼間電話がかかってきた。明日か明後日手伝って欲しいことがあるというのだった。

「明日も明後日も仕事は特にないよ。いったい何を手伝えばいいのかな?」

「小さなトラックで、八尾市というところから私の家まで少し荷物を運んで欲しいの」

 電化製品がいくつかと、寝具と書籍類程度なので軽トラックで十分間に合うようだった。荷物はいったい誰のものなのだろうと思ったが、あえて訊かなかった。

 翌日、彼女が住む淀川区の塚本駅前に待ち合わせ時刻よりも少し早めに着いた。私が愛媛の今治から大学進学で出てきてから数ヵ月後、この塚本駅から少し離れた歌島というところにある産業機械会社で短期間のアルバイト経験があるので、車を停めて見える景色が懐かしい。あのころから二十年以上も経つのに、駅の造りや駅前の様子もあまり変わっておらず、昔は喫茶店だった場所は中華料理のチェーン店になっていたが、その隣の理髪店も、さらにその隣の写真館も変わらず営業を続けていた。道路の向こう側にはパチンコ店が二軒あり、その横に柏里商店街の入り口が見えた。私は昔とあまり変わっていない風景に安堵し、軽トラックの運転席から駅前の様子をぼんやりと眺めていた。

「小野さん、どうしたの?」

「えっ?」

「もう三度も小野さんって呼んだんだよ」

「ごめん、ちょっとボケッとしていたよ。さあ、車に乗って」

 律ちゃんはいつもと違ってジーンズに薄いピンクのシャツを着ていた。細いジーンズがよりいっそう彼女の足を長く見せていた。

「八尾市って言ってたよな」

「うん、ごめんね小野さん」

「全然気を遣うことなんかないよ、律ちゃん。俺はいつもひとりだから、休みの日にこういう用事があればかえって嬉しいんだ」

「ごめんなさい・・・」

 塚本ランプから阪神高速道路に乗り、土曜日でガラ空きの環状線から東大阪線を経て近畿自動車道へと軽トラックを走らせた。律ちゃんはフロントガラスを見つめたままずっと黙っていた。あのアッケラカンとしたいつもの彼女とは明らかに違っていた。

「どうしたんだ、律ちゃん」

「えっ、どうもしないよ。それより小野さん、さっき駅で待ってくれていたとき何を考えていたの?」

「何って、その・・・塚本の駅前が二十年前とちっとも変わっていないことに感激していたんだよ。学生のころにときどき駅の近くでバイトしていたことがあってね」

「フーン、小野さんの学生時代ってどんなだったんだろう?」

「そりゃあ、大変だったな。貧しくて、寂しくて、ロマンティックでエキサイティングで、エロティックで、そして切なく辛い日々だったな」

「アハハハッ、複雑な学生生活だったのね。おかしい〜、エキサイティングまで分かるけど、エロティックって・・・、アハハハッ」

 律ちゃんはこの日ようやく笑った、しかも爆笑。確かに私の学生時代は複雑といえば猛烈に複雑だった。今治の実家は貧しく、大学合格後の初年度納入金だけは父が必死で捻出してくれたが、その後はすべて自分でやっていかないといけなかった。北摂に大学がありながら京都市内のアパートに友人と共同生活を送り、夜は木屋町のキャバレーでバイトに明け暮れた。二年の留年を経て、どうにかこうにか卒業できたが、厳密に言えば自力ではなく、大阪のテキ屋の幹部の助力なしでは卒業はおぼつかなかった。たくさんのことをその幹部から助けてもらい、夏休みや冬休みにはテキ屋衆たちと中国や四国へ露天のバイの旅に出た。ハードだったが毎日がエキサイティングで、私が複雑な恋愛関係で疲れているときや大学生活で悩んでいるときも、その幹部は決して口出しをせず、遠巻きに見守ってくれた。失恋して自暴自棄になっているとき、「もうそんなことはええやないか。大学へ戻れ。お前にはやるべきことがあるやろ」と言って、学費未納で除籍寸前になっていた私に封筒を差し出した。「授業料、納めて来い」と彼に言われたとき、自分の不甲斐なさに対する悔しさと、まるで親のような彼の思いやりの嬉しさに号泣した。年月が経ち、私が街金で独立することになったとき、大阪市内の大国町というところにある彼の事務所へ挨拶に行った。彼は組織の中でさらに重要な位置にいたようで、恰幅も立派になっていた。久しぶりの訪問を懐かしみ喜んでくれたが、街金業で独立することになったと話をすると、彼は少し顔を歪めて私を責めた。

「なぜお前が街金なんかするんや?俺は正直ガッカリしてるぞ。お前はキチンとした生き方ができる人間のはずやなかったんか?」

「人生はそう思うようには簡単にいかないんですよ。それに街金だって立派な仕事です。銀行が相手にしない小さな企業を助けることもあるんですから」

 私は説明した。彼は苦虫を噛み潰した顔をして「何か困ったことがあったら俺に連絡して来い」と言った。

「小野さん、小野さんって」

「えっ?」

「どうしたの、もう八尾の降り口を過ぎてしまったよ」

「ああ、ごめん、また考え事をしていたよ」

「変な人」

 律ちゃんはいつもと違って相変わらず無口だった。彼女の誘導で目的地には午前十一時過ぎに着いた。

「ここには誰が住んでいるの?」

「私の兄の社員寮なのよ。もう兄は退職してしまったけど」

 彼女の説明では、T社という裁断機の抜き刃型製造会社に勤めていた兄が退職したので、独身寮にある荷物を実家に運び出さないといけないとのことだった。でもそれなら兄自身がやればいいことじゃないかと思ったが、それは訊かなかった。

 広い敷地内に鉄筋三階建の寮が四棟あり、小家族向けの社宅と独身寮とが二棟ずつになっていた。兄の部屋は独身寮棟の二階にあり、わずか六畳程度のスペースにベッドと机と小さな冷蔵庫とテレビが置かれ、あとはかなりの数の書物だった。

「ベッドは備え付けだから運ばなくていいんです。本がいっぱいあるから段ボール箱を寮監さんに頼んでいるの。もらってくるから、ここでちょっと待ってて」

 律ちゃんは丁寧語とタメ口を混ぜて言って、部屋から出ていった。しかし、なぜ彼女の兄がこのような状態のまま退職してしまったのか、急な病気で入院でもしたのか、或いは何かもっと大変なことが起こったのか、思考を巡らしているところに律ちゃんが寮監と一緒に戻ってきた。

「本をダンボールに詰めるだけでも大変ですな。どうも、ご苦労様です」

「いえ、お世話になります」

 私が律ちゃんの何にあたるのかも気にする素振りもなく、年配の寮監が気さくに会釈を送ってきたので、こちらも軽く頭を下げた。律ちゃんは黙ってしゃがみ込み、ダンボールを組み立て始めた。

「会社も冷たいもんだわな。仕事が忙しいのは仕方がないにしても、従業員のケアをちゃんとやらんといかんわ。ほんまにお気の毒なことだ」

「おじさん、もういいの。お願いだからそれ以上言わないで!」

 律ちゃんが顔を上げて寮監に強い口調で言った。私は突然の言葉の強さに呆気にとられ、一瞬本を運ぶ手が止まった。

「そうやな、ごめんな。でもまあ気を落とさんように」

 戸惑った表情で言葉を残し、寮監は部屋を出て行った。私は再び律ちゃんが組み立てた段ボール箱に本を詰め込んでいった。書棚に並んでいる本はザッと見ただけで二百冊ほどもあり、小説や漫画の類もあったが、大半は物理工学関係などの専門書だったので、彼女の兄は技術関係に従事していたのだろうと思った。いつの間にか律ちゃんがひとつの段ボール箱の前にしゃがんで、下を向いたまま動かなくなっていた。近づいてみると背中が小刻みに震え、彼女は泣いていた。

「どうしたんだ、律ちゃん」

「ごめんなさい、何でもないの」

 涙声で返事が戻ってきたものの、そのあと律ちゃんは両手で顔を覆って激しく泣いた。私は何がなんだか分からないまま、彼女の横にしゃがんで背中を抱いた。

「律ちゃん、ベッドに座っていたらいいよ。これくらいの荷物なら俺ひとりで十分だから」

「ごめんなさい・・・」

 帰りの高速道路でも律ちゃんは元気がなく、ときどき涙ぐみ、ずっと黙ったままだった。私は彼女の様子をじっと見守りながら注意深く軽トラックを走らせ、阪神高速の塚本ランプから降りて駅の近くまで来た。

「その交差点を左に曲がってください。そして最初の十字路を右に」

「家の中まで俺が運んでいいのかな?」

「うん、お願いします。今日は誰もいないから」

 律ちゃんは泣き疲れたような顔をして言った。いつもの快活な彼女とは別人のようで、言葉遣いまでもが丁寧になっていた。

 律ちゃんの家は小さな木造二階建ての戸建だった。玄関前に軽トラックを停めて、律ちゃんは軽いものを、私は冷蔵庫やテレビや書籍が詰まったダンボールを部屋の中に運んだ。玄関を入ったところの板の間にすべて置いて欲しいと言うので、そのとおりに並べていくと作業は三十分ほどで終わった。

「本当なら上がってもらって何か食べて帰って欲しいんですけど、誰もいないから、駅前の中華でも食べませんか?ちょっと遅くなってしまったけど」

「律ちゃん、もういいよ。今日は疲れただろ。このトラックをレンタカー屋に返してから俺も帰るから。こんどまたゆっくり飲もうよ」

「そんな・・・、何もお礼をしなかったら両親に叱られます」

「いいって、気を遣う相手じゃないだろ、じゃあまたね」

 そう言って私は玄関を出ようとした。

「私をひとりにしないで、小野さん」

「えっ?」

 振り向くと律ちゃんがまた顔を両手で覆っていた。おそらく彼女の周りで何か大きな不幸が起こったのだろう。私はこのまま彼女を放っておけないと思い、車に乗せて梅田で軽トラックを返却してから、阪急ファイブの地下にあるレストランへ連れて行った。時刻はもう午後四時前になっていた。

「小野さんって、良い人ね」

「なぜ?」

「何も訊かないのね。今日のこと」

「そりゃあ、いつもの律ちゃんと違うから、どうしたのかなって気になるけど、人にはいろいろ事情があるからね。だから無理することはないんだ」

 律ちゃんは「うん」というふうに頷いた。それから私たちは運ばれてきた料理をゆっくりと食べた。律ちゃんはスパゲティナポリタンとサラダと大きなピザを三分の一程度平らげ、アイスカフェオレを飲み干し、私は残りのピザとたらこスパゲティを食べ、ビールを一本飲んだ。

「それだけ食欲があるなら大丈夫だな」

「うん、ありがとう」

 それから大阪駅まで一緒に歩き、彼女を東海道線の下り列車が来るまで見送った。福島駅までひと駅だけの電車の中、私は今日の出来事を考え続けた。律ちゃんの兄に何かが起こったとしか考えられないが、彼女がそれについて話そうとするまで訊かないでおこうと思った。福島駅に着いたころ、夕陽によってオレンジ色に焼かれた西の空を見上げていると、電車のドアが閉まったあとも頭を下げ続けていた律ちゃんの姿や泣いている顔が思い浮かび、この日は眠りにつくまでずっとこころから離れなかった。

 

 

 ミレニアムと呼ばれながらコンピュータに何の問題も発生しなかった西暦2000年の夏は、例年になく猛暑だった。八月に月が替わって、今年は今治へ久しぶりに帰ろうかと思った。七年前に離婚したとき、その年の夏、お盆休みを取って帰省し、両親にその報告をした。私の離婚を知ると、父はまるでそれだけで人生が破滅を迎えたと決めつけるかのように、「お前、この先どんしよんぞ?」と表情を曇らせた。さらに街金業を始めたと知ると、「金貸しは七代あとまで祟るんじゃ」と言って顔を歪めて嘆いた。それ以後、私は実家には帰っていなかった。

「しかし、両親を安心させる材料が何もない現状では、今年も帰ることはできないな」

 幸子さんが作ってくれたアイスカフェオレを飲みながらそう思った。せめて誰かとの再婚話でもあれば帰ることもできるだろうが、そんな相手もいないし、商売だって大口の不渡り事故分を埋め合わせる利益をなんとか出せた程度だから、親が喜びそうな土産話はない。

「仕方がない。ともかく仕事に力を注ぐか」

 私はため息をつき、電話を手にとった。例年、八月は融資や手形の割引が必要な顧客は十日ごろまでには依頼がある。お盆休みを利用して無期限のあてのない旅へ出かける経営者もいて、お盆明けに不渡りが出て工場や事務所に駆けつけてみると既にもぬけの殻ということもある。いずれにしても八月は初旬が勝負、私は久しぶりに事務所から用事のありそうな十数件の顧客に営業をかけた。

「小野さんがお客さんに電話で営業しているところを見るのは初めてです。そういうふうに営業するんですね」

 幸子さんが驚いた顔で私の仕事ぶりを見ていた。

「幸ちゃん、何もないところからお客さんはできないからね。今あるお客さんだって、もともとは電話や訪問営業で取引が始まったたんだよ。今でこそめったに新規の営業はかけないけど、昔は鞄を持って工場やビル街に飛び込み営業をしたんだ」

「へー、そうだったんですね」

 幸子さんは納得顔になり、空になったグラスに氷を入れて、新しいアイスカフェオレを持ってきてくれた。

 午後三時を少し過ぎた時刻に律ちゃんから電話がかかってきた。荷物を運んだ日から十日近くになるが、あれだけ三日を置かずに電話をしてきた彼女から連絡がなかったので、その後どうしているのか気になっていたところだった。

「ちょっと相談に乗って欲しいことがあるの。今夜、時間ありますか?」

「いいよ、どこで待てばいいかな?」

 律ちゃんが勤める温水器会社は天王寺区にある。彼女の希望で午後六時半に新阪急ホテルのロビーで会うことになった。

「小野さん、律ちゃんと付き合っているのですか?」

 幸子さんが電話の相手が律ちゃんだと気づいたようで、心配そうな表情で言った。

「相談があるって言うから会うだけなんだ。二十も歳が離れているのに付き合うなんて有り得ないよ」

「歳なんて関係ないと思います。小野さんはフワフワした雰囲気があって、女の子からすれば安心できるオジサンなんですよね」

「オジサンは酷いな」

 私の抗議に幸子さんは舌を出した。

 新阪急ホテルのロビーは仕事帰りにディナーバイキングを楽しむサラリーマンやOL、それに出張族で混雑していた。律ちゃんが見つけやすいように、私はフロントが正面に見える位置にある大きな柱を背にして立った。

