希望浜

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希望浜

 

 ところどころ舗装が崩れていて、石ころや土がむき出しになった粗雑な大通りに面して、道路の事情に負けず劣らないボロボロの板張りで囲われた、今にも崩れ落ちそうな粗末なバス停があった。通りが見渡せるように板は腰のあたりの高さまでしか張られておらず、さらにトタン屋根も付いていて雨露さえも凌げるように、親切かつご丁寧に造られている。だがバス停の表示板には、目を近づけてしっかりと確認しないと判読が難しい文字で「希望浜」と書かれているだけで、時刻表の類はどこを探しても見当たらないのだ。

 僕がこのバス停にたどり着いてから、もうかれこれ一昼夜を過ぎたが、バスは一向に道路上に現れない。今朝方ひとりの女の子がひょっこり入ってきて、板敷の長椅子に横向きに体育座りになり、僕と同じようにずっとバスを待っているのだが、ひと眠りして目が覚めると、今度は彼女が仰向けになって眠っていたりもして、もうかれこれ八時間ほど同じ屋根の下にいるというのに言葉を交わしていない。

「いったいバスはいつやって来るんだろう」

 二日目の夕陽がバス停の裏手にある雑木林の向こうに沈んでいくのを見ながら、無意識のうちにため息まじりに呟いた。女の子はそんな僕を不思議そうな顔で見ていた。

 三日目の朝を迎え、バッグから硬くなってしまったライ麦パンを取り出し、義務感のようにそれを齧りながら、目的地の街で、「いつかきっと訪ねてくるに違いない」と思って待ってくれているかも知れない江美のことを思った。いや、かも知れないではなく、彼女はきっと僕が現れるのを、根拠のない確信を持って待っているに違いないのだ。まるで僕と女の子がいつ現れるとも知れない「希望浜」バス停でバスを待っているように。

 ここは中国地方の外れのまた外れ、バス停の裏側には竹藪と枯木とが続き、その向こうには寂しい日本海が波音も立てずに控えている。目の前の大通りと言ったってメンテナンスなんておざなりで、雨が降ればアスファルトが剥げ落ちたたくさんの窪みに水が溜まり、車が跳ね上げる飛沫がこのバス停にも降りかかりそうだ。このあたりは町の行政からも見放されてしまっているに違いない。

「こんなところまで来るんじゃなかった」と思った。

 でも、妻の有希子が予測さえしなかった急病で命を失ってしまったとあっては、僕の精神力を支えてくれる人は江美以外に思いつかなかった。それがたとえひとときだけの救いであったとしてもだ。この先の生きる方向を見失ってしまった僕に、わずかでも力を与えてくれそうな人は江美以外にはいない。

 あれは四日前のことだったはず、厚狭駅で美弥線に乗り換え、そこから山の中を列車はコトコトと一時間ほど走って長門湯本駅に着いた。江美が住んでいる温泉町だ。駅前から湯本温泉の中心街に五分ほど下って、音信川に架かる橋を渡ったところに彼女が嫁いだと聞いていた旅館があった。だが、訪ねてみるとその古い温泉旅館は数年前に経営者が替わり、江美たち一家はどこかに出て行ってしまったとのことだった。

「どちらに引っ越されたのでしょうか?」

「さてねぇ、それがよう分からんのですわ。ともかくかなり経営が厳しい状態じゃったらしくて、それをうちのオーナーが買取ったもんで、そうっちゃね、もう二年ほど前のことですかな」

 支配人という中年の男性は丁寧に説明をしてくれたが、江美を含めた一家の移り先については首を横に振るだけであった。

 僕は落胆して列車に乗って日本海に向かった。長門市駅で山陰本線に乗り換えて東へ向かったが、その日は萩駅が終着駅となってしまった。

「江美は実家のある安来に帰ったに違いない。そうだ、安来に行けばきっと会える」

 僕は休みたくなかった。江美が帰っているであろう安来方面へ、少しずつでも近づきたかった。萩駅で降りたあと、深夜の国道を東へ東へと歩いた。途中のコンビニでライ麦パンと水と少しばかりのチョコレートを買って、日本海を左に見ながら海沿いの道を休みもせずにひたすら歩いた。夜通し歩いて朝陽が日本海の水平線にもうすぐ顔を出すころに、「希望浜」と消えそうな文字で書かれたこのバス停にたどり着いた。もうここで東へ向かうバスを待とうと思ったのだ。

「でもいったい何だって言うんだ?」

 バスが一向に来ないばかりか、ヒッチハイクをする車一台すら通らない。こんな町は地図に載っているのかさえ疑わしいと少し苛立ったりもしたが、僕にはすでに急ぐべきことが何も存在しない。時刻表のないバス停でずっと待っていると、気がつけば三日目、本当にやれやれだが、こうなったらバスが来るまで根比べである。

 板塀の上から朝陽が差し込んできて、向かいに寝ていた女の子が眩しそうな目をこすりながら起き上がった。

「バスはまだですか?」

「来ないね、まったく。ところで君はここからバスに乗ったことがあるんだよね?」

 当然、彼女はこの辺に住む女の子だろうと思って訊いた。

「分かりません。私はここに初めて来たから」

「初めて来たって、どこからここに来たの?」

「大島です」

「大島?」

 僕の質問には答えず、彼女は布製の少し大きなバッグからおにぎりを一個取り出し、ゆっくりとラップをはがして両手でしっかりと持ち直し、それから前歯を見せて齧った。

「固くなっちゃった」

「何日前のおにぎりなの?」

「おじいちゃんが船で送ってくれたのがおとといの朝だったから、その日の早くにおばあちゃんがにぎってくれたはず」

 そう言って少しだけ彼女は笑った。

「それじゃ固くなるのは無理もないね。僕のこのパンもカチカチだ」

 いつ来るかも分からないバスを待つふたりの会話としてはのんき過ぎると思いもしたが、ともかく二日も待ったのだから、ここで諦めるわけにはいかない。

「おじさんはもう今日で三日目なんだ」

「でも、今日はきっと来るわ」

 女の子は妙に自信有りげに言うのであった。

「ところで君はどこに行こうとしているんだい?」

 女の子は固くなったおにぎりを、あまり美味しそうな表情を見せずに、それでもしっかりときれいに食べ終えた。それからまた大きなバッグに手を突っ込んで、袋に入ったキャンディを取り出した。フルーツキャンディと書かれた袋から三つほど取り出して、「どうぞ」と微笑みながら差し出してきた。

「いいのかい?」

「うん、まだたくさんあるからいいの」

 キャンディを受け取り、ひとつを口に入れると甘酸っぱいレモンの香りが広がった。ほかのふたつを見ると、メロン味とグレープ味だった。

「チョコ、食べるだろ。多分、まだ柔らかくなっていないはず」

 三枚買っておいた板チョコの一枚を彼女に手渡した。季節は初夏だが、ここ数日は気温も低く、箱の上から軽く押さえた感じではチョコレートは硬さを保っていた。

「チョコなんて久しぶり」と女の子はさっきよりもさらに笑顔で言った。

「さっきも訊いたけど、君はここからバスでどこに行くの?」

 女の子はおそらくまだ中学生になったばかりだろうか、小学生の女の子をひとりで用事には出さないだろうし、高校生とは全然違う。

 僕の問いかけに彼女はすぐには返答せずに、板チョコの箱を開けてパキッと音を立ててひと欠片を口に入れた。音が鳴ったということは、板チョコ本来の硬さを保っており、このバス停で三日目だというのに、チョコが頑張っていることによって何だか不思議と元気が出てきたような気がした。

「美味しい〜」

 女の子はますます顔がほころび、「少しずついただくんだ」と自分に言い聞かせるように呟いて、板チョコの箱を閉じてそれをバッグに収め、それから小さな水筒を取り出し、カップに少し注いで飲んだ。一連の仕草がまるで映画やテレビドラマの少女役のように見えるほど、彼女の言葉や動きが洗練されていた。

 僕はペットボトルの水で喉を潤した。そういえば四日前に長門湯本を出てから顔も洗っていないことに気づいた。何かを待つということが、有希子が亡くなってしまう前までは苦痛にも思えたが、彼女がいなくなってしまった虚脱感と、失うものがなくなってしまった感覚のある今の自分は、時の流れをあまり意識しなくなった。分かっているのは、この「希望浜」というバス停にたどり着いて三日目ということだ。

「お母ちゃんのお墓参りに行くのよ」

 竹藪の向こうにかすかに見える身動きひとつしない日本海を眺めていたら、女の子がポツンと言った。

「えっ?お母さん、亡くなったの?」

 彼女はゆっくりと頷いた。

「それなら早く行かないと」

「違うの、もう二週間も前に死んじゃったのよ」

 首を左右に振ったあと俯き、それからしばらく彼女は黙ったままで、僕も何と言って良いのか言葉が見当たらず、「そうなんだ」と呟くのが精一杯だった。

 バスは一向にやって来なかった。

 

 

