BGM:Koibito(うるさければ音量を下げるかミュートで消してください)

 梅田スペース1マンション 

 エピローグ


 年も明けて正月気分もすっかり抜けたころ、俺は年末年始の間、ある年と同じように、京都市内の安いビジネスホテルで過ごした。

 十二月は雪が降らなかった京都だが、年が明けるのを待っていたかのように、一月三日の夜から降り始め、京の街はあっという間に真っ白な雪化粧になった。

 生活を東京に移して長いが、ようやく二、三年前から大阪での昼も夜もわからなかった暮らしをゆっくりと思い出せるようになってきて、一度休みを利用してそのころの足跡をたどってみようと考えていたのだ。

 ホテルの前の四条通を西へ歩き、西大路通りを越えて少し行くと四条大宮駅がある。阪急特急に乗って梅田まではすぐだ。俺は仕事が休みになった十二月二十八日の夜、帰省客で込み合う新幹線で京都に着いた。そして翌日の昼過ぎには梅田のスペース1(ワン)マンションの入り口に立っていた。

 マンションを引き払ってから随分となるが、外観はちっとも変わっていなかった。管理人室の窓は閉まっていてカーテンが垂れ下がっていた。

 ついこの前まで住んでいたような錯覚に陥る。コートのポケットに両手を突っ込んで、視線を少しずつ仰ぎ見ると、俺の部屋だった603号室のバルコニーの張り出しが見えた。あそこから素晴らしい月を眺めることができたのだった。

 様々な出来事が一気によみがえってきた。


 ・ 入居 その一


 「お前、保証金の半分の十五万円でエエからな、安うしといたるわ。金はいつでもエエで、それでいつから使うんや?」

 川本氏から一方的な電話がかかってきたのは、俺がまだ金融会社を辞めるかどうしようかを迷っているころだった。俺は自分の意思に反して四年ほど前から企業融資専門の金融会社に勤めていた。

 大学を出たら、得意な英語を生かして高校の英語教師になりたいと思っていたのだが、どこでどう間違ったのか、最初の就職先が金融関係、そして次に勤めた企業も同様だった。

 ただ違うのは、今の金融会社がいわゆるヤクザ金融という点だ。ヤクザ金融といっても暴力金融ではない。法定利息は当然守るのだが、いざ揉め事が起こるとその対処が荒っぽいということである。

 川本氏は俺に金融業のノウハウを教えてくれた恩師とも言える人物だが、いつも強引なのだ。その強引さが、彼が金融業で成功している所以なのだが、時には辟易することもある。

 「いえ、その・・・、まだ決めてませんけど、四月からがちょうどいいかと・・・」

 「四月からってお前、まだ一ヵ月半以上もあるやないか。ともかく三月からの家賃はお前で頼むぞ。振込先は今度飲むときに教えるからな。ほな、そういうことでな。週末金曜日にいつものところで飲んでるから来いや!」

 今のヤクザ金融会社を辞めて、自分で小さな金融業をやってみようと思ったのは、ほんの数ヶ月前のことだった。きっかけは、自分が抱える客と、勤め先の社長との板ばさみ。

 融資のオファーがあっても社長が「アカン!やめとけ」と言えば断らなければならない。自分としては貸しても大丈夫と自信がある案件でも、いとも簡単に拒否されてしまう。

 審査の要件などはなく、社長のいわゆる「勘」で決められてしまうのだ。そんなことであれこれ悩むなら、客の申し出を自分で決めてやろうと考えたわけである。


 梅田スペース‐1マンションは大阪のいわゆる「キタ」にあたるが、北新地や曽根崎、堂山にも入らない兎我野町のはずれに位置している。周辺には飲食店や風俗店が多いが、南側は国道一号線がすぐ近くであり、ビジネス街に隣接しているともいえる。

 初めて梅田スペース1(ワン)マンションを訪ねたのは半年ほど前だ。

 「今度梅田に事務所を出したよってな。お前、いっぺん見に来いや。どうせ今夜暇やろ?仕事終わったら来いや。待っとるからな」

 夏の暑さも遠のいて、風がずいぶんと涼しく感じるようになった九月初旬、川本氏から連絡があった。教えられた場所は関西が本拠地のTV局のすぐ隣に位置していた。白亜の高層マンションが夜の帳を突き破ってそびえ立っていた。