「ごめんなさい、お願いしておきながら待たせてしまって」

 約束した時刻より五分程度過ぎてから律ちゃんが現れた。濃いグレーのスーツに細い身体を包み、ひと際周辺の目を引く彼女の容貌に私は少し緊張した。

「何か食べようか。リクエストはあるかな?」

「じゃあ、ピザが食べたい」

「ピザはこの前の荷物運びの日に食べただろう」

「いいの、ピザが好きなの」

 少しだけ歩いて阪急グランドビルの高層階にあるイタリアンレストランへ入った。大きな窓から綺麗な夜景を眺めることが出来る、贅沢な環境で営業している店である。当然、その贅沢は飲食料金に反映されている。

「小野さんっていろんな店を知っているのね。このお店、結構高いんじゃない?」

「ここは以前スポンサーのご婦人と一度来ただけなんだけど、ピザ一枚が五千円ほどだからね、そりゃあ、そんじょそこらのイタリアンレストランとは比較にならないよ」

「ええっ、そんなに高いの?ごめんなさい、ピザが食べたいなんて言って」

 律ちゃんは大きな瞳をクルクル回して、恐縮がった。

「な、はずないだろ。五千円のピザなんてどこにあるんだよ、メニューを見てみれば」

「えっ?」と言って、律ちゃんはテーブルにある大きなメニューをペラペラとめくった。

「もう、嘘つき!本当に心配したんだからね」

「アハハハッ、でもそんなに安くもないよ、綺麗な夜景が見える分、ちょっと高いかな」

 運ばれてきたチーズたっぷりの大きなピザとシーザーサラダ、適当に注文した赤ワイン、ワイングラスをカチンと鳴らして食べ始めた。大きな窓からは梅田の夜が遠くまで見渡され、思えばこんなふうに夜景を見ながら食事をするなんてことは久しぶりだなと思うのであった。スポンサーのご婦人とこの店で食事をしたときは、商談というか資金繰りの相談であったし、夜でありながら窓の外を見るこころの余裕などなかった。今年の春に大きな不渡りを掴むまでは、仕事以外のことにこころを向けるわずかな時間もなく、ずっと走り続けていたような気がする。

「小野さん、ずっと外を見て何を考えているの?」

「いや、つまりその、幸せだなって思ってね」

「えっ?」

「何でもないよ、ところで相談って何だろう?」

 ワイングラスを置いて、本題に入った。律ちゃんはこの前と違って、普段の明るさをすっかり取り戻していた。

「実は、私の兄のことなんですけど」

「うん、きっとお兄さんのことに違いないと思っていたよ」

「すみません」

 それから律ちゃんは兄のことについて語りだした。

 律ちゃんの兄は有名大学の工学部を昨春卒業して大阪府八尾市内のT社という裁断機の抜き刃型を製造している企業に就職し、主に商品開発と設計の部門に配属となった。半年間はその部署で働いたが、昨年の秋ごろから現場を経験するために工場へ転勤となった。工場での作業は三交代勤務で、しかも仕事がきつく、真面目な兄は言われるままに残業を続け、今年の正月に実家に帰ってきたときはずいぶんと痩せてしまい、体調も優れない様子だったらしい。正月三が日は家族と過ごしたが四日から八尾市の寮に戻り、再びハードな仕事に就いた。律ちゃんも家族も心配はしていたが、現場研修は三月に終わると聞いていたのでもう少しの辛抱と励ましたという。ところが半年の研修の予定が、四月の年度替りで会社の方針からもう半年延長された。製品開発の研究所に異動できるものとばかり思っていた兄は、工場勤務の延長のショックと仕事の疲れなどから、四月下旬ごろから出勤しなくなってしまった。近くのコンビニなどに食料を買いに出る十数分以外、寮の部屋からほとんど出てこず閉じこもったままで、会社には体調不良を理由に欠勤が続き、会社側からは再三の出勤要請と診断書の提出を求められていたが、兄は一切無視を続けたため、ついには欠勤三か月目に入った時点で会社から解雇を宣告されたとのことであった。

「身体の具合が悪かったんだろ?診断書を出せば解雇にはならなかっただろうに」

「兄はもう働く気力が無かったのよ。だから解雇でも仕方がないの。でも、辞めるのはいいのだけど、精神的におかしくなってしまってね、鬱病って言うの?今は病院に通いながら家で療養しているんだけど、もう腑抜けみたいになってしまって、以前の兄とは別人、これって会社側にも責任があると思うのよね」

 退職が解雇であったため、もちろん会社から何の見舞金も保証もなかったとのことだ。精神疾患が業務上のことであれば、労災保険や会社からの慰謝料も得られるはずなのだが、律ちゃんの兄は会社側の要請に対して無視を続けたことが、何の保証も得られなかった原因と思われた。

「お兄さん、現場仕事が続いて参ってしまったんだろうな」

「うん」

 律ちゃんは少しだけ涙ぐんだが、この前みたいには泣かなかった。

「それで律ちゃん、俺に相談って?」

「うん、兄は工場研修期間が予定より延長されたことで精神的におかしくなってしまったと思うの。だから会社側の従業員に対する管理不十分になるはずだし、労災の適用と慰謝料とかをお願いしたのだけど、会社はあくまでも兄個人の問題だと言って全く応じてくれないのよ。ひどいでしょ」

「そうだな、それはあんまりだ」

「私の両親も兄もおとなしい人間で、何も会社に言おうとしないの。私、悔しくって」

「弁護士に相談しなかったのか?市の無料法律相談所みたいなのがあるはずだけど」

「父がそういうところに一度行ってみたらしいの。でも労災が認定されるには裏付けが乏しいらしくて、兄自身に問題があるから難しいのではないかって。小野さんなら何か良い方法を知っているかなと思ったの。このまま泣き寝入りするのは悔しいから」

「そうだな、人事異動の期待が外れたことからショックを受けていたわけだから、お兄さんだけの問題ではないだろうしね。この前寮監さんが会社も冷たいものだと言っていたけど、従業員に対してちょっと誠意がないような気がするよ」

 兄の部屋で寮監が気の毒そうに言っていたことを私は思い出した。

「でも律ちゃん、お兄さんはもう退職手続きをしてしまったんだろ?」

「この前荷物を運んでくれたでしょ。あの少し前に退職したの。会社としてはもっと早く辞めさせたかったみたいだけど、私たちがずっと応じなかったの」

「それは早まったな、もう少しだけ延ばしていればよかったのに。まあともかく俺が一度担当者と接触してみよう」

 律ちゃんは「ありがとう」と言って再び涙ぐんだ。彼女の身の回りでそういうことが起こっていたのだ。私は兄が勤めていた会社への交渉方法をゆっくりと考えてみようと思った。それからグランドビルを出て夏の夜の梅田界隈を歩いた。夜九時を過ぎても暑さは落ち着かず、ビヤガーデンやオープンカフェは、涼を求めるサラリーマンやOLで賑わっていた。

「律ちゃん、家の近くまで送っていこうか?」

「いいの、今夜は小野さんの部屋に泊まるから」

「律ちゃん、そんなふうに自分を安っぽくすんなよ。律ちゃんは安曇野では人気者なんだからな、男の部屋に簡単に泊まるなんて言っちゃ駄目だろ。じゃあ、大阪駅まで一緒にいこう」

 そう言って私は律ちゃんの肩に腕を回した。

「私を子ども扱いしないで。もうおとななんだからね!」

 声の大きさと肩に回した手を振り払う力の強さに私は驚き立ち止まった。私たちの様子を怪訝そうに不思議そうに見ながら、夜を徘徊する人たちが通り過ぎた。

「分かったよ、思うとおりにすればいい」

「私はもうおとななんだから、自分の思うように生きるの」

「分かったから。もうそんなに怒らないで」

「小野さんはまだ約束を果たしてくれていないんだからね。憶えている?私との約束」

「ああ、ちゃんと憶えているよ」

 再び律ちゃんの肩に腕を回して歩いた。今年二十一歳になる彼女にとって、兄のことは大きな心配に違いなく、感情の不安定な年頃に追い討ちをかけるような出来事に直面している律ちゃんを守ってやりたいと思った。大阪駅前の陸橋を渡っているとき、丸ビルとヒルトンホテルとのビルの谷間にマシュマロマンが立っているのが見えた。彼は偉そうにこちらを見下ろしてニヤリと笑っていた。

「ほら律ちゃん、マシュマロマンが俺たちを見ているよ。早くゴーストバスターズを呼ばないと」

 私はケタケタ笑いながら夜空を指差した。ちょっと本当に酔っ払ったようだ。

「何言ってるの。マシュマロマンなんて、バカみたい」

 さっきのイタリアンレストランでワインを一本、しかも律ちゃんとふたりで空けただけなのに、妙な幻覚が見えるほどに酔ってしまったようだ。いつのまにか律ちゃんは、少しフラつく私の右腕を抱きかかえるようにしていた。

 どのようにして帰ったのだろう、部屋に着いてから律ちゃんはすぐにバスルームに入り、私はスーツを脱いで冷蔵庫からよく冷えたミネラルウオーターを出して飲んだ。酔いを醒まさないと何もできそうにないほど身体がふらついていた。律ちゃんがシャワーを浴びて出てきたとき、私はベッドに仰向けになってぐったりしていた。朦朧とした意識の中で律ちゃんの唇を感じた。

「律ちゃん、ちょっと待って、シャワーを浴びてくるよ」

「このままでいいよ」

「いいことないよ、俺はフラフラなんだから」

 律ちゃんは膨れっ面をしていた。私は少し熱めのシャワーを浴びたが、身体が左右に揺れる感覚が治まらず、酔いは醒めなかった。今夜はレストランで飲んだワインが身体に合っていなかったとしか考えられなかった。

「律ちゃん、約束を果たすのは今度にしてくれるかな」

「なんでよ?」

「今夜は酔っているから機能が発揮できない状態なんだよ。ベストの状態で臨みたいからな」

「何言っているのよ。機能とかベストの状態って、意味分かんないよ」

 そう言って律ちゃんはベッドに座った私を引き倒した。男女の行動が逆になっているなとふらつく意識の中で思った。

「どうしたのよ、小野さん」

「だから無理だって」

 律ちゃんは怒って背中を見せた。

「泊まっていく」という律ちゃんを窘めて、私はタクシーを呼んでやった。

「ご両親、怒らないか?」

「私を子ども扱いしないでって何度も言ったよ。大丈夫だから」

「分かったよ。それから今日のことだけど、ともかくお兄さんの会社の担当者に電話してみるから。時間がかかるかも知れないけど、かまわないかな?」

「ごめんなさい。お願いします」

 マンションの入り口まで降りてタクシーを待った。律ちゃんはエレベータの中からずっと私の腕を抱いたままで、まるで恋人みたいな感覚になっていた。

「でもね、女が思い切っているのに二度も断るなんて、小野さんみたいな失礼な人、世界にいないよ。今度約束を守ってくれなかったら、本当に安曇野のママに小野さんに襲われたって言ってやるからね」

「そんな無茶苦茶なこと言わないで。ちゃんと約束は守るから」

 タクシーが到着した。

「絶対だよ。じゃあ、おやすみなさい」

 律ちゃんを乗せたタクシーのテールランプが見えなくなるまで見送った。この先、私と律ちゃんはどうなっていくのか、このときは全く分からなかった。

 

 

 JR大阪環状線福島駅の近くが私の離婚後の住処だ。1LDKのリビングルームのベランダからは駅のホームが手に取るように見える。離婚後ここに移って来た当初はベランダのカーテンを閉め切っていたのだが、ある夜、私はひとりでいることの寂しさに耐え切れずにカーテンを開けてみた。眼下に見える福島駅のホームは仕事帰りのサラリーマンやOL、学生など様々な人々で溢れ、ゼンマイ仕掛けの人形のように動き回る姿を見て、私はつかの間だけでも安堵した。

 寂しさは忽然とやって来た。それは昼間の仕事に追われている時間帯にはやって来ないが、その日の雑務が終わって、たったひとり事務所に残っているときに襲われた。そんなとき、私は逃げるように事務所を出て夜の街を彷徨った。

だが寂しさを紛らわすために浴びるように酒を飲んで部屋に帰ると、ベランダから見えるホームが真っ暗闇のときがあった。午前一時過ぎから四時過ぎまでの間は電車が来ないのだ。すべての明かりが消された真っ暗なホームを目にすると、あたかも自分が社会から断絶されたような錯覚に陥った。だからその夜以後は、帰宅が午前一時を過ぎてしまうときは朝まで飲むことにしたのだ。そんなこの福島での暮らしもかれこれ七年半が過ぎ去ったが、この間、私は何も得るものがなく、仕事だけがどうにかこうにか続けられていた。

 結局、私はお盆休みには帰省せず、律ちゃんから兄の勤務先だったT社の担当者の名前と連絡先を聞き、お盆明けからコンタクトを取り始めた。

「あなたは川上君の何に当たる方ですかな?」

 総務部長の岡山という男は、訝しげな顔をしているのが電話でも想像できる声で、やや傲慢な口調で訊いてきた。

「私は川上君の知人ですが、それが何か?」

「あなたは代理で何をわれわれに要求しているのですか?」

「電話じゃ話にならないから、一度そちらに伺いたいのです。別に会社の中でなくとも外でお会いしていただいてもかまいませんよ」

 岡山部長は会うことをすんなりとは了解しなかった。何度か電話のやり取りのあと、ようやく九月最初の金曜日に時間をとると返事をしてきた。

律ちゃんの兄が会社の人事異動によって工場勤務となったことは、企業人事の都合だからやむを得ないにしても、当初は半年の工場勤務がさらに半年延長されたことは、雇用上の約束が違ってきているわけで、人事には逆らえないという昔の概念は今や薄れており、拒否することも可能だった。そのことによって、いわゆる出世コースから外されたり閑職に移動させられたりということも組合が弱い企業ではあるだろうが、律ちゃんの兄はそれ以前の問題で、出勤をしなくなってしまったのだ。

人事異動の約束が会社から反故にされたというショックと、工場勤務の疲れの蓄積から精神的に障害が発生し今に至っているのだから、原因は就労中にあって会社側に責任が所在することは明らかだと私は思った。律ちゃんの父が公的な法律相談所に行ってみたが難しいと言われたということは、訴訟では時間もかかり、勝訴を得られるかどうかは分からないという解釈だろう。そんな手段より、話し合いで示談にしたほうが早いと私は考えた。