 女の子がしばらく黙ったままで、しかも二週間前に母親が亡くなったと聞いたからには、通り一遍な慰め言葉などかけられるはずもなく、僕は相変わらず竹藪と枯木の向こうの日本海に目を向けながら、彼女が置かれている状況を推測してみた。

 今の世の中はイレギュラーな出来事が日常的に起こり、それは蔓延している。戦後の高度成長期から日本経済が安定期に入る時代に生まれ育った僕は、昔を振り返ってみると、社会や人々の日常生活において、イレギュラーな出来事はおそらく極めて少なく、人々は目の前の一本道を歩くがごとくに突き進んでいけばよかったように思うのだ。

 だが、今の時代は何だって言うんだ。社会も暮らしも意外な出来事や想定外の展開の連続と言っても過言ではないし、もはや日々イレギュラーな出来事が当たり前となっている変な世の中だ。だから、中学生くらいの女の子が突然僕の前に現れて、母親が二週間前に亡くなって、その墓参りに行くのだと聞いたところで大して驚きもしなかったが、そんなことではなくて、なぜ彼女が母のラストシーンにも立ち会えずに、今になってひとりで母の墓標に向かわなければならないのかが疑問に思うのであった。

「おじさんは?」

「えっ?」

「おじさんはどこに向かうの?」

「ああ、僕はね、昔すごく懇意にしていた女性のもとを訪ねようと思って、それでここでバスを待っているんだ」

 江美と会わなくなって、もうかれこれ五年ほどにもなる。最後に会ったのは、彼女が突然、何の前触れも気配もなく、僕の住んでいた街に現れたときだ。それは江美の得意技というか、無意識のうちにやってしまう彼女の癖のようなものだと思うのだ。

 当時の僕は、転勤のため大阪から東京に移り住んでから半年近くが過ぎたころだった。いつものように朝の通勤ラッシュで、最寄りのJR蒲田駅の東口からエスカレータを上がり、人ごみの中を急ぎ足で改札口に向かっていた。そして、中央改札口への手前にある券売機が並んでいる端のあたりに、まるで時空の瞬間移動で今さっき現れたような感じで江美が立っているのを見つけたのだった。そのときの彼女は、別れてから十年あまり経っているにも関わらず昔とほとんど変わっていなくて、僕は一瞬で江美だと分かった。

「すみませんが、昔すごく世話になった女性が今朝早くこの駅に現れると聞いたのですが、ご存知ありませんか?」

 驚きを必死で隠しても声がかすかに震えていたが、江美は正面をぼんやり見つめたまますぐには気づかなかった。

「えっ?」

 江美が僕を見、僕は含み笑いで感情を抑えた。数秒間、見つめ合ったままの沈黙があった。

「その素敵な女性は、今あなたの目の前にいるようですわ。お気づきじゃないのかしら?」

 江美は少し首を傾げて微笑み、そして言った。

「ようやくいろんなことにキリがついたから浩一に会いに来たのよ。久しぶりね」

 あのときは江美と別れてから十年が過ぎ去り、有希子と東京に移転してきて、ようやく仕事も私生活も落ち着いてきたころだった。この日、僕は予定通り仕事には行ったが早退し、有楽町で江美と再び会ってふたりの過去を懐かしんだ。有希子には旧友が東京に来たからと、結婚以来初めて嘘をついて、江美と品川のホテルで一夜だけ昔に戻ったのだった。

 江美との恋愛の中身を思い起こすと今でも惨めな気持ちになってしまうが、その気持ちの裏側には、不甲斐なかった学生時代の僕を支えてくれた彼女への感謝の気持ちが存在するからであった。別れてから十年後に思いもよらずに江美が目の前に現れたというのに、その夜もやはり惨めな気持ちのまま江美に寄り添って朝を迎え、そして別れた。今度こそネクストはもうないと思っていた。そして、その翌年に江美から山口県の長門湯本温泉にある老舗旅館に嫁いだと便りが届いた。

「ねえ、おじさん、何考えているの?」

 女の子が首を少し傾げて訊いた。僕は追憶に浸っていて、目の前の彼女の問いかけに気付かなかったらしい。

「ごめん、ちょっと昔のことを思い出していたんだよ」

「そうなの。それで、おじさんの行き先はここからバスに乗れば着くのね?」

「それは分からないんだ。ともかく東へ東へと行かないといけないんだけど、目的の街は日本海が近いからね、海沿いを走って行けば間違いないはずなんだ」

 女の子は「そうね」と言って体育座りになり、小さく欠伸をした。時刻はもうお昼前になっていた。そしてバスは相変わらずやって来なかった。

 

 

「お腹がすいたね。君は大丈夫?」

 女の子は体育座りの脚の間に顔を落として眠っているようだったが、僕の問いかけに首を上げ、「でもこのあたりにお店なんて無いんでしょ?」と言った。

「向こうにわたって、もっと賑やかそうな街中に行けばきっとあるはずだけど、行ってみる?ここにずっといたって、いつバスがやって来るか分からないもんね」

 女の子は少し考える素振りをしたあと、「ううん、ここでバスを待つわ。今日はきっと来るから」と言い、自分に言い聞かせるように大きく一度だけ頷いた。

「じゃあおじさんも待つよ。君をひとりで置いとけないから」

「ありがと」と彼女はホッとしたような表情になり、それからバッグに手を突っ込んでチョコの箱を取り出し、ひと欠片をパキッと音を立てて割り、それを口の中にゆっくりと沈めた。

「美味しい〜」

「そんなに美味しいって言ってもらえると嬉しくなるよ。まだあとふた箱あるから心配ない」

 僕は自分のバッグを右手で軽く叩きながら言った。

「うん、チョコ大好きなの」

 それから僕はバスの待合室から出て、日本海側を向いて柔軟体操をした。この三日あまり、歩き通したあとは板敷のベンチで寝たため、背中が平板のように固くなっていた。身体を上下左右にほぐして何度かジャンプすると、ずいぶんと軽くなったような気がした。

 振り向くと女の子も待合室から出てきていて、ラジオ体操のような仕草で身体を動かしていた。その姿を、昔どこかで見たような錯覚に一瞬陥ったが、いつどこで見たのかは分からなかった。

「大島って言ってたけど、どこにあるの?」

「大島は竹藪の向こうに行けば、海のずっと先の方に見えるよ」

「見たいな、大島」

「でも、バスが来ちゃうと困るでしょ」

「じゃあ、君はここで待ってて。おじさんがちょっとだけ浜の方へ行ってくるから。もしもその間にバスがやって来たら、運転手さんに少しだけ待ってもらってくれるかな。今までさんざん僕たちを待たせたんだから、それくらい大丈夫だよ」

 女の子は「分かった。早く戻ってきてね」と言った。僕はバッグを彼女にあずけて竹藪の方へ急ぎ足で向かい、海からの潮風で枯れ木に近くなった松林と竹藪をかき分けて海辺へ出ると、抜けたところはサラサラの砂浜で、僕の足を柔らかく包み込むように迎えてくれた。周りの風景と遠くの景色を眺めてみて、これまでこんなに綺麗な浜辺を見たことがないと思った。

 しばらくはゴミひとつ落ちていない砂浜と、その先に静かに寄せるさざ波に見惚れていたが、思い起こして顔を上げてみると海の青の向こうに小さな島が見えた。あれが大島なのだろう。真っ青な海と水色の空との狭間に浮かんでいるような神秘的な島に思えた。かつて観た映画の冒頭シーンにもこのような場面があったが、どの映画だったかを思い出せなかった。

 十五分あまりもその情景に釘付けになっていただろうか、女の子がバス停で待っていることが頭から消えていることに気づき、急いで戻った。竹やぶを抜けてバス停が見えると、トタン屋根の待合室の向こうにバスが停車していた。

「おじさん、早く、早く!」

 女の子の声が僕を呼んでいた。

 ようやくやって来たバスはかなり年季が入ったオンボロバスで、エアコンなんて洒落たものはもちろん付いていなくて、座席の皮シートのところどころに破れが見え、中のクッションが剥き出しになっていた。でも僕はそんなことよりも、バスが到着したことにホッとして、女の子と並んで真ん中あたりの座席についた。

 バスには三人の乗客がいた。ひとりは運転席のすぐ後ろの席にいた老婆で、あと二人は最後尾の長いシートに座っている若いカップルだった。

 バスは僕たちが座ったのを確かめてから大きなエンジン音を立てて出発した。少し開いた窓から土埃が入って来そうだったので慌てて閉めようとしたが、留め金が錆び付いていてまったく動かなかった。

「埃が入ってくるから席を替わろう」

「じゃ、空いてるから向こうの通路側に座るわ」

 ボクと女の子は通路を挟んで並ぶように座り直した。

 バスは出発して海沿いの道路をひたむきに走った。途中、バス停の目印が何箇所か見えたが、バスは気にもせず素通りして走り続けるのであった。

「ねえ、このバスは次にどこに停るの?」

「分かんないわ、だって私も初めて乗るんだもん」

 ほかの三人の乗客の様子を眺めてみると、最前席の老婆は居眠りをしているし、最後尾のカップルといえば笑いながら戯れ合っている風で、それぞれの目的地は知る由もないが、不安な表情ひとつ見受けられなかった。僕は揺れるバスの通路を注意深く歩き、運転席の横に立った。