 それが最初に見た梅田スペース1(ワン)マンションであった。


入居 その二


 その年の師走は、昭和天皇の病状が連日新聞紙面のトップで報じられていた。

 一方では、国民の多くが数年前からの贅沢な暮らしに何の疑問も持たずに踊っていた。いわゆるあとで分かることになる「バブル景気」であった。

 俺は自分の持っている顧客の越年資金や受取手形の急ぎの割引依頼などを慌しくこなし、勤め先の審査が通らなかった案件で、自分が懇意にしている客の資金繰りにも協力してやった。

 貸付の際に担保として受け取る自己手形は、川本氏や他のスポンサーへ再割りして資金を回し、十二月だけでいわばアルバイト的な収入だけでも100万円近くを稼いだ。

 年が明けて一月七日に昭和天皇陛下が崩御され、年号が平成と変わったのだが、二月二十四日の大喪の礼までは、国民が喪に服さなければならない雰囲気があった。


 川本氏から梅田スペース1(ワン)マンションを引き継いだのはこの頃だった。

 「遅いやないか、お前。まあええ、外は寒いやろ、熱いの一杯いけや」

 川本氏があわただしく俺のお猪口に熱い酒を注ぎながら言った。大阪駅のガード下にある「初音」を覗くと、すでに川本氏はご機嫌な状態に出来上がっていた。

 サラリーマンが気軽に立ち寄れる飲食店がひしめき合っているガード下の店の中で、この「初音」はいつも混んでいない。理由は比較的料金が高めだからだ。

 十席足らずのカウンター席しかない小さな店だが、二十代後半の若い板前が食材にこだわっていて、いつもその日お勧めの新鮮な魚介類を用意している。金に少しゆとりのある客が常連になっている店であった。

 「四月から部屋を使うのはいいけど、金は三月分から払えよ。ここが家賃の振込先や」

 川本氏は一枚のメモを渡しながら言った。メモには不動産屋の口座番号などが書かれていた。普通は契約者が変われば、保証金が改めて必要なのだが、梅田スペース-1の管理をしている不動産屋と川本氏は知り合いだったので、今回俺に便宜を図ってくれたというわけだ。

 「それでお前、資金はどれ位貯めたんや?」

 「ええまあ、それなりに頑張って貯めましたけど・・・」

 「去年はかなり儲けたやろ。なんぼ金持ってんねん?」

 いつものように個人的なことを遠慮なしに聞いてくる人だが、もうこの人のあけっぴろげな性格には慣れてしまった。ただ仕事となると、別人のように細かい配慮と客へのシビアな視線を見せるのだ。

 今の金融会社に身を置いて二年位経ったころから生活もずいぶん楽になり、世間相場に比べて破格の待遇をしてくれている社長には感謝している。

 小遣いを少しずつ貯めながら、審査が通らなかった客の融資案件を、親しくなった同業者に振って手数料を稼ぐことも増えてきた。いわゆる金融ブローカーのような仕事である。

 そしてこの川本氏にも随分と手形の再割りをしてもらっていたので、俺のアルバイト的な収入がどれくらいかは大体分かっているのだろう。

 彼は三年ほど前からある上場企業の事件に関与していて、毎月数百万円の利益を得ていた。その流れで、多い月で三千万円、少ない月でも二千万円近くの受取手形の割引依頼が俺に来た。

 手形はすべて上場企業か優良企業のものだったので、勤務先の社長も喜んで割引を実行し、俺は毎回紙袋に大金をつめて心斎橋の日航ホテルまで持っていった。ボストンバッグなどに詰めると、かえって狙われるからだ。

 取引はキャッシュオンデリバリーで、ホテルの喫茶室にて川本氏と一人の中年男性が待機していて、あらかじめ分けておいた金を受け取ると、その男性は「ではまたよろしく頼みます」とだけ言葉を残して帰って行くのだった。