 T社との約束の日、鞄の中には律ちゃんの兄、川上洋平氏の実印が押された委任状と、白紙の約定書、覚書や念書などを用意して出向いた。八尾市の本社へは交通機関を利用し、約束の午後一時の少し前には到着した。受付の女性にアポイントを取っていることを告げるとすぐに三階の応接室へ案内され、少し経ってから恰幅のよい四十代半ばと五十代と思われるふたりの男性、そして白髪が混じった初老の紳士が現れた。名刺を交換してみると若い方が岡山で、年配のほうが取締役経理部長と書かれており、初老の紳士は顧問弁護士とのことだった。

「小野ビルトレードさんとは、どういったお仕事でしょうかな?」

 岡山が名刺を見て不思議そうな顔をして言った。事務の女性が冷たい麦茶をテーブルの上に置いて退き、私は遠慮なくひと口飲んでから答えた。

「金融業を細々とやっています。個人には貸しませんがね」

「川上君とはどこでお知り合いになったのですかな?」

「どこで知り合ったかですって?そういうことがお宅らにとって必要な情報なんですか?先日、彼とは知り合いだとお伝えしましたよね。妹さんがいるでしょ、川上君に。妹さんの婚約者なんです。だからいずれ身内になる予定なんですよ」

 三人は私のいきなりの挑戦的な言葉にややたじろいだ表情を見せた。

「時間があまりないと思いますから、用件だけお伝えします。川上君が精神疾患を患って出社しなくなり、再三の会社側からの出勤要請にも応じなかったことで解雇にした。精神疾患の原因は会社には関係がないというお考えですよね?」

「そうですね、残業はありましたが、過労に該当するだけの労働時間ではなかったですし、本社や工場で調査を行った結果、川上君から仕事で悩んでいたという相談を誰も受けていないことが分かっています。従って、仕事が原因での心労状態だったとは言えないわけです。こちらからは休職届を出すように何度か伝えたのですが、まったくの無視でしたから、まあやむを得ず解雇となりました」

 私の前の三人はお互いに顔を見合わせて頷きながら言った。

「そんな教科書どおりのことを訊きに来たんじゃないんです。御社の従業員に対する気持ちなんです。研究所勤務で採用した優秀な人材を、現場を経験させるために工場へ半年の研修、夜勤の連続勤務もきつかったと川上君はご家族に訴えています。残業時間は多いときで月に六十時間を超えていたというじゃないですか。ずいぶんと疲れていて、ようやく工場勤務から解放されるとホッとしたころに、実はもう半年延長。その従業員の精神的落胆を考えられましたか?それに何ですか、休職手続きをアドバイスして、それに反応が無かったからといっていきなりの解雇、これは酷過ぎるでしょ。状況はともあれ、会社の方から休職扱いに手続きをするのが当たり前じゃないんですか?」

「いや、先ず従業員の精神的落胆や負荷については個人の性格や資質の問題によって異なりますから、何とも言えませんなあ。それに工場研修の延長は突然伝えたわけではありませんしね」

「突然ではないと言われるが、延長を川上君に伝えたのは三月半ばですよね。半月前が突然じゃないと言われますか?どう考えたって突然でしょ。在職中に医師の診断を受けたわけではないから、それを証明することはできませんが、仕事に関わる心理的負荷による精神障害は労災の認定基準になりますよね」

「いや、工場研修延長はもっと以前から伝えていました。正式辞令が遅くなったのですよ。確かに就労が原因の精神障害は対象となるかも知れませんが、それを証明する確かなものはありませんし、労災適用にはできませんね」

「なぜできないのです?労働基準監督署へ駆け込んで問題にしましょうか。お宅らの出方次第では、おとなしい者も牙を剥きますよ。穏やかに示談にしようと相談に来たのです。慌てませんからゆっくりとお考えください」

 三人は苦虫を潰したような顔をした。労災適用申請を出すと、労働基準監督署から調査が入るだろうから、会社としても避けたいのだろう。部長や相談役と言ったって、所詮はサラリーマンだ。自分の腹が痛まないのだから、慰謝料程度はどうにでも捻出できるだろう。これだけの大企業になれば暴力団関係との付き合いはないだろう。一度関わると、とことんまでむしり取られるのが分かっているからだ。そんなバカなことはしないはずだと私は踏んでいた。

 岡山部長と取締役は、弁護士とも相談して返答すると言った。グループで従業員が一万人以上もいる会社だし、ひとりの元従業員のことで事を荒立てたくないはずだ。私は持参した約定書と念書の用紙を一応手渡し、金額はあなた方が考えて連絡をして欲しいと伝えて引き上げた。紳士的な対話はわずか一時間足らずで終わった。

 私は帰りの車中、「今日の報告をしたいが、空いている日があれば教えてほしい」と、律ちゃんの携帯へメッセージを送った。返信は大阪駅に着いた午後四時過ぎに届き、「今日会いたい」とメッセージが打たれていた。いったん兎我野町の事務所に戻り、幸子さんに特に変わったことはなかったかを確認してみると、三十分ほど前におかしな電話が入ったと言うのだ。

「小野さんってそちらにいますかって言うのだけど、どちら様かを訊くと名乗らないんです。小野さんってそちらの社長さんですかってさらに訊いてくるから、どなたか分からない人にお答えできませんと突っぱねました」

「電話は年配の男性だったんじゃないかな?」

「そんな感じでした」

「幸ちゃん、それでいいんだ。名乗らないやつに答える必要はないからね」

 きっと岡山か取締役が確認のために電話をよこしたのだろう。どんな出方で来るか楽しみだ。

 律ちゃんと新阪急ホテルのロビーで会って、大阪駅のガード下のお好み焼き屋に入った。

「それで、会社の人はどうするって言うの?」

「まだ何も決まっていないけど、必死で考えているはずだよ。わずかひとりの元従業員のことだから、逆に事を面倒にしたくないというのは、大きな会社なら当たり前のことなんだ。俺に連絡が入ることになっているから、慌てないで待ってればいいよ」

「小野さん、いろいろありがとう。嬉しい・・・」

 律ちゃんはお好み焼きをコテでひっくり返しながら涙ぐんだ。

「律ちゃん、礼を言ってくれるのはまだ早いな。これからどうなるか分からないんだから」

 お好み焼きとトン平焼きを食べてビールを飲んだ。まだ祝杯とはいかないが、今日の交渉がうまくいったらもっと贅沢なものを食べようと、律ちゃんと約束した。巨大な組織の相手には違いないが、何とかしてやりたかった。

 お好み焼き屋を出て、一時間ほどコーヒーショップに入ってから彼女をホームまで送って行った。途中、「いつ約束を果たしてくれるの?」と、いつもの私を追い込むような強い言葉ではなく、恥ずかしそうに律ちゃんは言った。

「律ちゃん、俺だって約束を果たしたいと思ってるよ。でもな、これ以上深入りしてしまうと正直なところ怖いんだ。俺は律ちゃんより二十歳も年上だしね」

「だから何?」

「だから、環境が整っていない」

「何言ってるの、小野さん。意味分かんないよ」

「律ちゃんが俺のことをどうにもたまらないくらい好きになってくれたら、そのときは環境が整うかも知れないな」

「もうなってるよ」

「いや、まだまだだ」

 ともかく今日は帰りなさいと言って、東海道線の下りホームで律ちゃんを見送った。私はこのまま帰りたくはなかった。今日はわずか一時間程度の攻防だったが、律ちゃんと別れてから疲れが一気に襲って来て、さらにあの高慢な三人の顔を思い起こすと気分も悪くなってきた。「それは個人の性格や資質の問題によって異なりますから、何とも言えませんなあ」だと、何を言ってやがる、バカたれが。お前らが工場研修期間を半年延ばさなければ律ちゃんの兄は苦悩しなかったのだ。従業員の様子を職場の上司が常に把握していれば彼の変化は分かったはずだ。私は曽根崎のバーでムシャクシャした気分をウイスキーで麻痺させた。

 

 

 

 七月に疾風が通り過ぎたような一瞬の関係があった矢田玲子へは、思い出すたびに何度か電話してみたが、毎回話し中を示すツーツー音だけしか聞こえなかった。ただの一度さえも留守番電話にもならないので、着信拒否をしているとしか考えられなかった。あの日の慌ただしい身体のつながりよりも、彼女と交わした言葉の数々がときどき鮮烈に蘇った。矢田玲子のことを何ひとつとして知らないが、知りたい欲望が加速度を増して膨らんでいたのは間違いなかった。

 九月も半ばを過ぎると、切ない秋の匂いが街のあちこちに漂いはじめ、夕陽が沈んでしまうと何とも言えないこころ寂しさを感じる。仕事が比較的早く終わり、幸子さんが帰ったあと事務所でぼんやりとした時間を過ごしていたある日、冷めたコーヒーを飲みながら、どうせ出ないだろうと何気なく玲子の電話番号をプッシュしてみると、意外にもすぐに彼女は出た。

「何度も電話をいただいていたみたいね。ごめんなさい」

 すんなりと電話に出たことに私は戸惑った。

「ずっと話中でしたよ。そんなに忙しかったのですか、それとも着信拒否?」

「特に何もなかったのよ。それに着信拒否なんて」

「今、どこにいるんです?」

「今は自宅なの。明日からお彼岸でしょ。お墓参りに行く準備をしているのよ」

「ご先祖のお墓参りですか、それは律儀で素晴らしいことです」

「そうじゃないの、息子のお墓なのよ」

「えっ?」

「ともかく数日は無理だけど、週末の金曜日の夜なんかはいかがかしら?」

 息子の墓参りだと言った彼女の言葉の意味を、私はすぐに飲み込めなかった。息子がいたって不思議ではないが、そういう気配は彼女の身体から伝わってこなかったばかりか、家庭とか家族というものとは無縁の女性に思っていた。もちろんそれは何の根拠もない私の勝手な思い込みなのだが、彼女はそういう面倒なものには関わっていない雰囲気を持っていた。

「じゃ、金曜日にね」

 そう言って玲子は電話を切った。私は残りのコーヒーを飲み干し、事務所の明かりを消して兎我野町を抜け、賑やかな堂山町へ出た。

東通り商店街はいつものようにサラリーマンやOL、若者たちで溢れていたが、私が街金業界へ入ったバブル景気の真っ只中だったころとは、人々の目的に雲泥の差があるように映った。あのころは北ノ新地や堂山界隈は金に糸目をつけない人々でごった返し、高級ホテルのロビーには、夜になると同伴出勤をするクラブのホステスと客で溢れていた。その華やかでエロティックな光景は週末だけに及ばずウイークデーも同様の賑わいだった。あのころに比べて、今は皆が格安の店を求めて彷徨っているように私には見えた。安い店が賑わって高価な店が閑散としている社会というものは、高度資本主義経済にとっては当然好ましくない傾向だし、高価な店はそれだけ品質やサービスのサプライズがあるのだから、バブル経済破綻後の世の中の様子はよい傾向にあるとは言えなかった。

だが今のこの光景が庶民にとって普通なのであって、分不相応な場所に頻繁に足を運ぶことができていた社会がイレギュラーだったのだ。イレギュラーで塗られていた時代はおそらく二度とはやって来ないだろうと、東通り商店街を歩きながら私は思った。

 約束どおり、金曜日の午後、私は玲子に電話をかけた。

「何時にどこに行けばいいかしら?」

「三時に東急インでどうかな?」

「お仕事は大丈夫なの?」

「仕事なんてどうでもいいんです」

 事務所に立ち寄って少しだけ雑務を行ったあと、幸子さんに今日は戻れないと伝えて、私は約束の東急インへ向かった。太陽がまだ三十度の位置に踏ん張っているというのに、私たちは会ってから世間話のひとつも交わすことなく、大融寺界隈のホテルに飛び込み、慌ただしく身体を重ねた。

「この前からずっとあんたのことを考えていたよ」

 私は恥じらいも遠慮の欠片もなく言った。

「あなた、寂しい人なんでしょ?」

「寂しいって?俺はちっとも寂しくなんかないよ、こうしてあんたと一体化している」

「そんなことを言っているんじゃないの。あなたはひとりなのって訊いているのよ」

「人間は誰だってひとりじゃないのか?」

「そんな哲学的なことじゃないのよ。あなたの言い方だと家族なんて意味のない集まりになるじゃない。家族は大切よ。ひとりじゃ生きていけないのが人間なのだから」

「家族?そんな御伽噺みたいなもの、俺は信用しないな」

 私は玲子の身体を右腕に抱き寄せ、少しばかりぜい肉がついた腋下と二の腕、そして豊かな胸の感触をしばらく味わった。

「あなた奥さんや子供さんは?」

「そんな面倒なものはいないんだ。あんたはどうなんだよ」

「私も今は同じよ。ただ、小学校三年生だった息子が今年の五月に事故でね・・・ちょっと可哀相なことをしたのよ。不思議ね・・・でもそんな話やめましょう」

「あんたが訊いてきたんだ」

「そうだったわね、ごめんなさい」

今日が二度目なのに、私は玲子に対してまるで長年連れ添った妻と交わっているような錯覚に陥った。それほど彼女の表情は穏やかで、私のすべてを心地よく包み込んでくれるのだった。

「どこかで食事して帰ろうか。それとも飲みに出るかな?」

「そんなことをしたら、まるで付き合っているみたいじゃない。行きずりじゃないの?」

「あんたの思うままでいいよ。でも、また会えるよな」

「さあ、どうかしら」

「車で送っていくよ。家はどこなんだ?」

「いいのよ、そんなに遠くないから」

「家の近くまでは行かないから安心しろよ。俺はあっさりしているんだ。妻にいきなり別れを宣告されたって、それをすんなり受け入れたくらいなんだから」

 新御堂筋を飛ばしていると、まだ午後六時半だというのにすでに夕焼けの名残りさえなく、暗闇が街並みを覆っていた。中国自動車道へ抜ける途中の道路沿いにある、ファミリーレストランの駐車場で降ろして欲しいと玲子は言い、そして暗闇の中に溶けるように消えてしまった。

 

 