「運転手さん、このバスは次にどこに停車するんですか?」

 もう初老近くにも見える運転手は、前方にしっかりと目を据えて、大きなハンドルを左右に小刻みに動かしながら、チラッとこちらを見た。

「次は後ろのふたりが降りるところだで、まだずっと先だな」

「ずっと先って、どこです?」

「益田で降りるちゃ」

 運転手は前方と僕の方とを交互にチラチラ見ながら言った。

「その次はどちらですか?」

「なしてそんなこと訊くんね?」

「いえ、皆行き先をちゃんと告げているんですね」

 運転手は僕の言葉に不思議そうな表情を見せ、「アンタは安来に行くんじゃろ?そやけど、今日は江津までしか行かんからね。昨日もろくすっぽ寝ちょらんでな」と言った。

 なぜ行き先が安来だと知っているのか唖然としている僕に、さらに彼は「一緒のお嬢ちゃんも安来に行くじゃろ?そう指示が出とるっちゃ」と言うのであった。

「今夜は江津で停るから、バスの中で寝ればよかろうって。婆さんは出雲じゃけ、明日の昼までには着くがね」

 運転手はこちらを向いてニヤっと笑い、「心配せんでもちゃんと明日のうちには安来に連れて行くっちゃ」と言った。

「なぜ、安来って分かるんです?行き先をまだあなたに告げてないですよ」

「このバスは必要としたお客さんがいるときだけ走るっちゃ、行き先もお客さんが思ったところへ行くことになっちょる」

「そんな・・・」

 運転手はそれきりこちらを向かず、注意深く前方を睨みつけながらバスを走らせた。僕は呆然として席に戻り、女の子に「ねえ、君は安来に行くの?」と訊いてみた。

「そうよ、安来よ」

「おじさんも同じなんだよ。ちょっと頭が痛くなってきた」

 女の子は「フフッ」と微笑んで、バッグからチョコの箱を取り出し、またひと欠片をパキッと音を立てて割り、ゆっくりと口に運んだ。まるで夢を見ているか、或いはキツネにつままれたような気になった。

 

 

 運転手が言ったとおり、バスは午後二時ごろには益田市内に入り、街外れの路肩に停車して若いカップルふたりは降りた。お互いに見知らぬ人同士なのに、そのふたりは下車する前に「それじゃ、お先です。きっと会えますよ、お元気で〜」などと、最前席のおばあちゃんや僕と女の子に向かって言うのであった。

 バスは益田で国道百九十一号線に別れを告げて、海沿いの国道九号線に道路を変えた。

 鳥取の安来には江美の実家がある。長門温泉の旅館の息子と結婚した彼女は、盆と正月だけ、年に二回は葉書きが届いていた。昨年の暑中見舞いと今年の年賀状が来なかったことが気がかりではあったが、結婚してから数年間は毎年丁寧な年賀状と涼しい夏便りが届いていたから、変わらず幸せな暮らしを送っているものと思っていたのだ。

 長門温泉の江美の嫁ぎ先の旅館は別の経営者に替わっていて、近隣の同業者に訊いたところでは、数年前に経営不振で旅館を手放し、どこかへ引っ越したと言っていたが、二年前の暑中見舞いは届いていたから、おそらくそのあとの出来事と推測された。江美が安来の実家に戻っているに違いないという思いは、まったくの根拠なき推測に違いなかったが、遥か昔のある日、江美が突如僕の目の前から姿を消した時も、きっと安来の実家に帰ったんだと疑いもせずに訪れると、案の定彼女はそこにいたことがあったし、あながち根拠のない思いとは言えない。

 彼女の実家は古くからの農家で、立派な門構えを抜けて玄関にたどり着くまでは、大股で三十歩はあり、そこには大きな屋敷風建物が古いながらも堂々とした雰囲気で構えていた。江美は学卒後、島根県庁に勤めていた親戚の口添えで松江の観光局に就職できたと言っていたこともあり、彼女の実家は地元では有力な家柄のようだった。そんな江美の実家が没落しているはずもないだろうし、嫁ぎ先が不都合になったとしても、きっと安来に戻っているか、或いは実家にはいなかったとしても、何かが掴めるだろうと僕は思ったのだ。

「江美とほんの少しでも会って東京に帰りたい」と思い続けて、はるばる山口までやってきたのだから。

 

 バスはあまりスピードを出さず、いや出せないのかも知れないが、がら空きの海沿いの道路をひたすら東へ東へと走り続け、午後四時前に道の駅・ゆうひパーク浜田に着いた。

「ここで三十分ほど休憩します。トイレと晩ご飯のお弁当なんかを買ってください」

 運転手はそう言って、彼も売店やレストランがある道の駅へ入って行った。

「何か買っておこうか?」と僕は女の子に訊いた。

「おにぎりとお茶だけにする」と彼女は言った。

 道の駅は高台に位置していて、建物の裏手の公園からは日本海が見渡せた。ボクと女の子は並んでベンチに腰をかけた。

「そう言えば、君の名前をまだ訊いていなかったね」

「有里紗って言うのよ、大森有里紗」

「有里紗ちゃんか、いい名前だ」

 有里紗は布製のバッグからチョコを取り出し、残りの板チョコをパキッと音を立てて齧った。

「もうひとつチョコをあげるよ。おじさんの分はまだあるから」

「ありがと」と彼女は言い、「今夜はバスで寝るのね。どこで歯を磨こう?」と心配顔に変わった。

「ひと晩くらい磨かなくても虫歯にはならないよ」

「そうね」

 僕の無責任な言葉にもかかわらず、困った表情から一気に笑顔に変わった。少女のあどけなさが確実に見えた瞬間であった。

 バスに戻ると運転手はすでにエンジンをかけて待っていた。僕たちが席に座ってしばらくしてからお婆さんが戻って来た。運転手はお婆さんの手を引っ張って座席へ導いた。

「お婆ちゃん、出雲には明日の昼までには着くから、お孫さんのことが心配じゃろが、大したことはないっちゃ、安心しなよ」

「ほうけぇの?そりゃホッとしたで」

 バスは再び走り出した。夕陽がバスの後方に少しずつ落ちていった。

 

 バスは夕陽がほとんど沈みそうになったころに江津市内に入った。今夜はどこに駐車して朝を待つのだろうと思っていたら、JR江津駅前の広いスペースの奥にバスはその疲れた姿を停めた。

「はぁ、皆さん、お疲れさんです。今夜はここで一夜を明かしますっちゃね。トイレは駅舎の端にありますけん」

 運転手はそう言ってバスから降りた。江津駅前には対抗二車線の国道が走っていたが、その向こうは田畑が広がり、ところどころに民家が点在しているだけで、人々の往来も駅前にしては少なく、寂しい街に思えた。

 駅はときおり到着した列車からの乗客を送り出し、再び物音ひとつ立てないくらい静まり返ったと思ったら、小一時間もすればまた乗客を小さな町に吐き出した。僕は有里紗を誘って外に出、トイレと洗面を早めに済ませてバスに戻り、一日の疲れを取るためにシートを倒して横になった。

 バスはエンジンを切って眠っており、外は静寂の音がシーンと長い旋律を引きずっているだけで、まるで地の果てのようにも感じた。「ピー、ピー〜!」と鳴る音にハッとすると、それは貨物列車が通過する警笛であった。

「トイレに行きたくなったら言うんだよ。一緒に行ってあげるから」

 通路を隔てた隣の席で、バッグを抱え込むようにして目をつぶっている有里紗に言った。

「うん、ありがと。でもね、有里紗はもう中学生だよ、ひとりでトイレに行けます」

 彼女は僕のほうを向いて、丁寧語とタメ口とを混ぜて言った。昔どこかで見た懐かしい表情に思えた。

「ごめん、でも夜中は危ないから、ひとりで行っちゃだめだよ」

「分かった」

 有里紗は目をつぶった。

 明日のうちには安来に運んでやると、このミステリアスなバスの運転手は言っていた。彼はバスのドアを閉めて、お婆ちゃんと通路を隔てた一番前の席でシートを倒して横になっていた。お婆ちゃんと運転手、有里紗と僕、ふた組みの妙な組み合わせだと思った。

 安来を訪ねるのは何十年ぶりだろう。

 あれは大学三年生の頃だっただろうか、江美との同棲生活の果てにふたりの間の小さな命を流産させてしまい、ある日突然彼女が出て行ってしまってからは、一日一日をまるで壁に投げつけるように荒んだ暮らしだった。寒さでこころが凍ってしまいそうなクリスマスイブの日、僕は京都から安来を目指した。