 川本氏には毎回300万円〜500万円の金を別の紙袋に分けていたので、それが彼の取り分だと思われた。そしてその中から俺に三十万円程度の謝礼をよこすのだった。

 日航ホテルでの取引が、月に2度行われることもあり、そんなときは川本氏からの謝礼だけで五十万円以上になった。

 「お前もイッパシの金貸しになったもんやな。顔は金融屋には見えんが、立ち居振る舞いは立派なヤクザやで」

 彼は酔った勢いで滅茶苦茶を言うのだった。

 手持ちの開業資金はわずか七百万程度しかないが、川本氏や他のスポンサーの協力を得て、おそらく金融業として小さいながらも営めると、俺は自身のようなものを感じていた。

 そして梅田スペース1(ワン)マンションの603号室を明日からでも使えるのだ。
 少し酔いが回ってきた頭で、「絶対に儲けてやる」と、自分に無理に言い聞かせるように思うのであった。


 入居 その三


 前勤務先の上司であった川本氏は、実は数ヶ月前に大阪市北区の中崎町というところに事務所を借りていて、梅田スペース1マンションと両方を賃借していたが、殆どを中崎町の事務所で業務を行っていた。

 俺が近いうちに独立するだろうと思って解約をせずにいてくれたわけで、彼の優しさ、面倒見の良さを感じるのであった。前の職場でも、ほぼ毎日のように仕事が終われば飲みに連れて行かれたのだが、彼の強引さに対しては決して嫌な気持ちにはならなかった。

 川本氏は常々俺に、「客と親しくなる必要はあるで。親身になって相談に乗ってやることも大切や。距離を置いていたら客は決して本音を喋らんからな。そやけど全面的に客を信用したら痛い目にあうで。イザという時、客は裏切るに決まっとる。それは人間関係に金が絡んできたら仕方のないことや。まして俺らは高利貸しやで、客は本音を言うはずがない。俺らは商売の利益が飛んでしまう位の高利を取ってるんや。客の裏切りを責められへん。人間の本性なんやからな」と、客を絶対信用するなと何度も説くのであった。

 一方では、「銀行員なんかは中小企業のことなど屁とも思っとらん。あいつらは穴を開けたら出世に響くから、積み立ての勧誘に回りながら、財務内容に問題のない会社に融資しますと勧めよるんや。そんな金貸しは誰でもできる。藤井よ、俺らは違うで。俺らは困っている会社に金を貸すんや。それも担保みたいなものはないんやで。俺らこそホンマの金貸しなんや。客に深入りせん範囲で客のことを考えたれや」と、銀行員を毛嫌いし、人情味のあることを言うのであった。

 俺より7歳年上の川本氏は高校を卒業後上場企業に入社し、システム関係に従事したが、大卒者の後輩に待遇や昇進を追い抜かれるなど、実力無視の学歴偏重の理不尽な経験があったので、このような見方になるのはやむを得ないと思った。

 実際、銀行は自分本位の金融業のようにも思えた。それは客から大切な金を預かっている業務上当然かもしれないが、決して危ない融資は行わない。それでも多額の焦げ付きを抱えて政府のお助けを乞う大手銀行を見ていると、何をやっているのだと思う。

 川本氏からこのような忠告を常々言われてはいたのだが、実は会社の審査が通らなかった融資依頼を、自分の裁量で実行してやった客に、俺は既に一度やられていた。俺と同年齢だったので親しみが持てたし、真面目な風貌からある青年社長を信用してしまったのだった。

 実際、真面目な人間で、朝早くから夜遅くまで働いていた。従業員を7,8人使って産業機械の加工を行っていたが、昼間は取引先を駆け回り、夜は従業員と一緒に旋盤の前に立っていた。

 これほど働いているのになぜ資金繰りが悪いのか、「こんなに仕事が忙しいし、次々注文が来ているのになぜ儲からないのか?」と俺が何度聞いても、辻本という青年社長は本当のことを言わなかった。

 この会社の慰安旅行にも呼ばれて参加した。招待された取引先の担当者も彼を真面目で一生懸命だと褒めていた。二人でよく飲みにも行ったが、彼はウイスキーをゆっくりなめながら、会社を大きくしたい希望を物静かに語るだけであった。