 九月も下旬、日増しに秋の気配が空気や肌を撫ぜる風からも感じられ、ひとり暮らしにとっては一年で最も寂しい季節の序章に入った。私はいつものように仕事を終えてから、疲れた神経をアルコールで麻痺させ、泥酔の一歩手前の状態で福島の部屋にたどり着いた。スーツを脱ぎ捨てて、倒れ込むようにベッドに身体を投げ入れると、テーブルの電話が点滅していることに気づいた。律ちゃんが何かメッセージを残したのだろうと思って再生してみると、連絡してきたのは別れた妻・多美子の父だった。奈良県警を定年退職した元義父が残したメッセージは、折り目がきちっと伝わってくる懐かしい声だった。

「娘の手帳にこの電話番号があったので連絡しました。お元気ですかな?できればすぐに連絡をいただきたいのですが・・・」

 電話は数秒の沈黙のあとゆっくりと切れていた。落ち着いた口調ではあったが、声が微かに震えているようにも感じられ、いったいどうしたのだろうと酔った頭を振り起こした。

 多美子・・・別れて一年余りが経ったある日、彼女から電話があった。昔、ふたりでよく立ち寄ったバーのマスターが突然亡くなったとの知らせだった。マスターの姉の家に、私と一緒に弔問に訪れたいと連絡してきたのだ。私と多美子は再会した。だがそのとき、彼女は三歳年上の男性と大阪市内で同棲していると打ち明け、私はショックのあまりに混乱し、長時間彼女と一緒にいるのが耐えられず、立っていることさえ辛くなってしまった。でも過去に多くの苦しみや寂しさを与えた罰として事実を受け止め、その男性との幸せを祈って別れた。それが多美子と最後に会った日のことだった。

 その日から五年以上も経って、元義父がなぜ突然電話をしてきたのかが最初は分からなかったが、考えてみれば、多美子と離婚して以来、ただの一度さえ連絡がなかった元義父が留守番メッセージを残しているということは、多美子に何かあったこと以外に考えられなかった。そしてその不安は的中した。

 もう深夜に近かったが、すぐに連絡をという伝言の内容から、私は躊躇せず元義父宅へ電話をかけた。

「よく連絡してくれました。礼を言います」

「いえ、こんなに遅い時間になってしまって、すみません」

「実は昨日、娘が・・・死にました」

 「娘が」のあと三秒ほど間をおいてから「死にました」と、絞るような声で元義父は言った。私は頭では言葉の意味を理解したが、こころが事態をすぐに飲み込めず、多美子が自ら死を選んだのだと分かるのに十数秒を要した。

「急なことですが、明日の葬式に出ていただけませんか。お仕事も大変だとは思いますが、どうか、娘にお別れを言ってやってください」

 元義父は私に対する恨み辛みを一切言葉にも口調にも出さず、ゆっくりと悲痛な声でそう言った。私は心臓を射抜かれたような胸の痛みに急襲される中、「分かりました」と皺枯れた声で辛うじて答えた。受話器を置いてからもその場から身動きひとつできずに呆然自失の状態となり、それは数分続いた。ようやく立ち上がり、壁に手をついてよろけながらベランダに出て、冷たい秋風に顔を晒した。私に連絡もよこさず逝ってしまったことへのショックとか、多美子が亡くなった原因はいったい何なのだろうとか、そういう感情は沸き起って来ずに、ただ自分自身への腹立たしさ、情けなさ、悔恨の念だけが次々とこころを襲ってきた。涙が止めどなく流れ、夜空に向かって多美子の名前を叫び、慟哭した。眼下の福島駅のホームはいつの間にか暗闇と変わっていた。

 

 翌日の葬儀は、生駒市内にある多美子の実家で行われた。奈良県警の要職を務めた人物の娘のものとは思えないほどひっそりとしていたのは、自ら命を絶った人間の葬儀であることを寡黙に示していた。実家の敷地に入るまでは、ここで葬儀が行われていることが分からないくらいで、十数メートルほどの石畳を歩くと母屋の玄関になり、その手前に机ひとつだけの受付があった。香典を手渡した相手は多美子の妹で、彼女は私の顔を見たとたんに涙を流し、記帳を終えて顔を合わせると、その涙はさらに溢れた。涙の種類は分からなかったが、俯いた彼女の表情には無念さが表れていた。

「お義兄さんが姉と離婚さえしなかったら、絶対にこんなことにはならなかった」

 彼女はそう言いたかったに違いない。私は何も言えず、ただ彼女に深く頭を下げるだけであった。多美子の両親とも葬儀の終わりのあたりで挨拶を交わし、そこで元義父は多美子の自殺の原因について語った。

「娘は恋愛で悩んでいたようです。子供を産む年齢の限りというものもありますから、もう三十代も半ばになってずいぶんと焦っていたのでしょう。同居していた男性と結婚するという話を大分前から聞いていたのですが、実はその人には奥さんがいたのです。正式に別れていないのに娘との結婚を仄めかしたのですな。娘はずっと知らなかったのですよ。相手のことを分からずに一緒に住んだ娘もどうかと思いますが、九月になってからその男性は奥さんのもとに帰ってしまったのです。実は子供さんもひとりいたということです。ちょっと私らには理解し難いことですがね。まあともかく、娘は信じていたようです。それが裏切られたものですから、思いつめてしまったのでしょう。部屋で首を吊ってしまいました」

 元義父はそう説明したあとハンカチで目を覆った。努めて冷静に話そうとしていることが、彼の忙しく動く視線と震える口元から窺えた。私は自然と噴き出る涙を拭うことさえ忘れて、小さく声を上げて泣いた。

「どうしてこんなことになってしまったのだ。俺が大切にしてやりさえすれば多美子の人生はこんな結末にはならなかったはずだ」

彼女を騙した男への憎しみよりも、責任の大部分は私にあると思った。私は裁かれるべき人間に値した。

 

 

 

 十月に月が替わって最初の月曜日、T社から連絡があった。

「小野様、連絡が遅くなって申し訳ありません。もうしばらくお時間をいただけますでしょうか。やはり取締役会にかけないといけませんから」

「取締役会にかけられる?そんなに大きな問題でしたら、なぜ在職中にもっと社員のケアが出来なかったのですかね。ともかく、もうしばらくってどれくらいです。それと示談金額の提示はまだですか?」

「ええと、金額のほうは三百万円ほどを考えておりますが、いずれにしましても役員会の承認を得ないといけませんので。まあ、それは形だけのものになりますから、ご心配なく」

 電話の向こうの岡山部長はおそらく腰を折って話をしているに違いなかった。やはり彼らとてサラリーマンなのだ。

「心配はしていませんが、金額はお話になりませんな。あまり眠たくなるようなことを言わないでくれよ。お宅らのせいで前途ある若者がおかしくなってしまったんだからな。こっちは真剣なんだ」

「それはよく分かっております。ですから、できる限りのことを、その・・・善処しておりますので、今しばらく・・・」

「早く結論を出してくれ、これくらいのことでいつまでも待たせるな!」

 私は多美子がいなくなってしまった悲しみを、律ちゃんから依頼された標的に突き向かうことで紛らわそうとしていた。容赦ない激しい口調で電話を切ると、幸子さんが目を剥き口をポカンと開けて、私を見上げていた。

「今の小野さんはちょっと怖かったです」

「俺なんかは怖くも何ともないよ。ただね、幸ちゃんはまだこれから大学へ進んでいろんなことを学んで、それから就職するだろ。そこからが本当の現実社会へのスタートなんだよ。幸っちゃん、世の中をスイスイ生きていくなんてことは難しいんだ。悪い奴らやおかしな権力を持った組織なんかがいっぱいいるからね、ちょっと油断していると酷い目にあう。お母さんやお父さんに訊いてみればいい。『世の中って、生きていくことって、大変なの?』ってね。そんな世の中で、横着なことを仕出かす輩がいると、俺はね、幸ちゃん、そんなとき自然とね、なんて言うのかな、臨戦態勢って言えばいいかな、そういう気持ちになってしまうんだよ。おかしいかも知れないけど、多分この癖は大学時代に培われてきたんだな。どうしようもない」

 私は彼女の気持ちを和らげるために、最後のほうは笑いながら説明した。幸ちゃんは「ちょっと分かったような気がします」と言って、ホッとしたような微笑を見せた。でも、まだまだ幸ちゃんには分からないし、急いで分からなくともよい。

「幸ちゃん、お母さんの店にちょっと寄って帰ろうか」

「はい」

 九月はあっという間に終わってしまった。十月から年末まで一気だ。そして毎年のことなのだが、秋が深くなってくるころから年末年始にかけて、一年の中でもっとも心寂しい時期となるのだ。私にとっての辛い季節がそろそろ始まろうとしていた。

 「安曇野」には思いがけず律ちゃんがいた。この日はめずらしく身体をシャンと立てて、カウンターの隅のいつもの席で黙って日本酒を飲んでいた。

「やあ律ちゃん」と私は声をかけた。だが返事はなかった。

「あら、小野さんいらっしゃい。幸子がいつもお世話になります」

「女将さん、それはもう言わないでください。お世話になっているのは俺のほうなんですから」

「いえ、そんなこと・・・。幸子、ちょっと中に入って手伝って」

 幸ちゃんは膨れっ面をしてカウンターの中に入った。

「女将さん、幸ちゃんにもたまには飲ませてあげてくださいよ。今日も仕事で大活躍だったんですからね。三時ギリギリに銀行へ行ってもらって、無事に客が飛ばなくて済んだんです」

「小野さん、駄目よ。幸子はまだ未成年なんだから」

「あっ、そうだった」

 私自身は高校生のころからウイスキーを飲んでいたから、飲酒は成人になってからということをすっかり忘れていたのだ。

「幸ちゃん、来年の二月が誕生日やったな。もう少しの辛抱やで」

 常連の中年サラリーマンが言った。

「私、お酒は特別飲みたいわけじゃないからいいんです」

 幸ちゃんが洗い場でかがみながら少し投げやりな口調で言った。すぐに手伝わされたことが不服そうだった。

「悪かったわね、短大のころから酒浸りで。フン、未成年なんて、そんなものどうでもいいじゃないのよ」

 突然、律ちゃんが大きな声で言った。それほど酔っているわけではなさそうだが、私は席を立って空いていた律ちゃんの隣の席へ移動した。

「律ちゃん、一緒に飲もう。飲みたいときってたくさんあるからな」

「どなたでしたっけ?」

 律ちゃんは私に顔を近づけて、唇を少し曲げながら憎たらしそうに言った。カウンターの下では私の太股が彼女の指で思い切りつねられていた。私は表情を変えずにその痛みに堪えながら、いったい彼女が何を怒っているのかさっぱり分からなかった。

「機嫌が悪そうだな、律ちゃん」

「そんなことございませんわ」

律ちゃんはよそよそしい物の言い方をして、コップに三分の一ほど残っていた日本酒を一気に飲み干した。

「若い女の子がそんなオッサンみたいな飲み方をするなよ」

「放っておいてよ、どんなの飲み方しようと私の勝手でしょ。もうおとななんだからね」

「分かったよ。ところで今日電話があったよ、例の示談の件なんだけどね。少ししたら一緒に出ようか」

 私は律ちゃんの耳元近くで小さな声で言った。「分かった」と彼女は素直に頷き、ようやく太ももから手を離した。

それから私は一時間近く、店の常連や女将さんと世間話を交わしながら飲み、幸ちゃんはときどき近づいてきて律ちゃんと映画やファッションの話をしていた。私は今日も夜が更けるに従って身体がズシリと重くなる疲労感に襲われた。いろいろと九月は疲れた。多美子は今どこで何をしているのだろう、天国という世界が本当にあるとすれば、そこで彼女はようやく幸福感というものを得ているのだろうか。多美子はひとときでも幸せだった時期があったのだろうか、今となっては訊くこともできない。ふたりで暮らしていたときにもっといろんな話をしたり、多くの場所へ一緒に出かければよかった。

「小野さん、小野さんって。どうしたの、そろそろ出ようよ」

 律ちゃんが私の身体を揺すりながら言った。

「ああ、そうだったね。考え事をしていたよ」

「小野さんって、いつも何か考えてるよね」

「そりゃそうだよ。世の中は難しいことでいっぱいだからな。生きていくのは大変なんだ。だから常に考え事をする」

 私はコップに少し残った酒を流し込んで言った。

「相変わらず変な人ね」と律ちゃんが言った。

「お母さん、今日仕事していたら、小野さんがお母さんに『世の中を生きていくことって、大変なの?』って訊いてみなさいって幸子に言うのよ。本当に大変なの?」

 私と律ちゃんのやりとりを見ていた幸ちゃんが女将さんに訊いた。女将さんは天ぷらを揚げていた菜箸を休めた。

「そりゃ、簡単じゃないわよね。商売だっていろいろと難しいことがあるしね。二ヶ月以上もツケをお支払い願えない方もいらっしゃいますからね」

 女将さんがひとりの常連客をチラッと見て言った。

「かなわんなあ、女将さんにかかったら。ボーナスでいつも清算してまんがな」

「半年分って大きいのよねえ、今度から利息つけようかしら」

 女将さんが笑いながら言った。

「小野さんに貸してもらおうかな。うちは嫁が財布を握っていて、ボーナスのときしか自由になる金ができまへんのや」

 常連客は私のほうを向いて苦笑いしながら言った。

「利息は高いですよ。暴利の悪徳金融ですから」

 店はしばらく笑いに包まれた。

午後九時を過ぎてから、私は律ちゃんを連れて店を出た。背後では常連客たちの「は行」のため息がいつものように聞こえたが、振り向きもせずに店の戸をピシッと閉めた。

「小野さん、今日は抱いてくれないの。私たち、もう深い関係じゃないの?」

「えっ、何だって?」

「だから、律子と小野さんはペッティングまでした仲でしょ。私、付き合ってもそんなに面倒くさい女じゃないって言ってるでしょ。だから安心して」

「ペッティングなんて言うなよ、律ちゃん」

 私は律ちゃんを泉の広場の近くのコーヒーショップへ連れて行こうとしたが、「もう一軒いこうよ」と、彼女はわがままを言った。

「律ちゃん、思いっきり飲みたいのなら、今度いくらでも飲ませてやるよ。俺はこのところ疲れているから少し待ってくれないかな。今日は示談の件の報告をしたいから、今夜のアルコールはここまでにしよう」

 律ちゃんは「分かりました」と今度は素直に頷いた。閉店時間が近い店で、急ぎ私はホットコーヒーを、律ちゃんはバナナジュースを注文、それから今日のやりとりを簡単に伝えた。