 山陰本線はその名称のごとく山間部をずっと走り続け、昼間でも車窓から陽射しはほとんど入って来なかった。福知山で景色は一変し、しばらくは小さな城下町の様子が見えたがすぐに列車は山裾を遠慮深そうに走り続け、和田山を過ぎると円山川沿いをどんどん北上していった。豊岡を経て城之崎温泉を越えると日本海に突き当たり、その後列車はひたすら西へ西へと突き進んだ。ときどき思い出したように日本海が現れ、鳥取に入ると雪が降りはじめた。斜めに降り続く雪は、まるで江美のもとに向かっている僕の気持を遮断するかのように意地悪く感じるのであった。日本海は曇天の空のように心寂しい色で、すぐそこまで打ち寄せる波が岩に砕けて白く飛び散る様は、まるで僕が大学生活で踏み入れた江美との関係を映しているかのようだった。「そうだ、飛び散ってしまったのだ」と思った。車窓からの景色の切なさに泣き叫びたくなったあのころのことを、長い年月を経て今思い出した。

「どうしたの、眠れないの?」

 有里紗が心配そうな顔で僕を見た。

「いや、昔のことを思い出していたんだよ、大丈夫」

「明日は安来に着くね」

「そうだね。君がなぜおじさんと同じ安来なのかを明日教えてくれるかな?」

「いいわよ」と有里紗は少し微笑んで言った。

 このバスは本当に実在しているのだろうか、僕は生きているのだろうか?窓の外には人の姿はなく、駅舎の微かな明かりだけが、辛うじてそれらを証明しているように思えた。

 

「おじさん、トイレに行きたいの」

 耳元で囁くような有里紗の声に目が覚めた。時計を見ると、午前二時を過ぎたところであった。

「いいよ、行こう」

 運転手を起こさずに、閉まっているバスの扉をゆっくりと手元の引いてみると、意外にも簡単に開いた。外は別世界にも思えるくらいシンと静まり返り、駅前の道路には車一台の往来もなく、犬や猫、フクロウさえも見当たらなかった。駅舎の何箇所かに設けられている常夜灯だけが、微かにこの世の存在を僕たち照らしていた。

「やっぱりひとりじゃ怖いわ、おじさんがいてよかった」

「おじさんだって、こんな駅の端っこにあるトイレにはひとりで行けないよ」

「フフッ」

 有里紗は僕の右腕を恥ずかしそうに持った。その所作が極めて自然だったので、僕は数秒間気づかずに歩いたくらいだった。

「先に入って。ここで待ってるから、大丈夫だよね」

「うん」

 誰もいないと言ったって女子トイレの中に入って待つわけにもいくまいと思い、外で待った。しかしこの数日、世の中の動きから取り残されたと言うより、世の中の動きとは違ったところで映像は動いており、それは時刻表のないバス停にたどり着いてからは別の時の流れのようで、そこで二日半ほど待った挙句、突然現れたあのオンボロバスから始まった奇妙な世界に思うのであった。

「いったいどうしたっていうんだろ?」

 僕は言葉に出して呟いた。そのとき有里紗が女子トイレから出てきて、「なあに?」と訊いた。

「何だか、あのバスって不思議だなって思ってたんだ、まったく」

「そう?私は知ってるよ、ときどき来るっておじいちゃんが言ってたから」

「えっ?」

「明日になれば分かるわ。お母さんのお墓にもたどり着けるから」

「ともかく、ちょっとだけ待ってて」

 男子トイレに入った。有里紗がトイレの向こうから「早く出てきて、怖いから」と言うのが聞こえた。僕は思わず苦笑いしながら、この夢は明日に目が覚めて、そこはあの時刻表のないバス停のベンチの上だったりするんじゃないだろうかと本気で思った。

 

 翌朝、初夏にもかかわらず、少し冷気が肌寒く感じて目が覚めた。窓が締まらない部分もあるバスの車内は随分と冷えていたようだ。あの希望浜という時刻表のないバス停ではなくオンボロバスの車内にいたことにホッとし、このバスが夢の中で走っていたのではないことに、今度は逆にこの現実がすんなりと理解できなかった。

 七時頃に運転手が起きだしてエンジンをかけた。

「洗面に行かれる方はどうぞ、といってもおふたりとお婆ちゃんだけだったな。お婆ちゃん、顔洗うね?」

「はぁ、もうええっちゃ」と老婆は小さな手を振りながら言った。

 僕と有里紗は再びトイレに行き、顔を洗い軽く歯を磨いた。四日ぶりの歯磨きは、新たな世界が広がったような感覚になった。駅には町のあちこちから現れた人々で少しずつ動き出し、到着した列車はからスーツ姿のサラリーマンや化粧をしたばかりの女性たち、そして高校生たちが駅から飛び出して、それぞれの目的地に急いでいた。人々が交わす会話が朝の鳥たちのさえずりのようでもあり、ミステリアスなバスの外は普段の日常が動きはじめていたことに、僕はホッとするのであった。

 バスは出発した。午前のうちに出雲でおばあちゃんが降りる。そのあとは僕と有里紗ふたりだけになるのか、誰も乗っては来ないのか、バスは乗客の行きたいところへ行くことになっていると運転手は言っていたが、安来に着いたら真意を確認しよう。ところでこのバスはどこのバス会社なのだろう。

「ねえ、このバスはどこのバス会社なの?山陰バスとか山口バスとか、普通は名前があるだろ?」

「そんなの無いのよ。呼んだ人を乗せるバスなんだって」

 有里紗の言葉に、僕はもう何も考えまいと思った。

 バスは駅前の道路を少し西へ戻ってからグルッと道なりに大きく曲がり、国道九号線のバイパスに乗った。バイパスの向こうには、夜には気付かなかった江津市役所の奇妙な形をした建物が見えた。

 

 

ミステリアスなオンボロバスにのって二日目、朝八時前に江津駅を出発して、国道九号線をひた走ったバスは、ときおり山陰本線と交差しながら、またある瞬間には日本海が臨める道路を走り、大田市駅前で一度トイレ休憩をとったあと、午前十一時には出雲市内に入った。そのまま駅方向へ行くのかと思っていたら、急に左折して北上し、出雲大社の入口近くまでバスは老婆を運んだ。

「お婆ちゃん、出雲の神様にちゃんとお参りして、今夜はゆっくりと畳の上で寝たらえかろうっちゃ」

 運転席から出てきて、老婆の手と身体を支えながらバスから降ろし、運転手は手を振って見送った。僕と有里紗も老婆に「気をつけて!」と手を振ると、お婆ちゃんは窓の下までトコトコと歩いてきて、「あんたらも早う行ってあげんさいや、待ってなさるじゃろに」と言うのであった。

 バスは出雲大社前を出て国道九号線に戻ると、再び山陰本線と近づいたり離れたり、時には交差しながら海沿いを東へ走った。出雲から一時間ほどゆっくり走ったバスは、宍道湖沿いのショッピングスクエアの駐車場に昼休憩で止まった。ここまで来たら安来はもうすぐである。

「一時間ほど休憩しますけぇ、ショッピングモールにお店とかレストランもありよるでね」

 僕は有里紗とバッグを持ってバスから降り、広いスーパーに入っていった。奥の方には蕎麦屋なども見えたが、「お弁当買ってバスの中で食べようよ」と有里紗が言うので、それに従った。知り合ってまだ三日目のはずだが、彼女は前から僕のことを知っているような口の利き方に思えた。

 冷えた弁当とお茶を買ってバスに戻り、座席で食べながら話をした。運転手はいつ買ったのだろう、新聞を広げて目を通しながらおにぎりを食べていた。

「そうだ有里紗ちゃん、君がなぜおじさんと同じ安来に行くのか話してくれるって言ってたよね。お母さんが二週間ほど前に亡くなったとも言ってたけど、もし差し支えなかったら訊きたいな」

 僕は有里紗の横顔を見て、彼女の表情の変化に気遣いながら言った。有里紗は箸を置いて弁当を隣の席に移し、ペットボトルのお茶をふた口ほど飲んで、軽くため息を吐いてから僕のほうを向いた。

「分かりにくい話だと思うのよ、でも説明するわ」

「無理しなくてもいいんだよ、ただ偶然行き先が同じだから、ちょっと興味があるんだ」

「ううん、大丈夫。無理なんかしていないから」と有里紗は言い、少しだけ口元を緩めて笑った。

 それから有里紗が話しはじめたことに僕は驚いた。同時に、その話が間違いか、或いは僕が訪ねようとしている江美の実家とは関係のない話であって欲しいと願わずにはいられなかった。

「私の両親は二年前に離婚して、お母さんは安来の実家に帰ったのよ。私はお父さんの実家がある大島に引っ越して、最初はお父さんとおじいちゃんとおばあちゃんで暮らしたのね。でも、もう一年以上も前にお父さんがどこかに行ってしまったの」

「居所は分からないの?」

 有里紗は首をゆっくりと横に振った。

「お母さんはときどき電話もくれたし、手紙もくれたのよ。一度は大島まで来てくれたのだけど、そのときはお父さんが追い返してしまったの」

 有里紗はそう言ったあとしばらく言葉が続かず、目尻に少しだけ涙がにじみ出ていた。気丈夫な女の子なのだろう、それからまた話を続けた。その話の内容に僕は愕然としてしまった。