 俺には何度も何度も、当日の決済資金や従業員の給与資金を助けてほしいと依頼してきた。なぜそんな緊急を要する資金がたびたび必要なのだと問い詰めても、彼は答えなかった。

 そして彼の会社がついに破綻する前日、俺は彼と深夜まで飲んだあと彼の家に泊まった。そこには彼が決して話すことがなかったある事情があったのだ。それは彼がいくら仕事で稼いでも追いつかない致命的な不幸があった。

 酔っ払って夜遅くに夫が連れてきた俺に対し、彼の妻は愛想良く接してくれて、明日会社を飛ばすことになった夫にも何の文句も言わず穏やかだった。奥の部屋で子供が泣いたので、抱いて連れてきた時に俺はすべてを理解して衝撃を受けた。

 彼の一人娘は重い肝臓病だったのだ。三歳になる娘はまるで赤ん坊の体躯しかなく、顔はどす黒く目は黄ばんで黄疸がひどい状態だった。

 「娘は発育不全と肝臓病なのですよ」

 妻は少し微笑んだ顔で言った。すでに大きな悲しみを一切合財消化してしまったようなマリアのような表情に感じた。

 肝臓移植には渡米する方法があるが、当然莫大な費用がかかるため現実的に不可能で、せめて毎日病院で点滴治療を受けて体力を保持しているとのことだった。その費用が彼の会社の利益を吸い取っていた。零細企業は社長の個人企業と何等変わらない。会社の利益を使うのはそこの社長の勝手であるとも言える。

 「しょうがないだろう、いったん途中下車してやり直せよ。この子のためにも絶対にやり直さなアカン」

 俺はそういうのが精一杯だった。

 そしてその会社は翌日倒産し、そのあといろいろあったが、結果的に俺は少し融資した金をやられた。だが、そんな金に対しては何の後悔もなかった。
 残ったのは、彼が致命的な事情を最後の最後になるまで俺に語ろうとしなかったことである。

 「俺らは高利貸しや。客は本音を言わん」という川本氏の言葉を思い起こし、どうしようもない寂しさを感じたものであった。

 さて、年明けに注文をしていたソファーや机や椅子と少しの備品が搬入され、いつでも梅田スペース1マンションで開業ができるが、まだ俺は退職願を出していなかった。

 退社後は個人的な取引客のためにここに来て、融資の相談や貸付を行っていた。いわゆる二束のわらじ状態であった。

 しかしいつまでもこのまま躊躇しているわけにはいかない。寒さも和らいだ三月半ばになってようやく勤務先の社長に退職を申し出たのであった。


 最初の訪問者 その一


 「まあ頑張れや。何か困ったことがあったら、遠慮せんと言ってこい」

 ようやく退職届を提出した俺に、少し顔をこわばらせながらも、社長は意外にも優しい言葉をかけてくれるのであった。

 この社長には随分と世話になった。嫌な面もたくさんあったが、言葉で言い尽くせないくらいの感謝の気持ちを持っている。

 直接的には、金銭面で破格の待遇を受けたし、慰安旅行で初の海外旅行も経験させてもらった。年始の挨拶に従業員たちと一緒に伺えば、子供がいた俺だけに「おい藤井、息子らにやったらんかい。お前が使うたらアカンぞ」と年玉をくれた。ポチ袋の中をあけてみると、驚くような金額が入っていた。

 競争率が高い幼稚園に長男が入園を望んだ時も、知り合いの右翼の人物へ手を回してくれて、無試験ですんなり入れたこともあったし、実父が交通事故に遭った時も、こちらに非があったにもかかわらず、示談金をふんだくってくれるなど、俺には到底できそうもないことを簡単に、しかも何事もなかったかのよ
 うに行ってしまうのであった。

 間接的というか仕事上では、金融業というものの厳しさや、手形が不渡りの際や融資先が倒産した場合など、トラブルの対処方法などを教えられた。

 基本的には客から確かな担保を取っていないことが多い街金業者は、トラブル時は迅速な行動と多少の荒っぽい行為は必須とさえ思うようになった。善後策を考える時間があれば、即行動に出た方が賢明なのだ。