「つまり、相手は三百万円の示談金で納得させようとしている。少なくとも倍の金額が出るまで粘ろうと思うんだ」

「ごめんなさい。兄のことでいろいろと嫌な思いをさせて。相談してごめんなさい。相談に乗ってくれそうな人が小野さんしか浮かばなかったの」

 そう言って律ちゃんは俯いて泣き出した。怒ったり泣いたり忙しい女の子だ。

「そうじゃないんだ。律ちゃん、泣くなよ」

 店の人や客たちが怪訝そうな顔つきで私たちのほうを見ていた。恋人と別れ話をしているようには見えないだろうし、妹を叱っているふうでもないはずだが、律ちゃんがメソメソするので店に居辛くなってしまった。

「出よう。少し歩こう」

 再び地上に出ると、大勢のサラリーマンやOLたちがまだ夜の街を彷徨っていた。大江橋を渡って、大阪市役所の前を過ぎて中之島図書館の辺りから公園に下りたころには、時刻はもう十時半を過ぎていた。少し肌寒さを感じる夜の公園には、ふたりの世界に入り込んだカップルだけが囁き合っていた。私と律ちゃんは空いているベンチに座り、久しぶりに唇を合わせた。ゆっくりと唇を離すと、「小野さん、好きよ」と律ちゃんは囁いた。

「俺だって震えるくらい律ちゃんが好きだよ。でもな、俺は女の人を幸せにできない男なんだ。詳しくは言えないけど、どうしようもない。だからな、律ちゃんと深い関係にはなれないんだ。分かるかな?」

「どうして駄目なの?」

「それは・・・この前言ったように環境が整わない限り不可能なんだ」

「小野さんの言っていること、ちっとも分かんないよ」

「今は分からなくていいや。お兄さんの問題が片付くことが第一だからな」

「分かったわ」

 律ちゃんは頷いた。

「兄さんのことだけど、一度ご両親とお兄さんにも会っておきたいんだよ。俺に相談していることは家族に話をしてるよね?」

「もちろんだよ。いろいろ親切にしてくれて、兄の荷物を運んでくれたことも伝えているから、一度キチンとお礼をしなくちゃって、父も言ってるの」

「礼なんか要らないよ。俺はやりたくてやっているだけだからな」

 律ちゃんはまたしばらく黙った。花壇を挟んだ向かい側のカップルがベンチの上でほぼ重なり合っていた。土佐堀川の向こうに並ぶビルの窓もほとんどの明かりが消えていた。

「小野さん、ありがとう」

 律ちゃんはポツンと呟くように言った

「さあ、帰ろう。この件にケリがついたら、今度は思いっきり飲もう」

「うん」と律ちゃんは頷いた。大阪駅まで歩いて、いつものように東海道線の下りホームで律ちゃんを見送った。電車が走り去ったあと、不思議といつものような寂しさには襲われなかった。風見鶏のような私のこころは、本当に律ちゃんのほうを向いてしまいそうだったが、それは抑えなければいけないと自分に言い聞かせながら福島の部屋に帰った。

 

十一

 

 仕事への意欲を次第に失い始めていた十月半ば、幸子さんが帰ってから残務を行っていると矢田玲子から電話があった。

「もし今夜、予定がなければうちへ来ない?」

「予定があったとしても、すべてを投げ打って行くよ。場所を教えてくれないか」

 玲子は先日送って行ったファミリーレストランの駐車場あたりで午後七時に待っていると言った。少し早く着いてみると、レストランの入り口近くに彼女が立っていた。

「このレストランで何か食べてから君の家に行こうか?」

「お料理は作ってあるのよ。家に来て」

 車をそのままにして玲子のあとに続いた。彼女の家は、並走する中国自動車道と中央環状線の側道から南へ入り、緩やかな坂を少しだけ下ったところにある五階建マンションの一階だった。入ってすぐの部屋は広いリビングルームで、その奥に二部屋が並んでいる広めの二LDKの間取りだった。

「すごく良い匂いがするね」

「朝からビーフシチューを仕込んだのよ。嫌いじゃないわよね」

「大好きだよ」

 私は我慢ができず玲子をうしろから抱きしめた。

「駄目よ、食事をしてからね」

 リビングのほぼ中央には平テーブルが置かれていて、縄を編み上げた薄い座布団に向かい合って座った。部屋には家具や調度の類は少なく、その分ゆとりのあるリビングだが、焼き板を組み込んだような重厚な箪笥やトラディショナルなドレッサーなど、いずれも洒落た感じだった。エスニックな置物やフロアランプも、特別高価なものではなさそうだが、薄暗く広い部屋にぴったりフィットしており、それらひとつひとつに彼女のセンスの良さが窺えた。

 玲子が用意してくれていた料理は、ビーフシチューと手作りのグラタン、そしてサラダとブルーチーズが添えられていた。よく冷えた赤ワインを一本、ふたりで飲んだ。料理の味は、すぐに繁盛することが請け合いのビストロがオープンできそうなほど素晴らしかった。

「どうして今夜、急に呼んでくれたんです?」

 いきなり部屋に招かれたことを不思議に思って、私は率直に訊いた。

「それは・・・お別れだからよ」

「えっ?」

「もう何もかもおしまいにするの。だからお別れ」

「どういうことなんだよ」

「嘘よ。でも、あなたっていつも正直ね。今も一瞬目を剥いていたわよ」

「急にそんなことを言うからだよ。俺たち知り合ったばかりで、会うのは今日がまだ三度目だからな」

 私はテーブル越しに玲子の顔を引き寄せた。プライベートな部分など何も知らないのに、この安心感は何なのだろう。

 翌日、目が覚めるとベッドに玲子の姿はなく、私ひとりが全裸の身体に羽毛布団を巻きつけていた。ベッドルームを出ると、彼女はリビングの奥のキッチンにいた。

「タフだな、あんたは」

「おはよう、タフじゃないわ、足腰がおかしいのよ。私たち変ね、男女って、面倒くさい恋だの愛だのって要らないんじゃない?」

 玲子は厚いトーストを焼き、半熟卵を作っていた。

「俺はあんたを愛してしまいそうだよ」

「あり得ないわ」

 玲子は首を振って笑った。

「隣は誰の部屋なんです?」

 もうひとつの部屋が気になった。

「息子の部屋だったのよ。今はすっかり片付けてしまって何もないんだけど」

ドアを開けてみると、そこにはシングルベッドと勉強机と、そして小さな仏壇があった。ベッドの布団はふんわりと綺麗に折り畳まれ、今朝まで誰かが寝ていたかのような息遣いが感じられるほどで、きっと玲子は今でも天気のよい日には息子の布団を干しているのだろうと思われた。勉強机には本の類や文房具など何もなく、息子が書いた落書きと彫刻刀の傷だけが寂しく残っていたが、机の横のフックには、持ち主がいなくなってしまった黒のランドセルが掛けられていた。仏壇に飾られた遺影は、そのランドセルを背負って恥ずかしそうに笑っていた。

「小学校一年生の入学式のときの写真なのよ」

 写真をじっと見ていると、いつの間にか玲子が横に立っていた。

「私の不注意だったの、可哀想に。五月にショッピングセンターの駐車場で、主人が車を幅寄せしているときに後ろにリョウがいるのに気がつかなくて、勢いよくバックしたものだから、ガードのコンクリートの壁に飛ばされてしまったのよ。頭の打ち所が悪くてね、駄目だったの。私が気づいていればあんなことにはならなかったのだけど・・・」

「ご主人の車にあたったのか?」

「人間って一瞬で命を失くすものなのね。頭だけだったから、息を引き取ったあとも眠っているようなのよ。声をかければ目が覚めそうな顔なの」

 そう言って玲子は涙を流した。

「リョウ君って、どういう名前だったんです?」

「亮一って言うの」

「良い名前だ」

 私は玲子を抱きしめ、頬に流れていた涙を吸った。突然襲われた巨大な悲しみを受け入れることは死に等しいほど苦しかったに違いない。七月初旬に梅田地下街で最初に見たときは、まだ深い悲しみは彼女のこころから濾過されていなかったのだろう。まるで夢遊病者のように投げやりな雰囲気で歩いていた玲子の姿が思い起こされた。

「それでご主人は?」

「主人は気が狂ったようにその場でうろたえるだけだったの。私が救急車を呼んで、リヨウを抱いて到着を待ったの。リヨウは私の目を見ながら『お母さん、僕死んじゃうの?』って言うのよ。足から次第に動かなくなって、救急車が来たときは、もう駄目だったの」

 玲子は途切れ途切れに言って、それから嗚咽した。大量の涙が溢れて顎を伝って落ち、これまで堪え続けてきた感情が、堰を切って一気に吐き出されたかのように彼女は泣いた。流れ出る涙の量は、息子を失った巨大な悲しみの深さだと思った。私は発するべき言葉も思い浮かばず、玲子をさらに強く抱き締めることしかできなかった。

「主人は責任を感じて、離婚してくれって言うから応じたのよ。リョウがいなくなってしまって、私とふたりだけで暮らすことが耐えられなかったのね、きっと」

 呟くように玲子は言った。

「でもそれは酷いな。ふたりで励ましながら、リョウ君を失った悲しみに耐えていくのが夫婦というものじゃないのか?」

「もういいのよ、終わったことだから」 

私は遺影に手を合わせ、それからシャワーを浴び、玲子と向かい合ってよく焼けた厚いトーストと半熟卵を食べた。彼女の半熟卵は本当に半分だけ茹でられていて、コツコツと叩いて卵の上の部分を割り、小さなスプーンですくって食べるのだ。

「この卵は有精卵なのよ。しかも半熟だから濃厚で美味しいの。精力もつくのよ」

「こんな濃厚な半熟卵は初めてだな。本当に精がつきそうな気がしてきたよ。また抱きたくなってきた」

「私たち、まるで獣ね」

「人間本来の姿だよ」

 私の身体が彼女の少し肉がついた身体に溶け込み、すべての部分で確実に一体化している感覚、つながっているとこの世との関わりのすべてがもうどうでもよい気持ちになった。今なら何の躊躇いもなく多美子のもとへ飛んで行けるだろう。もうすぐ行くから待っていてくれ、多美子。

「俺はもう、悔いはない、あんたに、俺の命を、任せる」

 私は自分が発した言葉に、多美子への懺悔の気持ちが絡みつき、感情を抑えられずに涙が噴き出た。

「どうしたの、あなた泣いてるじゃないの」

「人間だからな、泣くことも、死にたく思うこともあるさ」

「いいわよ、一緒に死にましょう。あなた、別れた奥さんは今どうしているの?」

 俺の顔を、上から覗き込むようにして玲子は訊いた。

「妻のことか?そうだな、俺と別れてからつまらない男に騙されてな、実は先月急に自殺してしまったんだ。可哀相に、きっと絶望してしまったんだろう。俺に責任がある」

「そうだったの・・・でもどうしてあなたに責任があるの?」

「妻を大切にしてやれなかったからな。仕事を口実に酒ばかり飲んで、彼女に寂しい思いをさせてしまった。離婚を求められても何も言えなかったんだ」

「でも、自殺はあなたが直接の原因じゃないんでしょ?」

「いや、俺が原因だ。この前、あんたは家族って大切だ、人間はひとりじゃ生きていけないって言っていただろ。彼女は俺と別れて、ひとりで寂しさに苦しんだに違いない」

「でも、あなただって別れてからひとりじゃないの。自分ばかり責めることはないわ」

「俺はずっと好き勝手ばかりしてきたどう仕様もない男なんだ。妻は俺と一緒のときも別れてからも、ずっと辛い日々だったに違いない。もっと大切にしてやればよかったんだ」

 涙が止まらなかった。私の身体のどこに涙の源があるのか分からないが、止めどなく流れる涙は両耳へ伝い落ちた。どれだけ涙を流したところで、この世にいない多美子に届きはしないが、付き合っていたころや結婚当初の彼女の笑顔が脳裏に現れた。まるで大量の涙に天国から引き寄せられたかのように、不安の欠片も見えない多美子の純粋な幸せの笑顔が突然現れた。それと同時に、最初に出会った頃の気持ちが、こころの奥底から蘇えって来て、私は懐かしさと嬉しさと、そして辛さとが混ざり合った感情の中、しばらく黙ったまま泣き続けた。

「可哀相な人。あなたも大切な人を今年亡くしたのね。そうなの・・・おかしなものね、最初に地下街で声をかけられたとき、何かを感じたのよ。今思い起こしてみると、あなたの切羽詰った目の中に何か深い悲しみが映っていたの」

「本当かな?」

「ええ、確かに映っていたわ」

「それはたまたまその日の債権者集会でガックリきていたからだよ。俺なんかよりあのときのあんたは凄かった。シャネルのバッグを振り回しながら、夢遊病者のようにフラフラと歩いていたし、身体中から強烈な倦怠感が漂っていたからな」

「また言う。バッグを振り回していたという言い方やめて」

「でも本当にそうだったんだ」

 午後二時ごろになってようやくベッドから出た。

「あなたが本当に死にたいのなら私を道連れにして」

 気だるい声で玲子が言った。

「情死だな」

「情死って?」

「愛し合っている男と女が一緒にあの世に行くってことだよ」

「私たち、愛し合っているのかしら?」

「さあ、でも少なくとも憎みあってはいないだろ」

「フフッ」と玲子は笑い、ようやくベッドから身体を起こした。

「私にはもう何もないの。リョウ君のもとに早く行ってあげないとね。あの子、食べ物の好き嫌いが多かったから心配なのよ」

「俺の妻も天国で寂しがっているに違いないし、謝罪をきっと待っているだろうな。俺がこの世で生きているうちは、どんなに彼女に懺悔したって届かないし意味がない。同じ位置に立ってこそ可能なんだからな。じゃあ、情死、いってみるか?死ぬ方法と場所と日程をあんたに任せる」

「本気ね?」

「ひと思いに行こう」

「途中で絶対に気が変わったりしないわね?」

「あんたこそ、やめるなら遠慮なく言ってくれ。俺はひとりでもやるから」

 私は玲子にそう言い残して部屋を出た。

 多美子は私の知らない間に、世の中と男と人生に絶望し、自ら命を絶った。私がこの世に生き長らえながら多美子に犯した罪をどのように償おうかと考えても、彼女が存在しない今となってはその術はない。たとえ懺悔の日々を送り続けたとしても、同じ世界にいない多美子に私の悔恨の気持ちが届くとは思えなかったし、同時に私はもう様々なことに疲れていた。街金業界も少し前に法が改正されて上限金利もますます低くなり、独立したバブル経済破綻後のころとは、この業界の環境は大きく変わっていた。今こそ多美子が嫌っていた金融業、七代祟ると親父や妹が毛嫌っていた金貸しから縁を切るチャンスだと、そう思うと気持ちが昂ぶった。