「お父さんが帰らなくなって、おじいちゃんは私のことを不憫だ不憫だって言ってたけど、大島は好きなところだし、私はお母さんに会えないことが寂しかっただけ」

 有里紗はバッグからチョコを取り出し、小さく割って口に放りこんだ。

「お母さん、亡くなったんだろ?」

「うん」

「病気だったのかな?」

「知らない」

 パシッと音がしたような気がするほど、有里紗は吐き捨てるように言って、それから横の席に置いていた弁当を再び食べ始めた。身体のどこかをむやみやたらでも動かすことで、深い悲しみが少しでも軽くなるかのように、箸を休めることなくまるで一心不乱に口に運んでいた。

「ごめん、辛いよね」

 有里紗は首を左右に振り、「大丈夫」と少しだけ涙が残った声で言った。

 バスの運転手は新聞をひと通り読み終えたのだろうか、外に出て大きな欠伸をしたあと軽く柔軟体操をしてからバスに戻り、「はぁ、そろそろ出発するっちゃね」と言った。

 バスは宍道湖沿いの国道九号線をゆっくりと走り続け、まもなく松江市が見えてきた。昔、何度もこの町を訪ねたことが懐かしく思い出された。

「おじさんが訪ねていくひとは女の人なんだ。若いころその人は松江で働いていてね、おじさんはまだ学生だったんだけど、松江に用事があってきたとき、その人と知り合ったんだよ」

 毎年七月下旬に行われる松江の水郷祭で江美と知り合った。宍道湖から打ち上げられる花火は圧巻だったし、昼間、松江城から眺める宍道湖も、湖面がキラキラと魚の鱗のように輝いていて、思わずため息が出るほど綺麗だった。

「私のお母さんも松江で働いていたらしいよ。お父さんと結婚するずっとまえのことだったみたいだけど、観光ガイドをやっていたとか聞いたことがあるわ」

「ホントに?」

「お母さんの実家は農家で、小さいころ二度ばかり連れて行ってもらったことがあるけど、そのときおばあちゃんが、お母さんは若いころ、松江でガイドをやってたんだよって言ってたから」

 江美と知り合ったのは大学二年生の夏休みだった。僕はテキ屋のバイトで、大阪から松江の水郷祭へ来ていた。三日間の水郷祭が終わった翌日の夜、岡田というテキ屋の先輩に飲みに連れて行かれたバーに江美がいた。彼女は、昼間は松江城の近くの観光案内所に勤め、夜はバーでアルバイトをしていた。

 懐かしく、そして古い話だ・・・

「ママさんよ、このアンちゃんは苦学生でな、大学で法律を勉強しとるんや。将来はいざというときに俺らを助けてくれるんや。なあ小野寺、頼りにしてるで」

 店には四十歳位のママと若い女の子がふたり、カウンターの中にいた。小さなバーだがママが女優みたいに美人だからか、男性の常連客が多い様子で、ほぼ満席の繁盛ぶりだった。

「岡田さん、大学で法律を学んでいたって、卒業してもたいていは普通のサラリーマンになるんですよ。裁判官とか弁護士になるには難しい試験があるんです。僕なんか絶対に無理ですよ」

 せっかく入った大学生活が四苦八苦している状態なのに、岡田のさりげない言葉にさえ僕は自分を恥ずかしいと思うばかりだった。

「松江にはいつまでいらっしゃるのですか?」

 席に近いカウンターの中にいた女の子が不意に話しかけてきた。

「明後日までここにいて、そのあと松山に行くんだ」

「松山か、坊ちゃんで有名な温泉の町ですよね。いいなあ、私も行ってみたい。小野寺さんって学生さんだから夏休みだけバイトで回っているんですか?」

「露店の仕事って祭りの季節が忙しいだろ。だから僕みたいな学生を雇ってくれるのは夏祭りの季節や大晦日と正月位だよ。割のいいバイトだからいつでもあればいいんだけどね。でも大学があるからそうもいかないけど」

「じゃあ、松山の仕事が終われば大阪に戻るんですね」

 肩までの黒髪が魅力的だなと店に入ったときから思っていた。彫りの深い細面の顔つきに黒髪の彼女は、テレビで人気の沖縄出身の歌手によく似ていて、ツンとしたところがなく好感が持てた。江美と交わした最初の会話だった。

 その夜、すっかり酔っ払ってしまい、そんな僕にカウンターの向こうから身を乗り出して、耳元で囁くように彼女は言った。

「ねえ、明日予定がなければお昼一緒に食べない?せっかく松江に来たのだから名所を少し案内してもいいし」

 甘いコロンの香りが微かに流れてきた。彼女のうしろの洋酒棚が僕のこころのように揺れていた。艶のある唇が動いていたが、何を言っているのかまったく聞こえなくなり、その唇に引き寄せられるように「分かった」と僕は返事した。何が分かったのかが分からないまま僕は「分かった」と言っていた。「じゃあ、駅前のシオンという喫茶店で十二時半ね」と最後に耳に入った。でもその言葉が誰のものなのか、揺れ続ける洋酒棚や耳に届く客たちの話し声に思考がかき消され、心地良い酔いの中で、僕はこの夜の記憶を失った。

 

 

 バスは松江市内に入った。もうここから安来までは三十分あまりで着く。時刻はまだ午後二時を過ぎたところだ。有里紗は目をしっかり開けて、窓の外の風景を眺めていたが、顔つきがややこわばっているようにも思えた。

「どうしたの?」

「ちょっと緊張するわ」

「もう少しで安来だよ、大丈夫?」

「うん、でも何だか怖いわ」

 有里紗は眉をしかめ、困ったような表情で言った。そのとき、運転手がバスを走らせながら大きな声で何かを叫んだ。

「何ですか?」

「時間がまだ早いじゃろから、松江城に寄っていくほ〜」

 運転手は右手でハンドルを持ちながら、左手で窓の前方を指さしながら言った。そして僕や有里紗の返事も聞かないうちに、国道九号線を左折して宍道湖の入口に架かる大橋を渡り、島根県庁の横をすり抜けると松江城の駐車場に着いた。

「懐かしい場所じゃろ?一時間ほどしたら出発するっちゃね」

 そう言って運転手はエンジンを止めた。懐かしい場所となぜ分かるのか不思議に思ったが、もう何も訊く気にはならなかった。

 約二十年ぶりの松江城の天守閣は昔の雄姿に変化はなかったが、驚いたのはお堀を渡って天守閣へ通じる道の途中にある観光案内所が、以前のままの瓦葺の平屋建姿で残っていたことである。

「前と一緒だ」

「何が?」

「観光案内所」

「フーン」

「おじさんの知り合いの女性はここに勤めていたんだよ、懐かしいな」

 江美は水郷祭が終わった日の翌日、僕を松江城に案内してくれた。再び昔の記憶がよみがえってきた。二十年近くも前の出来事だ・・・。

 

 指示された「純喫茶・シオン」は松江駅の並びのビルの一階にあった。僕は昨夜の誘いは冗談じゃないのかという不安を抱えたまま、約束の時刻より少し早く店に入ってみると、入口から見える位置に彼女はこちら側を向いて座っていた。

「本当の話だったんですね」

 正面に座って僕は言った。彼女は僕が声をかけるまで気付かずに膝の上の本を読んでいた。半袖の淡いピンクのサマーセーターにジーンズ姿がとてもよく似合っていて、昨夜とはずいぶん違った雰囲気だった。

「えっ、何が?」

「今日のランチの話」

「どういうこと?」

「いや、その・・・からかわれているんだろうと思っていたものだから」

「何言っているのよ、冗談で言うはずないじゃない。それよりコーヒー飲む?」

 彼女はやや不機嫌な表情になって、読んでいた本をパタリと閉じながら言った。

「そうなんですか、すみません。女性に誘われるなんてこれまでなかったものだから。ところでここでランチを食べるのですか?」

「違うの、駅の反対側に美味しいレストランがあるの。じゃ、出よう」

 昨夜のバーでの丁寧な物腰とは違うテキパキとした彼女の言葉と態度に圧倒されていた。シオンを出て、松江駅の南側にある比較的新しいビルの地下に降りていった。

「ここよ、びっくりするくらい美味しいから」

 店の扉には「ビストロ・マルコ」と書かれていた。店内はちょうどランチタイムで混雑していたが、彼女は度々訪れているようで、勝手知った感じで奥の方の席に躊躇なく入っていった。

「ここのビーフシチューはすごく美味しいのよ」

 女性スタッフが持ってきたメニューを僕に手渡し、「食べたいものがあったら遠慮なくね」と言った。

「おまかせしていいですか。僕はあまり食べ物のことは分からないから」

「分かった。じゃあ私が勝手に注文するね」

 スタッフを再び呼んで、彼女は前菜三種盛りとビーフシチューとビフカツ、それにシェフの気まぐれサラダなんてメニューを注文した。

「ビーフばかりになってしまったけど、学生さんは普段お肉ってあまり食べないんでしょ」

 彼女はウフッと笑って言った。間髪を入れずに出る言葉や、次々と変わる種類の異なる笑顔にドキッとし、こういう店にはなれていないこともあったが、僕は戸惑いを隠せなかった。