 「辞める日はいつでもエエ、お前が決めろ」と社長の言葉に甘えて、急だったが三月末に退職した。


 さて何事にもけじめが大切だ。四月一日を開業日と決めていた俺は、退職した翌日から事務所に出た。

 持っていた顧客五十数件のうち、古くからの十数件の客にはすでに数日前に電話での挨拶を済ませていた。オファーを求める類の言葉は一切客には伝えず、「若輩者ですが、自分で仕事をすることになりましたので、以後お見知りおきを」と、渡世の仁義の言葉を伝えた程度で切った。

 最初から仕事が入るとは思っていなかったので、朝はゆっくりと出て事務所に着いたのは九時をかなり過ぎていた。ところが電話機を見ると、伝言メッセージランプが点滅していた。

 「藤井さん、独立おめでとうさん、石田です。手形二枚割ってくれるかな、急がへんけど」

 ややしわがれた声は協和電装の石田社長からだった。

 この社長とは最初に勤めた金融会社のころからの付き合いで、かれこれ五年あまりになる。元々大手の電気設備会社に技術者として勤めていたが、三十歳半ばで独立したらしい。

 俺が最初に彼の仕事場を訪れたのは、この業界に入って飛び込み営業を行っていた駆け出しのころ。事務所とは名ばかりの長屋風の老朽化した建物で、彼はたった一人で変圧器の配線を行っていた。

 「繋ぎ資金や手形割引の御用はございませんか?」と、しゃがんで作業を行っている背後からいきなり俺が声をかけたので、「びっくりするやないか。それで何?この俺に金を貸してくれるんか?」と人懐っこい顔で笑った。

 それからの付き合いで、大体三ヶ月に一度の割合で、大手電気設備会社からの受取手形を二百万円から三百万円程度、割引依頼してくるのであった。

 俺が客から「一度酒でも飲もう」と誘われたのは、この協和電装の石田社長が最初だった。「中崎商店街」というわずか二百メートル程のアーケード商店街が彼の事務所近くにあり、その通りの一軒の居酒屋でよく飲んだ。

 「藤井さん、この店の裏通りに俺の別れた嫁の実家があるんや」

 ある夜、彼は日本酒を喉に流し込むように飲んで、コップを静かにカウンターに置きながらつぶやく様に言った。

 「一人娘がいるんやけどな。別れた嫁が引き取って実家に連れて帰りよったんやが、その実家が裏通りにあるんや」

 「それならすぐ近くだからいつでも会いに行けるじゃありませんか」と俺が言っても、「いろいろあって嫁の実家には入れんのや。そやからせめて近くで仕事をしていたら、偶然娘に道で会うこともあるやろと思うてな」と苦笑いするのだった。

 「それで娘さんと会えましたか?」

 「いや、今の事務所に移ってきて4,5年になるけど、一度も見かけてないよ。でもな、知人を通じて娘の情報は耳に入ってくるんや。今年小学校六年生になるんやが、元気に学校へ通ってるらしい。俺は会えなくてもな、近くにいるだけで心が休まるんや」

 離婚した原因は酒と女と言っていた。今は女を断っているらしいが、余程奥さんを怒らせたのだろう。復縁は絶対に不可能だとも語っていた。

 最初は一人で細々と配線加工を行っていたが、今は4人の従業員を雇用して、少しずつだが商売も伸びている様子であった。酒に酔うと俺に「藤井さん、浮気はいいが本気はアカンで。俺は後悔してるんや。娘に会えんようになったことがなあ」としみじみと嘆いた。

 このころまだ家庭を維持していた俺は、子供に会いたくても会えない事情を聞いて、同情のような気持ちを抱いた。

 しかし彼は酒を飲みながらも、「娘の中学校や高校入学には父親として何かしてやらなアカンから、もうあとはないと自分に言い聞かせてるんや」と、会えない娘を励みにしている確固とした姿勢を垣間見るのであった。

 
 初日はこのあと、摂津市で鉄工所を経営している俺の最も古い顧客で「イチイ工業」の社長からも受取手形の割引依頼をもらい、午後からは川本氏が「祝儀代わりに一千五百万円程、上場手形を割り引いてくれ」とオファーがあった。