 

十二

 

 十月半ばの日曜日、私は律ちゃんの家を訪ねた。最初にT社を訪問したときに川上家との関係を訊かれ、「妹さんの婚約者」と返事していたので、当事者である兄や両親と会っておく必要があった。勿論、律ちゃんの婚約者なんてことはあるはずもないのだが。

 兄は私と長く視線を合わせるのをためらうような表情を見せる以外は、普通の青年と変わったところは見受けられず、口数は少ないが丁寧な物腰で好感が持てた。

「息子のことでお世話になります。娘が勝手なお願いをしてしまって、大変申し訳なく思っております。私ら、あまり法律とか会社へ交渉する方法とかが分かりません。企業を相手にお仕事をされている小野様に律子が相談してみると言うものですから、厚かましくも任せてしまいまして、ご迷惑をおかけしています」

「いえ、企業を相手といっても町工場や小さな事務所が相手ですから、私とて要領を得ません。でも従業員の精神的疾患を会社側が無関係だというような態度を見せることが許せないと思ったのですよ。特別な交渉術は持ち合わせていませんし、法律も知りませんが、やるだけやってみます」

 律ちゃんの父は実直そうな人柄で、仕事は此花区にある大手製鉄会社の現業員とのことだった。母は私と父の話に心配そうな表情でときどき相槌を打ち、特に何も言わずに聞いていた。

「ともかく、返事待ちなんです。今思うと、ひとりで乗り込んで金を出せって言っているようなもので、無謀を少し反省しているんですよ。こういうのって弁護士を介して交渉するのが普通ですよね」

 私は出された熱いお茶を啜って、笑いながら言った。

「いえ、私は一度弁護士さんの無料相談の日に府庁を訪れたことがあるんです。でも弁護士さんがおっしゃるには、息子の場合は仕事との関連性を証明することは難しいらしいのです。勿論、訴えることはできるらしいのですが、長引くだろうし勝ち目も薄いのではないかと」

「だから私が小野さんに相談して、示談で話を持ちかけたほうが良いよって言ったの」

 律ちゃんが言葉を挟んだ。それからしばらくお茶を飲んで世間話を交わした。律ちゃんのためにも、この家族に突如降ってきた不幸に少しでも役立ちたかった。

「それではT社から連絡が入ればまたご報告いたします。希望どおりの示談金には及ばないかも知れません。でも、引き際も大事だと考えていますので、あまり突っ込んだ交渉はしないつもりです。よろしいでしょうか?」

「私らは小野様にお任せしておりますので、何も言える立場ではありません。よろしくお願いします」

 律ちゃんの父が私に頭を下げ、それに母も兄も続いた。私は逆に恐縮してしまい、その場に長くは居辛くなってしまった。

「食事でもして帰ってください。近くのレストランでもいかがですか?」

 律ちゃんの両親が何度も勧めてくれたが、丁寧に辞退した。

「このことがうまく終わったら、そのときはぜひ何か美味しいものでも食べさせてください」

 そう言い残して律ちゃんの家を出た。駐車場まで律ちゃんがついて来て、その間ずっと何か言いたそうだったが、私はあえて訊かなかった。

「ごめんなさい、せっかくの休みに」

「俺はひとりだし、休日は特になにもすることがないからな。だから前にも言ったと思うけど、こういう用事があれば嬉しいんだよ」

「うん、でもごめんなさい」

 律ちゃんはなぜか繰り返し謝った。「じゃあ、また連絡するよ」と言って車に乗ろうとした。だが律ちゃんは車のキーを持った私の手を取って、「私のこと、好き?」と顔を覗き込むようにして、不安そうに訊いてきた。

「好きでなければこんなことに首を突っ込まないだろ。苦しむくらい好きだよ」

 車に乗り込み、エンジンをかけた。バックミラーには律ちゃんが笑って手を振っている姿が映っていた。彼女は兄のことで半年も苦悩し続けていた。その苦しみから解き放ってやらないと可哀想だなと思ったが、私はもうこの世とおさらばすると決めていた。だから律ちゃんの気持ちは嬉しいが、それに応えてあげられないことがこころ苦しかった。今回の彼女の兄の問題を勝ち取ることは、最後の力を振り絞った、この世におけるラストジョブなのだと思った。

 

十三

 

 十月下旬、深夜に玲子から連絡があった。ほかでもない私たちの最期についてだ。今更ながら考えてみると、私の人生は粗末なものに思えた。今治を出て以来、故郷の友人や知人との接触はまったくない。大学時代も友人とはっきり呼べる相手はいないに等しく、テキ屋の岡田だけがこころを開ける存在だった。そして社会人になってからも、踏み込んでいた人間関係の中に親しい人物は現れず、多美子と知り合って初めて友人ができた気がしたものだった。多美子だけが親友と言えたし、私のすべてを知る唯一の存在だったに違いないのだ。思えば私たちは知り合ってスムーズにお互いを受け入れ、急速度で愛し合った。私に欠乏していた人格や嫌な部分も多美子はすべて容認し、文句を言わずに結婚してくれた。付き合っていたころや新婚時代の幸せだった時期が、今頃になって懐かしく、思い起こせば私の粗末な人生において、多美子の存在はとてつもなく巨大だった。だが、多くの人々がそうであるように、近くに見える間はその大切さや存在の大きさが分からず、失くしてしまって初めて気づいたのだ。多美子がもうこの世に存在しない今となっては、もはや生きていく必要性や価値がどこにあるというのだ。もう思い残すことなど何もないと思った。

「十一月の最初の日曜日、終わりでいいかしら。海の底は、どう?」

「えっ?」

「海は、どうって言ったのよ」

「どういうことかな?」

「海の底に沈みたいのよ」

「海の底だって?」

「怖いの?」

「どこだって、何だって構わない。あんたに任せる」

「分かったわ」

「今からそっちへ行ってもいいかな?」

「あなたが望むなら、待ってるわ」

 真夜中の新御堂筋をブッ飛ばした。車を走らせながら、私がこの世から消えたあとのことを考えてみた。

両親や弟や妹もおそらく驚きとともに悲しむだろう。でもその悲しみは時の経過とともに静まり、やがては盆正月くらいにしか私のことなど思い起こさなくなるのだ。最期の日までに事務所を閉めよう。今月末で急遽廃業だ。幸子さんには明日話そう。いや待てよ、事務所なんてそのまま放って置いたって何の問題がある?

私からの連絡が途絶えると、スポンサーたちは次々と事務所に電話をしてくるだろか?応対の幸子さんは「しばらく事務所に出てきていません」と、戸惑いながら返答するだろうか。手形はドンドン無事に落ちて、不渡り事故など一枚も出ないはずだ。でも私は事務所に姿を見せず、福島のマンションにもいない。一週間か十日程が経って、不安に思った幸子さんが安曇野の女将さんに相談して、そこでようやく警察に届けるだろうか。警察があれこれ調べて実家に連絡をするだろうか、それよりも、私と玲子の死体は海の底に沈んでしまうとすぐに上がらず、行方不明者となるのだろうか?或いは永遠に海の底に沈んだままにならないのか?そんな状態でもあの世に行けるのだろうか?死体が確認されないと私はどこにも行けず、あの世とこの世との狭間をさ迷い続けることにはならないのか?海の底は綺麗で神秘的かも知れないが、多美子の元へ行けなくては困るのだ。

 玲子の部屋は、隅に置かれたフロアランプの明かりで薄暗い橙色に染まっていた。

「明日の仕事は大丈夫なの?」

 彼女は紅茶を飲んでいた。私は背後から抱きすくめ、首筋に唇を押しつけた。

「もう終わろうとしている俺に、仕事なんて何の意味があるんだ」

「本当にいいのね」

「いつだってかまわない」

「じゃ、十一月最初の日曜日の夜に実行よ。私、前日に息子のお墓参りに行くわ。もう少しだけ待っていてねって伝えに行くの」

 玲子は立ち上がり、隣の部屋に消えた。しばらくして小さな袋を持って戻ってきた。

「これは即効性のある睡眠薬なの。最期の海を決めたら、まずこれを飲むの。意識が朦朧としてきたらアクセルを強く踏んで一気に車を海に突っ込んでね。あなたにできる?」

「子供騙しみたいなもんだな。何の問題もない」

「どこの海にする?」

「あんたに任せる。どんな海だって車で一気にジャンプしてやる」

「分かったわ」

 玲子の目を見た。その目にはこころの中を読み取れるものは何ひとつ見えなかった。強い眼光だけが私の目を覗き込んでいた。

そのとき、脱ぎ捨てていた私のジャケットのポケットにある携帯電話が鳴った。マナーモードにするのを忘れていたのだ。こんな時間にいったい誰だと着信番号を見ると律ちゃんのものだった。

「携帯が鳴っているわよ」

「いや、いい」

 一回切れた携帯電話はすぐにまた鳴った。「出てあげたら」と玲子が言った。

「今どこにいるの?」

「どこって・・・もう寝てたよ」

「明日会いたいの」

「律ちゃん、しばらく会えないんだ」

「分かった」

 律ちゃんは素直に電話を切った。私は首を振りながら携帯電話をジャケットのポケットに仕舞った。

「あなた、全然ひとりじゃないじゃない。こんな深夜に電話をしてくるひとがいるのだから。今の電話は女性でしょ?」

「女性?いや、まだ女の子だ」

「何なの、それ。あなた、抜けなさい。私ひとりでいいから」

「馬鹿なことを言うなよ」

「死ぬ必要なんてないじゃないの。心配してくれる人がいるのだから。もし私に同情しているのなら、そんなもの要らないから。もう一度よく考えてみて」

「十一月最初の日曜日だな。夜、迎えに来るよ」

 玄関を出るときに振り向くと、玲子の姿が幻のようにゆらゆら揺れていた。私はドアを閉めたあと、さっきの彼女の姿が気になってもう一度ドアを開けようとした。だがドアはロックが掛かっていて開かず、チャイムを何度か鳴らしてみたが応答がないので、おそらくバスルームにでも飛び込んだのだろうと諦めて車に乗り込んだ。

 

十四

 

 ようやくK社から回答が来た。示談金はきっかり五百万円だった。大手企業にしては、まるでドンブリ勘定のようなこの金額について、会社側が誠意を示した額になるのか、或いはこういったケースでは少なすぎるのか、私にはよく分からなかった。

仕事上の付き合いのある右翼団体の幹部を通じて、その筋から交渉を依頼すると、もっと多額の示談金を引き出せるのかも知れないが、裏交渉術なんてもののマニュアルがあるはずもなく、この金額で妥協するしかなかった。示談は和解とは異なって裁判などの法的介在がないのだから、あまりの要求を続けていると「ゆすり」になるかも知れないし、相手に居直られて交渉拒否をされると、今度は一から法的手続きを始めるしかないのだ。

当初の提示金額からかなりの増額回答をしてきたのだから、律ちゃんの両親や家族の了解を得て、示談書の作成のためT社を訪れた。律ちゃんは会社を休んで同行すると言って譲らず、当人の家族を最後の席に連れていくのもよいかも知れないと思って了解した。

「いろいろありがとう。小野さんに相談してよかった」

 律ちゃんはT社へ向かう車の中で礼を言った。でも私自身は何の精神的負荷もなかったし、この件で考え込んだこともなかった。普段、自分の仕事で臨終間近の顧客の動向を見守っているほうがずっと疲れるのだ。

「今度の決済が終われば次は貸さずに断ろう」「手形が無事に落ちたら次の融資額は少し減らそう」「あの客は次回融資を実行する際、不動産の仮登記書類を取っておこう」など、毎日のように客のことで神経を使う。それに比べれば今回の交渉なんて、ゆすりにあたる言動にさえ注意していれば、あとは突進するのみだったので、ある意味子供騙しみたいなものだった。だがまあ、T社がよく私のような人間をまともに相手したものだと、今振り返ってみると意外にも思え、物事は実際に対峙してみないと分からないものだと妙に納得した。

 T社を訪れると、前回と同じ部屋に案内され、すでに岡山部長など三人が待っていた。

「そちらのお嬢様は?」

「はい、前に申し上げた川上君の妹さんです」

「小野様のご婚約者とおっしゃっていた川上君の妹さんですか。これはどうも、この度はいろいろとご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした」

「はあ、いえ、こちらのほうこそ、いろいろとありがとうございました」

 岡山部長の言葉に律ちゃんは慌てていた。このような場にまだ二十歳そこそこの女の子が戸惑うのも無理はなかった。

 示談書は二部作成し、一部ずつ保管する。金額の五百万円は一週間以内には全額が振り込まれる段取りとなっている。示談書には今後双方ともに無関係とすることを謳う。これらのことを岡山部長は説明し、隣の顧問弁護士があらかじめ作成していた書類を差し出した。

書類は川上洋一当事者と、その代理人として私の署名捺印箇所も作られていて、律ちゃんの家族の示談書に一筆関わったことになる。もしかすればT社の財務諸表にはこの示談金は何の関係もなく、同社の裏帳簿の隠し金による簡単な処理だったのかも知れないが、そんなことはどうでもよく、私は素直にホッとした。

 帰りに上本町にある公証人役場を訪れ、示談書に確定日付を打ってもらい、それを律ちゃんに渡した。

「小野さん、ありがとう。やっぱり小野さんって凄い」

 律ちゃんは瞳をクルクル回して礼を言った。「律ちゃん、俺は凄くも何ともない屑みたいな男なんだ。君はまだ若すぎるからそんな勘違いをするんだ」とこころの中で恥ずかしく思った。

「今日はこのまま帰るの?」

 車を塚本へ向かわせようとした辺りで律ちゃんが不満そうに言った。まだ午後四時を少し過ぎた時刻だった。

「大切な書類を家の中のキチンとした場所へ保管しておかないといけないだろ」

「それはそうだけど・・・。律子と食事もしてくれないの?」

「少しだけでも事務所に寄らないといけないからね。今日は幸ちゃんがひとりで銀行回りをしているんだ」

 律ちゃんは「そうだったんだ」と呟いた。必ずしも事務所に寄る必要はなかったし、幸子さんの銀行回りは嘘だった。今日は律ちゃんを送り届けてから、夜はひとりで飲みたかった。