「私、野口江美よ、江美って呼んで。夜のお店はバイトね。今日は昼間の勤めはお休みだけど、いつもは松江市の観光案内所で働いているの」

 料理が運ばれてくるまで江美は自分について話をはじめた。島根県安来市の生まれで、地元の高校を卒業後、関西が地盤の大手スーパーに勤務したが、二年ほどで辞めて実家に戻った。実家のある安来には特に仕事がなく、実家は農家だが、父方の親戚筋が島根県庁に勤めていた関係で便宜を図ってもらい、松江の観光案内所に勤めるようになった。目下は松江市内のアパートにひとり暮らしで今年二十四歳になる。「私のほうが少しお姉さんね」とニコッと笑って言った。

 

 松江城の駐車場にミステリアスなバスを待たせて、僕と有里紗はお掘りに架かる橋を渡り、右手に懐かしい観光案内所を観ながらさらに奥へ歩いた。天守閣は昔訪れたときの記憶では、石垣などない平坦なところにドカンと建っていたように印象として残っていたが、僕の記憶違いだろうか、庭園を抜けると模型のように綺麗に積まれた石垣の上に黒い松江城の雄姿が現れた。

「やっぱりお城はいいね」

「私、お城を観るのは二度目だわ」

「最初はどこを訪ねたの?」

「修学旅行で萩に行ったとき、お城があった」

「萩城だね、あそこのお城も格好良いね」

 そんな会話を交わしながら靴を脱いで天守閣の中に入った。二十年近く前に江美と天守閣に登ったときの記憶が、まるで再現フィルムみたいによみがえり、横にいるのは有里紗ではなくて江美のような錯覚にまで陥るのであった・・・。

 

 「ビストロ・マルコ」でのひとときは心地よいランチタイムだった。お勘定は江美がすべて支払った。

「あなたは学生、私は社会人よ。さっき冴えない貧乏学生ですって言っていたじゃない。それに私が誘ったのだからね」

 自分の分だけでも払おうとすると、江美はまた違う種類の笑顔で窘めた。外に出ると猛烈な暑さで、江美は空を見上げながら少し戸惑った様子だった。

「とりあえず松江城・・・行ってみる?」

「松江といえば宍道湖と松江城だよね。じゃ、松江城だけ案内してもらおうかな」

「分かった」と江美は言い、僕たちは駅前からタクシーに乗った。容赦なく照りつける強い陽射しのため、エアコンの効きの悪い車内は窓を開けていても蒸れるように暑く、汗で濡れた僕の右腕に江美の左腕が触れ、彼女の汗ばんだ腕の感触に僕はドキドキした。タクシーを降りると、アスファルトに反射した蜃気楼で遠くに見える松江城の天守閣が揺れ動いていた。水郷際では宍道湖で何千発もの花火が打ち上げられて多くの人で賑わった松江城だが、この日は観光客も少なく、一昨日まで祭りがあったことが嘘のように静かだった。

「松江城って思ったより立派だな」

「松江城はね、全国でも有名なお城のひとつなのよ。でも築城にまつわる悲しい話もあるの。少しだけ聞きたい?」

「もちろん聞きたい」

 松江城の悲話よりも彼女が説明してくれることに興味を持った。

「それでは遠くからお越しになった小野寺様、松江城の築城にまつわる悲しいお話を少しいたしましょう。松江城は関が原の合戦のあと、初代城主の堀尾吉晴という人が五年の歳月をかけて築城したのですけど、すんなりとは完成しなかったのです。本丸の石垣と天守閣の土台が何度も崩れ落ちて、なかなか工事が進まなかったのですね。原因を調べてみたらその場所に槍が貫通した頭蓋骨が出てきました。これが原因だと判り、城主様の指示により急いで祀ったのです。そのあとは築城も順調に進み完成の運びとなりました。それから今度は松平直政氏の代になってからの出来事で、天守閣の最上階に「天狗の間」というのがあるのですが、そこに若い女性の亡霊が出たのです。いろいろ調べさせたところ、この女性は前に崩壊した石垣の場所に人柱として埋められていたことが判ったのです。盆踊りの最中にさらわれて、人柱として埋められてしまった可哀相な女性だったわけです。昔はひどいことをしていたのですね。このときも松平氏が宍道湖のコノシロを供えたらもう亡霊は出なくなったとのことです。おしまい」

「すごいね、暗記してるんだな」

「毎日のように案内しているんだから嫌でも覚えるのよ」

 僕たちは日陰を求めて急いで天守閣に入った。内部はヒンヤリとしていて、流れ出ていた汗が引いた。急な傾斜の階段では先に立って手を差し出し、彼女が握った僕の手から心臓が脈を打つ音が伝わっていないかと気になった。最上階の望楼に上がり南方向を眺めると、美しい宍道湖がすぐそこに見え、真夏の強い陽射しで、まるで魚の鱗のように湖面はギラギラと輝いていた。

「宍道湖って、すごく綺麗だね。来てみた甲斐があったよ」

「本当にそう思う?」

「もちろん本当にそう思っているよ」

「宍道湖で獲れる白魚は有名なの。そのまま食べてもいいんだけど、天ぷらにするともっと美味しいのよ。でも残念ながら今の季節は獲れないけど」

 僕は明日の朝、松江を発って四国の松山へ向かう。江美とはこのまま別れてしまえばもう会うこともないかも知れないと思うと、少し残念な気がした。昨夜知り合ったばかりなのに、どうしてこんな気持ちになるのかが不思議だった。

 

「おじさん、どうしたの?」

 有里紗の声に現実に返った。

「昔を思い出すと現実を忘れてしまうんだ、ごめん」

「フーン、そうなの」と有里紗は唇を尖らせて、少し不服そうでもあり、納得しているようにも見える顔つきで言った。

 僕たちはしばらく天守閣から宍道湖や松江市内の街並みを黙って眺め続けた。

 

 

 江美と最後に会ったのは五年前、今もその時のことを鮮明に覚えている。いつものように有楽町の会社に通勤のためJR蒲田駅に着いたとき、江美は僕を待ち伏せしていたのであった。いきなり安来の実家から東京へやって来た江美、その前はもう学生時代のころだ。

 松江の水郷祭のあと、四国四大祭りの一つである松山祭りが終わって大阪に戻った僕は、秋からは真面目に大学の講義に出ていた。そして秋も深くなったある日、江美は突然僕の前に現れたのだ。

 この日は早朝のバイトを終えて週に一度楽しみにしている「社会思想史」の講義を受けるため急ぎ足で大学へ向かっていた。一時限目から講義を受ける学生たちは、皆真っ直ぐ正面だけを向いて歩いていた。緩やかな坂を上りきって正門に着くと、門の中に吸い込まれていく学生たちとは少し離れた位置でひとりの女性が佇んでいた。ダークグレーのスーツに黒のハイヒール姿のその女性は、学生とは異なった大人の雰囲気を漂わせていたが、大学職員でもなさそうだし、バイトの求人担当かなとあまり気にも留めず僕は入口へ急いだ。するとその女性が僕の方向に駆け寄ってきて叫ぶように言うのだ。

「小野寺君、私よ!」

 走り寄って来た女性は、何とあの野口江美だった。彼女は松江のときとずいぶん雰囲気が違っていたので、全く気がつかなかった。

「驚いたなあ、どうしたんですか?」

 島根の松江での出来事も月日が経つにつれて風化されようとしていただけに、驚きと一緒に懐かしさがこみ上げてきて、僕は次第に嬉しくなってきた。

「すごく大きな大学なのね。朝からこんなにたくさんの学生さんがドッと来るから、絶対見つけられないわって、あきらめようと思っていたところなの」

 学生たちは僕と江美をチラッと見て、怪訝そうな顔をして正門へ入って行った。

「何時から待っていたのですか?ここには一万人位の学生がいるんですよ。無茶過ぎますよ」

「そうね、三十分くらい前かしら。もし一時間ほど待っても見つけられなかったら、大学の中に入って、あなた法学部って言っていたでしょ、だからそこの事務所へ行って小野寺浩一君の住所を教えてくださいって訊こうと思っていたのよ」

「そんなこと簡単には教えてくれませんよ。ああもう・・・あなたって人は。ともかくちょっと喫茶店にでも入りましょう。さっきから皆がジロジロ見ていますから」

 そんな無謀なことを簡単にやってのける江美だから、長門湯本を出て、きっと今は安来にいるに違いない。ともかく日本海に沿って東へ行けば安来にたどり着くだろうと考えた僕を、「希望浜」と消えそうな文字で書かれた時刻表のないバス停にミステリアスなバスが現れて、行先を告げなくとも目的地に運んでいるではないか。

 

「おじさん、そろそろバスに戻ろうよ」

 有里紗の言葉にまた我に返る。そうだ有里紗は亡き母の墓参りのために安来に向かっているのだ。

「ところで有里紗ちゃん、君の亡くなったお母さんの名前は江美じゃないよね?」

「違うよ、お母さんの名前は多美子っていうのよ」

 心配していたことは杞憂だったと分かり、ともかくはホッとした気分になった。僕たちふたりだけを乗せたミステリアスなバスは目的地の安来へのラストスパートに入った。こころが自然と昂ぶり、横の有里紗は次第に顔がこわばってきているのがはっきりと分かった。運転手さえもが緊張の面持ちでしっかりとハンドルを握り、目的地の安来へ脇目も振らず向かっていた。