 これらを電話で確認し、明日以降実施する段取りだけ終えて、夕方ようやく一息ついてコーヒーをいれた。ワンルームの手狭な事務所だが、住居にももちろん使えるマンションなので、ユニットバスと簡単なキッチンがついている。

 ガスは通っていないが電気コンロで調理をすることも可能だそうだ。だが料理まではおそらくすることはないだろう。

 ベランダは北向きで日差しはほとんど入らないが、北隣のビルが低層なのでかなり遠くの雑居ビルやラブホテルなどが見渡せた。狭いが小さく業を営むのにはちょうどよい事務所である。

 この日は予測しなかったオファーがあり、うれしい開業初日となった。だが、この部屋を最初に訪ねて来たのは仕事とはまったく関係のない一人の女性であった。



 最初の訪問者 その二


 四月一日の開業の日の夜、そろそろ一杯飲んで帰ろうかと思っていたところにインターフォンが鳴った。早速新聞の勧誘かNHKが来たかと、少し面倒な気持ちでドアチェーンを外して開けてみると新保里香が立っていた。

 「どう?順調?」

 里香は少し顔をこわばらせて言った。

 「順調と聞かれたって、今日が事務所開きみたいなものだからね」

 片手でドアノブを持って半身のままの状態で、俺はわざと面倒くさそうに答えた。

 「あっそうなの・・・」

 ドアの向こうに突っ立ったまま、居場所が悪そうな表情を浮かべる里香。連絡もせずにいきなり訪ねて来たことに、少し後ろめたさを感じているのかもしれない。

 「ところで仕事は終わったの?」

 俺が部屋に招き入れないことに明らかに当惑した表情で、仕方なく言葉を出したという感じだった。

 「いや、もう終わりだけど。じゃあ今出るから、悪いけどちょっとそこで待ってくれるかな」

 事務所にすんなり入れるのは気が進まなかった。あくまでも仕事とプライベートをはっきり分けたい俺は、里香にはあまり仕事のことは話さなかった。だが事務所を開いたことを隠す必要はなく、場所はメモに書いて渡していたのだ。

 今日は初日だから、里香としては特別な日と考えて、俺にとっての彼女の立場を示す意味でも不意に訪ねて来たに違いなかった。

 新保里香と俺との関係は、もう四年余りになる。昨日まで勤めていた金融会社に彼女が入社してきて、いつの間にか男女の関係になっていた。物静かで地味な性格が服装にも表れていて、白や黒或いはグレー系の服しか身に着けず、比較的小柄で細い体を意識的に小さくするように、いつもうつむいて歩いていた。

 そのころ二十代前半だったが、若い女性にあるドライで奔放な雰囲気などまったく窺えず、何か翳を(かげ)を感じたので常に気になっていた。そして社内に保管されていた彼女の履歴書から連絡先電話番号をこっそりメモして、数日ためらったのち思い切って食事に誘ったのが最初だ。

 「どうして私の電話番号が分かったのですか?」

 新保里香は、いきなりの俺の電話に特に驚いた様子もなく、いつものように物静かな口調で聞いてきた。

 「申し訳ない。どうしても君と仕事以外のところで会いたかったから」と俺はストレートに言った。そして翌日の夜にはテーブルを挟んで向かい合う俺と里香の姿があった。

 金融業というシビアな仕事に就いていると、オフの時間は神経を弛緩させる必要を感じるものだ。金貸しに限ったわけではないかもしれないが、その手段を男は酒に頼ることもあれば女性関係に見出すこともあるのだ。

 里香とは深い関係になってからも、これまで二人で旅行に行ったことはなく、めったに外食をすることもなかった。彼女が同じ職場に勤めている間は同僚の目もあったので、仕事が終われば彼女のアパートへ行き、慌しく気持ちを確かめ合って、深夜妻子のいる自宅へ帰った。彼女が仕事を辞めてからは、時には外食をしてアパート以外の場所で現実逃避の時間を享楽することも増えた。