「律ちゃん、ごめんな。お兄さんのことが一応終わったから、律ちゃんと乾杯したい気持ちはあるんだよ。でもね、ちょっと俺は今考えないといけないことがあってね、今夜は駄目なんだ」

「何かあったの?」

「おとなには考えないといけないことがたくさんあるんだよ。ときにはその内容にこころも身体もフラフラになる。俺は弱い人間だからそういうことが頻繁にあるんだ」

「私、もうおとなだよ。それに小野さんとは深い関係だよ」

「えっ?」

「だから、私は小野さんとは深い関係なの。二十歳の年齢差がどうのこうのとか、そんなの関係ないと思うよ。小野さんだって私のことを好きだって言ってくれるじゃない」

 律ちゃんはムキになって言った。

「そういうことを言っているんじゃないんだけど・・・」

 阪神高速道路は夕方の混雑で、塚本ランプで降りて律ちゃんの家に着いたのは午後五時を過ぎていた。私は車から降りて律ちゃんの母と兄に挨拶をしてから帰った。お礼をしたいと言われたが「では今度美味しいものでもご馳走してください」と返事して、この日は引き揚げた。律ちゃんが膨れっ面をして睨んでいた。事務所へ向かう車の中で、美味しいものって何なのだろう、今度っていつのことなんだろうとぼんやりと考えた。

 

十五

 

 十一月になって最初の日曜日の夜、助手席に玲子を乗せて、私は名神高速道路を飛ばしていた。

この数日間、律ちゃんのことも含めて様々なことを考え続け、事務所でも自宅でも朦朧とした時間が過ぎた。こころの状態は、虚脱感と武者震いするような緊張感と、それらの状態から逃げ出してしまいたい恐怖感に襲われていた。私は夢遊病者のようになっている自分を叱咤し奮い立たせて、ようやく夜九時を過ぎて車の運転席に身体を滑り込ませることができた。

 玲子を迎えに寄ると、彼女はマンションの入り口で待っていた。車から降りて助手席のドアを開けると、玲子は無言のまま乗り込んだ。真っ白なワンピースを纏い、首に大きな黒真珠のネックレスを巻いていた。その姿は、これから儀式へ臨むこころの揺るがなさを意思表示しているように思えた。

 名神高速道路はこの夜、なぜか一台の車も走行していなかった。照明灯の下、私の車だけが空っぽの道路をひた走った。玲子は黙りこくったままひと言も発さず、フロントガラスから見える漆黒の夜空と、その下のヘッドライトの明かりだけをずっと見続けていた。

一宮インターから名古屋市内を突き破って東名高速道路に乗り換え、四日市で伊勢湾岸自動車道に入った。伊勢湾が眼下に見えたところで高速道路を降りた。いつの間にか日付が変わっており、時刻は午前一時を過ぎていた。

岸壁へ向かう道路沿いにある多くの工場は操業していなかった。太く長い配管が何匹もの長蛇のように工場に巻きついていた。岸壁が近づいてくると、いくつもの巨大なボイラーと夜空に突き刺さるように聳え立つ煙突が見えた。煙突から吐き出される赤黒い排煙が、星空をこれでもかと痛めつけるように焼いていた。そこは火力発電所だったのだ。

広いグランドや体育館などが見える総合運動場の横を抜けて、発電所沿いにさらに車を走らせた。発電所はまるで森の中にあるかのように、多くの緑の木々に囲まれていた。伊勢湾と森との間を直線道路が貫き、道路はこのまま伊勢湾の海の底にまで通じているかのように思えた。いくつかの巨大なタンクと煙突が間近に見え、それらを仰ぎ見て通り過ぎると岸壁に突き当たったが、そこは当然のように高い堤防によって海とは隔てられており、車をジャンプさせることなどできない状態だった。

やむなく左に折れて湾岸沿いをほぼ半周してみたが、火力発電所を囲む湾岸には車を海に突入させられる場所は見当たらず、私は落胆し焦った。だが今更何を躊躇する必要があるものかと、さらに車を走らせた。

助手席の玲子は黙ったまま、瞬きもせず前方だけをジッと見つめていて、その姿はまるで蝋人形のようだった。発電所を後方にして伊勢湾岸自動車道の下を潜り抜けると斎場があり、手前の海岸沿いに多くの漁船が並んでいるのが見えた。あと二時間もすればこれらの漁船は漁に出るのだろうか、私は小さな漁港の最も海に近い端に車を止めた。

目の前には真っ黒な海と漆黒の夜空だけが見えたが、その分かれ目さえ分からない黒だった。漁港の岸壁に立つ常夜灯だけが、ここが小さな漁港であることを微かに世に示していた。私は車のハンドルに顔を埋めてしばらく深呼吸をした。玲子は表情ひとつ変えず、目の前の黒を見続けていた。この位置から車を急発進させ、低い車止めを突き破れば伊勢湾にジャンビングアンドダウンできるのは間違いなかった。

「ここをサヨナラの場所とするか」

「綺麗な海ね。あなた、大丈夫なの?後悔しないのね、これでいいのね?」

 ようやく玲子が言葉を発した。抑揚のない静かな一本線のような口調だった。

「リョウ君が待ってるんだろ。早く行ってあげないと」

「そうね」

 玲子はバッグから睡眠薬の錠剤とペットボトルを取り出した。ブルーの錠剤を四錠だけ、アルミ包装を破って取り出し、二錠を私の手のひらに置いた。

「本当にいいのね。今ならまだ抜けられるわよ」

「そんなこと言わないでくれ。ひと思いに行くんだ」

「分かったわ」

 玲子はそう言ってから何の躊躇もなく錠剤を口に含み、ペットボトルの水を流し込んだ。彼女の喉が波のように動く様子を見て緊張感が私を襲った。これまで想像するだけだった光景が現実のものとなり、身体が震えだしたが、不思議と恐怖感はなかった。

「あなたも飲んで」

 手のひらの錠剤を口に放り込み、玲子から手渡されたペットボトルの水を流し込んだ。それから私たちは最後の抱擁と深く長いキスを交わし、惜しむようにゆっくりと唇を離した。

「眠くなったらサイドブレーキを外してアクセルを踏んで。絶対にためらわないでね」

 私と玲子は手を握り合ってシートに身体を凭れかせた。五分もすれば気だるい感覚と睡魔に襲われた。思考する能力がどこかに飛んだ。口を半開きにしたままの玲子の横顔は凄く綺麗だった。すでに眠っているようだったが、繋いだ手を強く握ってみると軽く握り返してきた。私はついに意識がなくなりそうになった。今、この瞬間しかないと思った。

「行くぞ」

「ええ」

 繋いでいた手を離してサイドブレーキを外し、同時にアクセルを思いっきり踏み込んだ。断末魔の叫びのような軋む音とともに車が急発進した。ガクンガクンと二度タイヤが踊ってから車はジャンプした。予測していたよりあっけないジャンピングだなと微かな意識の中で思った。いったん閉じた目を開くと、目の前には何も見えなかった。いや、見えていたのは遥か彼方まで続く漆黒の世界だった。意識が消えた。

 

十六

 

 目が覚めた。私は深い森の中にいた。見上げると、生い茂る針葉樹の隙間から陽光がいくつもの直線となって降り注いでいた。周りには道と呼べるものは見当たらないが、ジャングルのように天も地も隙間がないほどの緑で覆いつくされている森ではなく、森でありながらも仄かな暖かさを感じる、まるで手入れが行き届いた森林公園のようにも思えた。少し湿った草の上に立っている自分の足元を見て、ここが「海の底」ではないことをようやく認識した。玲子の姿が見えないが、どこへ行ったのだろう。ここは天国の森なのか、私はしばらく周りを見渡し、それから光が降り注いでいる方向へ歩いた。すぐに大きな池が見えた。ため池のような小さな池ではなく、遥か彼方まで永遠に続く光の池のようで、海かもしれないと思ったが、遠く果てには微かに緑が見え、ここが池であることが分かった。水面を雲のように大量の光が覆っていて、どこからが池なのかがはっきりと認識できないほどだった。

ふと視線を右に移すと、少し離れた池の畔に多美子が立っていた。どうやら私は死ねたようだ。多美子の姿を見て、嬉しさと懐かしさと安堵とが入り混じった大量の感情が一気に寄せてきて、私は踊るような気持ちで駆け寄った。多美子は昔出会ったころによく見せた純粋な微笑を浮かべて、近づく私の姿をじっと見ていた。多美子の前に立つと、彼女はそれまで微笑んでいた表情から、眉間に少し皺を作って困ったような顔に変わった。

「やっとたどり着いたよ」

 私はそう言って多美子の身体を抱き締めようとした。だが一瞬で彼女の姿は消えた。

「まだ来たらアカンって、アンタはどうしようもない人やね」

 その声に振り向くといつの間にかうしろに多美子が立っていた。彼女の声は木霊のように響き、まるで森全体からその言葉が聞こえてきたように思えた。

「何だって?」

「アンタはせなアカンことがまだまだいっぱい残ってるやないの。アンタを頼りにしてる人もいるみたいやから戻ったげな。アンタが私に謝りたいって思い続けてくれてたのは凄く嬉しかったけど、もう分かったから、あんまり自分を責めたらアカンで。私、もう怒ってないから安心して戻ってや。言うてるだけやと思ってたら本気みたいやったから慌てたわ、ホンマに困った人やわ。自分のことしか考えへんのは相変わらずやね。それとアンタ、女の人とエッチするのは別にかまわへんけど、ほどほどにしときや。あんまり調子に乗らんとき」

「なぜそんなふうに言うんだ、多美子」

「私の言うことをちゃんと聞いてや」

「そんなに怒らないで」

「怒ってへんよ、ここに来たら怒るっていう感情はないのよ。もうええから、帰りなさい。アンタが自然に私の元に来てくれるその日まで、ずっとずっといつまでも待ってるから。そやから安心して戻りなさい。もう二度とこんなことはやめてな。一回しか私も助けてあげられへんのやから、絶対にやめてな」

「一回しか助けてあげられないって、どういうことなんだ?」

「もう二度と自殺なんかしたらアカンで、しっかりしいや、アンタ。ともかくありがとう、降りられる時間が限られてるから、私は行くよ。ほな、さよなら」

 多美子は再び一瞬で消えた。私は周りを見渡した。シンとした音が森全体に木霊のように流れていた。シンシンシンシンシン・・・森全体には鳥や虫の音ひとつも聴こえなかった。降り立った元の位置まで駆け戻り、そこからもう一度光の海に向かって走りながら多美子の姿を探してみたが、どこにも彼女の姿は見えず、どんな優れた照明器具も比較にならないほどの強い光だけが森の天井から差し込んでいた。焦りと不安とに襲われ始めたそのとき、頭上が光り輝き、見上げると森を覆っている針葉樹の隙間から多美子の姿が見えた。多美子は眩しい光の中に浮かび、微笑みながら私を見おろしていた。

「ずっと見守っているから安心しなさい。しっかりせんと許さへんからね」

 森全体に響き渡る木霊がそう言った。それから多美子の姿は次第に小さくなり、そして消えた。

「多美子、俺も連れて行ってくれ!」

 涙が一気に溢れ出てきた。

「しっかりしなさい。私はいつまでも待っているから」

 多美子の声が再び響いた。私は子供のように声を上げて泣きじゃくり、涙で森が見えなくなってしまった。そして多美子の姿はもう現れなかった。意識が再び消えた。

 

 目が覚めた。今度は森ではなかった。どうやら私はベッドに寝ているようだった。視界には真っ白な天井と蛍光灯が見えた。しばらく記憶を辿ってみた。私は漁港の岸壁から車をジャンピングアンドダウンさせた。目の前には海ではなく漆黒の闇が見えただけだったが、確かに海に飛び込んだはずだ。助手席には玲子がいた。そうだ、彼女はどうしたのだろう?

「目が覚めたのね」

 その声は律ちゃんだった。「よかった」ともうひとりの女性の声がした。首を少しだけ動かしてみると、幸子さんもベッドの傍に立っていた。「無理に起きんで寝とれ」としわがれた声が聞こえた。父だった。「本当にどうしたん、あんた」と涙声が聞こえた。母だった。「兄ちゃん、気でも狂ったんの?」と少し怒った声がした。妹だった。家族の中では弟の姿だけが見えなかったが、私はどうやら死ねずに助けられて、この病院に担ぎ込まれたようだった。

「ここはどこの病院?」

「昨日は四日市の救急病院じゃったが、さっき大阪の日赤に移したんじゃ。お前、何しよんぞ?こがいなこと仕出かして、いったいどうするんね?困ったことがあったら、何でも遠慮せんと言えばよかろうが」

 親父がめずらしく怒った顔で言った。当然だなと思った。

「俺、どうなったんだ?」

「どうなったも何も、車の中にあった書類を見て警察から事務所に電話がかかってきて、幸子さんから私にも連絡がきたの。実家には警察から連絡が入ったんだって」

 律ちゃんまでもが怒った顔で言った。幸子さんはその横で涙ぐんでいた。

「俺の車、海に沈んだんだろ?」

「沈まなかったから助かったんじゃない。地元の漁業の方たちが漁に出る準備をしていたら、近くで大きな音がして車が海に飛び込むのに気づいて、すぐに消防署とかに連絡したんだって」

 律ちゃんが説明した。頭が混乱した。確かに車をジャンプさせた。だが睡眠薬で朦朧としたまま飛んだので、すぐに意識が消えたことは覚えている。玲子はどうなったのだ?