 

 

 ミステリアスなバスは、車体の前部をやや前かがみにして国道九号線を突き進んだ。老巧な運転手は、これまでのキャリアの全てを安来に向かうこのオンボロバスの運転に注ぎ込んでいるように見えた。わずかふたりになってしまった乗客を目的地に一刻も早く運ぶために。

 安来にはこれまで二度訪れている。

 松江で知り合った江美とは、結局三年間ほど付き合った挙句、ふたりの間の結晶が流れてしまう事故や様々な出来事があって、彼女はある日突然僕の前から姿を消した。いなくなってしまった翌月、おそらく実家に帰ったに違いないと意を決して会いに行ったが拒絶され、でも諦めきれなくて二週間後のクリスマスイブに再び訪ねた、懐かしい思い出である。

 最初に訪ねた日、安来の駅に到着した時刻はすでに午後二時を回っていた。僕の実家がある今治駅よりもずっと小さな駅だった。この町に江美が住んでいるのだと思うとこころが震えた。

 駅員に江美の実家の住所を見せると分厚い地図を出して調べてくれ、実家はかろうじて歩いて行ける距離に位置していた。僕は慣れない雪道を滑らないように注意しながら向かった。雪はいつの間にか降り止んでいたが、肌を差すような厳しい寒さだった。いくつかの寺院の近くを通り、安来公園を抜けてしばらく歩くと大通りにあたり、それを越えると伯方川が見えた。江美の実家はその川沿いから少し入ったところにあった。付近は広大な農地が広がっていて、江美の実家は何軒かの大きな農家が飛び飛びに所在する一角にあった。開いていた門から玄関まで歩く間に、あらかじめ鞄に入れていた京菓子を取り出し、少し緊張してインターホンを鳴らした。しばらくして戸が開いた。

「どちらさまでしょうか?」

 江美の母親と思われる女性が不思議そうな顔で僕を見た。農作業から帰ってきたばかりのような服装だった。

「京都の小野寺と申しますが、江美さんはご在宅でしょうか?突然でご迷惑かもしれませんが、いらっしゃったら少しお会いしたいのですが」

「小野寺さんと言われたですかね?江美はおりますが、お友達でしょうか?」

「はい」

「ちょっと待ってくださいよ、今呼んできます」

 彼女は僕を中に手招いたあとで奥へ入っていった。家の中は外からの印象と違って内装が綺麗に施され、廊下はよく磨かれて木の光沢が反射していた。僕は五分以上も待たされ、少し居辛さを感じはじめたころに彼女が戻ってきた。

「小野寺さん、私は江美の母親ですが・・・江美が、あのう、今日はお会いしとうないと申しちょります。せっかくお越しくださったのにそげなこと言わんでと何度も言うたのですが、すみません、あげな娘で本当に申し訳ありませんですが・・・」

「江美さんは、身体の具合でもお悪いのでしょうか?」

「いえ、特にそげなことはありません。私は少しでもお会いしたらと言うのですがね。せっかく雪の中、京都からわざわざいらしたというのに、困った娘で・・・」

 江美の心境を考えてみた。なぜ顔を見せてくれないのだろうと考えたがどうにも分からなかった。母親に京菓子を手渡して「心配していますとお伝え願えませんか」と言葉を託し、夕刻四時半過ぎの列車に乗ってやむなく帰った。

 列車は暖房が効きすぎて暑いくらいだったが、僕のこころの中は冷たい風雨がずっと吹き荒れ、びしょ濡れになっていた。いったい江美はどうしたというのだろう。流産のショックが僕の想像などはるかに及ばない大きな傷を与えたのか。それともひとつの命を失ってしまったことが、江美にとっては道徳的或いは宗教的な意味合いの断罪を言い渡されたと受け取ったのか。僕には江美のこころを読み取れる術はなく、自分への腹立たしさと、砂を噛むような惨めな気持で京都へ帰った。

 

「おじさん、どのあたりで降ろしてもらうの?」

 有里紗の言葉にまた現実に戻った。バスは松江市をあとにして安来市内に車体を踏み入れていた。

「安来駅からおじさんが訪ねる家への道は覚えているんだ。ずいぶんと変わっているかも知れないけどね。君はどこを訪ねるのかな?」

 有里紗は考え込むような仕草をしたあと、「お母さんの実家に行くしかないのよね。そこから明日お墓に案内してもらう」と言った。

「実家の場所は覚えてる?」

「駅に着いたら電話をしてみる」

 有里紗が目的の場所へ無事にたどり着くまで一緒にいてやろう。日が暮れるまでまだ何時間もあるのだから、まずは彼女の目的を見届けてからだと僕は思った。

 

「安来の駅で降ろすっちゃね、あとは待ってんしゃる人のところへおふたりで行かれたらえかろうって」

 運転手は大きな声でそう言って、安来市内に入ってから、今度は名残惜しんでいるかのようにバスの速度を緩め、信号のひとつひとつをしっかりと確認し、噛み締めながら走っているように思えた。

 安来の駅が見えてきた、遥か昔のあの日の記憶が蘇ってきそうだ。でも、駅前にこんなロータリーはなかったはずだし、周辺の様子も随分と変わってしまった。まるで文楽劇場のような外観は、安来節の町らしく日本の奥田舎にふさわしい駅だと思ったが、年月の経過は過去を崩し続けるのだと分かってはいても、昔の記憶にある安来駅と違っていたことに少し落胆した。

 

 あの日はクリスマスイブだった。僕は再び京都駅から朝七時過ぎの列車に乗った。前回の訪問から二週間ほどしか経っていなかったので、江美の母親は驚いた様子だった。

「この前の・・・」

「はい、小野寺です。江美さんに少しでもお会いできないでしょうか?」

「ちょっとお待ちになってください」

 母親は懲りずに来た僕にかなり戸惑った顔をして奥に入っていった。しばらくして母親と江美が一緒に現れた。江美は大きな綿入れを羽織り、少しふっくらとした感じに変わっていて、視線が合うと軽く微笑んだように見えた。

「どうぞ、お上がりください。殺風景なところですが、さあどうぞ」

 母親は当惑しながらも僕を家に上げてくれ、廊下を何度か曲がったあと、ひとつの和室に案内された。その部屋は江美の部屋で、真ん中にコタツが置かれていた。

「寒かったでしょう、どうぞ足を入れてください。今お茶を入れますから」

 母親はそう言ってから部屋を出て行った。江美がコタツに入り「ごめんね、何も言わずにいなくなって」と言った。僕は江美の顔を久しぶりに見て、こみ上げてくる気持ちを抑えられず身体が震えた。

「メリークリスマス!」

 こころの内奥から溢れ出る震えを一気に吐き出すように言った。涙が噴き出しそうだったが耐えた。

「そうか、今日はクリスマスイブだったんだ。テレビは観ないし新聞もあまり読まないから、世の中のことが分からないわ」

 江美は笑って言った。

「身体のほうは大丈夫なのか?」

「うん、大丈夫、身体は元気よ」

「急にいなくなったから心配したんだ。手紙が届くかと思って、ずっと待っていたんだけど・・・我慢できなくて来てしまったんだ」

「ごめんね、本当に悪かったわ」

「それはいいけど、でも、どうして急に帰ってしまったんだ?」

 両親がそのとき部屋に入ってきた。農作業服姿の父親は浅黒い精悍な顔付きだった。

「あなたが小野寺さんでしたか。娘からいろいろ聞いちょります。先日はわざわざお越しくださったのに、江美が会いたくないと言いよったらしくて、申し訳ありませんでした。今日はまた遠路お越しくださって恐縮です」

 父親は僕のような若造に対して、同じ目線で対してくれた。

「私らは席を外しますから、どうぞ遠慮なさらんでくださいな」

 そう言って両親は部屋を出て行った。しばらく江美は黙ったままで、僕は出されたお茶をすすりながら話す言葉を探した。

「江美、僕は振られたんだよね。でもなぜ?赤ん坊はまたできるじゃないか」

 久しぶりに江美の姿を見て、やっぱり別れたくないと思った。

「来てくれて本当は嬉しいのよ。でも私はもう浩一を幸せにしてあげることができないと思ったの。一緒にいればいるほど浩一が可哀想で・・・もっとこれから開ける人生が待っているのに、私のような女にしがみつかれてしまったら、大事な人生が台無しじゃない。浩一のことは大好きよ。でもね、世の中って、人生って、我慢しないといけないことってたくさんあるんじゃない?だから私、我慢するの。浩一は大学に戻りなさい、それが一番よ。去年の十一月に私が浩一の大学に突然訪ねたでしょ。私は松江で嫌なことがあって、それから逃げ出したいのと、浩一と会いたいと思って松江を出たの。でもそれは私の自分勝手な行動だったの。浩一に迷惑をかけたと思っているのよ」