 二十七歳になる里香は、妻がいる俺との先が見えない恋愛に一度も不満を言わなかった。俺の都合に合わせた、自分勝手な付き合い方に、彼女は何一つ文句を言わず黙って応じてきた。

 九州女性の我慢強さと芯の強さの両方を兼ね備えた女性で、俺は彼女に対していつも悪いと思いながらも改めようとはせず、未来を提示することもない身勝手な関係を続けていたのであった。

 「中がまだ片付いていないから、入ってもらえないんだ。ごめん」

 「大変ね。私にできることがあったら言ってね」

 マンションの六階の廊下は、四月初旬といってもまだ冷える。十数分外で待たせたことに、心の痛みが一瞬刺さった。

 開業初日は里香と事務所近くの居酒屋で少し飲み、男女を引き寄せるネオンサインが踊っている兎我野町の一軒のホテルに入った。

 「どうしたの?今夜はいつもと違う。そんなに無茶しないで」

 俺は仕事に対しての自信と不安が交差する脆弱(ぜいじゃく)な気持ちを、里香に体を激しくぶつけることで安心を得たかったのかも知れない。里香の細い体が折れてしまうほど、俺は無意識に荒々しく抱きしめていた。

 里香を家まで送って行ったあと、深夜の新御堂筋で車を走らせながら、この先俺に関わるあらゆることが、この道路にように一直線には進まないだろうなと、他人事のように醒めた心で思うのであった。この醒めた心はこの先もずっと、俺の別の心として頭上から見下ろしているような感覚で付きまとった。


 さて、開業から二週間があっという間に過ぎた。桜の花も散り落ち、世間ではゴールデンウイークにどこの国へ旅行しようかと景気の良い話が飛び交っていたころ、俺はいつものように早朝から一人で顧客先とスポンサー先と銀行などを駆けずり回って、夕方ようやくBase−1マンションの事務所に帰ってき
 た時には疲労困憊状態であった。

 この夜はしばらく足が遠のいていた行きつけの小料理屋「扇」を覗いた。

 「扇」は四十代半ばの女将さんが一人で切り盛りしている小さな飲み屋で、比較的年齢の高いサラリーマンが常連の店である。久しぶりに顔を出すと、すでに女将さんは俺が独立していたことを知っていた。

 「あら、いつ来られるかとお待ちしていたのよ。開業おめでとう」

 俺が時々顔を出す別の店の常連にこの店にも立ち寄る知人がいて、そいつから聞いたとのことだった。夜の行動範囲は、友人や知人のものと重なり合うことが多く、意外と狭いものなのだ。

 「いやもう朝から晩まで一人で大変ですよ。一日中あちこち走り回っているので、事務所でゆっくりコーヒーを飲む暇もありません」

 事実そうなのだ。仕事はなぜかほぼ毎日のようにオファーが続いた。独立した挨拶をしていなかった顧客にも、一応の挨拶状を出していたので、こちらから電話をしなくとも用事があれば向こうから連絡が入った。

 それらの電話応対からスポンサーへの資金の打診、銀行への入出金、デリバリー、帳簿の整理など、何もかも一人でこなすには時間的な限界がある。当初から予測したことであった。

  「それじゃ藤井さん、うちの娘大学浪人中なんだけど、バイトで使ってやってくれないかしら?」

 女将さんの娘は薬剤師を目指していて、今春いくつかの薬科大学を受験したがことごとく不合格だったとのこと。予備校へは通わずに自宅浪人を始めたらしいが、少しでも親の負担を軽減するためにバイトを探しているらしい。

 「本当ですか、それは嬉しいなあ。じゃあ早速明日からでも来てくれれば助かります」

 この日一日の疲れが重かったこともあって、助け舟のような女将さんの言葉に、躊躇することもなく俺は答えたのであった。

 翌日、俺はいつもより三十分以上も早くBase−1マンションの事務所に出ていた。他でもない、「扇」の娘さんを迎えるためである。そして九時少し前にインターホンが鳴った。

 ドアを開けると、頬をやや紅潮させた可愛い女性が女将さんと並んで少し恥ずかしそうな素振りで立っていた。



Top Index