「助手席に女性がいたはずだが・・・彼女はどうなった?」

「女性?」

「お前、何寝たぼけたことを言いよんぞ。そんな人おらん」

 親父が呆れた顔で言った。

「小野さん、夢でも見てたの?ひとりだけだよ、ひとりで睡眠薬飲んで海に飛び込んだんでしょ?どうしてそんなことをしたのか、退院してからキチンと律子に説明してね」

 律ちゃんはまるで恋人みたいに怒りながら言った。ともかく私は無傷ですぐに退院できそうとのことだった。そして助手席には誰もいなかったと、助けてくれた漁港の方たちも警察に証言していたらしい。私の頭の中は混乱に陥ってしまった。朦朧としたこころの状態からようやく車に身体を滑り込ませたあの夜のことを、もう一度最初から分析しなければ、今のこの状況を理解できなかった。

 

十七

 

 二日後、私は退院した。その間、事情聴取のために警察官がふたり現れ、自殺行為に至った経緯と理由などを訊かれた。玲子という女性を乗せて名神高速道路から漁港へ到着するまでの経緯を細かく説明し、彼女が助手席にいたはずだと主張しても、追い詰められた心理からの妄想だと、まったく取り合ってもらえなかった。睡眠薬の袋とペットボトルが車に残っていたはずだ、そしてきっと彼女の指紋がついていると主張したが、いずれも無視された。

「漁港の方たちに訊いてもそんな人はいなかったと言っている。海底や付近を念のため捜索してみたが、その女性の存在を示すものは何一つ見当たらなかったんだ。あんたは睡眠薬の影響で幻覚を見ていたんだろう。よくあることなんだよ」

 そう言って彼らは私の訴えをとり合おうとしないばかりか、必死で主張する私に対して憐れみの目さえ向けてきた。警察官のあまりの堂々振りに、私は自分の主張が揺らぎそうになった。

だが、最後に玲子と交わした深く長いキスの感触が確かに唇に残っていたし、朦朧とする意識の中で彼女の手を握ったとき、軽くではあったが握り返してきた感触も消えてはいなかった。私が助け出される前に玲子は脱出したのだろうか?それなら漁港の人たちが気づいているはずである。あの夜の記憶を辿れば辿るほど、途中から果たして記憶が確かなのか不確かなのかが分からなくなってしまった。

 退院して自分のマンションに帰った。わずか数日部屋を空けていただけだったが、もう何ヶ月も帰っていなかったような感覚になり、まるで浦島太郎みたいだなと思った。何人かのスポンサーに電話をかけてお詫びをした。私のことは新聞記事にも小さく載っていたので、気づいた未亡人のスポンサーは「本当に大丈夫なの?何かトラブルにでも巻き込まれたのかと思ったわ」とたいそう心配したが、「あれは事故だったのです」と説明した。そうでないと事態は収まらない。数件の親しい顧客にも一応連絡を取った。

「どないしやはりましたんや?びっくりしましたがな」

 気遣いの言葉をかけてくれる客もいたが、記事を知らない客のほうが多かった。長い付き合いの鉄工所の大将などは、「釣りが趣味とは知りませんでしたな。今度一緒に船を出して、大物を釣りに行きまひょ」と、大いなる勘違いをしていたが無理もない、翌日から業務に戻ることを伝えて電話を切った。

 数日が経って、ようやく落ち着いてから、私は玲子の自宅へ電話をかけてみた。玲子は数回のコールのあと、何事もなかったかのように平然と電話に出た。

「久しぶりじゃない、どうしていたの?」

「は?」

 言葉も出なかった。彼女は何を言っているのだ。茫然自失の一歩手前の状態とは、このときの私を指していた。

「何度電話しても電源が入っていないか圏外ってアナウンスが流れるし、十一月の最初の日曜日って約束していたのに、やっぱり怖気づいたのでしょ。で、どうするの、仕切り直し?」

 玲子は言葉のあと「フッ」とため息を吐いた。それくらい彼女は私に呆れている様子が電話から伝わってきた。

「ちょっと待ってくれ。この前の日曜日の夜、確か九時半か十時前だったと思うけど、俺、確かにあんたのマンションの前で乗せただろ?」

「誰を?」

「誰をって、あんたに決まってるじゃないか。何言ってるんだよ」

「それ、ジョークよね、それともバツが悪いから演技しているの?ともかくどうするの、やめるのか仕切りなおすのか、抜けたいのなら抜けてもいいのよ、気遣い不要だから」

「すぐに会いたい」

「いいわよ、待ってるから」

 タクシーを飛ばして玲子のマンションへ向かった。伊勢湾にジャンピングさせた車は使い物にならず、新車を購入しなければならないが、先ずはこのミステリアスな事態を解明してからだ。

 玲子は普段と変わらず、昼間なのにカーテンを閉めきって、エスニックなフロアランプの灯りだけの薄暗いリビングの真ん中でファッション雑誌を読んでいた。

「無理に私に付き合わなくてもいいのよ」

 私を部屋に招き入れると、玲子は最初に言った。その言葉に答えず黙って座ると、しばらくして彼女はチャイというインドの熱い飲み物を、複雑な形をした茶の陶器のカップに入れてテーブルに出した。

「あの夜、確かに新御堂筋を飛ばしたんだ。途中であんたに電話を入れてマンションに着いたら、入り口まで出てきてくれていた。白く長いワンピースを着て、黒真珠の大きなネックレスをしていた」

「ふーん、幻想的な女性ね」

「からかわないでちゃんと話してくれ。警察や助けてくれた漁港の人たちもあんたの姿など最初からなかったと言っていたが、車が海に落ちてからどうやって脱出したんだ?しかも誰にも気づかれずにその場から消えて、ここに戻って来られた手段と経緯を説明してくれ。俺は警察や助けてくれた人たちから、さんざん馬鹿にされたんだからな」

「だから、私は行ってないって。あなた幻覚を見ていたのよ。でも幻覚だけで大阪から、その・・・どこの海だった?」

「伊勢湾じゃないか」

「私は行っていないし知らないんだから、そんな言い方しないで。ともかく幻覚に襲われただけでそんな遠くまで車を走らせて、それから海に車を飛び込ませるなんて、そんなことあり得るかしら?」

「知らないよ。あり得るもあり得ないも、実際俺は自殺未遂をやってしまったんだ。助手席にあんたを乗せてな。さあ、もうこれくらいでいいだろ。事実を話してくれ。飛び込んだ瞬間から俺が助けられるまでの間、どうやって車から出たんだ?」

 私はあの夜のことを、おさらいでもするかのように玲子に順を追って話をした。伊勢湾に向かって車を走らせたことや、発電所の巨大なボイラー、夜空を焼いていたいくつもの煙突の恐ろしい光景、工場に巻きついた長蛇のような太い配管、そしてそれほど大きくない漁港に着いて、睡眠薬を飲み、一気に車をジャンプさせたことなどを細かく伝えた。

玲子は「行ったこともない場所の情景を言われたって分からない」と答えるだけで、会話は堂々巡りを繰り返し、私のことを幻覚に襲われた末の単独行為だと言い張った。だが、海に飛び込む前の玲子との深く長いキスや、軽く握り返してきた彼女の手の感触が今もなおはっきりと残っていて、彼女の主張を素直に肯定できるはずもなかった。

「あなた、私に付き合うプレッシャーでおかしくなってしまったのよ」

「違う、俺は確かに車を海にジャンプさせたんだ。新聞にも小さく載った。ほら、これがその記事なんだ」

 記事の部分だけを小さく折りたたんだ新聞を見せると、玲子は私の手から奪い取るようにしてじっと見た。彼女の目が次第に険しくなり、そして私の顔を正面から見た。

「あなた、幻覚を見ながらこんなことしてしまったんだわ。なんてことなの、可哀相に。そんなに奥さんのところに行きたかったのね」

「幻覚なんかじゃない、本当のことを言ってくれないか。君はあの夜、どうやって脱出したんだ?」

 玲子は首を横に何度か振って、そして下を向いて涙ぐんだ。

「私は本当にあなたの車には乗っていないのよ。何度も電話したの、一度や二度じゃなく、何度も何度も、十回も二十回もかけたのよ。でもあなたの電話は通じなかったわ。ね、信じて、あなたはあの夜誰も乗せずに海に向かって、そして飛び込んでしまったんだわ。でもいったいどういうことなのかしら?あなた、何かに追い詰められて、精神的におかしくなっていたのよ。きっとまぼろしを見て・・・」

「やめてくれ!」

 伊勢湾に車をジャンピングさせた。だが車が沈む前に漁港の人たちによって助けられた。助手席にいた玲子は消えた。だが、助けてくれた人たちの証言や警察の調べでも、助手席には誰もいなかった。玲子は車には乗っていないと言う。私の携帯に何度かけても通じなかったと言い張っている。玲子の言葉に嘘はないとしたら、私はいったい何にとりつかれて、何を見て、何を追って海に向かったのだろう。

 もう考えないことにした。多美子と会ったあの森、この世に絶対に存在しないあの劇的に明るく永遠の海のような光の池、あの場所こそが本当は現実の世界であるかのような感覚に陥った。複雑な気持ちではあったが、多美子に会えて本当によかったと思った。多美子と会ったあの時間は幻覚ではないはずだ。

「帰るよ」

 目の前の玲子は変わらず魅力的ではあったが、今夜は抱きたい欲望は微塵も起きず、キスさえしようとも思わなかった。お互いの共通の念がある種の絆に思えて、この世との終わりにしようとふたりで決めたのに、今私が玲子に抱く気持ちの中に、もうその念は存在しなかった。

「仕切り直さないの?」

「分からない」

 私は立ち上がり、靴を履いてから振り返った。だがそこには玲子の姿はなく、リビングの平テーブルの上に置き去りにされたようなふたつのカップが、まるでレンガ造りの建造物が崩れ落ちたあとの瓦礫のように映った。

 

十八

 

「今日は絶対に約束を果たしてね」

 玲子と会った数日後、私は律ちゃんと新阪急ホテルの地下のレストランにいた。退院祝いと海からの脱出祝いをしてやると彼女が提案してきたから、それに素直に甘えたのだ。

「律ちゃん、そんな約束はずっと憶えていなくてもいいんだよ。君はまだ若いから、これから素敵な男性がきっと次々と現れる。俺なんか冴えないつまらない奴だったって、きっとそのうち思うって」

 私は正直な気持ちで言った。

「小野さん、いい加減に約束は守って。手形だって約束を守らなければトラブルになるんでしょ」

 律ちゃんは強い口調で言うのだった。約束手形を例に持ち出すのはおかしいと思ったが、私は彼女の強い口調に、「分かったよ」と返事をしてしまった。食事を終えてから、律ちゃんに腕を取られて福島のマンションへ帰った。そして約束を果たした。

「律ちゃん、もしかして初めて?」

「当たり前だよ、前にも言ったじゃない。何も知らないんだからって」

「マジかよ、俺が最初の男なんて、そんなことあり得るか?」

「こんなときにバカなこと言わないで」

 私の胸の下には律っちゃんの白い胸のふくらみがつぶれていた。

「本当にこれでよかったんだな?」

「どういうこと?」

「だから俺とこうなることがだよ」

「もう何回も訊かないで。律子はおとななんだから」

 私はこれでよかったのかどうか、よく分からなかった。多美子の元へ行こうと車をジャンプさせたあと森の中に佇んでいた。多美子が現れて、まだここには来るなと私を叱った。

「アンタはせなアカンことがまだまだいっぱい残ってるやないの。アンタを頼りにしてる人もいるみたいやから戻ったげな」

 多美子は困ったような表情でまだ来るのは早いと私を嗜め、いつまでも待っているから安心しろと言った。そういえば多美子は「もうこんなことはやめてな。一回しか私も助けてあげられへんのやから、絶対にやめてな」と言っていた。海からの救出を助けてくれたのか、或いはもしかして、この世との決別の決行に踏み切る前に、多美子は私を幻覚に導いて、すべてをコーディネートしたのかも知れない。玲子と約束の日の夜に会う前に、未然にすべてを手配したのではないか?それが彼女の「一回しか助けてあげられへん」という言葉の意味だったのではないか?

「多美子、君は本当にこれでよかったんだな。俺は律ちゃんとこれから先、二十年も三十年も生きるかもしれないぞ。それでも待っていてくれるんだな?」

 腕の中の律ちゃんを抱き締めながら、こころの中で多美子に問いかけた。

「どうしたの、小野さん」

「うん?何でもないよ」

「ときどき辛そうな顔をするのね。何か嫌なことがあったら、これからは律子に言ってね」

 私は律ちゃんの身体をさらに強く抱きしめた。これからは彼女を守り続けよう。それがきっと多美子が私に望んでいることなのだろうと思った。

「律ちゃん、すごく愛しているよ」

 律ちゃんは苦しそうに頷いた。荒い息が寝息のような呼吸になるまでにずいぶん時間がかかった。

「赤ちゃんできたらどうしよう」

 ようやく目を開けて律ちゃんは呟くように言った。

「産んだらいいに決まってる」

 律ちゃんの目尻から涙の粒が流れ落ちた。

「律ちゃん、俺は来年あたり時期を見計らって金貸しをやめようと思うんだ」

「そうなの。それで今度は何をするの?」

「闇金でもやろうかなって思っているんだよ」

「ええっ?」

 律ちゃんは大きな瞳をクルクル回して驚いていた。

「嘘だよ。実は前から少しずつ勉強しているんだけど、何か法律に関わる資格を取ってね、今の事務所とは違うまともな事務所を出そうと考えているんだ。金貸しは七代祟るって言うからね。俺の子供がもし将来産まれたとして、その子に祟りがあっては困るから」

「今の事務所だってキチンとしてるじゃない。でも小野さんが考えていることに私は反対なんかしないよ、いいと思う。でもね、金貸しは七代祟るじゃなくて、それは坊主殺せば七代祟るって言うんじゃない?小野さんってときどきおかしなことを言うよね」

 律ちゃんは呆れた顔で言った。私は律ちゃんが間違っているような気もしたが、自信が無かったので黙った。

「律ちゃん、ほら、ベランダの向こう側を見て」

「なあに?」

「福島駅のホームの向こう側にマシュマロマンが立っているだろ。彼、今夜はこっちを向いて手を叩いているよ。おかしな奴だな」

 私は勿論酔ってはいなかった。でもマシュマロマンが消えては現れ、それを何度も繰り返していた。そのたびに彼は肉付きの良い厚い両手を胸の前でパンパンパンと拍手していた。私にはそれがはっきりと見えた。

「バカみたい、見えないよ、そんなお化け」

 律ちゃんはベランダを見続けながら呟くように言った。マシュマロマンは叩いていた手を今度はグッドジョブに変えた。

「ともかくこれからよろしく頼むよ」

「分かった、頼まれてあげる」

 律ちゃんは勝ち誇ったように言った。律ちゃんと結ばれてから、あらためて伊勢湾へジャンプしたあの夜のことを思い起こしてみた。漁港へ辿り着くまでの経緯や、天空の森の中で再会した多美子のことや、海に落ちる直前の目の前の漆黒などを・・・。だが不思議なことに、私の記憶のディスクの中にあるファイルが一部分だけ欠損してしまったかのように、それらのことを鮮明には思い出せなかった。

 

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 ※東予市は二千五年に対等合併により西条市となっている。

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