「そんなこと、絶対にないよ、江美」

「聞いて、私の話を。私、赤ちゃんができたと分かったとき、すぐに安来に戻って両親には何も言わずにひとりで子供を育てようと思ったのよ。でも、何の説明もせずに実家で赤ちゃんを産むわけにもいかないし、浩一のこともあるしね、いろいろと悩んだの。もう悩み過ぎて気がおかしくなりそうだったわ。あんなに悩んだのは初めて。それで居ても立ってもいられなくて、浩一の仕事場まで行ってしまったのよ。ホテルで私が妊娠したことを伝えたとき、浩一はまさかって言ったわよね、憶えている?」

「憶えていないよ、そんなこと言ったのかな」

「言ったのよ、まさかって。私、がっかりしたわ。でもね、そのあと浩一はすごく気遣ってくれて、私と一緒になるって本気で言ってくれたよね。嬉しかったわ。でも、もうその気持だけでいいの、本当にいいのよ。浩一の気持ちは分かったから、大学へ戻りなさい。神様が私と浩一の赤ん坊をさらっていったのよ。それが答えだと思っているわ」

「嫌だよ、江美。僕は別れたくないよ。君だけに辛い思いをさせて悪かったと思っているんだ。元にすぐ戻れないなら、ときどき会うだけでも僕は我慢するよ。だから・・・」

「駄目なのよ、もう私たち元に戻れないわ。誰が悪いとかいうことじゃなくて、これはすべて運命なのよ。人生って、好きだから、愛しているからずっと一緒にいられるとは限らないのよ。分かるわね、浩一なら」

 江美はそう言って泣いた。江美が静かに泣いている姿を見て、僕は言おうとしていたことの全部を失った。

「ともかく行けるところまで行って、宿があれば泊まるし、なければ途中の駅舎にでも泊めてもらうよ」

 江美も両親も遅い時間だから遠慮なく泊まって帰ればいかがかと言ってくれた。でも、一泊でもさせてもらったなら、彼女への未練が絶対に捨てきれなくなる。泊めてもらった翌日の別れの辛さに耐える自信が、僕にはなかった。

「あなたの気持は充分いただきました。わざわざこんな遠い田舎まで何度も来てくださって、それでもう私らはあなたに何の恨みも感じておりません。あなたは男だ、これからまだまだ将来があります。どうぞ江美のことは気にせず頑張ってください」

 父は穏やかな表情で言った。僕は込み上げる気持を抑えられなくなりそうだった。

 江美が駅まで送ると言うので甘えた。駅まで歩く途中、江美は僕の腕を取って、胸に抱きかかえるようにして歩いた。腕を取られていると、初めて江美と松江城の天守閣に登ったときのことを思い出した。あのときも江美はさりげなく僕の右手を抱えるように取った。何か話さなければと、江美への言葉を探し続け、こころが混乱しているうちに駅に着いてしまった。もう会えないと思うと身体が震え、そして感情がこみ上げてきた。

「江美を抱えて連れて帰りたいよ」

「私だって・・・」

「辛いよ、江美。嫌だよ、こんなの」

 僕は生まれて初めて嗚咽し、男として恥ずかしいくらいに泣いた。駅員や乗客が数人いたが僕は江美を抱きしめた。この温もりや匂いをもう感じることができないと思うと、辛さでどうにかなってしまいそうだった。列車の到着時刻が来た。

「江美、もう行っていいよ。見送られると列車に乗れないから」

「分かったわ、それじゃ元気でね。浩一、絶対に頑張らないと承知しないからね」

 江美は最後にそう言い残して身体を翻して行ってしまった。僕は流れ出る涙も気にせず、彼女が転ばないようにと祈り、その姿が見えなくなるまで見送った。それから列車に乗った。

 

「おじさん、バスを降りないと・・・」

 有里紗の言葉に現実に返ると、バスは安来駅のロータリーの外れに停車して、運転手が外に出て僕たちふたりを待っていた。

「ここまでの運賃はいくらですか?」

「運賃?そげなものはもらわないっちゃ。それよりも早う行ってやらんとね。かげながら応援しとるっちゃ」

 運転手はそう言って手を振り、バスに乗り込んでエンジンを震わせ、大通りに出てからアッという間にどこかに消えてしまった。

「おじさん、電話するから一緒にいてくれるでしょ」

「もちろん、君がたどり着くのを見守るから、心配ないよ」

 僕と有里紗は駅舎の外にある公衆電話のところへ急いだ。

 

 

 神妙な顔つきで、メモ帳を見ながら公衆電話からひとつひとつ慎重に番号をプッシュする有里紗、その横で保護者のような立場で見守る僕、時刻表のないバス停で知り合って四日目になるが、もうずいぶん前から知っているような感覚がある。

 しかし何だ、あのバスは。「運賃?そげなものはもらわないっちゃ。それよりも早う行ってやらんとね、かげながら応援しとるっちゃ」って言っていたが、応援してくれるって、どういうことなんだ?

「伯母さんが駅まで車で迎えに来てくれるって」

「それはよかったね、じゃあ迎えの車が来るまで待ってるよ」

 考えてみれば有里紗は気の毒な女の子なんだ。詳しい事情は話そうとしないが、両親が離婚して山口県の大島という小さな島にある父方実家に引き取られたが、父はまもなく出て行ってしまい、そして二週間前に母が亡くなったという。母のラストシーンにも立ち会えなかった可哀想な女の子なんだ。

「お母さんのお墓参りしたあと、君はどうするんだ?」

「分かんないけど、大島に帰るしかないと思う」

 有里紗は元気のない声で言った。仕方がないことなんだろうが、こんな可憐な女の子に両親の離婚から母親の他界、しかも死に目にも遭えなかったという不幸が降り注いで良いものだろうか?この世には神も仏もいらっしゃらないのか?

「くじけずに頑張るんだよ。これも何かの縁だから、何かあれば便りをくれたらいつでも力になるよ」

 僕はそう言って手帳を取り出し、東京の住所と連絡先の電話番号を書いたメモを有里紗に手渡した。

「おじさん、ありがと。手紙書いてもいい?我慢できなくなったら電話しても迷惑じゃない?」

「迷惑なわけないよ。おじさんはいつでも君の連絡を待ってるから」

「よかった、本当にありがと」

 有里沙はこころからホッとしたように微笑みながら言った。

 僕たちは駅のロータリーの正面へ移動した。一日の勤めの終わりの時刻にはまだ小一時間ほどあり、駅舎はそれほど人の往来は多くなかった。

 しばらくして一台の白いワゴン車が僕と有里紗の前に滑り込んできた。ドアが開き、ひとりの女性が降りて近づいてきた。

「有里紗ちゃん?」

「はい」

「伯母さんよ、憶えているかしら?」

「少し、憶えています」と有里紗は言った。そして僕は口をポカンと開けたまま、言葉が出なかった。その女性はまさしく江美だったのだ。五年前に東京の蒲田で遭ったのが最後の江美、その君がなぜここに?僕は頭の中が混乱し、収拾つかないくらい目まぐるしく動いた。状況を掴もうと焦っても、その混乱は収まらなかった。

「浩一、あなたどうしてここにいるの?」

「こっちが訊きたいな。言葉が出ないよ」

「どうしたの、ふたりとも」

 驚きのあまり、しばらく見つめ合いながら身動きもしない僕と江美の様子を見て、有里紗が言った。

「何で?何であなたが有里紗ちゃんといっしょなの?」と江美が大きな目を見開くようにしてもう一度訊いてきた。

「それが・・・よく分からないんだ。変なバス停があってな、そこにオンボロバスが来て」

「何言ってるの?」

 江美が小さくため息をついて、首を軽く左右に振って言った。

「おじさんが会いたかった人はこの人なんだ。君の伯母さんだって?」

 僕は有里沙の方を向き直って訊いた。

「お母さんのお姉さんよ、でもおじさんと伯母さんと知り合いだったなんて、びっくりした」

「ともかく、車に乗って。浩一も一緒に来て」

 江美がまだ信じられないといった表情で言った。

「ミステリアスなバスだったんだ。希望浜っていうバス停には時刻表もないんだよ。それに運賃なんてもらわないって言うし・・・」と僕は江美に説明をはじめた。

「何を言ってるの?」

「本当なんだ、運転手は僕たちをかげながら応援しているって言うんだよ。本当に何から何まで信じられないことばかりだ」

「分かったわ、家についてからゆっくり聞くから。あなた昔から、ときどき変な事を言うからね」

 江美はハンドルを操作しながら「フー」と、もう一度ため息をついた。

「でも伯母さん、本当よ。目的地とこころが重なった人たちがいたら、時刻表のないバス停に必ずバスが現れるんだって、ずっと前からおじいちゃんが言ってたから」

 有里紗はそう言ってから、小さなバックに手を突っ込み、僕があげた板チョコをひと欠片だけ口に放り込んだ。板チョコを割ったときの「パキッ」という音が、妙に懐かしく感じるのが不思議であった。

 

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